画面の向こうに住む彼女。
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1.
ジリリリリリリリ、と大きめの音のアラームが、がらんとした部屋に響く。
「おはよう、もう七時だよ。右京くん。今起きないとまた遅刻しちゃうってば」
んん、と心もとない返事をして、気だるい体を重力に抵抗させ、ゆっくりと起こしたのに、
重い瞼は起きた体について来ない。起こした体のまま寝そうな僕に、彼女は言った。
「もー、はやく、起きないと、ご飯食べる時間なくなっちゃう」
朝ごはんをもっとも愛する僕は、その言葉で目が少し開いた。
「確か、昨日の残りあるよね。お鍋にさ」
実家から持ってきた鍋に火をかけ、顔を洗ったあと、
洗ったのに覚めない惚けた顔で、温まった昨日の残り物を口にしている。
無意識につけたテレビのニュースから聞こえてくる言のは、非現実的な感覚がした。
昔は好きだった。いろんなことを知ることが。知識を得ることで自分の空隙を満たしていくことが。
知識は僕の体になれないのに、空隙が満たされていくような気がしていた。
至って、それは僕の中でしか役に立たず、僕の外に出た時にはまるで意味を成さなかったけれど。
「何辛気臭い顔してんの、ほら、準備。準備して」
母親のようなお説教に、わかった、わかったからと、反射的に体が動く。
寝癖直しや歯磨きなどをまだぼーっとした覚束無い手つきで済ませ、
シャツに暖かなカーディガンを羽織り、元の群青色が落ちるほどに履いたジーンズに脚を通す。
黒い冬用のコートを羽織って、お気に入りのマフラーで首を一周覆って後ろで結ぶ。
いってきます、と、テーブルの上にあるスマホをジーンズのポケットに入れて、家を出る。
大学までの道のりは、いつものように左耳にだけイヤホンをする。
僕は右目の視力が低いし、右耳も聞こえにくい。右半身は微量な麻痺がある。
皮肉なものだ。名前は右に重きを置いたようで、実際の僕の右は重りが付いたようで。
だから彼女は、僕の右半身でいたいと、いつも右側に居るのだ。
「最近、左右のポケット、間違えなくなったね」
そりゃあそうだ。誰だって、5回くらい言われたら、
スマホをどちらのポケットに入れるかなんて、間違えるようなことはないだろう。
寒さに震えてポケットに手を入れると、熱を持った彼女の少し暖かい感覚が、
寒い冬との対比をなして、外気に晒されている僕の顔がより冷たいような気がした。
暖かな駅構内に入り、いつもの改札を砂時計の様にさらさらと人が流れていくのが見えたころ、
ポケットの中の熱が、冷えていくのがわかった。
電車に乗って、大学近くの駅で降りた。やがて、ポケットの熱が戻り出す。
今日は冷えるね、なんて会話をしている同じ大学と思われる人ごみが、僕の前を通りすぎる。
ふるいにかけられた細かい土のように、人ごみはさらっと大きな粒子の僕を残して消えてゆく。
僕は人ごみがとても苦手になったから、すっと人が少なくなったとき、毎朝駅を出ていた。
見慣れた景色の遊歩道を通って、大学につくと、左肘をついて、気だるそうに講義を聞いた。
こちらを見る教授と目が合う。昔と変わった僕の授業態度に、教授は何も言わない。
ポケットから真剣に聞きなよ、と聞こえたような気がした。
もう埋まることのない空隙を、埋めるようにして
がらんどうになった僕の一部に 知識を嵌めるようにして
僕は 講義を受けていた。
―――それでは、今日は、ここまでにしとこうかな。
と言う声を皮切りに、講義室のイスががたん、がたんと音を立て始め、騒がしい音で埋まる。
その喧騒から逃げるように急いで大学から出た。帰り道、駅までぼちぼち歩みを進める。
ふと顔を挙げると、目の前で手を繋ぐ、幸せそうなカップルが、僕の歩みを止めた。
僕のポケットも、同じことを思ったのだろうか。歩みを止めた僕に、何か言うことはしなかった。
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2.
