僕の姉と優子さん
人名が結構出てきますが、殆どワンオフキャラなので特に記憶していただかなくて大丈夫です。読み流してください。
昔のことを思い出す。
妖精さんの髪を掴み上げて、その体ごと釣り上げている姉の姿を思い出す。
あの時、妖精さんの髪からほどけて滑り落ちた赤いリボンのことがとても印象的で、今でも目に焼き付いている。
昔はいつも優しかった、あの、お姉ちゃんが、
あの時期だけは、何故だかとても刺々しくて、険悪な雰囲気をまき散らしていた。
高校に入ってすぐの姉は、毎日のように遊び歩いて、母からお小言を食らいながらも、青春を謳歌せんとばかりに日々華々しくなり、輝いていたのに。
「あの時期」は、そんな姉のことが怖くて、家に帰ってきた時は顔を合わせないように無音で扉を開け閉めしてこそこそと家に入っていた。
階段で、下に下りようとしていた姉とお見合いになり、「邪魔なんだよ!」と怒鳴られたこともあった。
が大好きだったお姉ちゃんが、
あの時、
憎々しげな顔で自分のことを見ていた。
「あー、負けた負けた。そういや真ちゃん、今日はおまえいつもに比べて動きが悪かったじゃん。どうしたんだ?」
「え?菅原さんなら今日も活躍してたじゃない。捕まってた女の子達をまとめて全員救助したりとかしてたし」
「あれはガードの岩崎がヘタレで真ちゃんに3秒間もタッチできなかったからだろ…。だから俺がガードやるって言ったんじゃねえか」
「雄太はどう考えてもアタッカー向きだろう。実際泥棒側に足速い奴が多かったから雄太じゃなかったら対応しきれなっかっただろうと思うがね。まあ、今回はその雄太だけでは対応しきれなかったんだけどな」
ケイドロを終えた僕たちは、帰り道が同じグループでまとまって、それぞれ帰路についていました。
ここは都会とはいっても、普段から車が頻繁に通る場所ではありませんので、一列2~4人×3列という大所帯でまとまって歩いています。
後ろで、雄太君達が今日のケイドロについて、やいのやいのと議論しあっているようでしたが、今日はその会話に加わる気にはなれなかったので、僕は横にいる笠井さんの愛犬自慢を適当な相槌で聞き流しながら、昔のことを思い出していました。
途中、自分の名前を呼ばれた気もしますけれど、いつまでも人のことちゃんづけでよぶような人には、返事を返さなくたっていいですよね?
信号機が赤になって、一旦全員の足が止まりました。
一人だけ、自宅が別方向にある笠井さんが、僕たちに手を振って「じゃあ、また明日ね」と告げて、背中に背負った赤いランドセルを弾ませながら、自宅まで駆けていきます。
きっと、一秒でも早く愛犬のシュヴァルツちゃんに会いたかったんでしょう。
そういえば自分も、昔は笠井さんにとってのシュヴァルツちゃんと同じくらい、姉のことが大好きだったなあ…。
「ただいまー。」
鍵を開けて家に入ると、いつものように玄関には妖精さんがちょこんと座っていました。
妖精さんにただいまを言った後、手洗いうがいをきちんと済ませて居間に向かいます。
今日学校で起きたことなどを妖精さんに話しながら、明日雄太君に渡す約束をしていたCDをごそごそと探していると、本棚の方を探していた妖精さんが僕のお目当てのCDを見つけてくれたらしく、僕のほうにスッと差し出してきました。
「ありがとう、妖精さん」
お礼を言うと、妖精さんが一瞬はにかんだようですが、すぐにはっとした表情になって、僕の私物の詰まった汎用棚とCDラック、本棚等を指で指し示してから、両腕をぶんぶんと振り回します。
たぶん、僕が私物の整理をできていないことを怒っているのでしょう。
確かに僕は自分の所持品の整理を、ついついさぼりがちです。
ランドセル収納箱の上段にある木棚なんて、塾の教材と学校の教科書がごちゃまぜに入っているくらいですしね。
「ほらほら、妖精さん。そんなに怒ってたら可愛い顔が台無しだよ」
