4 妃という名の捕虜
街に降りて行った侍従たちはいつまでたっても戻らず、急遽、有り合わせのもので晩餐が用意された。
中庭にいた野生化した鳥、同じく兎、食べられる野草、荒れ果てた果樹園から、無花果などのいくつかの果実などが集められた。当然パンなどというものは存在せず、狩猟生活さながらの食事である。
侍女たちが粗野な食事をなんとか取り繕おうと、古ぼけたクロスと野の花でテーブルを整えている。鳥が焼ける香ばしい匂いが漂い、二十五年空だった父王の腹の音は、野草に塩と油をかけただけのサラダだけではとても鳴り止まない。釣られて同様に空腹である皆の顔が曇っていく。ビアンカは気を紛らわせようと、ぐるり、長い二十人がけのテーブルを見渡す。テーブルの端には客人であるシリルが、空腹のためか憂鬱そうな顔で座っていた。
ビアンカがテーブルに空席をひとつ見つけるのと、シリルが尋ねるのは同時だった。
「そういえば姫の妹君、ジル=フリーデリカ=アーマイゼ王女殿下はどちらに?」
「ジルは? まだ見つからないの?」
侍従に頼んで探させていると言ったのはエリアスだった。振り向くと、彼は「まだ報告がきていないけれど」と侍従に視線を流し、確認を取る。すると、慌てた様子の侍従は「城中探したのですが、未だ見つからず……」と戸惑った顔をした。
「ってことは城じゃないみたいだな。どこか、心当たりは?」
シリルの問いに、ビアンカは目を泳がせる。これはさすがにおかしいと確信めいたものが胸を覆っていた。だけど、それはとてもじゃないけれど信じたくない事実だ。
「アーマイゼの郊外に王家の別邸があるわ」
震えを抑えてそう言うと、シリルは「別邸?」と不可解そうな顔をした。
「ジルは“薔薇屋敷”が好きで、暇さえあれば滞在していたから、城に居ないならそこかもしれない」
特にビアンカとの間に確執が生まれてからは、喧嘩のたびに妹は家出をしたものだ。だが、さすがに口に出来なかった。姉妹の不仲、それは、動機になり得る。動機まで揃ってしまえば、認めざるをえない。
(いやだ)
愛しい。だけど厭わしい妹。ジルの方もビアンカをそう思っているというのは、驚くほどはっきりと分かる。双子だから。互いが互いの複製だから。
エリアスを奪ったジルがビアンカは憎い。二人が一人であればいいのにと思ったことは数多い。ただ行動には移さなかっただけで。ジルの方もそうかもしれない。
(だって、あの子は、いつだってわたしのものを欲しがった。空色のドレス、藍色の靴、それから運命の石の首飾り)
ビアンカは胸元で揺れる赤い石を見下ろした。ビアンカとジルは、基本的には同じように育てられたが、見分けのつかない双子の区別を付けるために異なる色を与えられていた。だが、彼女はそんな意図など汲みもせず――それか大人の都合に腹を立てて反発したのかもしれないが――とても似合っていたピンクのドレスを嫌がってビアンカの空色の服を勝手に着たし、赤い靴も青で塗りつぶして駄目にした。お守りにつけさせられた夕焼け色の宿命の石も嫌って、ビアンカの朝焼け色の運命の石と交換をねだった。
彼女の言い分は、『だってわたしの方が似合うもの』。それらは可愛らしい妹の我が儘で済んだ話。喧嘩して泣かれて渋々取り替えっこに応じたのも今では懐かしい思い出だ。
――だが、双子の二人に一つしか与えられなかったものもいくつかある。
それは、他国の婿を取ることを条件に得る“裁定者”としての地位。
ビアンカはちらりとエリアスを見る。
もう一つは裁定者のために命を捧げる、光の騎士だ。エリアスが恋人としてジルを選んだとしても、裁定者はビアンカだ。エリアスがビアンカの騎士であることには変わりがない。
ジルが、ビアンカの大切なものをすべて奪うために仕組んだとしたら。
ぞっとした瞬間、
『だって、ビアンカはエリアスを使いこなせていないじゃない。もったいないから、わたしが貰ってあげる。わたしのほうが、彼を与えられるに相応しいもの』
ジルの鋭い声が聞こえた気がした。
三角形がいびつに歪んでからは、ジルは憚らずにそう口に出したことを思い出す。
(空耳?)
