13 王都ヴァールハイト
拘束され、幌馬車に押込められて二日ほど経った後のこと。辿り着いたのは、一度訪れた事のあるグラオザム王都ヴァールハイトだった。
渇いた大地の上では海からの強い風が黄土を舞い上げていた。吹きすさぶ風の中、夕日に照らされた風車があちらこちらでゆっくりと回っている。黄色い大地の中に突如緑色に染まった畑が切り取られたように現れる。大河を持たず水の無い火の国では、地下から水を汲み上げて灌漑を行っているのだ。そんなグラオザムの田園風景の中に王城は聳え立っていて、中央には意匠を凝らしたひと際大きな風車があった。
ビアンカたちが連れ込まれたのは煌びやかな王城の内部ではなく、地下の暗く湿った場所だった。牢ではないと直感する。闇の世界の入り口にも思えて、入り口で足が固まったが、「入れ」と背にあてられた剣に強引に押し込まれる。
ゴゴゴ、と重い音を立てて出入り口が閉じられると、辺りに闇が広がった。僅かに漏れる光も酷く弱々しい。
「暗い……」
目が慣れても辺りが確認できず、ビアンカは視覚以外のものに頼る事にした。
踵を打ち付けると、固い石畳が靴を跳ね返す音がする。手を広げても十歩進んでも、二十歩進んでも壁に当たらない。広すぎるのだ。
「ここはどこなのかしら」
顔を引きつらせたビアンカは誰ともなしに尋ねた。黙っていると一人きりなのではないかと錯覚して、発狂しそうだった。
「グラオザムの王宮地下迷宮だな」
シリルの声が響き、そちらに顔を向けるが、暗過ぎて本物か確認できない。
「暢気に言わないで欲しいのだけれど、出口は?」
「入って来た場所以外にあるわけが無い」
呆れた声が返ってくる。
「迷宮って言うくらいだから入り口と出口があってもおかしくないと思うけれど」
「それは迷路。迷宮は一本道で、中央が最奥になっている構造を言うもんだ」
「最奥?」
「行き止まりだよ。――そして最奥には怪物が封じ込められている。迷宮を守る強大な魔が」
「魔!?」
視界に蠢く影が、シリルの言うそれに思えた。
背を何かが撫でるような感覚があり、ビアンカはぞっとして飛び跳ねる。
それに気づかないのか、シリルは呆れたような声を上げた。
「とにかく、魔女なら光の一つくらい灯せないのか? 暗くて敵わない。食事や水が出せるとは思わないけれど、光の姫ならそのくらいできるだろう?」
「とにかくじゃないわよ。そんなところで話打ち切られる方が困るわよ! 灯りくらい、マッチでも使ってなさいよ!」
ビアンカの金切り声が迷宮内にワンワンと響き渡ると、シリルが迷惑そうな声を上げた。
「裁定者の姫らしくないな。どうしてそんなにピリピリしてるんだ?」
「ビアンカは暗いの駄目なんだよ。変なところで子供だから」
呆れたようなエリアスに弱みを晒されて、ビアンカは飛び上がる。
「ちょっと、エリアスうるさいわよ! 他国の人に余計な事言わないで」
「わぁ、婚約してるのに他人行儀」
「あなたもうるさいわ!」
文句を言うシリルに当たり散らす。
(わ、わたしが怖いのは、暗いのじゃなくって――)
夜の闇を見るとどうしても思い出すのだ。魂を攫ったシュバンツを。闇はまがつ神と繋がっている。彼の神はビアンカの大事な人を連れて行ってしまう。
わなわなと震えていると、ビアンカの手を誰かが握る。君の不安は知っているとでも言いたげにビアンカの手を優しく包み込む。見えないのは承知しているのに、思わずビアンカは顔を上げた。肉刺だらけの固い手。だけどとても温かい手。この手の持ち主は決して間違えない。
「落ち着いてよ。金切り声出されると、反響して耳が痛い。ねぇ、シリル。最奥が出口ってことはないの?」
飄々とエリアスが問うと、シリルが返した。
「どうだろ。さっき言ったみたいに、最奥は化け物がいる」
「それ本当か? あんたは見たわけ?」
「昔、お仕置きで入れられた時に散々脅されたんだ」
「じゃあ、行った事は無いし、見た事もないのね」
ビアンカがほっとすると、シリルは否定する。
