ウィンドウ ~白い部屋のパラノイア~
プロローグ
母様は、私が小さな頃に亡くなった。
面影なんて、覚えてない。
懐かしい、ものだとだけ感じる。
父様は、母様が亡くなってから暫くして、別の女性と結婚した。
その女性の名前なんて、知りもしない。
父様が私を閉じ込めたから。この部屋に。
暗い部屋。何も無い部屋。周りは一面、白の壁。
高い所に、開かない小さな窓がある。
そこから見えるのは、「空」?
想うのは――…
Ⅰ
「シルバー!いらっしゃい!」
庭園から、屋敷に足を踏み入れた途端、ソプラノの可愛い声が降ってきた。
「お茶でも召し上がっていきませんこと?たった今、フルーツケーキが焼きあがりましたの。」
にこやかに微笑んで、ソフィアが誘う。
「ありがとう。悪いけど…、俺はいつも言っているように、君の父上にお話があるんだ。」
「もしかして、またお姉さまの事?お姉さまはとっくの昔に亡くなったのよ。お父様だってそう言ってるじゃないの。シルバーは、そんなに死んだ人の方がいいの?お姉さま…なんて言ってるけど、私は会った事ないわ。もういない人の事なんか、忘れてしまえばいいじゃない。ねぇ、それより、今度のパーティで――」
続きを遮って、俺は言う。
「ソフィアには、関係ないだろう。」
「…関係なく…ないもん…」
最後の方は消え入りそうに小さく呟くと、ソフィアはくるりと身を翻して去っていった。
俺は溜め息をつく。こんな不毛なやり取りを何回繰り返したらいいんだろう。
俺が五歳の時だった。隣の屋敷にウィンドゥが生まれて、許嫁だと聞かされた。母親そっくりの美貌だと、誰もが口を揃えて言った。ウィンドゥの母、シャルデリ家のフローラ様と言えば、この国きっての美人で知られ、シャルデリ家は美しい吾子の誕生で、毎日明るく華やかだった。俺は毎日、ウィンドゥの顔を見に言っては、フローラ様に言われたものだ。
「シルバーは、ウィンドゥが好きなのね。シルバーがいるから、私は安心だわ。この子の事、よろしくね。」
色とりどりの花に囲まれてベッドに腰かけるフローラ様はいつも微笑んでそう言った後、決まってゆりかごの中のウィンドゥを悲し気な瞳で見つめていた。
幸せな毎日の筈のフローラ様が、どうしてそんな悲しい瞳をしていたのか、幼い俺には知る術も無かった。
そして、五年後の事だった。いつものように来て見ると、シャルデリ家の門は堅く閉ざされていた。いつもと違って暗く、どんよりとした雰囲気がしたのは、頭上にあった雨雲のせいだったのだろうか?昨日までは天国のようだったシャルデリ家が、一夜にして地獄になってしまったかのようだった。
「開けて下さい!おじさん!フローラ様!僕です!シルバーです!」
パラパラと降り出した雨の中で、力いっぱい門を叩いた。誰も出てこなかった。何の返事も無かった。幼い俺はひたすら門を叩いた。雨はどんどん激しくなった。豪雨なのに帰ってこない俺を探しに来た両親に連れ戻された。激しい雨に降られたせいか、それから俺は肺炎をこじらせ、二週間程寝込んだ。漸く元気になって。シャルデリ家を訪れると、扉は開いていたものの、その家にはもう、フローラ様もウィンドゥもいなかった。
何度、行方を尋ねてもおじさんは何も言わなかったし、何も教えてくれなかった。「死んだ」なんて一言も言わなかった。だから…、俺はまだウィンドゥは生きていると思っている。こうして屋敷を訪れていれば、いつかまたウィンドゥに会えると信じている。だから、今日もこの屋敷にやって来た。
「依怙地だな…」
自分で思って、苦笑した。
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コンコン…。
重いドアをノックする。
「シルバー君だろう?入ったらどうだ。」
神経質なせかせかした声が返ってくる。
「全く…懲りもせずに毎日毎日…。何の用があると言うんだ。」
うず高く積み上げられた本と書類に囲まれたおじさんは、書類を目で追いながら不平を漏らす。埃っぽい部屋でも、おじさんはいつもおろしたての白衣を身に着けており、なんだかやたらと周囲から浮いて見える。とても小柄で風采の上がらないこの人が、世界的な権威を持つ学者だなんて、到底信じられないな、と思って俺は頭を振る。
「いい加減、本当の事を話してくれませんか、おじさん。一体、貴方はウィンドゥをどこにやったんです?」
「さぁなぁ…」
パイプをくわえて火をつけ、軽く煙をくゆらすとおじさんは続けた。
「シルバー君。ソフィアと一緒になる気はないかね?あの子は後妻のヒルダと私の間に生まれた子だがいい娘だぞ。幸い、ソフィアは君を気に入っているようだし――」
ほっそりとした顔に不似合いな黒縁の大きな眼鏡をかけたおじさんの言葉が俺の神経に障った。
「貴方の…。貴方の先妻であられたフローラ様の娘であるウィンドゥを許嫁だと最初に俺に言ったのは、貴方じゃないですか!あれから…十年…。十年、俺は待っていました。貴方があの日の真実を教えてくれるのを…。けど、もう限界です。貴方が教えて下さらないなら、俺が自分で探します。手始めに、そう…この屋敷内をくまなく探索させていただきます!」
震える拳を握りしめて、俺に一気に言い放った。
「…本気なのかね?」
それまで、顔を上げなかったおじさんが漸く顔を上げた。十年ぶりにちゃんと見たおじさんの顔は、黒縁眼鏡の奥にある小さな鼠のような目に怯えた光を宿していた。
「本気です。俺は昨日、成人しました。自分の行動に責任を持つ代わりに、もう誰にも邪魔されたくありません。」
そこまで言い切ると、俺は何だか落ち着いた。「とめないのですか?」とおじさんに聞いた。
「とめても…無駄だろう?」
おじさんはぽつりと、小さく呟く。それから深く長い溜め息をつくと続けた。
「だから…、一つだけ言っておく。あれを見付けても失望しないでくれ。あれは…あの娘はっ!」
叫ぶように言うと、激しく嗚咽した。
何故、そこで嗚咽するのか?けれど、俺は気に留めなかった。「あれを見付けても」という事は、ウィンドゥは生きている!その事実の方が遥かに嬉しかったから!
