黎明───零、“やがて廻り”。
「 The world where lie is filled.」
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〜境目のぼやけた、終わりと始まり。〜
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……。
ここは、どこだろう。僕は目を開く。目に広がったのは、白く綺麗に升目が整列された、天井。
「……兄さん!」
叫ぶ異母妹。抱き着いて、泣き縋って。僕の元に。
「い、痛いよ?」
抗議しながら頭を撫でる。ここはどこだろう。
僕は、いったいどうしたんだろう?
「お目覚めかい? 兄さん」
一際低いトーン。それは女性よりは低く男性よりは高い、不思議な声音。
声に目線をやれば、背の高いひょろりとした影。そこに強い曲線は無く、しかし決して硬質な直線も無い。
もう一人の、妹。昔従兄妹だった義妹だ。
「あ、ああ……」
目が覚めたかと訊かれたのは僕だろう。彼女はとても冷たさ含んだ雰囲気で、こちらを見据えた。……居心地が悪い。
時々思うけれど、僕はこの義妹に嫌われている節が有る……と、思う。細めた瞳に悪意は感じないけど憎悪は見えるみたいな。
そんな僕らの微妙な空気を知ってか知らずか、僕に未だくっついている異母妹は呆れる程明るく話し掛けて来た。
「良かったわ、兄さん。心配したのよ? 急に倒れるんだもの。だいたい駄目じゃない、体は大切にしなくちゃ。幾ら兄さんが技術者と言ったって─────死んでしまったら意味が無いのよ?」
眉を寄せて可愛らしく、そして驚くくらいにのんびりとした早口で、彼女は言った。
“のんびりした早口”。この表現は間違いでは無い。見た目ほんわかしている異母妹はどこかのほほんとしている口調で、有り得ないことにどうして出来るのか、いつ息継ぎをしてるのかよくわからない喋り方をするのだ。僕はただ「ごめん」と返し異母妹は笑顔でそれに「よろしい」と頷きその光景を醒めた顔で義妹が眺めている。
僕は義妹の目が気になり異母妹を引き剥がす。異母妹は不機嫌そうに唇を尖らせるが僕は気にしてられない。
冷や冷やしているのだ。実のところ。
義妹は、その冷静で冷酷で見透かすように眇めた眼で、僕の浅ましい想いを見ているのではないかと。
やがて義妹が溜め息を吐いた。僕は身を竦ませる。
「……そろそろ面会時間が終わるよ? 摩由璃」
義妹が異母妹を、摩由璃を、呼んだ。摩由璃は口を尖らせ、「えぇー」と言う。
「摩由璃」
そう二回目を呼ばれ、さすがに摩由璃も渋々と僕から離れ退室準備を始めた。その姿の可愛らしいこと。けれど僕は長く見詰めはしない。そうしたところで、また義妹に睥睨されては僕は生きて逝けない。だって心地がしない。
支度を終え摩由璃はドアの向こうへ消えようとしていた。僕を最後振り返り満面に笑んで手を振った。
「また来るから、兄さん!」
元気な摩由璃が去った。部屋には二人だけ。
面会時間が終わるのに義妹が去らないのは愚問だった。ここは病院、義妹はここの医師だ。
余分な肉をゆるさず滑らかな凹凸を残したすらりとするフォルムに、真っ白な白衣が美しい。うっとりとするようだ。
性別のいやらしさを感じさせない肢体も白衣に負けない白さを覗かせる肌も。その肌に乗る紅い唇さえ、僕にとっては尊く欲しいモノだった。
────そう。卑しくも僕は義妹が好きだ。彼女は知らない。むしろ絶対嫌われている。母親を亡くした異母妹を過ぎる程甘やかしているから。妹だからって溺愛し過ぎだと、軽蔑さえしてるだろう。
揚げ句愛しいと思う彼女自身も義理とは言え妹だ。求愛は出来ないし求婚は望めないし。───八方塞がり。
