メルヘン
私は、お姫様になりたい。友達はみんな、将来の夢を聞かれたときに、ケーキ屋さんだとか、お花屋さんって答える。でも私は違うの。ケーキ屋さんになりたいと言ったあの子は、ただきっと、ケーキを食べたいだけだし、お花屋さんと言ったあの子は、お花が好きなだけだ。お姫様になれたら、毎日ケーキやお花に囲まれた生活を送れるというのに、あの子たち、あんまり、頭がよくないのかしら。
うさぎのぬいぐるみに、アザラシの丸いぬいぐるみ。この二人は私の家来。紅茶をいれるカップと、その下に置く、お皿みたいなもの。あなたには、なんにも入っていないように見えるでしょうけど、私はちゃんと、オレンジ色のお湯を、香りを、楽しんでいる。
お茶会の後は、お昼寝。お気に入りのピンクの毛布は、ふかふかのベッド。天井で、キンキンと白い光の輝く棒は、あかい太陽。お日様に見守られながら、私は目を閉じる。
お姫様は、ゆっくりおだやかに、優雅に生きる。次に目覚めたときは、きっと、たくさんの星々が私のことをのぞき込んでいるに違いない。ああ、なんて、幸福なのかしら。
「ナナちゃん」
知らない声。はっと目をさますと、髭の生えた男の人の顔が、さかさまになって、私の視界に入ってきた。本当なら、きらきら瞬くジュピターや、金星が、寝ぼけた私を優しく迎えてくれるはずだったのに。でも、王子様ならいいわ。お姫様には、王子様がいなきゃだめだものね。
「あなた、王子様?」
「うん?」
「白雪姫、知らないの? 眠っているお姫様を、王子様がキスで起こすのよ」
「そうなんだね」
「王子様なら、キスして」
会ったばかりの王子様は、なんとも言えない顔をした。私は、自分のまつ毛がばさりと音を立てることを意識して、また目を閉じる。唇に触れるのは、しばらくの間、いつものぬるく退屈な空気だけだったけれど、やがて、王子様の柔らかなぬくもりが降ってきた。ざり、と王子様の髭が顔に触れる。これはいただけない。
「王子様、髭だめ。剃ってきて!」
「ごめんね」
王子様の髪の毛は、絵本の中とは違っている。金色じゃない黒。ふわふわとプードルみたいに広がっていて、ちっとも王子様らしくない。それでも、まあ、今日はいいでしょう。私は今、王子様のキスのおかげで、魔女の呪いに打ち勝ったのだもの。
「王子様、お姫様だっこして」
「うん」
王子様が、私の茶色い長い髪の毛の下に腕を通して、私の脚を抱えて、持ち上げた。すごい。本当に、お姫様みたい。私は王子様の首に抱き着いた。髭も、黒い髪の毛も、くたびれたトレーナーでも、なんだっていい。この人は私の王子様。王子様と、お姫様は結婚して、いつまでも幸せに暮らすの。
ナナを寝かしつけて、啓介は自分たちを見守っていた主治医のほうへ振り向いた。
「今日は、ナナさんの調子がよかったですね」
「ナナは」
啓介は目を伏せてから、長い前髪の下から再び主治医を見る。
「俺のことがわかっていないんでしょうか」
「啓介さんに、懐いているのは確かです」
「俺とのこと、もう思い出してくれないんでしょうか。ナナは、もう戻ってこないんでしょうか」
「啓介さん、事を急がないでください」
啓介の声は思いつめ、震えた。病室の清潔なベッドで、ナナはあどけない顔で眠っているのが、啓介の悲壮を一層助長させた。シーツに広がる長い髪の毛が、幼くなった彼女の憧れの、一国のお姫様のようだった。
「繰り返しますが、ナナさんは、精神的なショックで脳機能の障害が出ている状態です。元に戻ることよりも、彼女の、ナナさんの心の傷を少しずつ癒してあげることが先決です。治療のなかではきっと、錯乱することも、泣き叫ぶことも、大いにあるでしょう。啓介さん。気長にナナさんを待ってあげてください。……医者として無責任なことを言うようですが、そうしたらきっと、いつか、ナナさんは戻ってきますから……」