④
ミレイナは唐突に勇者だと告げられて、最初は混乱した。
しかし夢に女神らしき存在が現れ、語りかけてきた。目が覚めたら左手に勇者の証である女神の紋章が現れて現実だと思い知った。
神殿の使いがやってきて、行かなければならないと自分に言い聞かせた。自分が頑張らなければ村が大変なことになるからと。
震える体を何とか抑えて、一歩踏み出した瞬間、ユークリッドが同行を申し出てくれた時、彼女は嬉しかった。
時に頼りになる兄のように、時に手のかかる弟のように、とても近しい関係の彼が側に居てくれるだけでとても心強かった。
神官戦士たちに護衛されて、ユークリッドと馬車の乗っての旅は一時だけ勇者だのなんだのといった煩わしいことを忘れさせてくれた。
初めて見る村の外。見たこともない動物。大勢の人。景色。二人して目を輝かせてきゃいきゃい騒いだ。
それを神殿の者たちは微笑みながら見守った。
楽しい時間はあっという間に過ぎ去り、ミレイナたちは神殿の総本山へと到着してしまった。
それからはユークリッドとも離れ、ミレイナは大神官と名乗る男と女性神官たちとともに神殿の中を歩き、長い長い階段を降りていった。
ついた先にあったのは、湖だった。透明で、そこまで深くないようで湖底が見えた。
見上げれば天には丸い穴。空の青色が見えた。壁はゴツゴツとした岩肌。
呆けた顔を上げたり下げたりしていると、大神官が咳払いをしたのでそちらに向き直る。
すると、湖の中央に小島があるのに気が付いた。飛び石のような足場も浮かんでいる。
あれは何かと質問すれば、神官たちは驚き、すぐに膝を着き、頭を垂れた。
慌てるミレイナに大神官は理由を告げる。
ここは女神の祭壇と呼ばれる、かつて女神が地上に降りてきた場所で、女神の力が満ちているという。
神官たちには祭壇は見えない。女神自身と女神の加護を持つ者──勇者にしか認識できない。
大神官に促され、湖に浮かぶ石を跳び移っていく。
ふと湖を見れば、透明で。
ミレイナは恐ろしくなった。
この湖は、命を感じられない。彼女の知っている湖はもっと濁っていて、魚がそこかしこに見えるものだ。
ここは青白く、魚の一匹も存在しない。冷たい。
彼女は早く、けれど落ちないように祭壇へ急いだ。
湖の中央にある小島へ到着し、そこにある祭壇へ近付いた瞬間、ミレイナは光に包まれた。
そして彼女は見た。
魔王。
黒い霧が立ち込める場所に、突如現れる、歪な人の形をしたなにか。常に霧が蠢き、不定形なそれはゆっくりと歩き出す。
黒い霧が風にのって世界に広がり、野性動物が凶暴化し、暴れだす。霧は野性動物にまとわり続けてやがて魔物へと変質させる。
魔王は歩く。その分だけ霧が拡散し、魔物が増えていく。
どれだけ魔王が歩いたのか。どれだけ魔物が増えたのか。どれだけの人が犠牲になったのか。
長い長い時間が経ってから、一人の人間が魔王の前に立った。
女性だ。
それは過去の勇者。
古より続く、勇者と魔王の戦い。
魔王が現れ、魔物が世界中で暴れだし、勇者が選ばれ、苦難を乗り越えて勇者は魔王と対峙し、魔王を倒す。
それが、どれほど続いたか。
長い長い歴史をまるでその場にいるかのように見せつけられたミレイナ。
ふと気が付けば、彼女は小島に倒れ付していた。
起き上がると、体が異様に軽く感じた。力が有り余っている。
女神の紋章が熱を持ち、今まで習ったこともない知識が頭の中を流れた。
ミレイナは頭を押さえつつ、ふらりと歩き出した。
そのまま、水の上を歩き、見守っていた大神官たちの所へ戻った所で彼女は気を失った。
これこそ、勇者を生み出す儀式だった。
過去の勇者の記録を見せ、刻まれた勇者たちの技術を新たな勇者へ転写する。
ミレイナはこの時、勇者となったのだ。
見知らぬ部屋で目覚めたミレイナは、寝ぼけた頭で自分がどこにいるのか悩み、そして寝る前のことを思い出していき、恐怖で全身を震わせた。
脳裏には魔王の姿がはっきりと刻まれている。
おぞましい、人の形をしたなにか。
あれと、戦わなければならない。自分が。
窓からは暖かい日差しが差し込み、部屋の中は心地よいはずなのに、ミレイナは寒さに耐えるように自分自身を抱きしめる。
怖い。
あんなのと戦わなければいけないのか。
涙が溢れ、ミレイナは一人泣いた。
泣いて、泣きつかれて、また眠った。
再び目が覚めると、部屋が真っ暗で、けれど部屋の中の様子が手に取るように分かった。
部屋の中には灯りはない。カーテンはいつの間にか閉められていて、月明かりがある訳でもない。
──勇者の能力。
唐突に理解した。これは夜でも魔物と、魔王と戦えるようにと女神が与えた加護の一つ。
女神の紋章が熱を持っている。
目を閉じ、息を吐く。
すると、今までは静かだったのに、小さなざわめきが聞こえてくる。意識を集中すれば壁の向こうを歩く人間のことを感じ取れる。
息を吸う。微かにいい匂いがする。花の香り。
さらに女神の紋章が熱くなる。
ミレイナは祭壇で勇者として正式に認められ、過去の勇者の情報を転写され、今、それらがミレイナ用に最適化されている最中だった。
ただの村娘から、この世で唯一無二の存在へ。
女神の紋章が強く明滅すると、ミレイナの意識は遠退き、再び彼女は眠りについた。
──お眠りなさい。新たな愛し子よ。
最適化された勇者の力によって、ミレイナは触ったことも使ったこともない剣を、槍を、弓を、魔導術を、
達人ですら舌を巻くほどのレベルで使えるようになった。
勇者の鍛練ということで多くの人間が見学して、その圧倒的技量に感嘆の声をあげ、安堵した。
これほどの力があるのなら、魔王だって怖くない。
勇者様がきっとなんとかしてくれる。
離れていても、強化された聴覚がそういった声を拾ってしまう。
皆が勇者に期待している。
魔王はが存在しているだけで、ただでさえ凶暴な魔物がより一層凶暴化する。世界規模でだ。これを放置すれば多くの人の命が奪われてしまう。
魔王は倒さなければならない。
けれど魔王は通常の武器や魔導術では倒せない。
勇者だけが、魔王を倒せる唯一の存在だ。
だからこそ、流麗な剣技を披露し、百発百中の弓さばきを見せ、魔導術の多重発動などの高等技術を容易く習得する規格外の味方に、人々は熱狂した。
勇者! 勇者! 勇者! 勇者!