これはこれで僕にしたら途轍も無く切ない恋だと思うのだけど、下卑た色欲に変わりは無い。美しく潔癖な義妹はますます僕を嫌悪するだろう。それは避けたい。
うーん、と、頭を悩ませる。そうして僕は独り善がりな考えに没頭していて気付かなかった。
洗練された所作で白衣を翻し、僕のそばに義妹が近付いていたことに。
「兄さん」
“誠実さん”
同じ声が、今は違う呼び名を口にする。僕は弾かれるように義妹を見たけど、表情は相変わらず眉間に皺だった。
「兄さん」
「……っ、……何だい綾女」
昔は綾女ちゃん、と呼んでいた。昔は従兄妹だった。今は義兄妹だった。
もし従兄妹のままなら、僕は躊躇わず求愛しただろう。従兄妹は婚姻が認められるから。それに、母たち自体がそれぞれ異父姉妹なので、僕たちの血の繋がりはまた薄いのだ。こう考えるとあのころなぜ言わなかったか悔やまれる。自己完結しかすでに道は無い物思いを放棄し促す。綾女の言葉を待った。
二度と名では呼んでもらえないんだ。
そう思うと悲しいけれど。
「兄さん。根詰め過ぎだね」
「う、うん……」
「医者としては放置出来ないね」
「じゃあ家に戻って来るのかい?」
震えた調子の声に喜色が滲んだ。信じられない。
「まさか」
「……だよね」
嫌だろう。三人目の義母は僕の実の叔母、例の母の父親違いの妹だったんだけれど、とても摩由璃を嫌っている。摩由璃の母が自分の姉、つまりは僕の母が病死してすぐに籍入れしたから。
母の代わりに僕の母になったから。
そんな摩由璃の母は病死したけど。ストレスに因る心不全だった。
叔母が原因だ、と思いはしないけれど。
綾女はそう考えている。
戻らないのか……。少しくらい、そう考えるが笑って言いはしない。言ったら、嫌われてしまうから。ますます。
綾女は、己の母が摩由璃を虐げるのも、僕が異様に甘やかすのも目障りだったみたいだ。綾女はコンプレックスを抱いているから。摩由璃に。
摩由璃は、亡くなった義母によく似て、またそれが叔母を煽るのだけど、ふわふわと可愛らしい子だ。逆に綾女はスラッとして長身のモデルみたいな体型。
それを綾女は女らしくないと思っているようだけど。僕はそうは感じない。むしろ美しい気がする。
楚々とした装飾美と滑らかな機能美が同居して、僕はこちらのほうが良いくらいで。
こんな機械莫迦が言ってもうれしくは無いだろうが。
そう考えながら、彼女に懸想しながら。僕は摩由璃を甘やかすのだから。
嫌われるよな。自嘲する。
「帰れないよ」
「そうか」
「受け持ち増えちゃったから」
「え?」
『受け持ち』と言う単語に首を傾げる。綾女は更に続けた。窓に歩み寄りながら。
「ほら、あそこに立っているだろう? 新しい建物」
綾女が指差す先には、確かに白くまだ新しい感じの、館の形をした建築物が見えた。対比と距離からしてあまり大きくないようなのに、無機質に重たくこちらを見せ付けるそれは病院の敷地内に在った。
「見えるね」
僕は即答。彼女はふっと息だけで笑った。その美しいこと。危うく見惚れて自失するところだった。
「あそこはね、精神科病棟さ。兄さん」
にいっと、唇の端が吊り上がる。僕は瞬きをした。……はて。綾女は医師だが内科担当で、精神科では無かった気がする。僕はそれを問おうとすると、口を開く前に察したらしい綾女があっさり付け足した。
「内科、」
「え、」
「外科、脳外科、神経外科、精神科────私の資格だよ。大学病院にいたころに取った」
悪戯をする少女のように、奇しくも昔の従兄妹同士だった時代の面影を重ねさせて、綾女は笑った。
その眩しい笑みにただ「ああ、」と返しながら僕は口を噤む。だって危なかったから。
今話していたことなど忘れ、うっかり滑りそうだった。────「愛している」、と。綾女は僕の心中に興味が無いのか説明に気を取られているのか話を続けた。
