1 呪いを解く、すこぶる古典的な方法
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『姫、ビアンカ姫。起きてください』
さらさらとした髪が、少女の頬をくすぐった。ずいぶんと昔に味わった、懐かしい感覚だ。
砂糖をたっぷり入れたミルクのようなとろとろとした午睡の途中みたいだ。重い瞼を持ち上げようとしても、瞼はぴくりとも動かない。そのかわりに一人の青年の横顔、それから、自分とそっくりな少女の顔が眼裏に浮かんだ。エリアスとジルの二人。大事な妹、大事な騎士。どちらもかけがえのない二人だった。
三人はいつでも寄り添って生きていた。ただし、光が二つ、影はひとつ。一つしか無い影を得たくてしょうがなくて光の二人は競い合っていた気がする。双子の仲は良かったけれど、二人がどうしても欲しいものがひとつしかないならば、いつ均衡がくずれてもおかしくなかった。
だけど皆、自らの重責を幼い頃から理解していたから、無意識に均等な三角形を作っていたのだ。
ビアンカとジルは大陸の平和のために《裁定者》を目指し学び、エリアスはそんな二人を守るために剣を振っていた。彼はいつもあどけない頬に痛々しいほどの真剣さを貼付けていた。だけどビアンカが名を呼ぶと頬を緩ませて、日溜まりのような笑顔を向けてくれるのだ。彼女はその顔がどんなものよりも好きだった。
――だけど“あのとき”から、彼はそれをくれなくなった。決して笑わず、仮面のような、冷たい表情で彼女を見るようになってしまった。
ビアンカが何気なく言ったひと言に対して、彼は表情を無くした。
『ビアンカ。君は、どうしてそんな残酷なことを言えるんだ?』
どう残酷なのかわからずにいたビアンカを、四つの昏い瞳が責めた。
思えば、あれは綺麗に整った三角形が、いびつに崩れた瞬間だったのかもしれない――そう思ったとたん、胸が針に刺されたように痛んだ。
刺激は全身に広まり、まどろみを払いはじめる。
鉛のように重い瞼を持ち上げ、薄く目を開ける。焦点が合わないぼやけた視界に、柔らかな笑顔が映った気がした。
ああ、これは、もしかして、昔の彼に戻ってくれたのかもしれない。
ビアンカが口から漏らしてしまった幼い我が儘をすべて水に流してくれたのかもしれない。そして――ビアンカの手をとってずっとそばに居てくれるのだ。
でも、それがどれだけ現実不可能な夢か、ビアンカは知っている。
――エリアスは、ジルを選んだ。
寝台で抱き合うエリアスとジルが頭に浮かんだとたん、ビアンカは憎しみに駆られそうになる。《裁定者》となったビアンカは彼を選べないし、だから、彼が誰を選ぼうと文句は言えない。ジルを選んでも仕方がない。大事な妹だし祝福すべきだと頭ではわかっている。けれど、これだけは譲れない。彼はわたしのものだという、本音が心をかきむしるのだ。
(私と彼は決して結ばれない。そんなの嫌ってほど思い知った。でも、夢の中だけでくらい、幸せになったっていいじゃない!)
ビアンカは、更なる甘い夢を求めて腕を伸ばす。すると、耳慣れぬ低い声が耳に届き、まなうらの虚像が歪んだ。
「……うーん、どうなってるのかわかんないけど、とりあえず目覚めてもらわないと話も聞けないしなあ。こういう場合の定番って、やっぱりあれだよなあ。役得って言えば役得。うん、そうしよう!」
違和感はたちまちビアンカの全身に回る。薄く開けた目から、予想とは違う光景が入ってくる。
(あれ? 髪が……黒くない? それに、妙に長い?)
