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呼吸  作者: 吉冨諒
第一部-1
9/70

8

 警察からの帰り道、家から徒歩2分ほどのところにあるコンビニでサラダとドリアを買った。

 あとは冷凍うどんとパスタ。

 警察の聴取はひとまず今日で一区切りがつき、次回はいつになるかわからない。

 大学から与えられた休養期間はあと1週間残っており、それまではもう、明日の高崎の葬儀を除いて家から出る気はなかった。


 本業の翻訳業のほうは、基本的にオンラインの打合せがメインであるから、在宅であろうが問題ない。


(……頭痛い)


 買い物袋を抱えてエントランスにたどり着いた優希は、こめかみを刺す痛みに眉をしかめる。

 めまいと、軽い吐き気。

 無理に動こうとすれば吐いてしまうかもしれないと判断し、集合ポストの前にそっとしゃがみこむ。


 そういえば予防薬を飲み忘れていた、と今になって気づいた。


 優希の片頭痛は今に始まったことではない。

 18歳で大阪の大学に進学した頃からの付き合いだ。

 2か月に1回、近所の総合病院の脳神経外科で、片頭痛の予防薬を処方してもらっていたのをここしばらく飲み忘れていたせいで、ひどい発作が来たようだ。


 片頭痛の原因について医師は「気圧と肩こりとストレス、まあ全部ですね」と苦笑していたが、現代社会においては珍しくもなんともない。

 実際、一日のほとんどをPCに向かう優希の体は、整体師に嫌がられるほどに固く強張っていたし、今の季節は片頭痛持ちには鬼門である冬真っ盛りだ。

 薬の飲み忘れだけは気をつけていたつもりだが、ここしばらくの疲労で忘れてしまっていた。


(……よし、立てるぞ)


 胃が浮遊するような吐き気はまだ残っていたが、歩けないほどでもない。

 優希は袋を抱え直すと、エレベータに乗り込んだ。だがエレベータの揺れで、予想外にめまいが復活してしまう。

 壁にすがるようにして歩いてようやく部屋にたどり着いたものの、優希はそのまま玄関で倒れてしまった。


 口と鼻に異臭が満ちた。

 自分が吐いているのだと、どこかでぼんやりと理解した。


(……吐瀉物で窒息する……せめて顔を横に……)


 なんとか体を動かそうとして――これでいいのだろうか、と誰かが囁いた気がした。


 薬を飲んでまで自分を偽って、他者と深く交わることを避けて生きてきた。

 自分の生徒も、血を分けた姉と甥も、自分の生活を乱すという理由で切り捨てた。

 結果、生徒は無残に殺され、姉も甥も生死は不明だ。


 優希には、生きている価値があると言えるのか?


 馬鹿馬鹿しい。

 生きる理由など他者に見出すものではない。

 自分の中の誰かが強くそう叫んだ。


 しかし黒い影がわらわらとわいて、優希を取り囲む。


 おまえがほんの少し、心を傾けてやれば、高崎は死ななかった。

 高崎の下の名前をおまえは覚えているか?

 あの子の所属学部を覚えているか?

 何年生だったか、知っているか?

 甥が今何歳になっているか数えられるか?

 父を知らず、母に捨てられた気の毒な幼子が、今どこで何をしているか、想像したことがあるか?

 たった1人の身内に手を振り払われた子の絶望を、おまえはひとすくいでも舐めてみたか?


 ああ、可哀想な若人たちよ。

 人生の折り返し地点を過ぎた醜い中年のおまえのために、若い命が2つも失われた。

 彼らはおまえが生きて遺すものの何倍も尊い事績を残したかもしれないのに。


(…………黙れ)


 影に向かって優希は毒づく。


 他人の人生など知ったことか。

 誰も何も優希には与えてくれなかった。

 優希は奪われてばかりだった。

 高崎が何を自分に与えたという?

 甥が優希に何をしてくれるという?


 可哀想な優希。愛を見返りでしか量れないなんて。


(……うるさい)


 暗転――――


 目が覚めたとき、優希はベッドの上にいた。

 口の中には妙なべたつきが残っていたが、顔回りは水で洗った後のようにさっぱりしている。


 カーテンを閉め切った暗い部屋の中、よく見えないが、コートだけを脱いだ状態で寝ていたらしい。


 まったく記憶にはないものの、なんとか立ち上がって顔でも洗って布団に転がり込んだのだろう。


(最近ひどいなー……酔っ払いみたいだ)


 生あくびをしながら立ち上がり、洗面台に向かおうとして、ふと何かを蹴飛ばした感覚があった。

 何気なくそれに手を伸ばして、生暖かい感触に、思わず悲鳴を上げかけた。


 指先に触れたのが、まるで人間の肌のようだったからだ。


 優希はゆっくりと後ずさると、壁に手を這わせてスイッチを見つけた。意を決して明かりをつける。


 ベッドに上半身を持たれかけるようにして、寝ている人間がいた。

 その顔――久しく思い出しもしなかった寝顔に、優希は息を飲む。


 閉ざされた瞼がゆっくりと開き、眩しそうに何度か瞬いたのち、黒い瞳が優希をとらえた。

 

「……起きたんですか、優希さん」


 低い声。

 若い日の姉に生き写しのその顔に、優希は今度こそうめき声をあげた。

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