彼女と幽霊の母親
グレーのニットに黒いパンツというシンプルな服装に着替えた渚を連れて、私は自宅に戻った。私の家は田井家から角二つ曲がったところにある。渚の家に外泊?をしたため、およそ一日ぶりの帰還だ。掃除機の音がかすかに聞こえ、在宅であることを示していた。
「あれ、今日って何曜日だっけ。」
私は渚に尋ねた。
「えっと・・・私も学校行かなくなってるから曜日感覚おかしいな・・・ちょっと待って。」
渚はスマートフォンを手にした。電源ボタンを押すと、画面に日付と時間が大きく表示される。
「あ、木曜だね。」
「木曜?」
渚にもう一度確認をする。
「今日、何日?」
彼女の回答は、私の認識の二日後だった。
私の母親は、パートタイムに出ている。基本的には平日全部の出勤を希望しているが、木曜だけは希望者が多いらしく入れないことが多いのだとよく愚痴をこぼしていた。父親はフルタイム勤務の正社員なので、平日のこの時間に家にいることは無い。私は今日が火曜だと思っていたが、実際は渚の言う通り木曜なようだ。幽霊誕生にも時間がかかるらしい。
時間軸のズレを認識すると、納得できることがいくつかあった。我が家を特定し、突撃してきた奴らには検索する時間がたっぷりあったということ。また、「彼」が平然を入試を終わらせていたのにも納得がいく。少なくともうちの親は、私が遅くまで帰宅しなければ、「彼」に連絡を取ろうとしただろう。そういったゴタゴタが感じられなかったのは、私が死んでから二日経っていたということで状況だけははっきりしていたからであろう。
「どうやら、私は私が死んだ日から二日間の記憶が無いみたい。その間何があったかうちの母親に確認したいんだけど、協力してくれない?」
渚は返事をせず、私の家のチャイムを押した。役に立たない恋愛アドバイザーに対するささやかな反抗らしい。
掃除機の音が止み、力ない足音が聞こえた。
「どちら様?」
母親の声は、か細いミシン糸のように頼りなく張りつめていた。
「突然失礼します。私、七瀬さんの学校の友達で塩入渚と言います。この度は本当に・・・なんて申し上げればいいのかわからないんですが。私も入試とショックが重なって、葬儀に出られなくてこんなタイミングになってしまって申し訳ないんですが・・・今、お伺いしてもよろしいでしょうか。」
渚は敬語の使い方もよどみなく、「委員長」と呼ばれるにふさわしい逸材だ。
「七瀬の?塩入さん・・・聞いたことの無いお名前ね。」
母親の声には警戒するような戸惑いが含まれていた。まあ、私が渚とまともに話すようになったのは昨日からだしね。名前も聞いたことのない友人が突然家に押しかけたら不思議に思うだろう。
「仲良くなったのは最近なんです。私、七瀬さんの友達の・・・あの、田井君のことが好きで。相談に乗ってもらっていたんです。」
「そう・・・」
かちゃり、と鍵を回す音がして、ドアが静かに開いた。目の周りがくぼみ、一回り小さくなった母親がいた。髪は無造作に束ねられ、見慣れたVネックニットとジーンズという恰好。髪には数週間前より白髪が目立ち、以前はもう少しぴったりと着ていた服がややだぼついて見えた。
「お忙しいところ、本当にすみません。私、七瀬さんから伝言を受けています。」
「七瀬から?」
母親の目に少し光が宿る。遺書も何もなく死んだ私の死は、自殺として片付けられても理由が不明瞭で、身近な人間には納得いくものではなかっただろう。何かしらの「伝言」は興味を引くには十分なワードだろう。
「どうぞ、上がって。」
母親はスリッパを出して渚の前に置いた。渚は靴を脱ぎ、玄関の端にきっちり揃える。
「お邪魔します。」
初対面のおばさんと二人きりになるという居心地の悪さを、渚は不服ながらも受け入れてくれていた。私が生きていれば何かおごらなきゃ、というところだが、幽霊に財力は皆無である。
「ごめんね。家の中片付いてないの。」
リビングの端に簡易的に設けられた仏壇に、渚は手を合わせた。両親が日に日に弱っていくのをずっと見ていられるほど図太いわけではなく、幽霊となり家にいたおよそ二週間もほとんど私は自室にいた。だから、リビングの仏壇がいつ設けられたのかは知らない。私は自分の遺影をのぞき込む。遺影の私はいい笑顔をしていた。いつの写真だろう?こんな子が自殺するなんて、私でも思わない。
書類やらアルバムやらが机の上に雑然と積まれ、灰色のソファにはだらしなく毛布がかかっていた。散らかっているというより、「片付いていない」という表現の方がが確かにしっくりとくる部屋だった。
リビングからつながっているダイニングに場所をうつし、母親が渚にお茶を出した。私が気に入って飲んでいた紅茶の銘柄だった。
「急にお邪魔して、本当にすみません。また、気持ちの整理がつくまでお邪魔できなくて・・・本当は、もっと早くに伝えるべきだったと思います。」
人の良い渚が、すっかり衰弱してしまっている私の母親を見て、心を痛めないわけがなかった。胸が無くても胸が痛い。
「七瀬さんは、亡くなる前に私に田井君をよろしくね、と言いにやってきました。人生はすごく楽しいもので、ご両親含めこれからも生きていくことに不満は無かったようです。理由は聞き出せませんでしたけれど・・・自殺してしまうほど、思いつめたことが一つだけあったようで。だから、そういう身勝手で死んでしまう自分に、ご両親やお友達は悲しまずに怒ってほしいと言っていました。」
渚は一気に話すと、ふうっと息をついた。
両親にも、友達にも、馬鹿な私のせいでいつまでも気に病んでほしくなかった。もしかしたら私の自殺を止められたかもしれない、なんてたらればなんかで過去の行動について悔やんでほしくなかった。
もっと怒って、怒って、そして忘れてしまわれるくらいでちょうどいい。私は誰かの記憶に残るのもおこがましいほど馬鹿なことをしたのだ。
「・・・本当にバカね、あの子。」
目に見えるほどの表情の変化はなかった。
「死ぬほど好きなら、そう言えば良かったのよ。死ぬ勇気はあるくせに、想いをぶつける勇気はなかったのね。」
「えっ?」
「原因はきっと田井君、よね?あの子とは幼馴染で、よく一緒に遊んでいたわ。うちの子がいつもいじめるものだから、私はいつも怒っていたけど・・・中学生になって、少し心が大人になって。七瀬が、彼をとても大事に思っていることはよく知っていたわ。あなた、田井君とはもうお付き合いされているの?」
「え、あの、まだ、ですけど・・・そもそも、田井君は七瀬さんのことが好きで・・・」
「あなた、本当にそう思っているの?」
「え?」
「田井君が、七瀬のことが好きで大事に思っているのは知ってたけど、それは七瀬の想いとは違うと思っていたわ。恋愛感情なんてものとは別のものね。もっと重いものかな・・・恩?っていうのが一番しっくりくるかしらね。」
渚は戸惑いの表情で私を探した。この体?で隠れることができるかどうかはわからないけど、私はソファの陰に潜んで渚から見えないようにうずくまった。
なんなの、母親って存在は。隠している日記やテストを探し出したり、些細なことで落ち込んでる時に限って好物の食事を出してくれたり、勘が良すぎる生き物だ。
「あの子は、恋煩いで死んだのね。そして、あなたをライバルとして認めたのね。」