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時任聡美の追跡

 時の獣というのは、もともと万物に宿っているものなんじゃないかと私は思う。

 普段は私のような能力者にも見えないけど、タイムスリップすることで具現化される想いの形なのではないのか? だから、元の時間に戻りたくて、時の獣は切ない顔をしている。私はクロックの仕事を手伝うようになって、そう考えるようになった。

 私が漂流物を元の時間に帰すことに協力している理由は、実を言うとその切ない表情がたまらなく胸を締め付けるからである。

 私はクロックと出会う前は、時の獣と出会っても何もできないから見ない振りをしていた。そのたびに心が締め付けられ、こんなもの見えなければいいのにと何度も思った。考えてみれば、平凡な生活を望むようになったのはその頃からかもしれない。

 クロックの仕事を手伝っているのは、世界のバランスがどうとか、普通の平凡な女子大学生にはスケールが大きすぎてピンと来ない理由じゃなくて、私の個人的な感情の問題で手伝っているのだ。

 そうか……

 林田先輩の時の獣は悲しそうな顔をしていなかった。だから私は迷っていたんだ。

 でも、なぜだろう? どうして、元の時間に帰りたくないと時の獣が思っているんだろう?

 人に宿る時の獣だから? 元の時間に戻ったら、おそらく死が待っているから?

 何か違う気がする……でも、何かがなんなのかはわからない……

「聡美! いつまで寝てるのよ」

 ああ、クロックの目覚まし声がうるさい。もう少しで納得できる結論になるんだから、もう少し静かにしておいてよ。だから――

「あと、五分……」

「寝ぼけてるんじゃないの! 聡美が渋ってたから逃げられたじゃない」

 うぐっ! わき腹に激痛が!

「痛いわね、クロック! 何するのよ」

 私は蹴られたわき腹を押さえつつ身体を起こした。

 あれ? いつもの部屋とは違う。ああ、林田先輩のところに来ていたんだっけ。

 私が先輩を探して周囲を見回しているとクロックがポツリとつぶやいた。

「逃げられたのよ、林田に」

「え……」

 さすがに責任を感じて申し訳なく思う。でも、クロックは容赦なく、そんな顔するぐらいなら早く覚悟を決めておきなさいよ、と言いたげな表情をしていた。ごもっともで何も言い返せない。

 でも、あの時の獣の話というか、事情を聞いてあげることができないのか。私には、何も聞かずにあの時の獣を元の時間に返すのはやっぱり嫌だ。還さなければならないとしても、話を聞くぐらいはしたい。

「あの、クロック……」

「聡美はどう思ってたか知らないけど、ウチは時の獣の話を聞いて、それから手立てを考えようと思ってたのよ。いつものようにね」

 クロックは腕組みして本当に不機嫌そうに私に言った。私はその言葉に驚いた。

「そ、そうだったの?」

「あのね。今まで一緒にそうやって来たでしょう」

 本気でそんなの初耳よ。

「だって、その時はいつも時の獣のイメージでいっぱいなんだもん」

 などとかわいくごまかしてみたが、そう言われれば確かに時の獣たちは満足して消えていっていたわね。

「だいたい、時の獣の事情も聞かずに能率重視で還すのなら結晶使いの時の女神になっているわよ。聡美の中に入り込んでくるイメージはウチの中にも入り込んでくるの。聡美には処理しきれないから雑多なイメージだろうけど、ウチはちゃんとそれを読み解けるのよ」

