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朝起きて天気がいいと窓を開ける。その次に身支度を終えて部屋を出る。
すでに焼きたてのパンの良い匂いがここまで届いている。
ああ、今日もゼフおじさんのパンは絶品だろうなあ…
そう思いながら階段を下りて、お店に顔を出した。
そこにはリンジーおばさんが焼きあがったパンを次々にショーケースに並べている。
「おはよう、おばさん」
「ああ、おはようソフィア。朝ごはん用意してるから先に食べておいで」
「ありがとう」
細身のおばさん。本人は細身なのによく食べる。
そして同じ量を提供されるので、最近の悩みは太ってきたことだ。
次に、おばさんが用意してくれた朝食が並べてあるキッチンを横切って、調理場へ行くとゼフおじさんが焼きあがったパンをかまどから取り出していた。
「おはようゼフおじさん」
「おはようソフィア。朝食は?」
「これから。何か手伝おうか?」
「朝食が終わったらでいいよ。ゆっくり食べておいで」
「ありがとう」
二人への朝の挨拶を終えると、私は朝食をいただいた。
相変わらずパンはおいしい。そして、おばさんが用意してくれたコーンスープも絶品だ。
とまあ、パン屋の娘の朝を紹介したわけだが、私はこの国の国王が伯父である公爵令嬢だ。
名前はソフィア・ド・レオニダス。
母は国王の妹で、この国の騎士団をまとめる騎士団長と大恋愛結婚した幸せな人。
なぜそんな私がパン屋で生活をしているかというと、この国では、上位貴族は全員等しく一度は市井の暮らしを3年間体験するという一風変わった伝統があるからだった。
これはこの国を動かす貴族たちが市民の暮らしを身を以て体験し、そこで得た知識や経験をきちんと政治に反映して市民の生活をよりよくできるようにという目的と、自分たちの根底の暮らしを支えてくれているのは市民である、というのを忘れないために続いている。
貴族を受け入れる側は、貴族を預かっている間、絶対に貴族であることを周りに言ってはいけないし、貴族だからと遠慮もしてはならない。
そして貴族は絶対にそれに従う。ひどい扱いを受けた場合、即ちそれは自分たちの政治のやり方が間違っている、もしくは、貴族が市民に対して横暴な態度をとっていることが考えられる。
そのため、上位貴族たちは殊更市民のことを大切にしている。
そして大切にされている市民たちは貴族を快く受け入れてくれている。
このひどく脆そうな伝統が続いているのは、上位貴族と市民の間で良い信頼関係が築けているからこそだった。
中にはこの風習はなくすべきだと考える貴族もいそうなものが、この国の王子、王女でさえも身分を隠して必ずやっているのだから、誰も表立って言う人はまだいない。
私は背景も含めてこの風習をとてもとても気に入っている。
だから、市井での暮らしが始まるときは胸のわくわくどきどきが止まらなかったものだ。
それももう2年半経った。あと半年でこの生活が終わってしまう。
学びの多い充実した毎日を過ごしていたので、本当に残念だ。
「おはようソフィア」
「おはようございます。いつものでいいですか?」
「ああ、頼むよ」
日中は来店するお客様に接客し、夜はゼフおじさんの仕込みを手伝ったり晩御飯の支度を手伝ったりして、私の一日は終わる。
そんな生活の中で、私も生まれて初めての恋を経験した。
「ソフィア!」
「ライアン!」
夕方、そろそろ店じまいという時間に、入店してきたのは小麦色に焼けた肌で体格のいいライアンという青年。
彼こそが私の初恋だ。
「今日、大事な話があるって言ったろ?」
困った顔でいうライアンに私はくつくつと笑った。
「仕方ないじゃない。この時間はいつも大忙しなんだから」
ライアンは少しせっかちなところがある。
そして猪突猛進タイプだ。
私の弟はよくできた弟でとても落ち着きがあるし、親戚の男たちも皆そうだ。
だからライアンはとても新鮮で、可愛らしく思えた。
だから惹かれたのだ。
「だからって、待たせないでくれよ。俺だって暇じゃないんだ」
「どうしてそんなにイライラしているのライアン。何か嫌なことでもあったの?」
「今!今とってもイライラしているよ。早くしてくれよソフィア」
「あらあら…分かったわ。おばさん、ちょっと行ってくる。晩ご飯は外で食べてくるね」
いつもライアンとのデートでは外食をしているのでそう伝えると、ライアンは「いや」と首を振った。
「今日はすぐに帰すよおばさん。すぐに終わるんだ」
本当に今日は様子がおかしい。
一体どうしたのだろうとおばさんと顔を見合わせるも、ライアンがイライラして急かしてきたので、おばさんも「後は任せていっておいで」と言ってくれたのでそのまま店を出た。
店を出て歩くライアンに私はもう一度尋ねた。
「ねえ、ライアン?どうしたの?」
「うん。いつもの公園で話すから。だから急いで」
「うん…」
理由が分からないが、彼が先を急いでいることだけは分かったので大人しくついていくことにした。
"いつもの公園"とは、私とライアンのデートの場所だった。
いつも公園の噴水の前で、お店の食べ物をテイクアウトして買って食べていた。
他愛ない会話をしながら手を繋ぎながら散歩したり、夜景を見たり、とっても楽しい時間を過ごしてきた。
