私が死んだ日-2
むせただけだから心配するなと母に声をかけると、五分くらい後に遠慮がちなノックがあり、お茶を入れたから飲まないかと打診を受けた。
多分顔を見たいのだろう、そして部屋も。察した私は何もやましいところは無いと大きくドアを開け、母を部屋に招き入れた。母の目線が、わかりやすく部屋を見回す。さっきまで一緒に勉強していた机付近にはノートと参考書が散乱していたが、ベッドは先ほど私が寝ころんだだけできれいなものだ。
母の目線が壁のコルクボードで止まったので、私もついそちらを見た。コルクボードには、明日受ける大学の受験票が透明袋に入った状態で壁に留まっていた。
「もう明日受験なのね。」
たった今私が大きくなったことに気づいたかのように、母がため息をついた。
「そうだね。」
何て答えていいのかわからず、私は適当な相槌を打った。こういう独り言なのかどうなのか判断がつきにくい思い出に酔った発言に対し、気の利いた返答ができるほど私はウィットに富んでいない。
「今日はもう、お風呂に入って寝たら?明日は少し早めに起きるんでしょ?」
受験会場は県をまたいだ志望大学ではなく、出張所的に設けられた近くの大学だった。地方民にとってはありがたい措置だ。
おかげでホテル取るなど余計なことを考えずに、慣れ親しんだ家で受験日を迎えることができる。
「お茶くらい飲ませてよ。」
湯気を立てている湯呑をお盆からひったくり、私はふーふー息を吹きかけながら一口飲んだ。緑茶にこだわりのある母の淹れるお茶は、適温まで冷まされた上で抽出されているので猫舌の私でもすぐに味わうことができる。
「立って飲むことないじゃない。じゃあ、飲み終わったらお風呂入るのよ。」
部屋を見て安心したのか、母は早々に部屋を退出した。残った私はごくりごくりとお茶を飲み干す。美味い。
少し落ち着いて、私はイスの上に胡坐をかいた。目の前には受験票。先週すべり止めの私立に受かっている私は、安泰とは言えないがとりあえず将来の道が一つは開かれている状況だった。もちろん、本命は明日受ける大学なのだけど。
「受かったら、一緒に住む、ねえ・・・」
「彼」の言葉を反芻したが、ときめきらしい感情は出てこなかった。恋に恋する十七の乙女としては、非常に残念なことである。
一緒に住んだって変わり映えしないだろう。今日のキスは嫌がらせの手段の一つで、恋人などという甘い関係に落ち着く気は毛頭ない。だとしたら単なる同居に過ぎず、お互い別々の学部、サークルに入りそれぞれの生活をしていくだけだ。
「なんかそれはそれで。」
受験前日に、勉強以外の余計なことなぞ考えたくもないのに。頭の中を占める「彼」の割合が増殖してきて、苛立ってくる。
受験なんて失敗すればいいのに。めちゃくちゃになって、悲しめばいいのに。
そんな思いが渦巻き、それでも私の中にある良心がさすがにそれはやりすぎだろうと釘を刺す。大学受験は人生を左右する。行く大学によって、就職できる企業が違うのは、高校生の私でもわかっていることだ。
受験に失敗したら、私と違う大学に通うことになったら。「彼」はどんな反応をするのだろう。ちょっとは悲しむのだろうか。いや、大学に落ちるくらいで「彼」はそんな喪失感を感じることは無いだろう。大学受験によって人生が左右されるなんて、「彼」にとってはどうでもいいことのように思う。「彼」が執着しているのは私だけなのだ。さきほど気づいたのは、「彼」のウィークポイントが私だということだった。
だからさっき、キスをした。「彼」の好きな私が、好きでもない人(この場合「彼」)とキスをしたら「彼」は動揺すると思ったのだ。
確かに「彼」は一瞬動揺したが、ダメージを与えられるほどではなかった。失敗した。今までの中で最も体を張ったいじめは不発に終わったのだ。
受験前日にやるいじめじゃないよなあ、自分へのダメージも大きいのに。考えずに体が動くことってあるけど、それにしてももう少し考えればいいのに。反省しながら湯呑を机の上に置き、大きく伸びをする。壁掛け時計の針は、八時半。お風呂に入って、出てきて髪を乾かして、明日の支度をして寝ると・・・十時くらいか。ちょうどいい時間になりそうだ。
立ち上がってもう一度受験票を目にしたとき、私の中にとんでもないひらめきが舞い降りた。普通なら、馬鹿げて思いつきもしないことだ。
けれども、この日の私はいつもよりちょっとおかしかった。受験日前の妙な高揚感とファーストキスをかけた嫌がらせの失敗と、いろんな感情が入り混じっていて、まあとにかくおかしかったのだ。
「よし、いっちょやるか。」
私は母に、コンビニに行くことを伝えた。時間的にいい顔はされなかったけど、「合格祈願にキットカット買ってくる」と言ったらしぶしぶ認めてくれた。
ごめんね、と心の中で謝って、私は定期を握りしめて駅へ走った。そのまま数駅電車に乗り、ターミナル駅で電車を降りる。
ここまで行動しても冷静になれなかった自分がすごい。すごい馬鹿、の意味で。衝動的にキスをしたことに対する反省がまるで活かされていない。そのまま私は駅ビルの非常階段に飛び出し、真っ逆さまに落ちた。そして死んだ。