「私もね、嫌だったんだけど。“どっかの誰かさん”の御蔭でそうもいかなくなったんだ」
「“どっかの誰かさん”? ……誰?」
「……。本気で言ってるの?」
少し睨まれた。あぁ、せっかくの笑顔が。見れるのなんてあと何年掛かるやら。
「兄さんがあの“ガラクタ置き場”から拾った女の子いたでしょ?」
「ああ、うん」
彼女か、と気付く。
人形廃棄場。今や世界は人形に支えられ人間はその上に君臨し豊かに暮らしていた。
まるで近世の名残を残しつつ、いや、もしかしたら風景は更なる退行をさせ、アンティークの装いをしているかもしれない。少子化の影響で減った人口を補うように、人形開発が進められた。人形たちは自立思考を持ち、それに加えて自律思考を持ちそうして何と子供まで生すのだ。
と言っても人間や動植物のようには行かないんだけれど。遺伝子工程からゆるりと培養され作られる人形たち。
そしていつかは廃棄される。人間と人形の違いはここだろう。
人形には弔うと言う概念が無い。だから、彼らは、もしくは彼女らは、身内が亡くなればあっさり、保健所に電話して遺体を引き渡す。
この引き渡される先が、《人形廃棄場》。綾女が、それと世間が、俗に『ガラクタ置き場』と呼ぶ場所だ。僕は技術者で、人形工場に働いている。廃棄場へは仕事で行った。
その先で、僕は少女を拾った。
どことなく摩由璃を彷彿させる、人間の少女を。
なぜ人間なのに人形廃棄場にいたのか。少女が精神的ショックで記憶を失ったらしい今では、わかっていない。ただ身元は判明していて、少女は母親を早くに亡くし父親と二人暮らしだったそうだ。
けれどもその父親も亡くなっていたようで、少女の身柄を確認に向かった職員によって遺体が発見されたと言うのが、聞いた話の顛末だった。
……そうか、あの少女が。
「あそこにいるんだ」
「そう。『どっかの誰かさん』が考えもせず私に押し付けた」
言葉に棘を感じるのは、きっと勘違いじゃない。
「綾女……」
「冗談だよ。今、《世界》は病んでるからね」
「患者、増えてるのかい?」
人は、人形に頼り過ぎたんだ、と僕は思う。人形は言わなくても持ち前の察しの良さで何でもこなしてしまうし。
他者との懸け橋も。今、他者との交流に人形を遣う者は多い。
そうでなくてもインターネットは世界に張り巡らされ、直に会う必要は減り他者はもっとも近い他人になり。
家族はその利便性や親近感が増すたびに、遠く、他人になって行った。
《世界》はやがて、すべてを亡くす。
病んでしまう。
「摩由璃もそうだしね」
気の無い風に、綾女は言う。
「摩由璃は……」
「嘘だよ。でも危ない」
きっぱりと。断罪するような声で言う。断定の発言。僕はそれに反論する言葉は持っていなくて、ひたすら口籠もる。
義母が死んでから、摩由璃は自分の世話を旧式の熊型のロボットに見させている。AIを搭載したその熊は、テディベアの着ぐるみを着たみたいな二頭身は、一昔前のアニメにいた青い猫型ロボットのような感じだった。
依存している。そうは思う。
「摩由璃の熊ってさ、狸みたいだよね。あの、ほら、昔のアニメの……」
「……。綾女、アレ、猫だよ」
「えー? 嘘」
「いや、アレ、猫だから」
頭の良い綾女は、なぜかそんな有名なことを知らなかったりするんだ。常識、とまで行かなくても周知の事実、的なことを。
そこが可愛いなんて、やっぱり惚れた欲目か。
関心を失したらしい綾女は次の話題を僕に振った。
それが、僕には爆弾だったなんて、お互いまだ知らない。
「兄さんも危なそうだけどね」
「ちょ、ちょっと……」
「職業柄さ。ああ、気狂いって遺伝するのかな? 摩由璃も心配ってさ」
「は?」
「や、お義母さんもだったしね」
「へ?」
「摩由璃の、お母さんだよ───どうしたの?」
僕は綾女の言ったことの意味がわからなかった。……何だって?