私は公爵令嬢だが優秀な弟がいるので、ライアンと本気で添い遂げたいなら結婚してもいいと言われている。ただし、身分を隠したままだが。
私はもちろんライアンとそうなればいいなと思っていたし、ライアンから「今日大事な話がある」と言われて少々、いや、かなり浮き立っていた。
だから彼の今の態度がよく分からないのだ。
公園に到着すると、ライアンはすぐにきょろきょろとし始めた。
座るところを探しているのではない、ということはすぐに分かったが、とにかく黙って様子を見ていたら誰かを見つけてライアンは満面の笑みになった。
「アンジェ!」
"アンジェ"と言われた女性は、貴族のようなドレスを着ていた。
そして、日傘をさしている。
ライアンに名前を呼ばれて、すっと日傘を上げてふわりと笑った。
「ライアン、待っていたのよ」
「すまなかった。誰かに声をかけられたりしなかった?大丈夫だった?」
「大丈夫よ。護衛がいるもの。…それで、そちらの方が…例の?」
アンジェと言われた女性を見つめていた私に、アンジェとやらは不敵な笑みを浮かべた。
ライアンは私を振り返り、言うのだ。
「ソフィア悪いけど、別れてほしいんだ。君との未来は見えない」
「急に言われても、はいそうですかとは言えないわ。まずは、どういうことか聞いてもいい?」
「実はね、ソフィアと父さんが新しくお店をはじめただろう?そこの出資をしてくれたのがアンジェなんだよ」
「え?」
新しいお店とは――ライアンの父親がずっと働いていたコーヒーショップで経験を積み、この度めでたく自分のお店を持つことになったのだ。
そこで私が選んだコーヒーに合うパンをうちのパン屋が提供し、モーニングサービスを行うことにしたのだ。
コーヒー一杯の価格でパンが付くというお得なサービスをオープン前からチラシを作って宣伝したり、試食品を出して宣伝したりと忙しくしていたおかげで、オープンした先月からすでに行列ができる大人気店となっていた。
もちろん、宣伝方法も店内の動線を考えた内装もサービス内容もすべて私が考えたものだ。
なんせ我が家は公爵家。この国の王太子と王女は私の親戚。外交関係も小さい頃から見聞きしてきたし、勉強してきたので、経営の知識があった。
その知識をフル活用したのだ。
出資はもちろん我が公爵家がした。
それなのに一体なぜこの女性が出資したことになっているのか。
「え、と。そちらのアンジェさん?が出資をなさったの?」
「そうよ。うちのパパがお金を出したの。宣伝もすべて我が家がお金を出したわ」
「今父さんの店がうまくいっているのは、アンジェのおかげなんだよソフィア」
「そうなの」
「アンジェはね、経営の才能があるんだ。父さんの店がうまくいくことを見越して出資したんだ。すごい才能じゃないか?やっぱり貴族だからかな、ソフィアみたいな平凡なアイディアだけじゃうまくいっていなかったと思う」
あ、今一瞬でライアンのことが嫌いになった。
すーっと気持ちが冷めていくと同時に、私はにこりと笑った。
相手に気持ちを悟らせない、貴族の笑みだ。
「貴族だから、というのはあながち間違いじゃないわよライアン。だって、小さい頃から色々勉強させられるんだもの。いやでも知識がつくわ。やっぱり経営をするには、庶民の知識だけじゃだめなのよ。どうあってもうまくいかないの」
「ではアンジェさんは一体どのようなアイディアを出してくださったのですか?」
「コーヒー一杯の値段で朝食を食べられるというアイディアと、それに加えて貴族のような雰囲気を味わってほしくて内装もこだわったってことかしら。椅子はね、すべて赤色のベロア生地の椅子を用意したの。固い椅子じゃゆっくりできないでしょ?」
そのアイディアを出したのは私だ。
ちなみに「赤色」ではない。赤は赤でもより深みのあるマルーンだ。
「もちろんソファも置いたわ。ライアンのお父様が店内を見回せるようにカウンターも」
違う。そのアイディアは私が出して企画書にも書いたのでよく覚えている。
カウンターを設けたのは、ライアンのお父様が豆から挽くこだわりのコーヒーを淹れる様子がお客様からも見えるようにした。
そう思うも、もう取り合うのもバカバカしくなったので私は笑ったまま。
「ソフィア、君、企画書を作ったと言っていたけど、企画書を作ったのも出資をしたアンジェだ。君は僕に嘘をついていたんだね」
「あらあらそんな嘘をついていらしたの?それは良くないわ。貴族をだますなんて大罪よ?」
「そうだよソフィア。いくら俺のことが好きだったからってそれはよくない。アンジェに謝るんだ」
意味が分からない。
これ以上の会話は不毛だろうと判断した私は笑ったまま別れを告げることにした。
「もう結構です。ではライアン、私との関係はこれで終わりということで」
「あ、ああ。ありがとう。あ、でも逆恨みで父さんの店にパンを卸さないとかそういった嫌がらせはやめてくれよ」
「あらそれでもいいわよライアン。お金を出して他の店に卸してもらえばいいんだから」
「それもそうか」
そういわれ、踵を返そうとした体を戻した。
「それはだめよ、契約をしたでしょ?うちのおじさんとおばさんが困るわ」
「そんなこと知ったことではないわ。そもそも、私はそんな契約をした覚えはないわ」
「………そうですか。ではもうそれも結構です」
大きなため息をついて、私は「それじゃ」と言って今度こそパン屋に戻った。




