ー10ー
侯爵家で過ごした時間はエアルにとってとても楽しいものだった。
侯爵家の人々はみんなあたたかくて優しく、談話室で会った龍哉という少年もふてぶてしい態度とは裏腹にイヴェールにとても懐いていて、エアルにも友好的だった。
なによりも彼のおかげでイヴェールの新たな一面も見ることができたし、イヴェールとの距離も少しだけ近づいた。
「随分とご機嫌ね?」
「お姉様」
「すぐ飽きられて捨てられるのがオチよ。現実を見なさい。
お前が彼に釣り合うわけがないじゃない」
「それは、」
そうかもしれない。
確かに自分ではイヴェールに釣り合わない。
楽しかった気持ちが急激にしぼんでいく。
社交からだって逃げてきたし、容姿だって平凡だ。
イヴェールから与えられるばかりで、返せるものをエアルは何一つ持っていない。
姉のように美貌や話術があるわけじゃない、妹のようにいるだけで空気を明るくできる天真爛漫さもない。
「気づいたのならすべきことは分かるわよね?」
クスクス笑う姉にエアルはきゅっと唇を噛んで俯く。
姉の言っていることは正しい。
父はこの縁談を逃してはならないと言うけれど、家のことを考えるとそう思うけれど、でも自分が嫁ぐことでイヴェールにプラスに働くことはあるのだろうか。
目に見えるものも見えないものも与えられるばかりで返せるものがエアルにあるとは思えない。それはこれから先だってきっと変わらない。
「分かったなら、すぐイヴェール様に手紙を書きなさい」
だけど。
「……いや、です。」
「エアル?今、なんと言ったの?」
俯いていた顔を上げて、真っすぐに姉を見据える。
姉の眉が跳ねた。
「嫌です。いくらお姉様のお言葉でも従えません」
「お前がそんなに愚かだとは思わなかったわ。
私の言うことが分からないの?」
「お姉様のおっしゃることは分かります。正しいとも思います。
でも、だけど……イヴェール様は私をご自分が選んだ婚約者だとおっしゃってくださいました。
だから、イヴェール様がこの婚約を解消したいとおっしゃらない限り私からこの婚約を解消することはありません」
見据えた姉の顔が一瞬で赤く染まる。
そして振り上げられた手が勢いよくエアルの頬を叩いた。
よろけるほどの勢いで振り下ろされた手にキュッと目を閉じて耐える。
焼けるような痛みが頬に走り、思わず手で押さえる。
「おねえさま、」
エアルの弱弱しい声に憎悪の視線が返される。
「どうしてお前なんかが……!
私のどこがお前に劣ると言うの!?
私の方がずっとふさわしいのに!ずっとずっと……!!」
「お姉様?どうしたの?そんなに騒いで」
「マノン……」
「エアル姉様!?その頬どうしたの!?まさかミーシャ姉様……」
「泥棒猫に罰を与えただけよ。
このくらいじゃ足りないみたいだけれどね」
酷薄に笑う姉をその瞳が零れそうなほど目を見開いて凝視する。
驚いたのはエアルだけではなかったようで妹も信じられないという顔で姉を見ていた。
「ミーシャ姉様……」
「マノン、まさかソレを庇ったりしないわよね?」
「、姉さま、もう行きましょう?」
「ふふふ、そうね。同じ空気を吸っていると思うだけで気分が悪いもの」
ちらちらとエアルを振り返りながらもミーシャと連れたって去っていくマノンを呆然と見送る。
頬に涙が伝った。
どうして、どうしてこんなことになったのだろう。
姉の言う通りイヴェールに手紙を書けばよかった?
そして婚約を取りやめて貰えばよかった?
でも、だけど、それは、嫌だった。どうしても嫌だった。
彼の信頼を自分の都合で裏切りたくなかった。
誠実にエアルと向き合い接してくれているイヴェールを裏切るのは嫌だった。
ふらふらと自室に戻ってベッドに倒れ込む。
ポロポロとこぼれる涙は止まらない。
痛かった。
叩かれた頬よりも心がずっと。
痛くて、苦しくて、悲しくて。
何故かイヴェールに会いたくなった。
翌朝、エアルは母に呼び出された。
父は相変わらず仕事と称して他の女に会いに行っているらしい。
泣き腫らした目を化粧で誤魔化して母の元へと向かう。
エアルを迎え入れた母はまだ昨日姉に叩かれた頬を痛まし気にそっと撫でてエアルを抱きしめた。
「お母様、」
昨日散々泣いたはずなのにまた涙が溢れそうになる。
「エアル、この家を出なさい」
ゆっくり体を離して、真剣にエアルの顔を覗き込んだ母の言葉にエアルは頭が真っ白になった。
「おかあ、さま……?」
「お兄様に手紙を書いたわ。
あちらでお世話になりなさい。
その方が花嫁修業もできていいわ」
「お母様!!!」
私を、捨てるのですか。
私を、追い出すのですか。
そう詰りそうになるのをぐっと堪えてエアルは母の顔を見つめる。
「貴女が悪くないのは分かっている。
この度の婚約もとても喜ばしいわ。
だけど、このままだとミーシャが貴女に何をするか分からない。
これ以上、姉妹で傷つけあって欲しくないのよ」
その言葉にエアルは泣きそうな顔で頷いた。
まさかと思いたかった。だけど、昨日のことがある。
あんなに優しかった姉が自分の頬を張り、泥棒猫とまで罵った。
「ごめんなさい。エアル。
だけど、私はこうすることでしか貴女たちを守れない」
「、分かっています。ありがとうございます。お母様」
やるせない気持ちでいっぱいだった。
どうしようもない気持ちが溢れて涙にかわる。
流れる涙を拭うこともせずにエアルは最低限の荷物と母から預かった手紙をもって家を出た。




