虐待児といじめっ子
「彼」はもともと地元の子ではなかった。どこからか引っ越してきて、たまに一緒に遊ぶ近所の子の一人だった。そのどこから、は「彼」の記憶にも無いらしい。
一番古い記憶の「彼」との記憶の中で、すでに「彼」は腑抜けた笑顔を浮かべていて、私はそれにイラついて蹴飛ばしている。
そのとき一瞬「彼」は痛そうに顔をしかめたけれど、すぐに笑顔になって私に話しかけてきた。何事もなかったかのように。
「慣れていたのよ、殴られたり蹴飛ばされたりすることに。」
「え、それって・・・」
「父親に虐待されてたの。それで、引っ越してきたのはその父親から逃げてきたってわけ。母親と二人で。」
こんな重い話引くだろうなあと思ったけど、やっぱり塩入渚に与えた衝撃は大きかったようだ。
「あいつにとって、殴られたり蹴られたりすることは構ってもらうことだったのね。だから、痛くても無視されるよりはいいって耐えてたみたい。いつも笑っているのもそう。泣いたりわめいたりするより、笑顔でいる方が周りは優しく接してくれるしね。」
でも、私はそんな笑顔が嫌だった。
「毎日毎日同じ顔してへらへら笑って、本当に楽しいのか面白いのかわからないし。辛いときや嫌なときはそういう風にしてくれないと、一緒に遊んでてもずっと嘘をつかれているみたいじゃない。私はそういうのが気に入らなくて、いじめまくってたのよ。」
「彼」は勘の悪い子供ではなかった。少しして、私の意図をくみ取ってくれたようだ。
「それから、私にはちょっとずつ感情を出してくれるようになった。へらへらした笑い方はもう癖になってたから、それが真顔みたいなもんで矯正は無理だったけど。でも、あいつの表情がくるくる変わるようになったのはうれしかったし、そもそもそんな風に構うなんて、私も結構あいつのこと好きだったんだと思う。」
そして、唐突なプロポーズ。
「その約束って、まだ生きてるの?」
「さあ、約束まで殺したつもりはないけど。」
幽霊ならではのブラックジョーク。
「でも、その約束の後またあいつ戻っちゃってさ。」
「戻った?」
「うん、また感情出すのがへたくそになっちゃってね。いつ頃からなのかはわからないんだけど、父親から逃げた後、母親からもたまに暴力受けてたみたいね。私と結婚の約束した日にも家に帰ってから暴力を受けたらしいんだけど、自分は生まれ変わるぞー!って初めて抵抗したらしいの。中学生男子が、中年のおばさんに力負けするわけないし。自分に従順じゃなくなった息子にお母さんが腹を立てて、鈍器持ち出したみたいね。」
「・・・よく無事だったね・・・」
「ああ、さすがに詳しくは聞けなかったんだけど、おばさんがその鈍器とやらを息子に振り下ろすつもりが手を滑らせて自分の頭に落としたらしいよ。そんで額がぱっくり割れて、あっけなく死んじゃったってわけ。」
私の脳裏には、おばさんの笑顔が浮かんだ。だいぶ色あせてしまった記憶だけど、「彼」と違って不愉快な笑顔のない温かな人だった。私の他愛のない話に耳を傾けながら、大爆笑してくれることだってあった。
「彼」を傷つけるおばさんも、私に優しいおばさんも、嘘は無かったと思う。人間て多面的な生き物だ。
「即死だったかもしれないけど、あいつが救急車呼んだって話は聞いてないから、もしかしたら見殺しにしたのかもね。」
自分の母親が目の前で無様に死んでいく様子を、「彼」がどう見ていたのかはわからない。だけど、「彼」が目の前で起こった事故に気が動転し、救急車を呼ぶなどの冷静な判断ができなかったとは思えない。その後の「彼」の行動は、母親の死まで予測していたかどうかまではわからないけど、一人で生きていくための保険をかけながら生きてきたんじゃないかと勘ぐってしまうところがあるのだ。
