序章2
市ノ瀬美郷、今生の名前はそう名付けられた。
前世で男女のいざこざの末に命を落とした俺は、再び目を覚ましたとき赤ん坊として新たに生を受けていた。自分の前世で流行りのジャンルの転生というやつなのだろう。もっとも、フィクションの話だと思っていたことが、まさか自分が当時者になるとは思っていなかったが。
幸運だったのは生まれた場所が異世界とか中世ヨーロッパ的な世界ではなかったこと。医療施設の整った病院なら前世と似た世界なら赤ん坊のうちからいきなり死亡なんてことはないためだ。
不幸だったのは、前世ではどこに行っても一緒だったマイサンが、現世では一緒に転生できなかったこと。
つまり、俺は女に転生したわけだ。意識が男で肉体は女性、昨今のLGBT運動に同調できるね、くそったれ。
転生した際に神様的な存在に会った記憶はないが、もし意識と記憶を残してわざわざ女性として転生させたとするなら、そいつは性格が相当に愉快な奴に違いない。
もし会えたならとりあえず、問答無用に背中にドロップキックをかましてやる。そう赤ん坊になって母親にあやされながら強く心に誓った。
新しい人生で出会った両親は非常に愛情深い人たちだった。ネグレクトやら児童虐待やらがうるさい世の中とは裏腹に、今生の父と母は俺に精一杯の愛情を注いでくれた。その二人の想いに応えるように、俺も少しずつ、前世の自分と今の自分に折り合いをつけながら生きていこうと思えるようになってきた。
とはいうものの、自分の足で立てるようになり、母親が着せ替えに人形のごとく単独ファッションショーをしたがったものの、残念ながらスカートを履くことに関しては慣れないままではあった。可愛いのにもったいないと嘆く両親には悪いが、中々受け入れるにはまだ男としての意識が強い。いずれ中学、高校と進学するころには嫌でも制服で履かなければいけない時がくるので、それまでは全力で逃げるつもりではいる。
よくある転生ものだと、もう一度人生をやり直したら学力チートとかそういうものに憧れるという話を聞く。だが、残念ながら俺はそういうことをするつもりはちっともなかった。
神童も十年過ぎればただの人、身の丈以上の活躍は身を滅ぼすものだ。期待されたあげく、メッキがはげた時には周囲に近づく人々は手をあっという間に手のひらを返していくことだろう。下手に期待されるくらいなら、年相応に生きていく方がずっとましな生き方ができると思うからだ。
もっとも、良い年した成人男性の意識を持ちながら子どものように振る舞うのは非常に苦痛ではあった。それでも愛情もって接してくれる両親を喜ばせるのも仕事と思えば耐えられた。
前世では結果として親よりも先に亡くなる親不孝ものだった。死んでからどうなったかは想像でしかないが、あの死体がゴロゴロと転がる部屋でわが子の死を嘆き悲しんだ揚げ句、不動産の解約手続きやら埋葬手続きやらで迷惑もかけた事だろう。
どうしようもないとはいえ、申し訳ないという気持ちが溢れて仕方ないが、せめて今生の両親の顔の笑顔を少しでも増やすことが恩返しになると思うことにする。
そんな日々の中、俺も小学校へと進学した。中学、高校と先取りして勉強するならまだしも、少なくとも今は勉強には力を入れなくても何とかなる時期だ。
そのため、とりあえず体力をつけるために身体を動かすことへ全力を注いだ。とはいえ、子供のできる範囲はたかが知れている。
やったことの主な事といえば、鬼ごっこで全力で鬼をやり、ドッチボールで全力で球を投げ、いじめっ子に全力で喧嘩に及んだことくらいだ。
男子に交じって遊んだためか、ついたあだ名は「おとこおんな」。小学生で良くつけられる定番のものだ。もっとも、それが正解なだけに笑えないが。
とはいえ、遊びとはいえ馬鹿にはできない。遊びながらでも体力が付くなら越したことはない。同級生に交じりながら無邪気に遊ぶふりをしながら、それでも心の中であの時の青葉の狂気に染まった目が常にあった。
狂い、光をどこまでも吸い込むような暗い目、それが転生した今も常に俺のことを見ているのではないかという妄想が俺の心を縛るようであった。
二度とあんな死は味わいたくない、そんな恐怖心が常に心の中にあったのだ。鬼ごっこで逃げ役になったときは脳裏にあの時の光景が浮かぶ。そのたびにすくみそうになる足を叱咤して逃げ続けた。おかげで足も速くなり、駆けっこでは常に一番を取り続けることもできたのは皮肉な話だ。
