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牝猫(Pussy cat)

よろしくお願いします。

 1月中旬、すでに新春を迎えているのに、どんより曇った雪空が凍てつく寒さで大地を支配する。


「チェッ、また雪が降りそうだぜ。冬なんて来なければいいのに」


 俺は冬が嫌いだ。幼少時の忌まわしい記憶を蘇らせるから。そう、雪が降りしきる中、母の迎えを待ち続けていたあの寒い日の夕刻を……。



 年長組だった正月明けのある日、いつものようにパートを終えた母が保育園に迎えに来るはずだった。他の園児のお迎えがひとしきり終わり幼児特有の嬌声が消え去っても、待ちぼうけを喰らわされたまま玄関口で、容赦なく天から落ちて来る白い半固体を眺め続けていた。あの日、俺の人生は完全に狂わされたのだ。



 結局、母親は現れなかった。待ち続けてから二時間程が経ってから先生たちが騒ぎ始め、園長先生まで出張って来たが連絡がつかなかった。その日を境に母親は俺の視界から姿を消した。俺を置き去りにして失踪したのだ。



 蜂の巣をつついたような大騒ぎになったことは幼心にも記憶している。元々駆け落ち同然だった両親は結婚直後よりそれぞれの実家から冷たくされていたらしく、俺が生まれて直ぐ父が病死して、母子家庭の生活は極めて苦しいものだったそうだ。母方の両親はまだ五十代の時交通事故で没しており、父方の実家は俺の引き取りを拒否したと聞かされた。あんな女の子供はいらないと。全てあとから知ったことだけど……。



 市役所の人なども間に入って大人たちが相談した結果、捨てられた俺は保育園に併設している「慈愛園(じあいえん)」と言う養護施設に入れられた。公立の工業高校を卒業するまでをそこで過ごした。施設はイカレた奴もそれなりに居たが、今では身長が百八十センチもある俺は、小さい頃から大き目のガタイだったのでイジメられることは無かった。


 かと言って、争い事が無かったわけではない。二つ年下の典子(のりこ)と言う猫の目をした女子になつかれていたが、こいつは思ったことを我慢しないので、よく子供同士の揉め事を起こした。ヤバくなると決まってデカい俺の背に隠れやがるので争いはそこで終わるのだが、あとから先生たちに事情聴取されるのが苦痛だった。


 園長先生を始め職員の人は親切で親身だった。卒園した今でも感謝している。


 施設で面倒を見てもらえるのは高校卒業までというルールがある。わかり切っていたことなので、進学の話が出た時から工業高校に進路を決めていた。そのまま学校推薦を貰い地元の大手自動車メーカーの下請け工場に就職した。



 二年間は必死に金を貯めた。寮暮らしだったので薄給でも節約していればそれなりに貯められる。でも、そこに長居するつもりは無かった。


 やっぱり俺は施設の出身だし、呑気に車をイジって過ごすことなど叶わないと知っていたからだ。




 就職して三年目の春に郊外のボロアパートを借りた。俺はこの時をジッと待っていた。未成年ではアパートを借りることもままならなかったからだ。


 保証人は園長先生にお願いした。本当は誰にも頼りたくなかったけど、社会のルールが容赦なく立ちはだかって来るのだ。成人したからといって全てが一人前に扱われるわけではない。身内がいない俺には当たり前のことが壁になることも有った。


 それでも安アパートで新生活が始められたし、十年落ちの車も購入した。住居を郊外にしたのは少しでも家賃が安く済むのが理由だった。ボロヴィッツもこの地方都市では移動に不可欠だからだ。




 古い木造二階建ての「南風荘」での暮らしが始まって一ヶ月が経った頃、簡素な家具以外何も無い殺風景な空間のシングルベッドで寝転がっていた時だった。


 トントン、トントンとドアが二回ノックされる。音はダダ聞こえだが面倒なので最初は無視していた。でも、ノックが執拗に続くのでNHKの集金かと思い玄関ドアに向かった。いつの間にか外は雨模様になっている。