遡ること3ヶ月ほど前だろうか。僕と彼女が、大学に行くために電車に乗っている最中だった。
JRの四人がけのボックス席に、彼女と座っていた。彼女は通路側の方、僕がその斜め向かいの窓際の席。
こちらを向いて楽しそうに話す彼女の顔が、窓の方を一瞬、横目で見た時だった。彼女の顔に、似つかわしくない色が広がる。
透き通った水面に、藍色を1滴垂らしたように。滴定点の一点からやがて、彼女の綺麗な顔を青い絵具が覆った。
異変を感じて窓を見た僕は、外の風景が何かで塞がれていたのが見えたのだ。
見慣れたようで見慣れない、
コンテナのような外壁が、
僕たちを引き寄せるように近づいてくる。
気がついてからは一瞬だった。白い光が僕の脳から、足の爪先まで突き抜ける。
薄れゆく意識の中で、ここにあるはずのない彼女の手の感触が、僕の右側に確かにあった。
それがどういうことなのか、考える時間さえなかった。
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3.
目を覚ました僕が最初に見たのは、白い天井だった。嫌になるほど綺麗な白だった。
咄嗟に僕の右側に庇うように入り込んだ彼女のおかげで、皮肉にも、僕だけが無事だった。
ただ、右半身がうまく動かなくなった。僕の右側で彼女が死んだことは、僕の右側を動かなくした。
事態を飲み込むことが難しかった。
悲しいとか、哀しいとか、そういった気持ちで端的に表せるものではなかった。
人が死ぬ、ということはどこか遠い話だと思っていた。泣くという行動で表現できる気持ちだと思っていた。
体感してわかる。これはそんな簡単なものじゃない。
年齢の差、距離の離れ具合、言語の壁、そういった実感できるような遠さとは全く違っていて、
ああ、もう、いないのだ、しかたないのだと、空の頭に響く言葉が、痛いほど頭に刺さる。
人がいなくなるということを体感したのは2回目だ。
3歳くらいだっただろうか。その頃にはもう、母はいなかった。
生まれた時には既に父はいなくて、段々とやつれていた母は、
僕を母方の実家に預けると、ふいに行方を眩ませた。
2つ上で、僕の実家のとなりの、眩いオレンジの屋根の家に住んでいる彼女は、
ずっと小さい頃から、僕の母親替わりをしてくれていた。
そんな彼女の死を、受け入れることは僕には難しかった。
ほどなくして僕は、土のようになった。
僕を形成していた少し水分を含んだ粒子のような物が、
一気に乾いて、僕を形作ることをしなくなる。
今までは水が粒子同士をくっつけていたのだ。
彼女がするりと、ばらばらになりそうな僕の間と間を縫うように繋げていたから。
適度に飽和した状態で、僕は僕を保っていた。
乾いた粘土は水が必要だ。乾いたままでは、形作るなんて遠い話だから。
水分の抜け落ちた僕は、空隙で有り余っている。
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4.
それほどまでに、彼女の死は僕にとって、受け入れたくない真実だ。
幼稚園にいくとき、小学校に行くとき、彼女は一緒だった。
彼女が中学校に入って、僕が二年後に追いついた時、彼女は僕の隣を歩いた。
高校も同じところを選んで、ほどなくして彼女は大学に行くために、上京した。
離れ離れになったが、少し背伸びをして彼女を追って同じ大学に入学した。
本当に、家族より大きな存在だった。彼女の背中は広かった。安心感に足が生えて歩いているような人だった。
彼女の人生は流れ星が尾を引くようで、僕はその尾をずっと追いかけていた。
それがないいまの僕は、支えを失った立て看板とか、
遠心力の伝わらない独楽とか、
星の消えた世界の天文学者とか、
漕ぐ人のいないブランコのような、それと同じだ。
リハビリを終えて退院した僕は、二人で住んでいた家の、自分の部屋から出られなくなった。
縋るように探していた。彼女の生きた証を、歩いていた足跡を。
彼女が生きていたときの形が欲しかった。彼女の感触がもうないことは、僕が痛いほど分かっていた。
悔しくて、つらくて、どうしていいかわからない、もどかしさが声になりそうな、その時だった。
「右京くん、右京くん」
僕はハっとなって、顔を上げた。
急いで声のするリビングに戻った。テーブルにあったスマホの画面には、
紛れもない彼女の姿が、美しい輪郭線のまま写っている。
バッとスマホを手にとった。
「―――落ち着いて。落ち着いて聞いてね」
―落ち着けるわけないじゃないか。
「私、あの事故が起きてからずっとここにいたんだと思う。君のスマホの中。
理由はわからない。けれど、私は確かに意思を持っていて、
お腹はすかないし、眠くもならないけど、こうして自分の意志で、今、この瞬間、きみと会話してるの。」
―涙が止まらなかった。僕だって、話したいことはまだ沢山ある。
「そんな顔しないでよ。まだきみと話したいことが、私にはたくさんあったんだから。
こうして話せること、すごくすごく待ってたんだよ」
―画面にこぼれ落ちる水滴が止まらない。
彼女がいる画面のすぐ横に、「5/100」という数字が見えた。これはなんだろうか。
少し間を空けて、
「ごめんね、僕は、君を死なせてしまった、男の子だから、僕が守らなきゃいけないのに」
「あなたが生きてて良かったよ。まだ一緒に居たかったけれど、あそこで君が死んでいて、
私が君を守れていなかったとしたら、それこそ私は、自分の手で自らの命を絶つかも知れないもの」
彼女はクスっと笑みを浮かべ、そう言った。涙はまだ止まらない。
色々と状況を聞くと彼女はどうやら、インカメラから見える範囲で、現実の世界を見ることが出来るらしい。
彼女は題名のないハートのマークのアイコンのアプリの中に居た。それを起動することで、
僕と会話をしたり、現実の世界を見たりすることが出来るらしい。
アラームの機能に介入したり、音楽のアプリで曲を聴くと彼女にも聞こえるらしく、
そういった形でほかのアプリと連携するハートのアプリを起動したときは、必ず彼女が好きだった曲を流していた。
彼女はもういないのに。
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5.