そんな小学生らしい生活をしながらも、心の中では全く真逆な日常を過ごしてきた私が小学校三年生の頃のことだ。転校生が俺のクラスにやってきた。
親の都合で引っ越してきたという彼は、教壇の上で担任に促されるままに自己紹介をしたが、その時の顔はまるで能面を被ったように無表情だったのを今も覚えている。
「周防尊です。よろしくお願いします」
それが周防尊と俺の最初の出会い。彼が私の家の隣に引っ越してきたと知ったのはその出会いからしばらく先のことになる。
周防尊と出会った時の印象は酷く暗いやつだった。そして、その後も彼の印象が変わることはしばらくなかった。
彼は転校初日に話しかけてきたクラスメイトへの反応も適当にあしらうと、ずっと窓の外に視線をやり続けていた。最初は積極的に話しかけていた子もいた。
しかし、反応を見せない彼に嫌気がさしていった結果、彼が一人ぼっちになるのはそんな遠い話ではなかった。俺も話しかけてみたこともあったが、すげなく断られ、今はなりゆきに任せて放置している。
他人とどこか壁を作るようなその様子を気にしながら、教室の後ろでクラスのガキ大将の首にチョークスリーパーをかけながら私は考える。
彼の表情に見覚えがあったからだ。少しずつ薄れゆく記憶の中、かすかに残る前世で青葉との記憶の中でだ。彼女が大好きだった祖母を亡くした時、落ち込んでからはしばらくああいう目をしていたことがあった。
何か大切なものを亡くした人の目だ。彼の目はまさにそれと同じ色をしていた。
ギブギブとタップする手を無視しながら、どうにかできないかと考えるも、今の俺に何かできるわけではない。時間が解決してくれるだろうと考えながら、俺はとりあえず私的制裁を継続した。
給食の余ったプリンをジャンケンもせずに独占しようとした罪は重いということを、この愚か者にしらしめなけれならないために。
そんな周防尊との関係が変わったのは偶然だ。学校の帰り道、近くの公園で彼が近所の悪ガキに絡まれているのを見かけた。
その公園は上級生の縄張りらしく、中でも学校で乱暴者で知られている奴がボス猿のごとく占拠していることで有名だった。クラスメイトの誰もが知っているが、彼は輪から外れているため知らなかったのだろう。
「おまえ、ここが俺たちの縄張りだってしらないのかよ」
「年下がくる場所じゃないんだよ」
「とっとと出てけ!」
囲まれて威圧されながらも、周防尊はその言葉にまるで反応することなくじっと地面を見つめていた。
そんな無反応な彼に悪ガキどもの神経が逆撫でされたのだろう。集団で一番体格の大きい少年が彼の襟首を掴み上げる。
「お前聞いているのかよ、気持ち悪い目をしやがって。とっとと家に帰ってママよおっぱいでも吸ってろよ。僕ちんいじめられましたよ~てな」
襟首を捕まえられていた彼が、その言葉にビクッと震える。
「……さい」
「あ? なんだって」
「うるさい! お前に、お前なんかに何が分かるんだよ!」
そういって周防尊はいじめっ子に掴みかかる。襟首を掴まれているためまともに身動きができないまでも、今までの大人しさが噓のように暴れまわる。
「なんだよ、ちびが! 俺に勝てるわけないだろう」
そういって、ボス猿は空いている手で周防尊を殴り飛ばした。体格差があるためか、彼はまるで紙切れのように吹っ飛ぶ。
そんな彼は殴られた痛みのためか、それか別の理由ゆえにか、うつ伏せになりながら身体を小刻みに震わせつつ嗚咽をもらしていた。
「けっ! チビの癖に反抗するからこうなるんだよ。お前ら! ムカつくからこいつ、今からボコろうぜ」
「いいね、ケンちゃん! 俺たちを舐めたこと後悔させてやろうぜ!」
「そうだそうだ! あ、せっかくだからサッカーしようぜ、こいつボールにしてよ」
「お、お前さえてんじゃん」
そういって、いじめっ子たちがうつ伏せになって立てない彼に近づいていく。
「んじゃ、おれから——ほげ!」
「キックオーフってね!」
最初に蹴ろうとした奴が股間を押さえながら倒れこむ。可愛そうに、誰がこんな酷いことを。その痛み、俺も知っているから十分に分かるよ。
ま、やったのは俺だけどな。
「だ、だいちゃん! だ、誰だよお前!」
「誰って、クラスメイト。こいつの」
