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父の葬儀が済み、それで最低限の義理は果たしたということで、優希は初七日の法要に顔を出さなかった。
ただでさえ不仲であった父のために、この繁忙期に何度も仕事を休む気にはなれない。
親戚の少ない北條家において、数少ない優希の身内である姉は、もちろんいい顔をしなかった。
手伝わないなら遺産の分割はないよと脅しつけてきたのは、生来の性格の悪さだけではなく、葬儀後の手間暇に忙殺された苛立ちのせいもあっただろう。
「……それはいらないけど、家の頭金借りてたの、なかったことにしてくれたら嬉しい」
姉からの電話をハンズフリーモードで聞きながら、優希はこたつに向かって作業をしつつ片手間に応答する。
葬儀のために地元へ片道ほぼ1日かけて移動し、都合3日間、平日に休みを取った代償は大きい。
今、ノートパソコンに打ち込んでいるのは、持ち帰ってきた仕事の資料である。
ロシア語と英語の混じったそれを、優希は丁寧に日本語に直していく。
ネイティブスピーカーでない優希にとって、日本語で会話しながら外国語を扱うのは少々難易度が高い。
ため息をつくと、資料に付箋代わりの物差しを挟み、作業の手を止めた。
『頭金?』
電話の向こうで、姉の感情が揺れた気配がして、優希は面倒事の予感を察知する。
普段は卒なくこなしていたのに、仕事に意識を割きすぎたせいで、余計なことを言ってしまったのかもしれない。
『あんたもしかして、その部屋、買ったと?』
「あー……うん」
『やだ……そんなに狭い部屋わざわざ買って、結婚する気あると?』
またこの話題か、とうんざりする。聞き流せばいいのだが、姉のしつこさは筋金入りだ。
多少相手にしてやった方が、よほど早く済むことが多いと、優希は経験から学んでいた。
「そのうちね」
『もう31歳やろ、そんな悠長に言っとられるん?』
「まあ」
東京の31歳と、そちらの31歳では、適齢期に対する意識が違うのだ――という言葉は、飲み込んだ。
優希にも、結婚を意識した時期だってあるし、もちろんその相手だっていたこともある。
だが、それもこれも結局巡り合わせだ、と優希は思う。固執するほどの価値があるのだろうか。
多分、姉の言葉のほうが正論なのだろう、とどこかで理解している自分もいた。
いくら個の尊重だの多様性だの、耳障りのいい言葉が世間を覆っていったとしても、大多数に含まれることのできない自分こそが恐らく異端なのだ。
「あ、お風呂わいた。協議書、判子押すから送っといて」
ちくりと左側頭部を刺す痛みに顔をしかめ、優希は強引に電話を切ることに決めた。
兼業主婦である彼女だって、21時はそれなりに忙しい時間のはずだ。確か甥はまだ小学校かそこらの年齢だったと思うから、母親としての仕事はまだ終わっていないだろう。
お互いのためになる選択だと思う。
『優希――やけんだめんなんよ、あんたは』
ずっと昔から耳が腐り落ちるほど聞いてきたものと同じ呪詛を吐いて、通話は切れた。
側頭部の痛みは耳鳴りを伴い、優希は頭を押さえたまま煙草に火をつけた。秋空に溶ける父の煙を思い出して、また不愉快な気持ちが胸を占めていく。