あまりの鮮やかさにビアンカは驚き、周囲を見回したが、どこにも見慣れた影は見つからなかった。
ビアンカは反射的に口を開いていた。
「わたしもジルに話を聞きたい。薔薇屋敷に行ってみましょう。案内するわ」
考えるだけだと、どんどん暗い妄想に取りつかれてしまいそうだった。妹が、自分を陥れようとしている、と。早くそんな馬鹿馬鹿しい考えを否定したい。
「何を言ってる。そいつの言ってる事が本当かもわからないのに、城を出るなんて……危険極まりないだろう」
エリアスが激しく反発するが、ビアンカは冷静に宥める。もう決めたのだ。
「もののついでよ。一度街を見ないと、彼がおっしゃる事が真実かどうかも確認できないから。大丈夫よ、エリアスがついて来れば、そんな妙な事にはならないでしょう。一中隊連れて歩くようなものだし」
シリルはあからさまに嫌な顔をした。
「デートに子守付きとか野暮だろう? 邪魔するなよ」
「なにがデートよ、なにが子守よ!」
ビアンカがむっとした時だった。
「これからデートになるんだよ。あ、王様がいらっしゃるうちに言っておかないと駄目か」
近寄ったシリルに手を取られ、ビアンカはぎょっと目を剥いた。
「陛下。ビアンカ姫との結婚をここで申し込ませて頂きたいのですが」
「………………はっ!?」
夢中で野草サラダをかきこんでいた父は、ぽろぽろと野菜を口からこぼした。シリルは引き続き手の甲に唇を寄せた。必死で手を引こうとしたけれど彼の動作の方が早く、そして力強く、――間に合わない!
「は、離して!」
顔をひきつらせて助けを求めたのとほぼ同時だった。
「軽々しく触れるな」
後ろでガツンと大きな音が上がった。ビアンカが振り返ると、壁に銀のナイフが突き刺さっている。
エリアスが手に持っていた肉切りナイフをシリルに向けて投げていたのだ。
自分の金の前髪がハラハラと床に舞い落ちるのを、それから、後ろの壁にひびが入っているのをたっぷり五呼吸くらい呆然と見つめたあと、シリルは顔色を無くした。
「冗談、だろ……今って光の騎士でも何でもな――わあ、やめろ!」
シリルの視線の先ではエリアスがもう一本のナイフを手に構えていた。洗練された姿勢と、反射する鈍い光、なにより全身から漂う殺気に戦いたシリルは、ビアンカに訴える。
「こ……この男、ヤバいよね? 俺よりよっぽど危険だよねー? どうしてこんな危険物傍に置いてるわけ……ってもしかして、結婚してもおまけみたいにこいつが付いてくるのか!?」
手を離されて落ち着いたビアンカは、小さく息を吐いた後、頷く。
「光の騎士は裁定者を守るために対になって生まれてくるのよ? 誰と結婚しようとも、一生手放すことはできないわ」
ビアンカが威嚇するように宣言すると、
「えー、俺より姫の事よく知ってる男が傍にいるって? めちゃくちゃやりにくい」
シリルはあからさまに気を落とした。そしてエリアスのどこか非難のこもった目にビアンカは怯え、話を元に戻す。
「今は騎士の事はどうでもいいでしょう。結婚って……つまり、あなたは、“帝国の円滑な政の為”にアーマイゼを今後も自由に通りたいから、政略結婚を申し込むって事ね?」
ロマンの欠片もないプロポーズ。その意味は明白すぎた。そもそも、彼がどうしてこんなところにやってきたかを少し考えると、答えは出る。不安の芽は早めに摘んでおこうというわけだ。
「まあ、身も蓋もなく言ってしまえばそういうことかな」
シリルは苦笑いをしながら認める。
「お断りは、……出来なさそうね」
投降に似た言葉にシリルは「ご明察」ふっと笑みを深めた。その余裕がビアンカに確信をもたらした。
「帝国の皇子様が小部隊で乗り込んでくるはずがないわよね」
ビアンカはふいと窓の外を見た。こんもりと茂った茨に隠れて街の景色は見えないが、耳を澄ますと勝鬨の声が上がっている。眠っていた城が目覚めたなら、途中で眠ってしまったという彼の連れも起きているのだ。
「侍従たちが食料調達から戻って来ないのはそのせいかしら。……この場合、あなたを人質に取ればまだ逆転は可能?」
ビアンカの言葉にエリアスが静かにナイフを構え直す。
「そう簡単に言われると傷つくな。光の騎士相手でなければ、いい勝負はしてみせるつもりだけど」
シリルが肩をすくめ、微苦笑する。ビアンカはちらと彼の腰の剣を見る。大振りな剣の柄には赤い石がはめ込まれている。飾りにしては酷く重そうだった。もしもあれを使いこなすような剣士ならば、エリアスが力を使えなければ手こずるに決まっていた。
ふと気づく。さっきは怯えていたエリアスのナイフにも、もう彼は顔色一つ変えていない。どちらが本当の彼なのか。判断がつかなかった。
「あなたには害意がないから、エリアスは光を纏えない……」
そして――たとえ纏えたとしても。ビアンカは、彼に剣を振るわせないと密やかに誓っている。
「俺としては、この国とはあんまり揉めたくないんだよね。なんといっても光の姫だ。無傷で手に入れたい」
シリルは侵略者には似合わない、穏やかであどけなささえ感じる顔で言った。
「……そう」
すでに追い詰められていて、逃げ場がどこにもないように思えた。
いつかはこういう日が来る事を知っていた。こんな、妃という名の捕虜という屈辱的な形だとは思いもしなかったけれど。
抵抗すればきっと傷を大きくする。諦めてビアンカは頷こうとする。
そうしながら、ビアンカは自分が諦めるきっかけを待っていたのかもしれないと思った。
だが、遮るようにしてエリアスが口を挟んだ。
「――らしくないな、ビアンカ。諦めるのはまだ早い」
まさか彼があがくとは思っていなかった。驚くビアンカが意図を目で尋ねると、彼はシリルを睨んだまま説明する。
「さすがに、その姿のビアンカとの結婚は、いろいろ問題があるはずだ」
「ああ! そうだ――当然だ! ゆるさんぞ!」
まだ呆然としていた王は、ここではじめて父親らしく口を挟む。ビアンカは思わぬ逃げ道に目を瞬かせた。
「そうだわ。まずこの姿だとわたしがわたしだと誰も思わない。それにわたしがこのまま成長するならまだいいけれど、だとしても妻に相応しく成人するまでには四年はかかる。しかももしこのまま成長しなかったら、一生“白い結婚”を続けることになってしまうし。グラオザムは一夫一妻制だから、世継ぎの事を考えても、とても困るはず――」
早口で畳み掛ける途中、かすかな違和感が胸をよぎった。
(あれ? 何かおかしくない?)