そういって、俺は倒れこむ彼を見た。急に現れた私に驚いたのか、彼は目を大きく開いてこちらを見る。ああ、涙でぐちゃぐちゃになっちゃって。
「お、お前、俺たちが誰だか知っているのかよ!」
「知らん! でも、お前らがどう言う奴かってのは分かる。集団で弱いもの苛めるクソガキ共ってことがな」
「てめえ! 舐めやがって!」
そういっていじめっ子の一人が殴りかかってくる。俺はその直撃に合わせて思いっきり股間をけり上げる。
「うぎゃ!」
「馬鹿め、玉つぶしの美郷ちゃんに正面から突っ込んでくるとは」
おとこおんなと同じくしてつけられた不名誉なあだ名ではあるが、伊達に男子との喧嘩で鍛えられてきたわけではない。
何の自慢にもならず、母を何度も学校に召還した危険な技だがこの際は仕方ない。
「ふざけんな! 正義の味方のつもりかよ!」
「そうなると、悪党は自分たちだって認めていることになるけど? あ、自覚あったんだ」
「舐めやがって!」
そういって、今度はボス猿ことケンちゃんが近づいてくる。さすがに体格差があるし、厳しいか。
思わず及び腰になりそうになる気持ちに叱咤し、何とか活路はないかと目の前の少年を睨みつける。
まともに戦うのは不利、どうやり過ごすかと考えていると、今まで倒れこんでいたはずの周防尊が私に背を向けるようにボス猿に立ちはだかった。
「……やめろ、その子は関係ない。やるなら僕だけでいいだろ」
「ああ? 泣き虫はすっこんでろ!」
「僕がやられるのはいい、でも、こいつは無関係だ!」
そういって啖呵を切る彼は、きっと怖いのだろう。身体を小刻みに震わせている。それでも、彼の背中から絶対にどかないという強い意思を感じた。
「テメエらむかつくな、……関係ねえ! まとめてぶっ飛ばしてやる!」
そういってボス猿は拳を思いっきり振りかぶると、目の前の周防尊に向かって振り下ろす。止めないとと足を踏み出そうとした足はしかし、突然の横やりで縫い留められる。
「暴力はいけないね、少年。男が拳を振るう場所は選ばないと」
振り下ろされるはずの拳はまるで壁を殴りつけたように勢いを殺されてしまっていた。いつの間に近づいたのだろう、俺たちの間には一人の男が立っていた。
「子どもの喧嘩に大人が口をはさむのもどうかと思うがね。さすがに見過ごせないものとなると、割ってでも止めるのが筋というものだ。経緯はどうか分からないが、ここはいったん鉾を納めてくれるとありがたい」
その男はまるで巌のように大きかった。明らかに鍛えられたと思しき肉体は体中を鋼のような筋肉で覆われている。190センチを優に越えるその身長は、ボス猿が小人かと思えるくらいだ。
ちなみに顔はスキンヘッドが夕陽に反射し、よく見えなかった。
「な、おっさんが訳わかんねえこと言ってんじゃねえ! それに、低学年に舐められたままで終われるか
よ!」
実力差は分かっているのだろう。それでもなけなしのプライドをふり絞りボス猿が目の前の男に食って掛かる。
その様子に困った男は受け止めている手と反対の手で頭を搔きながら困ったような表情を浮かべる。
「困ったな……おっさんといわれるわ、引いてくれないわでどうしたものか……ふむ、では君が振るおうとしている拳がどういうものか少し考えてもらおうか」
そういうと、男は少年の拳から手を離すと、背を向けて歩き出す。突然の男の行動に俺も、周防尊も、ボス猿も戸惑いつつも男の背に視線を移してしまう。
男は公園に生える一本の木まで足を運ぶと、その木に手を添える。そしてそこから少し距離を取ると、おもむろに構えを取る。
「——フッ!」
男がそう一息吸うと、自身の拳をその木に打ち付けた。太さが直径50センチを越えるそれに、たかが人の拳で何をと思った。だが、俺の頭はその拳の撃ち抜かれた痕に驚きを隠せなかった。
ドガン!と強烈な爆音を響かせた結果、厚い層を打ち破るように幹に残ったのは人のこぶし大の穴だった。
「少年、君が振るう拳にはここまでの力はない。が、鍛えた拳はここまでの凶器と化す。それをもう少し考えた方がいい」
男がそういって振り返った。振りぬかれた拳には傷一つ付いていなかった。
ボス猿はその光景に恐れをなしたのか、情けない悲鳴を上げて逃げ去っていく。ボス猿の逃走につられるように股間を押さえていた子分たちもそれに釣られるように公園から去っていった。
