幽霊と彼女と彼
「今日も来たの?」
穏やかな声ではあるけれど、「彼」の声は非難めいたものを含んでいた。場所は田井さんの家の玄関。元、愛子ばあちゃんの家だ。美花子さんたちが同居を始めたときリノベーションされたこの家に、私は一度も足を踏み入れたことは無い。玄関先に置かれた陶器でできた花柄の猫の置物は一輪挿しになっていて、ガーベラが明後日の方向におじぎしているのが見えた。
「毎日来てくれてありがとね。リョウ、上がってもらったらどうなの。」
「美花子さん、それは勘弁してよ。」
玄関の奥から声をかけた美花子さんを、「彼」は牽制した。美花子さんとしては、息子同然の「彼」の前から私のような悪い虫がいなくなったことはもちろん、積極的でハキハキとしたかわいい普通の女の子が来てくれるだけで大歓迎という心境だろう。
「迷惑だって伝えたよね?」
「私が来なくなったら、田井君家から出るの?」
「委員長には関係ないでしょ、俺がいつ何をしようと。」
逆光で「彼」の表情はよく見えなかったが、いつも通りにこにこ笑っているように見えた。
「ここは私をエサにしよう。私の生前、最後に会話したのは渚ってことにして連れ出そう。」
私の提案にびっくりしたように渚の体が少し振れたけれど、彼女は私の言ったとおりのことを口にした。
「・・・それ、本当?」
「ちょっと前に、仲良くなったの。二人の関係が気になって、私から声をかけちゃった。」
「何、話したの?俺、委員長の話なんて七瀬から聞いてないし、葬儀にも来てなかったよね?」
訝しげな「彼」に対し、渚の返答はスマートだった。
「・・・行きたくなかったのよ。」
渚はガッツがあるだけでなく、交渉力もあるようだ。たったそれだけの言葉で、今日も彼を連れ出すことに成功した。どちらも私にはない能力だ。
今日は昨日のカフェではなく、ファミレスにやってきた。ランチタイム直前ということで空席が目立ち、大きな背もたれのついた四人掛けのボックス席に案内される。大きな窓がついた一見良い席だけど、外から食べているところが丸見えだ。
三十代前半くらいの、愛想の良いウエイトレスがにこやかに水を置いて離席するまで、二人は会話らしい会話をしなかった。
「私に来られるのが嫌ならどこかに避難すればいいのよ。」
開口一番、渚がジャブを打った。そこに、「どうか私のことを好きになってお願い」というすがるような姿勢は一切無い。朝、「彼」の好みを気にして服を選んでいた少女と同一人物とは思えない。これが、ツンデレか。私の前でデレても全く意味がないのだけど。
「そんなに行動範囲が広い方じゃなくてね。いないならいないで、見つけられそうだし結局家にいるのが一番落ち着くんだ。こうして、邪魔されているわけだけど。」
こちらも好戦的な対応だ。私なら心が折れてしまいそうな塩対応。相変わらず表情はにこにこしているけれど、逆に怖いというやつ。
「それで、七瀬から何を聞いたの?俺が興味あるの、それだけだから。」
一瞬だけ、渚は泣きそうな顔をした。コップに目を落とし、一口ごくりと飲む。表情に、もう一度力が戻る。なかなかへこたれない。
「田井君に、普通の人になって欲しくて死ぬって。悲しい時に泣いて、嬉しい時に笑う、そういう普通の人になって欲しいって。」
それ自体に嘘は無い。私が渚に伝えた本心だ。時系列が生前か死後かの違いはあれど、私が言ったことに違いない。私と渚が会話したことがある、というのは伝わるだろう。
「それを、どうして今更俺に言ったの。最初にうちに来た日に言えば良かったのに。」
「ちゃんと私の話を聞く体制が整ってから話そうと思ってたの。それで、七瀬はこう言ったわ。私に田井君を託すって。」
「七瀬は本当に自分勝手だなあ。委員長だって、迷惑でしょ。死人の想いを背負わなきゃいけないって。」
どうやら、「彼」は渚の話を信じたようだった。
「迷惑じゃないからここにいるのよ。」
「彼」は困ったように笑った。
「そのようだね。でも、何度も言ってるけど委員長と付き合う気にはなれないし、もっと言うと誰ともそういう関係になりたいと思わないんだ。俺は七瀬とずっと一緒に居たかったし、七瀬ちゃんのことが大好きだったんだ。」
「そんな大好きな人のこと、すぐ忘れろなんて言わないし、言われたって無理なのわかってる。でも、私は誰かを失うことで世界全体を否定することなんてしたくないし、少なくとも外に連れ出してくれる人がいるならその人のために頑張りたい。私じゃなくてもいいの。今の田井君の保護者の方たちだって、きっと田井君を応援してくれているんでしょう?」
「もう、いいんだ。あの人たちに迷惑をかけても、いいと思ってる。」
私は思わず「彼」をまじまじと見つめてしまった。表情は変わらない。
今まで本当の息子と同様とまではいかずとも、親しい親戚の子以上に扱ってくれていた美花子さんたちに、「彼」は本当に感謝し、かなり気を遣っていたはずだ。それを、「どうでもいい」と言わんばかりのこの態度。
「まさか、死ぬ気?」
「それも考えた。」
昼時のファミレスでする会話にしては重すぎる。
「でも、七瀬が俺に精一杯生きてほしくて死んだのであれば、それを俺は成し遂げないといけない。俺、七瀬の自己中心的なところ好きだったけど、あんまりにも無責任だよね。俺は誰が引っ張ってくれようと、七瀬のいない世界で生きたいと思わない。」
「それでも、田井君を心配してくれている人はたくさんいるのよ。七瀬だけが、あなたのことを心配していたわけじゃない。」
「そんなのわかってる。でも、七瀬の存在が大きすぎるんだ。俺自身、今後どうやって生きていくのが良いのかわからないんだよ。」
三、四人の団体客が賑やかにファミレスのドアを開け、軽快な鐘の音が鳴る。その後に続いて、もう二、三組。
そろそろ注文しないと、と「彼」は渚にメニューを渡した。渚はメニューを開かず、二人で日替わりランチを注文する。
数分もしないうちに白いプレートに白身魚のフライとハンバーグと千切りキャベツが乗っかったものがやってきて、「スープはドリンクバーの横にあります」という説明があるまで、再び二人に沈黙の時間が流れた。
渚は何かを考えているようで、「彼」も何か考えているようだった。
「大学には行く。そして、古い友達も新しい友達も大切にする。七瀬はきっとそう望んでいるから。だから、これ以上干渉しないで。それとも、七瀬は委員長に干渉し続けることまで頼んだの?」
渚は目線だけ空を見た。その先には私。
考えなしに死んでしまうような私だけど、私も考え込んでしまっていた。自惚れになってしまうが、「彼」が私を理由に交際を断るのはそんなに珍しい話ではなかった。でも、渚の押しが強すぎるということを差っ引いても、渚の反発をわざと買うような対応が引っかかる。こういう押しに強いタイプが苦手ということで遠ざけようとするのはわかるのだが、昔から大人のご機嫌取りばかりをしていた「彼」にとって、このやり方はスマートではない。
私にしては勘が働き、一つの仮説にたどり着いたので、渚に「後でちょっと二人で話そう」と声をかけた。
渚はもう一度不機嫌そうに私を見た。私は、それを笑顔で返す(笑顔を作ったつもりだ)。
渚はあたりさわりのない返事と会話をして、気まずいランチを切り上げた。
「明日も行くね。」
の言葉も忘れずに。なかなかのタフガイ(女だけど)である。