今、「彼」が住んでいる家は元愛子ばあちゃんの家だ。私も「彼」もまだ近所を駆けずり回るほどの若かった頃、お茶目でおしゃれで子供たちに大人気だった、愛子ばあちゃん。残念ながら老衰で数年前に亡くなってしまったが、愛子ばあちゃんの娘さん、美花子さん夫婦が早期退職とらやで戻ってきて、「彼」と一緒に住んでいる。
愛子ばあちゃんには子供が美花子さんしかいなくて、美花子さん夫婦には子供がいなかった。
愛子ばあちゃんにとって、近所の子供たちはたくさんいる孫のような存在だったんだと今では思う。身よりが亡くなった「彼」は通常なら施設行きなんだろうけど、そのときは愛子ばあちゃんが引き取ると言ってきかなかった。役所の人間は、血縁関係が無く高齢の愛子ばあちゃんに子供を引き取らせることを渋っていたけれど、ちょうど定年前に早期退職をして田舎でスローライフを計画していた美花子さん夫婦が戻ってくるということで、正式に養子になったようだ。美花子さん夫婦は子供が欲しかったそうだけど、こちらに戻ってきたときすでに還暦間近になっていたし、子供を持つことはとうの昔にあきらめていたようだった。
そんなほぼ初対面の美花子さん夫婦が顔をとろかせるほど、「彼」はいい子を演じた。とっくに自我も確立された中学生の子供と義理の親子関係を結ぶのはかなりハードだと思うが、愛子ばあちゃんの娘だけあり美花子さんは懐が広く、また「彼」も非常に聞き分けの良い子を演じてすぐに仲良く暮らすようになった。美花子さんはよく、「私が産んだらあんないい子になったかどうかわからないわ。」と近所の人たちに嬉しそうに話していた。もちろん、「彼」をいじめる私は美花子さんから嫌われていたけど。私の存在は、「彼」が義理の親にとった唯一の反抗だったと思う。
「ちょっとは人間らしくなったかと思ってたのに、またにこにこ顔のお人形さんに逆戻りよ。腹立って仕方なかったわ。それからはいじめてもほとんど感情的になることなくなっちゃったし。」
「田井君、想像もできなかったほど、壮絶な人生だったんだね・・・なんか、田井君の方が自殺しそうだけど。」
ショックを受けているようでも、こんな話を聞いた後に私に嫌味を言えるとはやはり肝が座っている。
「もしかして、壮絶に悲しんだり怒ったりして欲しくて死んだってこと?感情を大きく引き出したくて?田井君に対する嫌がらせの意味はこめられているとは思ってたけど・・・」
「うん、まあそーゆーこと。」
「いや・・・死してあなたの心に残ればいい的な人っているけどさ・・・なんかそれとも違うし、もうはっきり言うけど、あなた無駄死にだからね?」
はっきり言われてしまった。
「そーなんだよねぇ、完全に無駄死に。でも、後悔しても生き返れないじゃない?私の体焼かれるとこまで見ちゃったら、流石に諦めもついたし。だから、生きてる人に協力して欲しいのよ。私がやったことは本当に馬鹿なやり方だったけど、カッコいい言い方をすれば命をかけてでもあいつを変えたかったのよ。」
「今も、田井君のことが好きだったの?」
「大嫌いよ。だから、好きだった彼に変わって欲しかった。」
「・・・好きな人と、結婚の約束までしていてそれで死ぬってあなた頭おかしいわよ。」
私も自分がおかしいとは思うけど、塩入さん、あなたが恋した男も大概だと思うわ。「彼」は私のそばにいるために、自分の感情に嘘をつき続けて近所の人に取り入ったんだよ。
そんな大嘘つきを、真っ当な人間にしたいと思う私はそうおかしくはないんじゃないかしら。やり方は破天荒だったかもしれないけど。