「いや、途中まで行ったけど、結局辿り着かなかっただけ。途中で火が消えて諦めた。子供だったから、真っ暗じゃあ、さすがに気持ちがなえた」
そう言ったところで、しゅ、と音がして、眩さにビアンカは目を閉じる。
細く目を開けると、シリルが火のついた枝を翳していた。どうやって火をつけたんだとビアンカは驚く。
「今、どうやったの?」
「姫が言ったんだろ。マッチだよ。一本しかなかったから使いたくなかったんだけどなあ」
しかし燃えかすなど見当たらずビアンカは首をかしげた。彼はその間にも、燃やせそうなモノを拾い集めている。エリアスもそれに倣い、ビアンカも慌てて地面を探った。
どうやら、地上の樹木の根が張り巡らされているようだった。朽ちた根がいくつか落ちているのを拾い上げながら、ふとエリアスが言った。
「処分を考えるとか言っておきながら、食事も水も無い。出口も無い。つまり、奴らは僕たちの餓死を狙ってるってことかな」
シリルが頷く。
「まあ、そうだろうね。俺でもそうする。光の騎士の力がどんな物かもわからないのに、下手に手を出したらやられちゃうし。とてもあのオスカーが考えたとは思えないから、きっと父親の考えだろ」
オスカーの名を出すと、シリルは僅かにしんみりした。エリアスはそんな彼に木の根を差し出しながら提案する。
「このままここに居てものたれ死ぬだけっぽいし、奥に行ってみる?」
「じょ、冗談じゃないわよ!! ここよりさらに暗くて得体が知れないところなんて……!」
ビアンカが血相を変えて、首をぶんぶんと横に振ると、シリルが「君、本当にビアンカ姫? 中身変わってない?」と呆れ、エリアスがしょうがないなとため息を吐いた。
「じゃあ、シリルとここで待ってて。僕だけで奥を見てくる。水くらいならあるかも」
火を小枝に貰って、さっさと行ってしまおうとするエリアスに、ビアンカは焦った。いつもはシリルと一緒にしたがらないくせにどうして今になって。こんな恐ろしいところで放っておかれるのだけは勘弁してほしかった。
「お、置いていかないで! 行くから、わたしも!」
余裕を無くして叫ぶと、
「ええー? 止めようよ、時間の無駄。それより、姫の魔法とか、エリアス君の能力で何とかしようよ。二人揃えば最強だろ?」
シリルがあからさまに迷惑そうな声を上げるが、構わず駆け出す。
エリアスは、追いついたビアンカの手を満足そうに握る。
(あれ? なんだか……さっきから優しい?)
不思議に思いながらも、温かく大きな手にようやく心の強ばりが解けるのがわかる。えいとお腹に力を入れて開き直ると暗闇に足を踏み出す。
大丈夫。エリアスがいれば大丈夫、そう呟きながら。
暗く暖かい回廊を歩いていると、蛇の腹の中に飲み込まれてしまったような気分になった。
同じような光景が延々と続くため、時が止まったかにも思えた。
「ここ、生きてるみたいで気持ち悪い。呑まれてるみたい」
「この場所、本当に一度しか通ってないかな」
「さっきも通らなかった?」
不安を口々に出す。ビアンカは首飾りの真珠を落として印を付けようとしたが、真珠は傾斜に沿って道の端へと転がり急に姿を消す。追いかけたビアンカは水が流れている事に気づいた。
「あ、水……!」
思わずすくった水を口に運ぼうとしたが、生臭さに怯む。エリアスが水を嗅ぎ、首を横に振った。
「駄目だ。腐ってる」
がっかりしながら水を捨てる。干上がった喉をなだめ、また歩き始めた。
壁の蛇腹は緩やかなカーブを描いたかと思うと、急に反対方向へと折り畳まれるように折れ曲がる。どうやら中央に向かっているようだった。
傾斜しているのは多分間違いない。深い穴に潜って行くような感覚があるし、逆方向に歩めば足が妙に重かった。空気も水分を纏い、濃くなった。さらに熟れた果物のような甘い香りが混じり、眠気を誘う。
小さな体は疲れ易かった。歩みの止まるビアンカに、休もうかとエリアスが声をかけるが、座り込みでもすれば、触れた部分が壁に溶けてしまうのではないか、そんな気分になってできなかった。