俺は部屋を飛び出した。
ウィンドウは生きている!
そう思うと、ウィンドウを探す俺の足取りは、囚われの姫を助ける物語の騎士さながらに軽かった。
Ⅱ
今日も白い部屋で目が覚めた。
けだるい…。そんな感情、私は持ってないのかもしれない。それだけじゃなくて、寂しい、とか、悲しい、とか、そんな感情すら私には無いに違いない。
部屋の片隅に置かれているのは、白いトレイにのせられた白いパンに、白いカップに入った白いミルク。
気が狂いそう…。もう、狂っているのかもしれない…。
ふーっと息を吐き出し、私は考える。白い指先でつまむ白いパン。喉を潤す白いミルク。白い食器に白い服。そうしてぐるりと私を囲む一面の白の壁…。
私の知っている色は少ないわ…。白い天井の一角にある小さな窓からだけ見える「空」の色。壁と少しだけ濃度が違う白い肌の色。あとは白、白、白の白一色。
毎日をこの白の空間で過ごして、もうどの位、経つのだろう?他の色の記憶って何だろう?ゆっくり過去を振り返る。記憶の片隅にぼやけてうつる何だか綺麗な花の色と、それを私に差してくれた明るいブラウンの髪を持つ人は誰だったかしら…。あと、そう、もっと素敵な色があった気がするの。あの色は…。
誰かが、私を呼ぶ声が、聞こえた気がした。
誰かしら…。
父様じゃないわ。だって、父様は私が寝ている間に食べ物を置いて行くだけの人だもの。
…明るいブラウンの髪色の『あの人』?
まさか。
誰も私の事なんか覚えていない…。
これ以上、狂えるのだろうか…。
会いたい人がいる。それが誰かは思い出せないけれど。
会えない人がいる。ここにいる限り、ずっと…。
狂えるのなら、狂ってしまえ、私の全て!
そう願ったのは随分と昔。
生まれる前だったのかもしれない…。
天は、私の願いを聞き入れたのだ。
だから、私は…。
そして、彼女が…。
愛しい人も憎い人も、忘れてしまった。
白い空間は私の城。
思いのままに…。
風の無い部屋で、アルビノの白い髪が揺れている。外はもう、夕暮れが支配を始める時刻。
Ⅲ
「ウィンドウ!ウィンドウ!」
三階まで来た俺は流石に焦っていた。ウィンドウがいないのだ。庭の離れも探したのに…。シャルデリ家は三階までしか無いのに、何処にもウィンドウはいなかった。
一体、何処にいるんだ…。
焦りから、流れてくる汗を拭おうとして視線を上げた先の壁に、不思議な窪みがあるのに気が付いた。
「………?」
ガタッと音がして、壁の一角が外れた。中にあった紐を引っ張ると、天井が開いて、するすると梯子が下がってきた。それを登ると、小さな扉が一つあった。屋根裏だと言うのに、塵一つついていない白いドアだ。
=Window`s=
引っ掻くように彫られた名前を、薄明かりの中、俺は指でなぞった。なぞる指先から、嬉しさが込み上げてくる。心が躍る。この名前は、紛れもなく、俺が探し続けた人の物だ。
喜びと嬉しさで、逸る心を押さえつつ、ドアを開けた。
「――!」
思わず、息をのんだ。
目に飛び込んで来たのは、まばゆいばかりの白。瞳に映るのは白一色。目の前一面に広がる白い世界。
ウィンドウは…?
Ⅳ
―――――!
私の城に誰かが足を踏み入れた、という直感。
目を開ける。
白の空間に、新しい色。
嗚呼、胸が躍る。
何年ぶり?
声が聞こえる。
「ウィンドウ…?」
懐かしいような気がする。遠い響き…。
この人は、一体、誰なのかしら?