世界は勇者を求めている。
そこに、ミレイナという少女はいない。
自分の名はミレイナなのに、人々は勇者としか呼ばない。
ミレイナは勇者なのだから、それは正しいのだ。理屈の上では。これは感情の問題だ。
ミレイナは鍛練の後、身を清めてから一人になりたくて神殿の中にある小さな広場にやってきた。
祭壇に行き、勇者の力の最適化が済んでから彼女の周囲には常に人がいるようになり、気が休まることがなくなっていた。
朝起きればどうやっているのか知らないが、間髪入れずに世話係という女性神官たちがやってくる。まるで王公貴族のように着替えや身嗜みをやってくれる。食事も食べるのは一人で、ユークリッドとも会えない。周囲は神官たちがいたが、ミレイナの食事をじっと見ているだけで落ち着かない。鍛練をすれば観客が集まり、身を清めるのも女性神官たちがやると言って、自分のペースで出来ない。唯一安心できるのは寝る間際だけで、結局緊張から解放された反動で寝てしまう。
元々が村娘のミレイナは、そこまで我慢強い訳ではない。
だから、窮屈な生活に嫌気がさし、神官たちを振り切って神殿内をひた走った結果、建物が密集している区画の、その間にポツンとある陽当たりのいい小さなこの広場を見つけた。
それ以降、鍛練の後はここに来て、少しだけ一人になることにした。神殿側も把握していて、このくらいならと黙認していた。
ただ、この日はそこ先客がいた。
簡素なシャツにズボン、傍らには鞘に収まった剣を置き、地べたに胡座をかいて座っていた。目は閉じられていて、眉間に刻まれた皺が厳めしさに拍車をかけている。
せっかく見つけた静かな場所なのに、そこに現れた邪魔者に対してミレイナは憤った。
微かに漏れでた唸り声に男が目を開け、二人の視線がぶつかった。
男は何かに納得したように頷くと、
「勇者様か」
と呟いた。
それが、止めの一撃になってしまった。
溜まりに溜まった鬱憤は一人になることで本の少しだけ静まった。表面張力で膨らんでいた部分だけだが。
それが、せっかく見つけた自分だけの場所に堂々と侵入して、あまつさえミレイナを名前ではなく肩書きで呼んだ。
鬱憤が限界を超えた。
「わたしはミレイナっていう名前があるの!」
ミレイナは叫んだ。
そこからは聞くに耐えない罵詈雑言の嵐だ。冷静だったなら絶対に言わないような事がどんどん口から放たれていく。
大半の内容が男に言ってもしょうがない不平不満。
なのに男は静かにそれを聞いていた。時折相槌を打つこともあった。
どれほどたっただろうか。
ミレイナは溜まった物を全部吐き出した。順番もなにもない、脊髄反射のみ。勇者として強化された肺活量を存分に活用した、途切れることのない怒濤の口撃。
たいして疲れてもいないが、荒く大きい呼吸。
それもすぐに落ち着き、後悔が襲ってきた。
特に面識のない人間に向かって自分勝手な怒りを向けたのだ。なんと理不尽なことだろう。
謝らないと。でも……。
内心で葛藤しつつ、言葉にしようとしてもうまく喋れない。
「失礼した。俺はバルクだ。よろしく、ミレイナ」
「あ、はい」
厳めしい外見とは裏腹に、穏やかな口調で名乗られたので思わず返事をしてしまう。
それからすぐに、何が起こったのか理解した彼女は嬉しさのあまり踊り出したい気持ちになった。
目の前の男──バルクは彼女をミレイナと名前で呼んだのだ。勇者という肩書きではなく、きちんと一個人として対応してくれた。
それが、それだけの事が嬉しくて。
ミレイナは初めて嬉し泣きをした。