綾女は綾女で訝しげに僕を見る。そうしてから目を見開き再度解かれた眉間の皺を締めた。
厳しい顔も凛々しいなぁ、なんて。
ちょっとだけ現実逃避してみた。だって。さっきの言い草は。だって。
だってまるで摩由璃の母さんは────。
「……誠実さんは何も知らなかったってことか……」
吐息並に儚い囁きに反応したのは、多分彼女の口から僕の名が出たからだ。
もう二度と呼んでもらえないと覚悟していた名を。
つい。つい不謹慎にもうれしくて。
綾女は僕なんかの心の動きを感付きはしないんだろう。ただ今し方浮上した疑惑に占拠されたらしい頭に、表情険しく空を睨み付けるだけだ。
「あ、綾女、」
「────兄さん」
ああ、もう戻ってる。……や、そうじゃなく。
「綾女?」
「兄さんは気にしなくて良いから」
何が、とは尋ねない。なぜならそれは。
「摩由璃の母さんは……」
「気にしなくて良い。兄さんは、─────摩由璃を愛していれば良い」
愛して、のとこから瞳が冷たかったのは何でだろうか。いやいやそうじゃなくて。
「でも、」
「良いんだよ、それで。知らなくて良いんだ」
綾女は頑としてそう言い渡すけど、僕にはわかっている。
きっと僕は知ってしまう。知らないでなんかいられなかったんだ。
いつか山へ登って、摩由璃の母さんが首を吊った山へ行って、だから。
今、綾女が僕を遠ざけようとしても。
僕は、摩由璃は、綾女は。
《世界》は。
……? 僕は? 摩由璃は? 綾女は?
いったいどうなると言うのだろう。いったい。
いったい僕は。いったい。
いったい《世界》は。
「綾女っ……」
不安に駆られ僕は愛しい義妹の姿を捜す。捜すまでも無く目線さえ上げれば良かったのだ。だが。
「綾女……?」
そこに在った綾女の姿は、白衣を着た馴染みのものじゃなかった。ぴったりした、その手滑りの良さそうな体に纏わり付く黒いスーツ。頭には小さいがハットも乗っている。
あくまでイメージ的だけど、アリスの帽子屋に似ているような。
「綾女、あや……」
「─────兄さん」
綾女は振り返り、僕の縋るみたいな呼び声を遮って。僕を見詰めた。
なぜか、憐れむように。
どこか、憎むように。
振り向いた彼女は泣きそうに見えた。美しい顔が、そこに配置良く嵌められた眼を揺らして歪められている。
あまりの美しさに息を飲んだ。何て慈悲深いんだろう。
綾女。
黒衣はこちらに翻った瞬間見慣れた白衣に戻った。帽子も消えた。日頃お目に掛かれれば、目にする白衣の医師姿。
「綾女、」
「兄さん。
本当に、わからないの?」
視界が歪曲を生んだ。
すべては夢なのか全部偽りなのか。僕を構築するモノは虚言で有ったのか。
何が真実で何が幻想で何が。
いつか綾女が語った。あの白い建物は、館のような洋風墓標みたいなシルエットの牢獄めいたアレは俗に『最果ての屋敷』と呼ばれているのだと。
廃棄場で拾った少女は己を“人形”だと思い込んでいること。
死んだ父の代わりに僕を新たな主と刷り込んでしまっていること。
最愛の奥さんが死んだショックで白髪になった人格障害の男の話とか。
それを聴きながら、摩由璃が自分の人形ではない世話役ロボットを傷付けていることを思い出す。
ああ。いつか。
いつか、僕は。
やはり《世界》は繋がっているのだから。
いつか、……。
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