でも、俺はそんなのはどうでも良かった。ただ、その光景に心奪われてしまった。男のその強さに、まるで天から降りる一本の蜘蛛の糸に見えたから。この強さがあれば、俺は——
「さて、公園の木に穴を開けるとなると器物破損か……上手く誤魔化せはしないか。どうしたのか」
困ったように顎をさする男に、俺が話しかけようと近づこうとした瞬間、それよりも先に周防尊が男に近づいた。
「ん? どうした少年。私に何か——」
「どうしたら、それだけの力が手に入りますか」
その声は、何かに縋るような声だった。しかし、それと同様にどこか決意を秘めたようにも聞こえた。
「ふむ、少年。君にとって力とはなんだい」
男はその言葉に対し、目の前の彼に問いかけた。
「僕はもう二度と誰かが目の前で傷つくのを見たくない。もう二度と、僕の代わりに誰かがいなくなるのを見たくない」
「何かを守る力か。だが、力は時に争いを呼ぶ。それが結果的に君の周りに影響を及ぼすこともある、力を持たないこともまた、何かを守ることにもなる」
「それでも、何もできないままでいるくらいなら、守れるだけの力が僕は欲しい」
悲壮感の中に、それでも何か決意を秘めた言葉だった。彼はきっと、何かを自身の無力さから失ったのだろう。それはきっと、彼の大切な人。それが誰かなんて聞くまでもない。
彼があの時、ボス猿の言葉に怒った原因。それがきっと己の無力さに嘆き、力を求める理由なのだろう。
「なら、君が力を欲するなら一つ、約束をしよう。拳を振るう場を間違えるな、そして、振りぬくと決めた時は必ず勝て。それを誓えるか」
「はい!」
「よし、なら君は今から私の生徒だ。今日はもう遅い。あとで住所を教えよう。休みの日にまた来なさい」
「わかりました」
「では——」
「ちょっと待った―!」
立ち去ろうとする男は、私の言葉に足を止める。
「俺も! 俺も先生のところで強くなりたい!」
「うお、凄い勢いだなぁ。君は」
食い気味で迫る俺に男も驚いたのだろう、勢いに押されるように後ずさった。
「ふむ、君もかい。でも、力はさっきも言ったように持つものによっては——」
「俺は、自分の身を守る力が欲しい。何ものにも負けない、屈さない力が欲しい」
そういって、俺は男を見つめた。
ずっと脳裏から離れない、死の記憶。今生は一人で生きていくと決めた。だからこそ、身を守る力がずっと欲しかった。
喧嘩に明け暮れたのも、逃げ足を鍛えたのも、全部がそこからくる。薄れていく意識、少しずつ冷たくなる身体、そして、狂気に染まった瞳。何度も両親に隠れては思い出しては嘔吐を繰り返した。
強さがあれば、あの恐怖から逃げられる。
「……君は、いや、今は多くは言わん。だが、一言だけ言っておく。恐怖は身体を鍛えるだけでは克服できない。君の心が強くならない限り何も変わらない。それは覚えておいてほしい」
そういって、男はため息をつきながらも、俺の言葉を受け入れてくれた。
「さて、二人とも弟子になるというなら名前を覚えておかないとな。遅くなったが、二人の名前を教えてくれないか」
「周防尊です」
「市ノ瀬美郷です!」
「ふむ、周防君に市ノ瀬……え、君は女の子だったの!?」
俺の名前を聞いて性別が女だと気付いたのだろう。まあ、恰好もしゃべり方も男のそれだから仕方ないかもだけど。
てか、お前も驚いた顔するんじゃねえ、周防。クラスメイトだろうが。どれだけ興味がないんだよ。
「ま、まあ最近は女の子も武術をやる子もいるしね、うん。あ、そうだ。私の自己紹介がまだだったね」
そういって、男は少し姿勢を正す。
「私の名前は佐藤ジョンっていうんだ。気軽にジョン先生って呼んでくれたまえ」
先生はなんとハーフでした。しかも凄い偽名っぽい。
そうして、俺は二度目の人生で運命の出会いを果たした。一人は今も続く腐れ縁の幼馴染と、もう一人は今生の師を。
きっと、運命の歯車があるとしたら狂いだしたのはきっとこの出会いからだ。
『……お願い、彼を救って』
家に帰ろうとすると、ふと何かに話しかけられたような気がした。どこか聞き覚えのあるような声だったが、周囲を見回しても誰もおらず、空耳かと思いそのまま公園をあとにした。
ちなみに家に帰るまでずっと周防と一緒だった。彼が俺のマンションの隣に引っ越してきた新しい入居者だと知ったのはその時になってからだったりする