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時間は、あっという間に過ぎていく。
この1週間近く、優希はコンビニと警察署にしか行っていなかった。
あとはぼんやりと魂の抜けたように、布団の中で目を半開きにして意識を飛ばしている。
大学と本業のほうは、あれから休業中だ。
期末試験前になんてざまだ、と誰か1人くらいは罵ってくれるかと思ったが、受講生の少ない通称「休み時間」と呼ばれる優希の講座に穴が開いたところで、誰も困りはしないようだった。
本来であれば記述式の試験を実施する予定だったものの、大学の「特例」という名の配慮で、レポートの提出で単位認定をするという運びになっていた。
学部長の代理で電話をしてきた事務員の『レポートの提出時期までにはお元気になられてくださいね』との一言に、妙に胸をちくちくと刺された気がする。
もっとも、大学にしてみれば、吹けば飛ぶような非常勤講師の状態を、親身になって慮ったわけではなかろう。
まず、大学の学生が不審死を遂げた。
これだけで一大事である。
さらには遺体の第一発見者が、同じ大学の非常勤講師だった。
被害者は第一発見者の講義を取っていて、接点もたっぷりあった。
基本的に、警察が疑うのは第一発見者である。
そして今回その第一発見者は、被害者と最後に会話をしたと思しき人物だった。
大学は事件の最重要人物を学生とマスコミの目から隠したかっただけに違いない。
優希はやや特殊な身体的問題を抱えており、表立って知る者は少ないものの、学校側はその要素すらセンシティブな要素であると考えた。
今回の件で表に優希が出れば、余計な好奇の視線にさらされることにもなるだろう。
大学の与えてくれた「特例」の意味を理解できる程度には、優希も精神的な打撃から立ち直っていた。
もっとも、警察の追及が優希に向かったのはほんの一瞬のことだった。
学内にいくつか設置された監視カメラには、5限目が終わってしばらくたってから正門をくぐる高崎の姿と、その30分後に同じく正門を通った優希のそれが克明に映っていた。
さらに別のカメラには、講義室の鍵を所定の場所に返却する優希の姿や、その後トイレに行く姿、知人から電話がかかってきて事務室前のベンチに腰掛けながら応対する様子まできちんと記録されていた。
優希のアリバイが証明されたのち、警察には「彼女の様子について」としつこく聴取された。
あくまで任意の聴取であり、無実の人間と明らかになっていても、警察の威圧的な態度は変わらず、優希はきりきりと左側頭部が痛むのを感じた。
「痴漢が出るという話、高崎さんは誰から聞いたんでしょうねぇ」
グレーのスーツを着た刑事がやけに粘着質な口調で聞いてくる。
「……そこまでは聞いてません」
「他の学生さんからは?」
「何も」
「そうですか」
アクリル板越しに、刑事は小さな丸い目を瞬かせた。
「先生、その日、高崎さんと一緒に帰るということはしなかったんですね」
責められているのか、と喉が締まるような気持ちになった。
「……講義室の片付けもありますし、そもそも生徒と講義室外での接触はしないようにしています」
「しかし、痴漢が出ると不安がっていたのに、駅まで一緒に行こうとは思いませんでしたか? 若い女の子ですよ」
そうやって相手の神経を逆なでして、うっかりぼろを出すのを待っているのかもしれない。そういう手法なのだろうと理解はしていても、すでにアリバイの立証された身としては、不愉快以外の何物でもなかった。
「刑事さん、彼女の死に私の監督責任が関係しているならば、然るべき令状なりなんなりお持ちください。関係ないのならば、これ以上お話しすべきことはないかと思いますが」
「いやいや、すみません。そんなつもりでは」
途端に卑屈な笑みを浮かべて手を振る刑事に、優希の不快感は頂点に達する。
「ところで、北條さんは翻訳を本業になさっているのですよね?」
優希の怒りを察したのか、強引に話を変えられた。だがそれくらいで怯む優希ではない。一発お見舞いしてやらねば気が済まなかった。
「翻訳家としての契約自体はフリーランスですし、私自身の肩書はあくまで文筆業ですから、たとえばエッセイを書くこともありますよ。ああ――今回の件、まとめてほしいと週刊誌のほうから依頼が来ていましたっけ」
刑事の眉間に刺した視線をずらさずに答える。他人を不快にすることはあってもされることには慣れていないのか、刑事の眉がぴくぴくと動いた。
「……そうですか、では大変お忙しいということですね。本日はありがとうございました」
「これは余計な一言ですけど――」
優希は椅子から腰を浮かしてコートに袖を通しながら、刑事の薄くなりかけた頭頂部を見下ろした。
「ずいぶんと前、警察の方に、血縁者だからというだけの理由でほとんど見ず知らずの子供を押しつけられかけたことがありましてね」
「……それが、何か?」
「いえ、余計な一言ですよ。先ほどの質問といい、警察の方はどこかに責任を見つけて誰かに責を問う、そういう職業なのだなぁと改めて思っただけです――言い方はまずいかもしれないが、文筆業としてはよい知見を得られました。どうか、うちの学生の無念を晴らしてやってくださいね、刑事さん」
刑事が困ったように頭を掻きながら立ち上がり、すでに開いている部屋の扉を押さえて優希を送り出した。
「北條先生、高崎さんのご葬儀は明日と聞いていますが」
「行きますよ」
「そうですか。お気をつけて」
振り返りもせず答えた優希の背中に刑事の視線が刺さる。優希は不快感を隠そうともせずに大きくコートの裾を翻して、警察署を後にした。