僕は、妖精さんを褒めて照れさせることで、この件を有耶無耶にしようと試みましたが、妖精さんは意に介さず、ぷすー、と頬を膨らませます。
「そんな言葉で誤魔化されたりしないぞ」って言っている気がします。妖精さんはそんなにちょろくは無かったようです。
腰に手を当てて、分かりやすくぷんすかしている妖精さんの姿に、思わず苦笑が漏れましたが、ふと妖精さんの背後にあった化粧台の鏡が目に入り、妖精さんに弁解の言葉を紡ごうとしていた口の動きが止まります。
「ねえ、妖精さん。今つけてる赤いリボンって、ひょっとして「あの時」のやつ?」
僕の言葉に、ピクリと反応する妖精さん。どうやら間違っていなかったようです。
しばらく、妖精さんのリボンをじっと見ていた僕でしたが、もっと近くで見たいと思い、そのリボンに手を伸ばします。
妖精さんの髪を、そこに結んであるリボンごと右手で引き寄せます。一瞬びくっと体を震わせた妖精さんでしたが、直ぐに落ち着いて畳の上に腰を下ろし、黙って僕の右手に、髪をゆだねていました。
「今日ね、お姉ちゃん、優子さんに会いに行くんだって」
「…」
「妖精さんは覚えてる?」
「…」
「何を」覚えているのかを口に出してない、日本語としては不完全な僕の問いかけでしたが、妖精さんは僕の真意を理解したようでした。
妖精さんの首肯の気配を感じつつ、僕は昔の思い出に意識を飛ばしました。
あれは一年前のことです。
ある時期を境に、姉と両親が頻繁に口論をするようになりました。
両親は「だから、僕はあの高校には入学前から反対していたんだ」だとか「何があっても高校はでるって約束でしょう?優子さんのことは残念だけれど、貴女まで巻き込まれるくらいならいっそ縁を切りなさい。貴女のためを思って言っているのよ。」だとか言っていました。
後から聞いた話によると、当時姉の学校で姉の親友である優子さんがいじめにあうようになっていたのだそうです。
姉達が通っていたその高校は、いわゆる偏差値の低い「底辺校」というやつで、学校の勉強などやりたくもない、勉強してる奴なんて馬鹿にするものだと思っているような生徒が多い所でした。
優子さんは、勉強嫌いではなかったものの、あまり要領のいいタイプではない上に、家の都合であまり月謝の高い高校は選べず、少ない選択肢の中から選んだその高校に姉が合わせたそうです。
姉の方は、持ち前のコミュニケーション能力の高さでそれなりに順応し、遊び友達などもできたものの、彼女は社交性に乏しく、その高校に通う大部分の生徒たちとは真逆の性格だったこともあって、中々上手く溶け込めなかったそうです。
それでも手芸部で同好の士を見つけるなどしてそこそこ上手くやっていました。
けれど、姉達が二年生に進級した時、事件は起きました。
きっかけは、夏休みの修学旅行の班分けです。
姉と優子さんの学年の中でも特に影響力の大きい、いわゆるボス的な女子が優子さんとの同室を嫌がったのがきっかけで、周囲の人間がそれに追従し、優子さんをつまはじきものにしだしたのです。
そのボスが、直接いじめを主導していたわけではなかったそうですが、元々日々の苛立ちをぶつける場所を探していた同級生たちは、日頃から「自分たちとは違うという態度をとる」「生意気な」女を寄ってたかって苛めるのに夢中になったそうです。
敵の敵は味方、同じ敵をみんなで攻撃する形で昏い仲間意識を育む、典型的ないじめの体制でした。
学校の先生も見て見ぬふりをし、警察沙汰にならない程度の子狡い陰険ないじめは優子さんを苛んでいったのです。
その頃の姉は、優子さんとはクラスが違ったこと、自身が新たないじめの対象になることを恐れていたこともあり、優子さんと帰路をともにして励ます程度で、いじめを止める直接的な行動はとりませんでした。
そんな姉の前で、優子さんはどんどん憔悴していったそうです。
それからずっと優子さんに負い目を感じていた姉はやがて、きっかけとなったそのボスに反発し、せめて自分もいじめられる側に立つ決心をしました。