だんだん濃くなる闇が、疲れたビアンカをさらに追いつめる。シリルが短くなった枝を掲げて頼んだ。
「ねえ、光、照らせない? もう燃やすものが無い。暗いの苦手なんだろう」
「…………」
ビアンカはエリアスを見る。彼の手にももう燃材は無い。打つ手が無い事を知ると渋々答えた。
「実は、今、魔法を使えないの」
「ほんとに!? じゃあ、騎士も魔女も力を使えないって状態だったんだ。なるほど、それで、結婚の話にもすぐ頷いたってわけか。加護があるのに変だと思ったんだよな」
「何か、火を移せるもの……」
ブツブツ言うシリルを横目に、エリアスは地面を探る。だが、彼が拾った枝はどろりと溶けて土に還ろうとしていた。彼は諦めずに大きな体を再び沈み込ませた。
ビアンカは「無駄よ」と身を震わす。壁際に染みだした水が流れているということは、地面に落ちているものなど、湿気て使い物にならないだろう。
絶望感に青ざめるビアンカの耳に、シリルの沈んだ声が聞こえた。
「どうやら、ここで行き止まりだな」
見上げると前方には大きな壁が立ちふさがっていた。魔物も居ないが、出口も無い。
エリアスが壁をぺたぺたと触って確かめる。ため息が答えだった。これからどうしようと呆然と立ち尽くしていると、
「あー、ごめん、もう持ってるの限界」
シリルが熱さに呻いて、枝を地面に落とす。短くなった枝が、濡れた地面に呑み込まれていくのをビアンカは卒倒しそうになりながら見つめた。
「え、待って、シリル、火の国の王子なら平気でしょ! 根性で我慢しなさいよ! ほら、拾って!」
「無茶言うな。横暴だなぁ」
じゅっと音がして、枝の中の火が消え、辺りは暗闇に包まれた。
「きゃあああああぁ! エリアス!」
パニックを起こして叫んだビアンカが思わず近くの腕に縋ると、腕は彼女を抱きしめる。胸に頬を寄せ、命の音を一つ、二つと数えていると、ようやく平常心が戻って来た。落ち着いたところで、突如、ぽっと新しい灯りが着いた。
はっとして顔を上げると、シリルがにやにやとビアンカを見下ろしている。ビアンカが縋った腕は別人のものだった。
「あー、今のは可愛かったなあ。めちゃくちゃ役得だったなあ。ふっふっふ、エリアス君、羨ましい?」
シリルはそう言うと、どさくさに紛れて頬にキスをしようとする。思わず突き飛ばしたあと、背中に殺気を感じて恐る恐る振り向くと、エリアスが不機嫌な顔でシリルを睨みつけていた。
「そういうものがあるんなら、さっさと出してろよ」
彼が指差した先を見ると、シリルの指がぼうっと光っている。目を凝らすと、そこには薔薇屋敷で拾った指輪があった。
「あ、それ! フォイアシュタイン!?」
ビアンカは目を見開いた。
「剣は奪われたけど、こっちは持ってる事知られてなくて無事だった。光の魔法が姫と騎士に宿る代わりに、光周四国では特殊な石に各々の魔法が閉じ込められてる……って知ってるはずだよねぇ」
あっさり白状するシリルに、
「アーマイゼに、石は無いもの。そんな使い方は知らない! 大体、なんでさっさと使わないのよっ」
半分発狂してビアンカは叫ぶ。
「いや、なんかまだ隠してるなあって思ってたから、いっそ弱点の暗闇を利用して全部吐いてもらおうかと……でも、なんだか要らない事まで知っちゃったけどさあ」
含みを持たれてビアンカはぎょっとする。
「試したのか? ――殺す」
エリアスの目が据わっている。彼はゆらりと一歩踏み出すと、剣を上段に構え直した。
「エリアス、今度ばかりは止めないわ。やってしまいなさい!」
「うわああ、止めろって、仲間割れしてる場合じゃねえし! 姫の弱み握ろうとか思ってないから!」
一歩後ろに下がったとたん、シリルはバランスを崩して後ろに倒れる。壁の窪みに突っ込んだ手が、がくりと下がり、彼は尻餅をついた。
「なっ!?」
ぽかりと開いた穴の奥から眩い光が射した。一行は顔を見合わせると、羽虫が光に誘われるように穴の中に飛び込んだ。