不意に襲った不快感にビアンカが顔をしかめたときだった。
「ああ美しい姫君。どうか私の口づけで、この永い眠りからお目覚めください……!」
「え……――!?」
自分の声が耳に届いた瞬間、ぼやけた視界に何かおぞましい影を見た気がした。男のもの、と思える肉感の薄い唇がすぐそこまで迫っていたのだ。
唇が重なる直前に、とっさに頬にばちんと一撃。そして怯んだ影を、ビアンカは力一杯突き飛ばしていた。
手のひらの痛覚と共に一気に覚醒した彼女は、おもむろに起き上がった。薄い布団を跳ね飛ばし、腰に手を当てて床を見下ろすと、男がはられた頬をさすりながら呻いている。
「うぁああ、効いたーーーー!」
その悲鳴が聞こえなければ、地上に降りた神の遣いかと信じたかもしれない。羽毛のように柔らかそうな金色の髪が眩しい。甘い光を湛えた青い瞳が印象的だ。美麗な顔には、どことなく匂うような上品さが滲み出ていた。
「あ、あなた誰!? いくらなんでも、少々ぶしつけ過ぎない!? エリアス=シュテルン! 変なのが入り込んでるじゃない! 仕事さぼってないで、さっさとこいつを追い出しなさい!」
頭に血が上ったせいでまどろみと共に胸を苛む感傷が一気に消え去った。びしり、と護衛の騎士に命じる。床でごろごろ臥せっていた不審者は、頬をさすりながら起き上がる。
「ぶしつけって言ってもさー、呪いを解く、すこぶる古典的な方法だと思うんだけどなあ」
「呪いを解いた?」
なぜか寝台の下で眠りこけていた青年エリアスが、低く掠れた声をあげながら、ゆらりと黒い頭を持ち上げた。寝起きだというのに、身に付いた習慣か、物騒にも腰に佩いていた剣を抜いている。
まなざしと切っ先の鋭さに肝が冷えて、ビアンカは慌てた。
「ちょ、ちょっと! 何やってるの!? 剣はやめて! こんな狭いところでそんなもの振り回して、間違ってわたしに害が及んだらどうしてくれるの!?」
「だけどビアンカにいかがわしい真似をされたら、僕の立場では見過ごすわけに行かないから」
立場と強調されて、冷水を浴びせられた気になる。――相変わらずの線引き。そうだ、これは彼の仕事であって、ビアンカを思いやってくれてのことではない。
ビアンカが落ち込む間も、エリアスは男を睨みつけたままだ。
「いかがわしい? キスの事なら、感謝はされても罵られる覚えはないんだけど。呪いを解いてやったってのに、どういう感謝の仕方な訳よ」
男はうんざり、と言った様子で肩をすくめるだけで、行為自体は全く否定しない。
「誤解を招くような言い方は止めて、あなた、何も――」
「覚悟しろ」
ビアンカの反論を待たずに、目の据わったエリアスは剣を握り直すと頭の上に振り上げる。やっと彼の本気を感じたらしい男は叫んだ。
「うわあああ! ちょっと止めなよ、俺、これでもグラオザムの皇子なんだって!」
「グラオザムの王子? こんなところ――アーマイゼ第一王女の居室に、従者もつけずにいるわけが無いだろう?」
「って、大体おまえは誰なんだよ。眠りこけてたくせになんでそんな偉そう――」
と、エリアスは「うるさいな」と、その先を言わせないとばかりに剣を一振りして男を黙らせようとする。だが男は黙らなかった。
「いや、本当だって。グラオザム帝国――いや、帝国って言っても分かんねえか。グラオザム王国第二王子シリル=ファザーン=グラオザム。棘の森にきれーなお姫様がいるって噂を聞いたから、調査に来たんだ。そしたら大げさな部屋を見つけて飛び込んだってわけ。棘をかき分けてるうちに俺以外眠っちゃったから、一人で来たけど、外にちゃんと連れは居るんだってば。大体、こんな子供を相手にしたら、変態扱いされるの間違いないし! おれにも一応立場ってものがあるからさあ!」
シリルが黙ると、ぽかんとした間が落ちた。
「……はあ?」
何か衝撃的な言葉が混じっている気がした。
「こども? ビアンカが、子供だって?」
エリアスが僅かに首を傾げると、黒い髪がさらりと揺れる。彼はビアンカを振り返ると漆黒の目をぎょっと見開いた。彼の仮面のような表情が剥がれるのを、ビアンカは久々に見たと思った。
「ビアン、カ!?」
ビアンカは寝台の上に突っ立っていた。さほど高さのある寝台ではないが、大人の男の膝の高さだ。だからエリアスの頭は下にあるはずなのに、なぜか目線が同じ高さで結ばれた。
(あれ、エリアス、なんだか背が伸びた?)