けれど、姉のとったその行動は姉に対してコンプレックスを感じていた優子さんにとって、更なる痛みを強いるものであったらしく、結果として優子さんは姉からさらに距離を取ることを選択し、やがては完全な不登校になってしまったそうです。
姉は、自分が良かれと思ってとった行動が、優子さんへのトドメになってしまったという事実にショックを受けました。
姉は、優子さんに比べて学校での味方は多かった上に、気が強い方であったためか、うかつに手を出せないと皆から思われたらしく、姉への直接的ないじめは発生しなかったそうです。
しかし、ボス達に目をつけられては敵わないとばかりに、姉の元からは友人が離れていき、残った友人も姉が遠慮して距離をおくようになったそうです。
そして姉も、自分のとるべき行動が分からなくなり、味方のいない四方八方敵だらけの状況で、精神的にどんどん追い詰められていきました。しまいには、自分も学校を辞めたいなどと言って両親を怒らせ、ますます孤独な戦いに身を投じていくことになります。
その後の、優子さんの家での対話が、完璧な喧嘩別れになってしまったことで、姉は完全に拠り所を失いました。
あの時の僕は、姉の身に何が起きていたのか良く分かっていませんでした。暫くすると姉は、夜になると普段居間で寝ている僕のところまで来て延々と「優子さん」への悪口を言うようになりました。
それまでの姉は、特定の誰かへの悪口を、悪意をもって言うような人ではありませんでした。
その悪口の対象が、姉の小学校の頃からの大切な友達である優子さんに対するものであったこともあり、僕は何が何だか分からなくなってしまいました。
今思うと、あの時は姉自身も追いつめられていたんだと思います。学校でも両親の前でも心安らぐ空間を見つけられなくなっていた姉が、当時お姉ちゃん子だった僕を心の逃げ道と見なしていたんです。
優子さんのことが好きだったからこそ、優子さんと縁を切って自分だけが楽になる道を選ばず、その逃げ道に縋るしかなかったのです。
でも、当時の僕には、そんな姉を慮るようなことはできませんでした。ただただ豹変した姉への恐怖心が募っていくばかりで、姉の状態にまで気を配る余裕などなかったのです。
そして、「あの日」がやってきました。
あの当時は、僕が受験勉強を始めてしばらく、という時期でした。
塾での成績がそう悪くなかったこともあって、僕の心の中で「自分は凄い人間なんだ」という意味不明で根拠のない優越心、万能感が生まれていました。
そして、誰かが言った言葉や、本に書いてあった名言を深い意味を理解していないにも関わらず、自分の言葉のように使いだすようになっていた時期です。
毎晩聞かされていた姉の愚痴は、当時僕が知っていた「誹謗中傷」という名前の悪い行いでした。そして僕は悪い行いは何が何でも非難するべきもので、それが正しい行いであるという思考の下、姉にこう言いました。
「ねえ、お姉ちゃんのそれって『陰口』って言うんでしょ。優子さんは大事な友達なんでしょ、そんな風に言っちゃだめだと思うな。」
その反応は劇的でした。
「あんたに何が分かるのさ!あたしに変わって学校にでも行ってくれるの!?できるの?できないでしょうが。そういうの、無責任っていうんだよ。良いねえ小学生サマは毎日あそびほうけていられてさあ。あんたのお受験なんてお遊びみたいなもんじゃない。それなのに毎日勉強が大変だとか、『まあ、とりあえずどこかは受かる程度に頑張る』だとか、いっぱしの大人ぶっちゃって。人間関係だって『遊び友達』とそれ以外だけのお子さまな社会に生きているだけの奴がなんであたしにそんなこと言えるんだよ」
姉は、目の前の「自分の味方じゃなくなったもの」に掴みかかり、騒ぎを聞きつけて二階の書斎から降りてきた父に引きはがされて頬を一発殴られるまで、両目いっぱいに涙を流しながら、僕に悪意のこもった言葉をぶつけてきました。