「ハイ」と言って薄っぺらいドアを開けたら、濡れネズミのような惨めな格好で小川典子(おがわのりこ)が立っていた。


「典子、何やってんだよ!とにかく中へ入れ!お前って相変わらずムチャクチャだな」


 バスタオルを放ってやると、典子は頭から被るようにズブ濡れの髪をゴシゴシと拭った。服だけはスポーツバッグに詰めて持って来ていたので脱衣所で着替えさせた。戻って来た彼女を座布団に座らせ、インスタントのコーヒーを入れて白い茶ぶ台の前に置いてやった。


「それを飲んで少し温まりなよ。いくら春とは言え風邪引いちゃうぜ」


「ありがとう。やっぱり(こう)だけはいつも私の味方だね。でもこれ、インスタントでマズイなあ」


「あのなあ、いきなり押し掛けて来て贅沢言ってんじゃねえよ!だいたいお前、傘も持ってないのか?それと、何でここがわかったんだ?」


「三月末に洸が「慈愛園」に来たの見てたから。先生があなたを見送ってる間に園長室に入って、机の上に置いてあった書類を見たの。そこで住所とアパート名をメモっといたわけ。いつか役に立つかもと思ってね」


「いつかって、まだ一ヶ月しか経ってないじゃん。典子だってちゃんと就職したんだろ?化粧品の販売会社だって園長先生が言ってたぞ」


 彼女は罰が悪そうにうつむいたまま、消え入りそうな声で答えた。


「もう辞めたわ。初日から先輩にネチネチやられちゃって。やっぱり施設の出だから色メガネで見られちゃうのよ。親もいないくせに生意気だってね。ムカついたので先輩の頬を引っぱたいて「責任取って今直ぐ辞めます!」って言ってやったの」


 俺はとっくにイヤな予感がしていた。次の言葉をためらわす程に。


「お前は責任の意味がわかってない。施設を言い訳に使うな。まあ、やっちまったことはしょうがないんだけど……。それで今はどうしてるんだ?職無し宿無しなんて言うなよ」


 典子はクスッと笑ってから牝猫の目を向けて来やがる。


「エヘヘ、やっぱり洸ってものわかりがいいよね。昔から頭良かったし、いつも私を助けてくれただけあるわ」


「思った通りだ。まさか勝手に俺を当てにして辞めたんじゃないだろうな。典子、ここはダメだぞ!女と一緒に住む予定なんだからな」


「嘘ッ!何処にも女の人の痕跡なんて無いじゃない。一週間程友達の家を泊まり歩いてたから行くところが無いのよ。お願い!洸に放り出されたら、もう身体売るしかないんだもん」


 典子が肩に掛けたままのバスタオルを引っぺがし、氷点下の眼差しのまま顔を近づけた。思い掛けない俺の視線に、肌寒さのせいもあってか小刻みに震えていやがる。


「じゃあ、売りに行こうぜ。若さだけが取り柄のクソビッチの身体とやらを。ソープ街まで行って値をつけてもらおうじゃないか。付き合ってやるぜ」


 牝猫は小狭い部屋の片隅に張り付いたまま動こうとしない。クリッとした二重瞼がピクピク動いている。涙が溢れ出すのは時間の問題だ。


 俺はソッポを向きながら吐き捨てた。


「昔のよしみで今夜だけは泊めてやる。でも、明日になったら必ず出て行け!俺が仕事に行ってる間に消え去ってろ!二度と俺の視界に姿を現すんじゃねえ!」


 典子は仕方なくうなずいた。それでも今夜の宿が確保出来たのが嬉しいのか、ニッコリ笑って擦り寄って来やがる。


「ありがとう。ねえ、私、洸とならシてもいいよ。ずっと好きだったもん。男のくせに色白でキレイな顔してるしね」


「うるせえ!そんなことくらいで世の中渡って行けるかよ。典子は親と死別して身寄りが無かったから施設に入ったんだけど、俺は母親に捨てられたんだぞ!お前にわかるか!?この悔しさと邪魔者だった哀しさが」