それから、僕は一人でいろんなところへ行った。
遊園地、カフェ、海までのサイクリング、さらには温泉旅行。
もちろん、彼女が生きているスマホを連れて。
彼女は元々よく笑う人だったが、今までにない遊びのラッシュに、いつもよりよく笑っていたと思う。
お気に入りなのは以外にもサイクリングらしい。スマホから見る流れる景色は、逆方向に新鮮なようだ。
それでも流石にジェットコースターは不評だった。はやい、きつい、きついと叫んでいて、左耳にしていた、
イヤホンがとてもうるさかった覚えがある。コーヒーカップもダメだった。
こんな形でも、二人で乗った観覧車からの眺めはとても綺麗だった。彼女も喜んでいたようだった。
暖かな科学的な電灯の色が、文学的に僕たちの心をあたためてくれる。とても充実していたように思う。
そんなよく笑う彼女を見て、彼女の横にある数字が目に留まる。
アプリの数字は97/100になっていた。これが何を意味するのか、およよその検討はついていた。
それと同時に、僕は選択を迫られていることに気づいた。
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6.
カップルを見て止まった足を動かして、俯きながら駅までの歩みを再開した。
僕はなるべくポケットに手を入れて歩いている。ポケットの中の彼女に、触れていたいから。
ただ、それは現実のものではない。スマホの中に彼女がいるとはいえ、彼女は現実のものじゃない。
目の前を歩くカップルに、それを突きつけられたようで、彼女が死んだ時の窓が、ふと頭の端をかすめた。
目の前で繋がれている手の感触。隣を歩く感覚。キスの味。そういったものを手に入れる幸せ。
今の僕に、それほど疎ましいものはなかった。
人ごみは嫌いだ。愛し合う二人が多いから。
それには手が届かないことを、いやと言う程思い知らされる。
暗い気分を拭えぬまま、自宅に着いてしまった。
スマホを取り出しアプリを起動して、彼女は現世をその目に宿した。
「なんでそんな暗い顔をしているの?なにかあった?大丈夫?」
「旅行に行った日からずっと変だよ、右京くん」
―――気がついたら、目が涙で溢れていた。
生きていた頃は、心配してくれた後、しなやかな手がよく僕の頭を撫でていた。
その感触をもう一度味わいたかった。
もう一度抱きしめたかった。
キスだってしたかった。
画面の向こうの彼女を見る。いつになく辛そうな顔をしていた。
触れないのだ。
こんなに近くにいるのに。
触れることさえできないのだ。
画面に触っても、それは彼女ではなくて、画面でしかないから。
それでも、こうして彼女とコミュニケーションを取れることに、僕は依存してしまっていた。
旅行を境に僕は笑うことをやめた。
彼女を楽しませることもやめた。
笑うと彼女は消えてしまうから。
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7.
