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優希にとって姉は災害であり、避けるべきものである。
しかしながらこの災害は質が悪く、自分から動いて近づいてくることもある。
予告してくれたらよいのだが、たいていの場合、姉は自分勝手な都合でいきなりやってくるのだ。
それは優希が様々な理由をつけて姉を避け続けたせいで、姉が業を煮やした結果でもあるので、半ば自業自得なのかもしれなかった。
父の四十九日が済んだから、と姉からメールが届いているのを見てから、1週間後。
災害は突然現れた。
それも、小さな子供を連れて。
「お邪魔しまーす」
嫌々ながら優希がドアを開けたのは、頬を真っ赤にしたその子供の存在があったからに他ならない。
カメラ越しに姉の姿を確認したときはとっさに居留守を使おうと思ったのだが、寒さに震える甥まで締め出せるほど、優希は人間を捨ててはいなかった。
「ぬくいねー」
姉はコートを脱ぎもせずに、優希が先ほどまで作業をしていたこたつに半身を突っ込ませた。
甥はそれを見て、おずおずと優希を見上げて、慌てて母の隣へと体を滑らせていく。
「……いきなりどうしたの」
一応は客人であろうその2人に、ひとまずは茶を入れようと優希はキッチンで湯を沸かす。
1人暮らしのこの家には、仕事の資料と本を除けば最低限のものしか置かれておらず、ポットという気の利いたものはなかった。
カップだけは、そういえば何故か4つもある。
いつも使っている白いカップが1つ、酔って買ってきたと思しきものが1つ、あとの2つはいつの間にか増えて素性が知れない。
飲まずに置いたままだった緑茶のティーバッグを引き出しから発掘し、賞味期限が今年の初めであることを見なかったことにして、素性のしれない2つのカップの湯に浸した。
赤いストライプが悪趣味なそれらは、いったいいつからこの家に居座っていたのだろうか。
「形見分け。お父さんの」
玄関に無造作に置かれた紙袋を姉が指さす。自分で取りに動こうという気はないようだ。
姉と甥の前にカップを置いて、優希はその紙袋を取り上げた。菓子折りでも入っているのかと思ったら、やけに分厚い本が2冊だけ入っている。
古ぼけた背表紙の文字を読めば、その2冊が和伊・伊和辞典であることが知れた。
「……なんで?」
「あんた仕事で使うやろ?」
イタリア語は使わないしわからない、と言えば面倒なことになると察して、優希は「うん」とだけ答えた。
父は多趣味といえば聞こえはいいが、なんにでも手を出す気の多い男で、これも確か20年ほど前にいきなり「イタリア語をやる」といって買ってきたものだ。
もっともこの本も他の趣味と同様にすぐに飽きられたようで、本棚の飾りとして機能しているところしか見たことがない。
確か地震で2回ほど落ちたことがあったか、と思い出しながら、本棚の一番下の段を整理して隙間に押し込む。ただでさえ本が多いこの部屋で、こんな土産は邪魔でしかない。そのうちこっそり捨ててしまうか。
「送ってくれたらよかったのに」
「ちょっと東京見物したかったんよ」
姉が茶をすすりながら、こちらを見ることもなく、勝手にテレビをつけながら答えた。
甥のほうはまだカップが熱いらしく手を出せずにいる。姉はその様子に頓着もせず、優希のほうが冷や冷やさせられた。
「案内できないよ……仕事あるし……」
「んー、いらんいらん」
「泊めてくれってのも」
「いらんって。こんな狭いところ、寝られんやろ」
姉の無神経は昔から変わらない。無神経というか、雑なのだ。
自分の行動が他人の精神にどう作用するかといったことに、想像の及ばない人種である。注意すればするだけ、こちらの神経が摩耗する。
優希は机の上に広げたままの資料を両手にまとめて、寝室にノートパソコンとともに避難させる。借りてきた本もあるのに、甥がお茶をこぼせば目も当てられない。
「このへん、コンビニとかあるん?」
姉がテレビから視線を動かさずに聞いてきた。
別に珍しい番組ではない。若手芸人と呼ばれる、優希よりやや上の世代男たちが、益体もない話をしては下品に笑っている。
唐突に奇声をあげて踊る男を、甥もじっと見つめていた。たとえそこに意味が欠片も含まれておらずとも、リズムのよい音に子供が反応するのは、いつの時代も同じだ。
「エントランス出て、左に進んで、最初の角曲がったところにあるよ」
「そう」
言って、姉がおもむろに立ち上がった。
「ちょっとお金下ろしてくるけん、この子見ちょって」
すがりつく甥を、姉はやんわりとこたつに押し戻した。
「寒いけんね、ここで待っちょきなさい」
「……うん」
不安そうな幼い目が優希をちらりと見る。優希だって勘弁してほしいが、しかたないだろう。
「姉ちゃん、雪降ってきたから傘持っていきなよ」
「ん、ありがと」
そういえば姉が礼を口にしたのは、珍しいことだった。
姉が戻ってこないまま3時間が経過したとき、優希はぼんやりとそんなことを考えていた。