違和感を感じながら、ビアンカはふと鏡に映った自分を見た。いや、最初は自分と思わなかったので二度見して自分だと理解した。
腰まである淡い銀髪は、華奢な体を星明かりのように覆っている。そんな中、ひと際印象的な深い藍色の大きな瞳には確かに見覚えがある。だが――顔の輪郭が確実に、丸い。触れるついでにほっぺたを、ぷに、とつねってみるが、しっかり痛かった。
「…………ねぇ、エリアス。私、もしかして縮んでない?」
そう問いながら更なる強烈な違和感を感じたビアンカは、胸を押さえる。確かにあるはずのモノが存在しない。
「うそ! し……萎んでない?」
嘘だと、幻覚だと言って。そう縋るように見たけれど、エリアスも青ざめた顔をしている。
「なんだか十かそこらの幼女に見える、んだけど……」
シリルが頷いた。
「四十超えの年増が? そりゃあ結構な呪いだな」
「四十!? 年増――って、呪い? 何を言っているの、私はまだ花の十七よ!」
だが、自らの体が今言った言葉を否定している気がして仕方がない。これが十七歳の体だとはとても思えない。
仕掛けでもあるんじゃないの? と鏡を睨みつけて戸惑うビアンカに、シリルは、挑発的な視線を投げてよこした。
「まあ信じられないのも仕方が無い。じゃあ、今年は何年だ?」
「光神ルキアル様が地上に降り立たれてから2710年。つまり神歴2710年だ。聞くまでもないだろう」
馬鹿にしているのかとエリアスが眉をひそめた。
大陸には火、水、風、土、そして光の神の子孫が国を築いている。各々には五人の神が祀られていて、彼らが地上に降り立った日から歴を数えているのだ。
大陸中央に位置するこのアーマイゼは、光神ルキアルの子孫。つまりルキアルを含む五人の神が地上に降り立ってから2710年が経過している。
子どもでも知っている当たり前の知識を披露するエリアスだったが、シリルはゆっくりと首を横に振った。
「今年は五神歴で言うと2735年だ。そして、神暦は終わった。正しくは帝国歴20年だ」
「ていこく、れき?」
ビアンカは耳慣れない言葉を繰り返す。
「大陸の臍である光のアーマイゼ、それから西の火国グラオザム、東の水国ヴェシャイランは二十年前に統合された」
彼はそう言いながら、床の埃に指で略地図を描く。横長の楕円形に近い形。それをまず中央から斜め四方に線を引いて四等分にする。そして中央に丸を描いた。上下が風と土、左右二つがそれぞれ火と水。中央の丸がアーマイゼだ。彼は火と水を分けていた丸を指で消し、左右の二つを繋げた。
「冗談は休み休み言ってちょうだい。このアーマイゼが“くさび”になっている限り、そんな横暴、許されるわけが無い」
鼻で笑ったビアンカだったが、ふと床の埃が気になった。そして埃の上に落ちた、干涸びて朽ちた花が目に入り、口元の笑みと頬の色を無くした。
「――じゃあ、“くさび”が眠ったらどうなる?」
シリルは僅かな隙をついて、ビアンカの不安を煽った。
「眠った?」
シリルは花が綻ぶような笑みを浮かべて、ビアンカを見つめた。
「君たちは、二十五年間の眠りについていたんだよ」