ー23ー
社交界デビュー以来の王宮をエアルは緊張した面持ちで見つめる。
姉や妹に連れ出されて参加していた夜会とは何もかもが違うこの場所で呑み込まれない自信がない。
既に怖気づいている自分に気付いて顔を歪める。
自然と俯くエアルの前に大きな手が差し出された。
「お手をどうぞ?」
ハッとして顔を上げると口の端を釣り上げたイヴェールと目があう。
おずおずと手を差し出すとすかさず大きな手に攫われて唇を寄せられた。
目を見開いてピシリと固まるエアルを夜闇の瞳がじっと見つめる。
その視線に何が起きたのかを理解させられてエアルは耳まで真っ赤に染めた。
文句を言おうにも何一つ言葉は出てこない。
口をパクパクさせることしかできないエアルにイヴェールはニヤリと笑って車から引っ張り出して腕の中に囲ってしまった。
「俺だけを見ていろ」
耳元で囁かれた言葉に上手く働かない頭でコクリと頷く。
それを確認してやんわりと解放されたエアルは集まる視線から守るようにアルセと龍哉が自分たちを待っていることに気付いた。
龍哉の目にはありありと呆れの色が浮かんでいたけれど珍しいことに文句を言わずに道を開ける。
そしてエアルの顔を見て口の端を釣り上げた。
「大丈夫そうだね」
「龍哉くん」
「そのまま笑ってなよ。貴女の武器はそれなんだから」
言葉の意味が分からずにきょとんとしたエアルに龍哉はチラリとイヴェールを見てニヤリと笑った。
「侯爵夫人の言葉」
返された答えにエアルは思わずイヴェールを見上げた。
先ほどの言葉もそういう意味だったのかと納得しかけたところでイヴェールの顔が苦々しく歪んでいることに気付く。
「イヴェール様?」
「……なんでもない」
ちっともそんなことなさそうな声色でそう呟いたイヴェールにエアルはますます首を傾げたくなったが無言で促されて足を動かす。
絢爛豪華なホールは既に人で溢れ返っていた。
イヴェールの姿を認めると同時に老若男女問わず群がられる。
それを手際よく捌いていくイヴェールの隣で龍哉の言うところの武器を浮かべつつ、イヴェールが必要だと判断した相手にだけ挨拶をする。
ひたすらにそれを繰り返しているとようやく陛下を筆頭に王族がお越しになられてホッと息を吐く。
けれどそれも一瞬ですぐさまエアルは次の試練を強いられることになった。
イヴェールに連れられて挨拶と婚約の報告をしに陛下の御前に罷り越す。
陛下から直接お言葉を賜るだけでエアルは緊張でどうにかなりそうなのにイヴェールは慇懃無礼な態度を崩さない。その上に王妃殿下と王太子殿下からの値踏みするような視線もグサグサと突き刺さっている。
エアルは引きつった笑みを浮かべながらこれさえ終われば今日の任務は終わりだと自分を奮い立たせてその時間を耐え抜いた。
婚約披露と言っても陛下への報告と夜の闇と繋がりがある貴族たちへのエアルの紹介さえしてしまえばそれでいい。
この国において特殊な位置づけにある夜闇の侯爵家において貴族の普通は当てはまらない。
初代のころは社交など必要がないくらいにあらゆるところと確固たる繋がりがあったし、それはそう簡単に揺らぐものではない。
特に6代目の双子の弟であるアルバが家を出て本格的に諜報活動に勤しむようになってからは彼の血筋の者が情報を操るようになった。それが今代にとってのアルセの父であり、イヴェールにとってのアルセだ。彼らによって国の内外問わずに張り巡らされた情報網は脈々と受け継がれ広げられている。この時代においてもわざわざ夜闇の侯爵自ら社交界に顔を出し情報を集める必要など全くない。
………というのは建前で侯爵家の人間は独占欲が強く単に美しく着飾った妻を他人の目に触れさせたくないので色々と理由をつけて社交をサボっているだけだという話を侯爵夫人から聞いた。夜闇の侯爵家に嫁ぐにあたって必要なのは度胸と諦めだというのが侯爵夫人の主張だ。
そもそもイヴェール自らが誰かをエスコートして会場入りすること自体、エアルがイヴェールにとって特別な存在だと知らしめることになるらしい。
曰く恋人(仮)がいた頃もエスコートすることも誰かに紹介することもなかったらしいのでそのご令嬢がどれだけイヴェールの恋人だと言い張ってみたところで周囲からは遊び相手としか認識されなかったらしい。
面白おかしく話してくれる侯爵夫人やアルセの話を聞けば聞くほど今と違いすぎてそれは本当にイヴェールの話なのかと疑わずにはいられない。
現実逃避よろしくそんなことを考えていたのがいけなかったのか、気づいた時にはニヤリと笑った陛下がすっくと立ちあがり、声高らかにイヴェールとエアルの婚約を認めると宣言していた。
ご令嬢たちの悲鳴が響き渡る。
ギロリと陛下を睨みつけたイヴェールの隣でエアルは呆然と視線の嵐を受け止めた。
向けられる視線の割合は好意的ではないもののほうが圧倒的に多い。視線だけで人が殺せるならばエアルはとっくに死んでいるだろう。
下がりそうな足を堪えるので精一杯だ。
「まったくもって予想外だが、悪くはないな」
「イヴェールさま……?」
俯きがちだった顔を上げると細められた夜を溶かした瞳と目があった。
陛下を睨み付けていたのは幻かと思うほどに機嫌がよさそうなイヴェールにエアルはパチリと目を瞬く。
「この会場の誰よりも美しい華が俺のものだと陛下自ら宣言してくださったんだ。
これ以上ない祝福だ」
意地の悪い笑みを浮かべながら紡がれる言葉にエアルはますます目を丸くした。
そしてその意味を理解すると頬に朱が走る。
違う意味で俯きたくなったエアルに追い打ちをかけるようにイヴェールが囁いた。
「もう逃げられない。貴女は俺のものだ」
逃げるエアルの視線をしっかりとらえて獰猛に笑ったイヴェールにいつかの日を思い出して微かに口元を綻ばせた。
「逃げたりしません。
それに、逃がしてなんてくださらないのでしょう?」
あの日、イヴェールが強引に婚約を取り付けた時も同じ顔でエアルに逃がす気はないと宣言した。
あの時はどうにか回避できないものかと頭を悩ませたけれど、今は逃げる気なんて微塵も起きない。
驚くほどの心境の変化の過程にはエアルに心を砕いてくれるイヴェールの姿があった。
大切にされている。守られている。自惚れなんかじゃなく心からそう思える。
だから自分からも歩み寄ろうと思った。
もっと近づきたいと思った。
そして、イヴェールの帰る場所になりたいと思った。
小さな声で返した答えに少しだけ驚いてから満足そうな顔で笑うイヴェールを見つめてエアルも自然と微笑んだ。