 俺は男のくせに母親譲りの顔が嫌いだった。毎朝鏡を見る度に忌まわしい過去を呼び起こさせる自分の顔が……。



 久し振りに感情が昂ぶった反動でドッと疲れが出た。心が疲れた。



 夕方、牝猫を連れてスーパーへ買い物に行った。一人分の食材しか買ってなかったし、朝食用の食パンも買いたかったからだ。典子は嬉しそうにカートを押しながら店内を歩き回った。まるで若夫婦気取りでいやがる。でも、その笑顔は確かに心地良いものではあった。



 アパートに戻って夕食の支度に掛かる。調理は典子がやったが大したものは出来ない。調理器具だって粗末な物しかないし、食器だって茶碗と湯呑みは一人分しかない。


 貰い物の皿が数枚有るのでハンバーグと野菜サラダを盛り付けた。牝猫には牛丼を買った時に付いてきた割り箸を渡してやる。


「私用の食器も買って来れば良かったね。ねえ洸、私と一緒に暮らそうよォ。その方があなたにも好都合だと思うわよ。食事の用意はもちろんのこと、掃除とかお洗濯もしてあげるしね。もちろん私もバイトくらいはするよ。洸に養ってもらおうと甘えてるんじゃないの」


「典子は充分に甘えてるよ。平気で俺の日常をブチ壊しやがって!まあ、思いのまま実行に移せるお前のバカさ加減が羨ましいのも本当だけどね」



 チープな晩餐を終え典子が洗い物をしてる間に、俺は風呂にお湯を張り始めた。茶ぶ台の前に座ってテレビニュースを見ていると、牝猫が俺専用のマグカップにインスタントコーヒーを入れて持って来た。


「何で俺の分だけなの?カップくらい他にも有っただろ?」


「バカね。一つを一緒に飲むのよ。洸って本当はやさしいくせに、時々冷たくあしらうのよね。そんな時のあなたはすごく怖いわ。アイス・ボーイだって思い知らされるもの」


 俺は熱いコーヒーを一口だけ啜って典子に渡してやった。牝猫はマグカップを両手で抱え込んで少しずつ飲み始めた。それを見てから無愛想に立ち上がって浴室へ向かった。



 風呂から上がって缶ビールのプルトップを開ける。プシュッという音と共に充填されていた窒素ガスが抜け、麦芽の香りがほのかに漂う。本来は静かに注いで飲むべきだがグラスを持ってくるのが面倒くさい。缶のままだと炭酸が強過ぎて一気に飲めないけど不都合は感じない。



 傍らにビール缶を置いてノーパソを開きネットニュースを見ていたら、風呂から出て来た牝猫に横からかすめ取られた。


「お前なあ、未成年のくせに堂々と飲んでんじゃねえよ!ホントに典子はいつでも俺の欲しいものを持って行っちまいやがる」


「いいじゃない。ビールくらいケチケチしないで。洸の欲しいものが私の欲しいものなの。わかってる?それより、お風呂上がりの私を見て何も感じないの?ちょっとおかしいわよ」


「うるせえ!ガキのくせにいっぱしの口利いてんじゃねえぞ!とにかく今夜はベッドで寝ろ。俺はフロアで布団を被って寝るから」


「えーッ!嘘でしょォ!?せっかく洸に抱いてもらえると思ってたのに。何でそこまで頑なに拒むわけ?私と寝たい男なんていっぱいいるのよ」


 頬を膨らませ典子は仏頂面を見せやがる。


「じゃあ、そいつらと寝て来いよ。俺はお前に欲情などしない。施設で育った同士だとは思ってるけど、それ以上の存在じゃないんだ」


「ひどいなあ。私にだってプライドは有るのよ。洸じゃなかったらホントにブチ切れてるわ」


 典子が怒ったところで全然動じない。実際俺はこの野良猫の追い出し方を考えていた。



 午後10時を過ぎた頃、典子に「早く寝ろ!」と言ってベッドに追い立てた。「えっ?まだ10時だよ」と返されたが取り付く島を持たせなかった。



 工場勤務の朝は早い。明日からまた労働の一週間が始まる。連休で身体がなまっているので最初が肝心なのだ。ペースに乗ってしまえば身体に染みついているライン作業は難なくこなして行ける。


読んで下さりありがとうございます。

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