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「北條先生、どうかしましたか?」
ふと――頭痛に気を取られていた優希は、自分の目の前に立っている若い娘の名前を思い出せなかった。
2秒ほどかけて彼女の名前が「高崎」であることと、自分の担当する講義の受講生であることを思い出す。
「いや、ちょっと頭痛がね」
「私、ロキソニン持ってますよ」
ポーチを漁りだした高崎を、優希は苦笑して止める。
「大丈夫、私も持ってる」
「先生も片頭痛持ちなんですか?」
「ああ」
「なんかわかるかも。先生、繊細な感じだし」
繊細、という単語を口にしながら、彼女が意味ありげな視線をこちらに向けているのを、もちろん優希は理解していた。そして優希の立場上、それに応えることができないということも十分に認識している。
「先生、明日ってお暇な時間あります?」
「明日か。なんで?」
「今日の授業で、ちょっとわからないところがあって」
高崎が周囲にそれとなく視線を走らせた。
5限目に当たるこの講義はそもそも受講者が少なく、出席率も悪い。数少ない受講者もバイトや帰宅のため、すでに早々に講義室を出ていた。
この中途半端に広い講義室には、優希と高崎しかいない。
「明日は本業の方が忙しいからちょっと厳しいかな。メール送ってくれたら返信するから」
「……そうですか」
こういうやりとりをもう彼女とは3回以上している記憶がある。
最近の若い娘は積極的というか、無謀というか、反省がないというか。
この世代の少女には、若さゆえの残酷までな万能感が備わっている、と優希は思っている。
若々しい肉体と皺のない頬には、他人を踏みにじっても許されるだけの価値があるという過剰な自意識。
不自然なほど突き出された胸部を切り開けば、きっとどろりとした傲慢さが零れ落ちてくるに違いない。
若さがときに見当違いな暴力性を伴って、予想外の方向から攻撃してくることを、四十路を過ぎた優希はさすがに身に染みて理解していた。
「悪いね。期末前には試験向けの対策をやるから」
講義で使う資料をまとめて鞄に放り込み、優希は高崎に退室するように促した。
「先生、駅まで送ってくれませんか? 最近、あのあたり痴漢が出るらしくって」
今度はそう来たか、と内心うんざりしながら講義室のドアに手をかけた。
高崎の零れ落ちそうに大きな目が媚をたたえて、優希をじっとえぐるように見つめてくる。
「すまないけど、これから会議があるんだよ。少し遠回りだけど、商店街を抜けて駅に向かいなさい。この時間ならまだ人通りはあるから」
「はぁい」
つまらない、と高崎の背中が大ブーイングをしている。
「先生」
「なに?」
「じゃ、期末終わったら、みんなで飲み会しましょ? それならいいでしょ?」
相手の要望を拒絶し続けることで、理由のない罪悪感がわくという。
それを狙って畳みかけてきたのだとすれば、案外高崎は賢いのかもしれなかった。
「そうだね、まあ、みんなの予定が合えば。あと、私の仕事の都合がつけば、ね」
「それはつけてくれなきゃ困りますよ~」
ひとまず1つだけは要求をのませたことに、高崎は満足したらしかった。
「じゃあね、ゆーきせんせっ!」
まるで中学女子のように弾みをつけて優希の名前を呼んで、高崎は軽やかに廊下をかけていく。
疲れた、と優希は頭を軽く押さえた。