彼女の横にある数字は、おそらくこのアプリが消えるまでのカウントダウンだ。
お互いが幸せと感じたとき、その数字が前に進む。
僕がスマホを連れて出かけていたとき、
彼女が笑うとよく数字が増えていたから。
僕が笑うと数字が増えていたから。
100/100になったとき、おそらく彼女は未練なく、このアプリごと姿を消す。
僕はずっと葛藤していた。残りの数字は3。おそらくあっという間だ。
その区間で、僕は彼女の消失を受け入れられるほど、強くはない。
あともう少しだけ、もう少しだけ。
そう思って、ずるずると引き伸ばしていた。残り3%の幸せを放棄して、
触れられない彼女の声を聞くたび、胸がきゅうっと締め付けられて、圧迫されて、
彼女が死んでからスマホに現れるまでの空虚な弱い自分が、残り3歩の道を塞ぐ。
彼女が未練なくこのスマホから消えることが、彼女にとっての幸せなのに。
このままお互い笑わずに終えても、彼女の望む未来じゃない。彼女はいつだって、綺麗だったから。
笑った顔が、何よりも綺麗だから。
いつかお別れしなくてはいけない。嫌というほどわかっているのに、
それでも、
あと一日、
あと一日。
残り3歩が進めず、今。
「ねえ」
彼女が口を開いた。
おそらく、別れの時は近い。
葛藤を重ねる不誠実な僕には、その声を聞くことしかできない。
「うん」
「好きだよ、君のこと、とても」
「でもね」
「そんな顔をされると」
「いつまでも母親でいなくちゃいけないじゃない」
ごめんね、と申し訳なく思う。今に至るまでずっと母親だったから。
「私は君の子供の母親にはなりたいけれど」
「君の母親にはなりたくないんだ」
「昔から、昔から、私の後ろ3歩を付いてくるきみが、すごくすごく愛おしかった」
「弱いくせに私を守るヒーローになりたがるところとか」
「努力を人に見せないところとか」
「大学に入って、すこし大人っぽくなったきみを見たときとか」
「すごく胸がドキドキした。段々ときみは大人になってきて、昔のように思えなかった」
「それが恋だと知ったのが遅かったんだ」
「後悔しているよ、とても」
「生きている間に君に恋をして、抱きしめてもらって、キスをして、結婚して」
「そういうことが出来たらいいのにって、ずっと、ずっと、ここで考えて」
「すごく悲しくなったんだ。泣いちゃダメだって思ってるのに、そろそろお別れなのは私も気づいてたよ」
画面の向こうで彼女は泣いていた。
「それでね、えっと」
「こういうことにならないように、いつか君に好きな人が出来たら」
「後悔しないようにするんだよ、絶対ね」
「もう遅いよ」
僕はやっと口を開く。
「僕も、君が好きだった、ずっと、ずっと、ずっと好きだった」
ひと呼吸置いて、
「この距離に居て触れられないことがすごくすごく悲しくて、つらくて、男の僕は強くなくちゃいけないのに」
「いいんだよ。きみはそれでいいの。そういうところも好きなんだよ」
「でも」
「いいの。男の人が泣いちゃいけないなんて、誰が決めたの。もし泣いちゃいけないなら、男の人から涙は出ないよ」
「それもそうだ」
クスっと笑いがこぼれた。彼女もやさしい目をしていた。
長らく話していたスマホに視線を落とすと、数字は99になっていた。
「そろそろお別れの時間だね」彼女は言う。
「君もその数字、見えていたんだね」
「まあね。私は入ったとき、ここの管理人みたいな、天使みたいな人に教えてもらったよ」
「天使かあ。天国だといいね」
「地獄なんてそもそもないんだよ」
「うん。君ならそう言うと思った」
「私は理想にまっすぐだから」
「うん。そういうところが、僕はとても好きだったよ」
「ありがとう。私もきみの素直なところ、結構好きだよ」
「ありがとう」
数字は100/100になっている。彼女の姿は消えかかっていた。
「それじゃあ、ばいばい」
「...ばいばい」
二人は涙を流さなかった。ただ笑って、遠くに引っ越す家族を見送る駅のホームと、同じ顔をしていた。
「...あれ?」
僕は驚いた。白い光を纏った彼女が、現世に現れたのだ。
「ごめんね。嘘付いてたの、私。」
「100/100になったとき、私は5分だけ、この世界に帰って来れる」
「まぁ、その後、消えちゃうんだけどね。きみのスマホからも」
「...抱きしめて。キスして。5分間。ずっと。」
僕は無言で彼女に近づくと、折れそうなくらい強く抱きしめた。
いたい、いたいよ、と幸せそうに笑う彼女。
そこからは一瞬だった。抱き合ったまま、互いに唇を近づけ、二人は初めてのキスをした。
貪るように、お互いの存在している証を、お互いの中に残すように。唇を激しく重ね合わせる。
幸せな時間は一瞬だ。
ほどなくして、彼女は光の粒子となり、スマホのハートマークのアプリの下には、「消去中」の文字があった。
―――ありがとう。ありがとう、ありがとう、今までの感謝の気持ちが溢れ出る。
いつしか僕の空隙は、彼女への想いで満たされていた。
おしまい
最後まで読んでいただきありがとうございました。
オチが浮かんでからの執筆でした。