ー30ー
鼓動が加速しすぎて心臓が止まってしまいそうだ。
本気でそんなことを思いながらエアルは自分のために整えられている部屋に逃げ込んだ。
囁かれた言葉が、与えられた熱が離れない。
重ねられた唇の感触がまだ残っている。
それを追いかけるように無意識に唇を指でなぞってまた羞恥に悶える。
こんな夢みたいなことがあってもいいのだろうか。
確かに婚約の話が持ち上がった時にイヴェールはエアルを逃がす気はないと言った。
けれど、その言葉の意味を考えようとしたことはなかった。
どうして自分なんかをという思いが強すぎてそこまで頭が回っていなかったというのが正しいかもしれない。
そんなエアルをきっとイヴェールはずっと待っていてくれたのだと思う。
その上で猶予をくれた。
はじめて芽生えた感情をエアルのペースで育む時間をくれた。
エアルが同じだけの想いを返せるようになるその日まで。
甘やかされている。これ以上ないくらいに慈しまれ守られ――――愛されている。
知っていたはずだった。分かっていたはずだった。けれど、どこかぼんやりしていた。
それが鮮明になって胸の中に落ちてくる。
逃げ出してしまいたくなるくらいに恥ずかしくて嬉しくて、幸せすぎてどうして良いのか分からない。
分からないけど、もう逃げたりしない。
返せるものはまだ何もない。生まれたばかりの感情ではとても追いつかない。
それでも、もう誰にも譲れそうにない。
今の幸福を手放せそうにないから、覚悟をしましょう。
美しい姉やあの公爵令嬢に負けないように。
とは思ったのですが、やっぱり逃げてもいいですか。
だって甘い。イヴェールの視線が、纏う空気が、エアルに向けられるすべてが甘い。
「ねぇ、この甘ったるい空気どうにかならないの?」
「龍哉。お前はそろそろ空気を読むことを覚えなさい」
「ヤダ。」
「龍哉、イヴェールはこれでも抑えているんだぞ?
本当はエアルさんを片時も離したくな」
「母上!!」
流石にイヴェールが抗議の声を上げたが、侯爵夫人はきょとんと目を瞬いて「事実だろう?」と流す。
「あ、あの!私、お先に失礼します!!」
流石にこれ以上は耐えられない。羞恥に震えながらなんとか食事を終えたエアルは早々に席を立った。
当然のようにイヴェールも席を立ってエスコートを申し出る。
真っ赤になって瞳を潤ませて抗議の視線をイヴェールに向けたが、甘い笑みを向けられて諦めた。
夜風にあたりながら庭園を散策する。
ぼんやりとした灯りに照らされた庭をイヴェールに手を引かれなら歩く時間はとても特別なものに思えた。
「どこか行きたいところはないか?」
ピタリと足を止めたイヴェールの唐突な質問にエアルは目を瞬いた。
「うちに来てからほとんど外に出ていないだろう?」
そう言われればそうかもしれない。
侯爵夫人とのお茶会や静奈との勉強会という名の雑談、イヴェールたちへの差し入れ作り。
外に出なくても充実した時間を過ごしていたおかげで外に意識が向かなかった。
けれど、気になることがないわけではない。
「行きたいところがあるのですが……いいですか?」
おずおずと申し出たエアルにイヴェールは少しだけ驚いた顔をしたがすぐに了承してくれた。
隣で微苦笑混じりの「デートの誘いのつもりだったんだが……」というイヴェールの呟きに安心したように口元を緩めて花を愛でているエアルは気づかなかった。




