5 薔薇屋敷へ
薔薇屋敷はアーマイゼの西――グラオザム寄りの郊外にあった。城から馬車で半日ほど進んだ場所だ。
シリルの乗ってきたという箱馬車に乗り城下町へと降りる。長旅だし腹ごしらえをと、バスケットを開くと、飴色の鶏を挟んだサンドイッチが香ばしい香りを漂わせた。食べる時間を惜しみ、詰めてもらったのだ。
「うまそう……」
王子とは思えない豪快さでかぶりつく。ビアンカも同じようにしようと思ったけれど、口がわずかに小さくなったせいか、ぽろぽろとパンくずが落ちてしまう。
エリアスが小さくため息をつくと、自分のハンカチを出してビアンカの膝に敷いてくれる。
(こ、これは、恥ずかしい――まるで子どもみたい)
あたふたと顔を赤らめるビアンカを見てシリルは笑っていたが、馬車の車輪が跳ねる音を邪魔そうにして、大きめの声で尋ねた。
「その呪い――幼女の呪いとでも言っておくか――って、状況的に、姫の状態と、城の眠りとは関連していることは間違いないと思う。だから、城が眠りに落ちる直前――二十五年前に起こった事で、知っている事を教えてもらいたいんだけど」
思い出した光景で、ビアンカはとたんに食欲をなくしてしまう。パンを置くと目を伏せる。
眠りに落ちる前――浮かんだ像はひとつしかない。
あれはエリアスの部屋だっただろうか。ビアンカが扉を開いたのを待っていたようなタイミングで、まるで見せつけるように、エリアスがジルをベッドに押し倒した。あまりにも衝撃的だった。逃げるように部屋に戻ったまでは覚えているけれど、それ以降の記憶がおぼろげだ。顔が曇るのが自分でもわかり、ビアンカは俯いた。
(ああ、だめ。考えちゃ駄目)
少しでも手がかりを知らせようとしたけれど、それにはあのことを口にしなければならない。エリアスへの非難が混じるのを抑える自信がない。
『君が何をしようと気にしないし、関係ないよ』
先ほどの諍い。それからエリアスの冷たい言葉を思い出すと勇気が出ず、ビアンカは結局「思い出せない」と小さく首を振った。
「エリアスくんは?」
シリルが問う。
「知らない。知っていてもあんたに言う義理はない」
「信用ないな。ビアンカ姫のために協力しあおうとか思わない?」
「思うわけないよ」
ビアンカはエリアスをちらりと見る。彼はシリルの方を見もせずに飄々とサンドイッチを食べていた。眠る前のことを、自分から言うつもりはないようだ。
ビアンカは自分がどこかほっとしていることに気がつく。彼の口からジルのことを聞くのを、堪えられる気がしない。
ビアンカは話題を変えた。
「まずは誰が、何のために、どうやってアーマイゼを眠らせたか……って順を追って考えたいのだけれど」
「『誰が』『何のために』は置いておいて、『どうやって』となると方法は少ない」
シリルに探るように見つめられ、ビアンカは怯む。彼の目がまるで答えにたどり着いているかのように見えたのだ。
「古魔法はどう?」
自分の目で確かめるまでは結論を出したくない。他の可能性を探りたい。ビアンカはとっさにひらめいたことを口にする。
古魔法とは、精霊に供物を捧げ、願いを聞いてもらう。古くから大陸で広く使われてきた伝統的な魔法だ。言ってしまえば神頼み。特別な力がなくとも、誰でもできる。
だが、ビアンカの言葉にシリルは首を振った。
「古魔法? あんなの気安めの禁厭だろう。昔試した事があるけど、上手くいかなかった」
「気休めだと思ってるから成功しないのよ。どうせあっさり願うのをやめたんでしょ。魔法は人の強い望みに精霊が共鳴するものなの。だから、望み続けられなければならない。信じつづけないと精霊に届かない」
ビアンカの指摘に、シリルは肩をすくめる。
「望みつづければ、ねえ。精霊って、そんな簡単に望みを叶えてくれるもんなの? ひたすら対価を求めるディアマントの作った世界にしては都合が良過ぎる」