そうして、気付く。
私は、誰?
私の名前は…。
「ウィンドウ?」
確かめるように、私の城の侵入者―ブラウンの髪と晴れた空の色の綺麗な瞳を持つ人―が、口を開く。
ウィンドウ…?
それは、何かの記号。私の記憶の奥底にある…。
「ウィンドウ!」
嬉しそうな声が私をとらえる。…ウィンドウは、私の名前?
私の名前は、ウィンドウ。
なら、貴方は?
私の城に足を踏み入れた貴方は、だあれ?
だけど。それとは別に。
彼女が囁く。私の胸で。
『ねぇ、久し振りの色を見たいでしょう?』と。
えぇ。そうね。
私は頷く。
彼女はたまにやってくる私の大事な話し相手。
彼女が言うんだもの。
『そうよ』
私の気持ちを裏付けるかのように、彼女が囁く。
『貴方は、もっとたくさんの色を知らなくちゃ…』
Ⅴ
ドアを開けた俺は呆然とした。こんなにも白一色の世界を見た事が無かったからだ。あまりの白さに目が眩む。
ウィンドウは、どこにいるのだろうか?天井にある明り取りの窓からうっすら差し込む夕陽を見上げて、目を疑った。
小さな天窓に頬を寄せて、夢見るかのように空中に浮かぶ美しい彼女を見たからだ。
壁から浮き出たような白いドレスに、白磁の様に透き通った白い肌。そして、白銀の髪を持った彼女の瞼が開いて、俺を見た。
瞳が合った瞬間に、蘇る過去。
「ウィンドウ?」
唇が勝手に言葉を紡ぐ。触れれば壊れてしまいそうな硝子の響き。
彼女は、うっとり遠くを見ている。決して俺には手に届かない空間を彷徨っているように。
落ち着いて見てみれば、彼女に別に変った所なんてないようだった。ずっとこんな所にいたせいで色素が薄くなってしまったんだ、と思われた。唯一つ、宙に浮いている、という点を除いては。
「ウィンドウ!」
空に向かって、手を差し伸べる。
もう大丈夫、俺が君を迎えに来たよ!
その時、彼女が笑った。微笑んだ、というより、悪魔に魅入られた凄惨な笑みだった。そして、彼女が右手を軽く上げた時、疾風が俺を貫いた。
「―――!」
驚いて手をやると、血が出ていた。かまいたちか?それとも彼女?
ぼんやりと血の付いた指先を見ていたら、彼女の声が聞こえた。
「その色、とても、綺麗で好き…。ねぇ、もっと見せて?」
エピローグ
異国から来た学者の私は昔、深い茨に囲まれた森で、大層美しい女の人に出会った。あまりの美しさに心を奪われた。こんな冴えない自分には高嶺の花だと分かっていたが、どうせなら盛大に振られて玉砕しようと求愛したら、まさかの承諾をもらえた。
喜ぶ私に花の名前を持つ彼女は言った。「自分は罪を犯した呪われた魔女なのだ」と。冗談だと思った。
彼女の美貌で、私の地味な研究は日の目を見た。学会で取り上げられ、爵位を持てた。大きな屋敷を持ち、彼女そっくりの娘が生まれた。懇意にしてくれる隣家の息子と釣り合いがとれると思って「許嫁だよ」と告げた。少年はとても喜んで、毎日庭の花を摘んでは娘に会いに来てくれた。何もかもが幸せな日々だった。
けれど、娘の五歳の誕生日に幸せな日常は終わった。妻にかけられた呪いは娘に発動したのだ。幼い娘の手には、血染めのナイフがあった。美しかった妻は、娘の手によって血塗れの姿になっていた。息絶え絶えの妻が私に告げた。
「この子に…、色を見せては駄目…。特に赤い色は…。お願い…。あの子を殺すか、一生白い部屋に閉じ込めて!でなければ、あの子は殺人鬼になってしまう!お願いよ…。」
そう言って息を引き取った妻の言葉に従って、娘を殺す事は私には出来なかった。娘は妻に似すぎていた。最愛の妻を失い、そっくりの娘まで失えようか…。無理だった。私は暴れる娘からナイフを奪い、縛って落ち着かせてから、屋根裏に白い部屋を作って娘を幽閉した。殺してしまうより、生かしておいてあげたかった。誰からも忘れられた存在にして、白い部屋で息を引き取るまで屋敷で番人をして生きていくつもりだったのに…。
「馬鹿だなぁ…。」
白い部屋に広がる血の海を見て、自分の行いが間違っていた事を知った。幼い頃から知っている隣家の青年は息絶えていた。その傍らでにこにこしながら、青年に血を塗りたくる娘がいた。白いドレスは鮮血の真っ赤なドレスに変わっていた。
ここで終わりにしなくては…。娘をこの部屋から出してはいけない。狂気にケリをつける為、私は斧を握りしめる。
その時、娘と目が合った。
「あら、父様。その手に持っているのは、何かしら?」
娘が妖しく笑った。それが、私が見た最後の光景。
<了>