……やっぱり、全然忘れられてなんかいない。
姉は立ち直った後、耐え切れず学校を辞めた優子さんの家に何度も通い、また友誼を取り戻したそうです。
敵だらけの高校で、大学受験だけを考えた生活を続け、高校三年生では、来年からは無くなると言われていた大学推薦枠を確保し、残り半年弱を高校に通わず卒業する権利を勝ち取ることに成功しました。
優子さんも、大検を取って、また姉と同じ大学に通うために勉強しているそうだけれど、それが叶うかどうかは分かりません。でも、今の姉達でしたら例え別の大学に通うことになったとしても決してその仲を壊すことは無いでしょう。
姉と僕との関係は、その事件以来酷く険悪なものとなり、姉が立ち直って僕にお詫びの言葉を言ってくれた時も、「もう二度と前のような関係には戻れないだろう」という確信が僕の心の中にありました。
姉は、僕との仲を改善できるように積極的に声をかけてくれますし、僕もそれに応えてはいます。しかし、やはりお互いにぎこちない演技をしているような実感がぬぐえません。
いえ、言い訳はやめましょう。恐らくそうしたぎこちなさの最大の原因は、僕が未だに姉のことを怖いと思っているからです。
仲良くしたい、という気持ちはあります。
僕は、今も姉のことが好きだと自信を持って言うことができます。
でも、何をしたとしてもあの時姉が に見せた形相が、あの時感じた恐怖が の心の中から離れてくれないのです。
あの時感じたものを思い出してしまい、僕は妖精さんの髪を撫でていた手を止めてうつむいてしまいました。
すると、落ち込んでいる風だった僕を見かねたのか、妖精さんはあわあわと立ち上がって、首をめぐらせて周囲を見渡し、何かを探し始めたようでした。
そして、部屋の中を妖精さんがパタパタと走り回ること数分。妖精さんが手に抱えていたのは、母の化粧道具でした。以前、友人達が家に来た時に母に秘密で口紅を借りて「キスマーク」を作る遊びをしたことがあるので、見覚えがあります。
僕の目の前に化粧道具を置いた妖精さんは、困惑顔の僕の前に正座で座ると、着物の裾を一旦整え、徐にパタパタと道具を振るって、僕の顔に何だか正体の良く分からないものを擦り付けてきました。
妖精さんの意味不明な行動に、怒るより前にあっけにとられてしまった僕は、それから暫く妖精さんの手で顔を好きにされていました。
何やら真剣な顔で化粧を施してくる妖精さんを見ていて、止める気になれなかったせいもあるでしょう。
結局、何だかんだあって妖精さんの悪戯は、お互いがお互いの顔に化粧を施すじゃれ合いに発展しました。
鏡で顔を確認した時には鏡に映ったとんでもない変顔を目の当たりにして、二人して笑い転げました。
そういえば、以前母が言っていたことがあります。
「化粧は女の鎧なの。嫌なことがあった時でも、今日は誰と顔を合わせたくないなって時でも精一杯武装して、今日の戦いに挑むのよ。」
妖精さんは、その言葉を覚えていたのでしょうか。本来の意味合い通りではないでしょうけれど、確かに、先ほどまでの嫌な気持ちはどこかに吹き飛んでしまっていました。
そうです。嫌なことがあっても、それが忘れられないことであっても、今日この日を生きるのには関係ないのです。
だから、大人の女性は化粧で強い自分を装って自分を鼓舞して戦いに挑むのです。
「妖精さん、ありがとう」
僕は、思わぬ方法で僕のことを助けてくれた大切な相手に、感謝の気持ちを伝えました。
妖精さんも、やっと僕が気持ちを切り替えられたことが分かったのか、僕の言葉にうなずきつつ、なんだかホッとした表情を浮かべていました。
……その顔の見栄えが相当酷いことになっているのは言わないでおいてあげた方が良いよね?
初稿では優子さんのエピソードがあまりに鬱全開だったため、直しました。
この物語はあくまで「菅原真」の物語ですので。
次話:「僕と妖精さん」(完結)