何かが噛み合わない。首を傾げかけるビアンカに、シリルは降参とでも言うように両手を挙げる。
「はいはいはいはい、過保護な騎士さんのご指摘とおり。んじゃあ……まずは呪いを解く方法を探しましょうかね。ラザファム陛下、ひとまず予約という事で」
猶予をもらい、ほっとするビアンカから顔を背けると、シリルは小さく嘆息した。
「あーあ。美姫って聞いてたのに……美姫は美姫でも美女じゃなくて美少女じゃなあ。せめて十四くらいの姿になっていてくれたらな。今のままでも俺的には許容範囲だけど、さすがに周りがうるさいから……惜しいな」
シリルの問題発言が耳を跳ねさせた。ビアンカは顔を引きつらせて彼を振り向いた。
「それ、まさか本気じゃないわよね? 確かあなたさっき二十四歳とか言ってたたような」
となると、結構特殊な趣味に思えるが。
「十くらいの歳の差、ごく普通のことだよ」
端正な顔に甘い笑みを浮かべたシリルに当然のように言われて、ビアンカは思わず後ずさる。
「いえ、例え百歩譲ってそうだとしても、四十歳と三十歳とか……せめて三十歳と二十歳とか、歳がある程度嵩んでから通用するお話じゃなくって?」
「実際は十七歳、いや実年齢なら四十二なんだから、どちらにせよ許容範囲だ。お似合いだと思うけど。なぁ? エリアス君もそう思うだろ?」
ビアンカの指摘をさらりと流して、シリルはなぜかエリアスににっこり笑いかける。
「僕にはどちらの趣味もない。あったとしても賛同はできない。ビアンカは裁定者だ。選ぶのが彼女の意志でなければ大陸は滅びへ向かう」
エリアスは不機嫌そうな顔で言うと、武器庫から持ってきて傍らに置いてあった剣を二つとり、素早く帯剣する。二本の長剣は風国製で特注の片刃剣。僅かに反っている。一本は短剣だ。
「なんだ? 三本? 三刀流?」
「いや、予備だよ。剣は二十人も斬れば刃が駄目になるからね。本当は五本くらい持ちたいけど、重さで動きが鈍くなるから三本で妥協してる」
エリアスは鞘から僅かに刀を覗かせると、鏡のように磨きのかかった鋭い刃を覗き込み、くすりと笑った。その笑顔には陰鬱な影が差していて、ビアンカは胸がえぐられる心地だった。
(ああ、もう、そんな顔、見たくないのに……! 私が見たいのは、もっときれいな明るい笑顔なのに!)
だが、ビアンカにそう求める権利はない。言葉を飲み込むビアンカの前では、二人の男が睨み合っている。
「可愛い顔してるけど……そういうことを言われると、本物の光の騎士っぽいな」
シリルの蒼い眼光がふと鋭くなった。剣の柄についていた赤い石を撫でる。石が妖しく光ったような気がして、ビアンカは目を瞬かせたが、もう一度注視するとそれはただの宝石にしか見えなかった。
たちまち纏う空気を尖らせるエリアスとの間に、ビアンカは体を割り込ませた。
「エリアス、いい加減にして」
そしてビアンカはシリルを見上げて懇願した。
「できるだけ挑発しないで。力を使わないようにしてあげて。力を使うには供物がいる。簡単に斬れるわけじゃないのよ」
過去の凄惨な場面、そしてその時のエリアスの別人のような顔。それから彼の傍らに立つまがつ神。それらが一度に蘇ったあと、ビアンカの全身にぶわりと鳥肌が立った。あんな恐ろしい場面は、もう二度と見たくない。見ないですむのなら、ビアンカはどんな事でもするつもりだった。
「ふうん?」
シリルの不可解そうな声に、ビアンカは必死になりすぎていた事に気づく。今、言ってはいけないことを言わなかったか。
「と、とにかく行きましょう。早くジルを見つけたいの」
慌てて踵を返すしたビアンカは、彼の唇の端が微かに上がったことに気づかなかった。