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実のところ、会議というのは大嘘である。
高崎という女子学生から自分へ向けられたやや異様な執着に、優希は今年度の後期が始まってすぐあたりから気づいていた。携帯電話の番号から個人的なメールアドレスまで、なんとか守り切って渡さなかった。
ただ自宅を探られている気配はあったから、いつも彼女との会話には妙な緊張感があった。
そんな緊張感を駆け引きとして楽しめるほど、優希はもう若くはない。
気づけば去年、不惑を迎えた。
何故か、優希はいつも年下の娘にモテる。
自分では根暗でとっつきづらいと思っている無感動な顔も、若い娘からすれば「ミステリアスで格好いい」とポジティブに変換される。
もっとも同じだけ年月を重ねてきた同世代には、「ミステリアス」はただのハリボテで、本当はただの不愛想だと見抜かれていた。だから、浮いた話もないままに、今の年齢まであの小さな『城』で1人で生きている。
いや、浮いた話はあったにはあったのだが、肉体的な問題があったし、それに――どうも、優希は人付き合いが苦手である。
肉体的な欲求を手頃な相手と済ませる程度にドライだが、心の内側に踏み込まれることに対して、恐怖に近い感情がある。
他人が自分を値踏みする、あの目が怖い。
原因に心当たりはあったが、原因を作った人間はすべて優希の知らないところにいってしまって、恨み言をぶつけることもできない。
自分の自尊心を踏みにじってきた彼らへの鬱憤を、たとえばあの若い高崎にぶつけることもできる。彼らは、高崎と同種の存在だ。強大な自我で他者を圧倒して、気に病まない類の人々。
だが優希は、彼らの身代わりに高崎を傷つけられるほど、もう幼くはない。
それに、それをやってしまえば、社会的に優希は死ぬ。
私立大学の非常勤講師という1年契約の不安定な立場だが、それなりに楽しくやっている。学生との不祥事で失うには、少々惜しい席だった。
以前勤務していた会社で付き合いのあった出版社の役員が、どういう流れか、自分の母校で非常勤講師の採用があるのだと推薦してくれたのがきっかけだ。
「近代ロシアにおけるスポーツ史」という誰が興味を持つのかわからないようなニッチなテーマだが、意外と評判は悪くないようで、来年度も継続して行うようにと話をもらっている。
大学を出てふと空を見上げると、すでに真っ暗な夜空に星が小さく瞬いていた。
こんな都内でも、わずかながらに星が見えるものだと、たまに関心することがある。
わざと息を大きく吐くと、空に向かって白い水蒸気が舞い、代わりに鼻の奥がつんと痛んだ。
(……父さんの火葬を思い出した)
そういうところが、自分のだめなところなのだろう。優希は内心苦笑する。
大学から最寄りの駅までは、徒歩で5分とかからない。
ただしそれは地元住民が使うような抜け道を通った場合である。この道は住宅街を突っ切っていくのだが、街灯があまりなく、夜になれば人通りも少ない。
先ほど高崎に告げた行程であれば、商店街を抜けていくので人目がある点では安心だが、その分所要時間が倍になる。暗くなるのが早い時期には、安全を考えて後者のルートを使う学生も多い。
(まあ、真夜中にでもなれば、痴漢のひとつも出そうな道ではある)
短い方のルートを選択した優希は、鞄を肩にかけ直して周囲を見回した。
このあたりは比較的古い住宅街で、薄く下町のような風情が残っている。もとは大きな寺の門前町だったそうで、その名残もどこかに漂っているような気がした。
まだ夕食時ということもあって、周囲の家々からは団欒の灯りがこぼれてきている。外を歩く人の姿や車は見えないが、家から漏れる活気のおかげか、さほど暗い印象は受けなかった。
ふと――視線を転じたとき、道の端、電柱の陰に何かがいる気がして、優希は身をすくめる。
黒い塊はまるで誰かがうずくまっているようで、不機嫌な目を向けてきているような気さえした。
だが落ち着いてよく見ればそれはただのゴミ袋であり、住民が不精して夜のうちに出したものと知れた。
(幽霊の正体見たり枯れ尾花、てか)
痴漢なぞに怯える年でもないはずなのに、知らないうちに、妙に疑心暗鬼になっていたようだ。
優希は苦笑しながら、あえて歩幅を広げてその横を通過した。
すれ違いざまに「幽霊の正体」に視線をやり――
足が止まった。
ぱんぱんに膨らんだ、3つの黒いごみ袋。
その後ろに無造作に、人の形をしたものが、まるで隙間に押し込められるように倒れていた。
人の顔は、ああまで白くなるものなのか。
「……ひ」
その情けない音が自分の喉から漏れたものだということに、優希はまだ気が付いていない。