「まさか。術をかけた者の差し出した供物と交換と言われているわ」
「供物? 例えば?」
ビアンカはしゃべりすぎたと口をつぐんだ。シリルは口を閉ざしたビアンカに嘆息すると、話をあっさりと本筋に戻した。
「でもさすがに城全体を二十五年も眠らせることなどできないだろう。――過去に使用された光属性の“眠りの魔法”しか思いつかない」
シリルが断定的に言い、ビアンカはぎくりと顔をこわばらせた。
「……グラオザムの人間にしては、よく知っているわね。その魔法が使われたのは随分昔なのだけど」
光の騎士がたった一人で部隊を一掃した後は、大抵の人間は騎士ばかりを恐れ、王女の持つ力には頓着しなくなった。そしてアーマイゼ側も、光の騎士に目が行くように、情報操作してきたのだ。だからシリルの言葉には違和感があった。
「知り合いに少し詳しい人が居てね。彼女が言うには、恐れるべきは光の騎士だけではない。裁定者の姫は同時に光の加護を受ける魔女なのだと。だからこそ、二つの力を手に入れたアーマイゼの守りは鉄壁だと」
湖の底を思わせる目で、じっと探るように見つめられる。
「どこまで聞いてあるのか知らないけれど、そうよ」
ビアンカは、いずれわかることだとシリルの言葉をしぶしぶ肯定する。
ルキアルの加護を受けた姫は、治癒をはじめとした様々な魔法を使うための魔力を受け継ぐ。大地に息づく精霊に愛され、彼らの力を〝あるもの〟と引き換えに使えるようになるのだ。エリアスの力と使える条件は似ているけれど、まったく正反対の別の力だ。シリルが言うように、その二つを合わせて、アーマイゼは鉄壁の力を手に入れる。
「つまり、ビアンカ姫も魔女なんだな」
「……ええ」
魔女だということは隠し切れることではない。だが今はあまり知られたくないというのが本音だった。シリルは更に問う。
「王家の魔女は他には? 姫の母君――女王は確か……」
「母のことはご存知? わたしが九つの時に天界に戻られたけれど」
母の最期について口にしたとたん、押し込めていたどす黒い記憶が蘇る。同時にぎりと鋭い痛みが胸を襲う。目をつぶってやり過ごすのはいつものこと。痛みが引くのを待ってビアンカは頭に働けと命じた。
(あぁ、そうだわ)
ふとひらめいた。エリアスの力はビアンカの危機に反応するけれど、ビアンカの力は危機に関係なく使える。しかも、シリルは今、油断している。多くの者と同じく、騎士ばかりに気を取られて。
息を静かに吸って。唄を紡ごうとしたとたん、隣に座っていたエリアスが
「今は使うな。その姿で使ったら、なにが起こるかわからない」
と前を向いたままビアンカにしか聞こえないくらいの声で釘を差す。まるで心を読まれたかのよう。ビアンカは開きかけた口を閉じ、目を丸くする。
言われてみれば、精霊が力を貸してくれるようになるのは、器が成熟してからだった。光の加護を受けられるのは成人する十六から。今の肉体では無理かもしれない。
ビアンカは動揺を悟られないようにと、笑みは絶やさぬまま息を静かに吐く。そしてやはりシリルには聞こえないくらいのささやきを返す。
「アーマイゼは牙を抜かれた竜のようね」
無理に精霊に頼み込んだ昔の事を思い出していると、エリアスがぽつんと言う。
「もしかして、だから、あの変態の馬鹿馬鹿しい申し出を簡単に受けようとしたのか?」
「変態?」
「……幼女趣味だろ、あれ。となると、今の姿の方が危ない」
彼がビアンカと同じ事を考えていたという事実に笑いが、そしてすぐに涙が込み上げそうになる。こんなふうに言われると心配してくれてると期待してしまう。だけど、これは彼の仕事だから。ただそれだけだから。
ビアンカは涙を飲み込むと気丈に言った。
「そうね。でも大丈夫。好きなようにはさせないから」