「そうなんだ……ごめんなさい。知らなくて」

 私はちょっと落ち込んだ。クロックのことを知っているつもりで、まったくわかっていなかった。

「まあ、それはわかればよろしい。次は躊躇しないでね」

 私はきっちりうなずいた。

「とにかく、まだ遠くへは行ってないはず。聡美は周辺を聞き込みしてきて、ウチは行きそうな場所がないか、この部屋を調べる」

「うん、わかった」

 私は部屋を出て、他の研究室で聞き込んだ。

 どうやら、私たちを気絶させたのは飯田さんらしい。二人で慌てて出て行く姿が目撃されている。

 私はその後の足取りをつかもうと物理学科の校舎から出て、目撃者を探した。

 しかし、なかなか犯人の足取りはつかめず、捜査は難航した。

 ただでさえ、日ごろから人気の少ない物理学科。その上、試験日程がほぼ終了していて、春休みに入っているとなったら、目撃者探しも楽じゃない。

「でも、刑事は歩くのが仕事。情報は足で稼げって、山さんも言ってたのよ。あきらめずに――」

「あれ? 聡美。こんなところで何してるの?」

 私が気合を入れなおしていると、現れた天の助け。サスペンスの神様が二時間以内に事件解決させるために使わした天使様。

「情報屋の徳さん! ちょうどいいところに」

「誰が情報屋の徳さんよ。また、サスペンスドラマの見すぎで探偵気分に浸っていたんでしょ」

 情報通の私の友達、徳永秀美にあきれた顔をされた。

「い、いいじゃない。好きなんだから」

 恋愛ドラマよりサスペンスドラマにはまってしまうのはオバサンという声は却下よ。各地の名物名所案内に、地方のグルメ、ちょっとした歴史街道まで紹介されるなんて、お得なドラマじゃない。

「で、何してるのよ?」

「あ、そうだった。飯田さんと林田先輩がどこに行ったか知らない?」

 秀美は一瞬、真顔で答えかけたが、私の顔を見てニヤッと笑った。ああ、ろくでもないこと思いついたな、秀美。

「さあなぁ、知らないわけでもないんだが、ここのところ、学食のA定食ばかりでさあ。たまにはスペシャル定食とか食べたいなぁ。なんて思うわけよ。ダンナ、わかるっしょ?」

 秀美、バカにしている割にはよくサスペンス見ているじゃない。街のちんけな情報屋そのものよ。

 私は財布の中にしまっておいたスペシャル定食の引き換え食券を秀美に握らせた。

「ああ、そういえば、急いで校門の方へ走って行ったわね」

 そういいつつ、秀美の左手が追加を要求している。ほんと、どこかで出演しているんじゃないの?

 私はもう一枚、食券を握らせた。

「その後は何か口論してたようだけど、仲良くタクシーに乗り込んで、富野市方面に走り去っていったわよ」

 富野市? 飯田さんの家とは反対方向ね。

 私はもう一枚、食券をちらつかせた。しかし、秀美は肩をすくめるだけだった。

「それじゃあ、ダンナ。あっしはこれで失礼しやす。追試の勉強しなくちゃいえねぇんで」

 これ以上は情報無しか。しかし、たったこれだけでスペシャル二枚は痛い。

「スペシャルランチの食券でワンポイント家庭教師してあげるわよ」

「その必要があるときは、その食券でもう少しいい家庭教師を見つけるわよ。じゃあね、聡美」

 私からせしめた食券を戦利品の旗印のようにひらつかせ、秀美は図書館の方へ歩いていった。

「ちっ。食券奪還作戦失敗。だけど、とりあえず、最低限の二人の足取りはつかめたわ」

 一度、クロックのところに戻って対策を考えよう。

 私は大急ぎでクロックの待つ研究室へと戻った。時間を操れるのだから急いで戻ってもあまり意味はないかもしれないけど、気持ちを何か形に表すのは大事なことと思う。

「警部! 大変です」

 研究室の扉をあわただしく開けて、思わずそう叫んでしまった。

 だって、クロックは机に腰掛けて、どこぞの刑事長のように何かの書類を読んでいるんだから、つい……。

「どうした、バイト刑事。何かわかったか?」

 クロックは私よりもよっぽどノリがいいようね。

「目撃者の証言だと、正門前から飯田愛美と一緒にタクシーに乗り込んで富野市方面へ走り去ったようです……って、そのバイト刑事ってなによ」

 私が文句を言うと、クロックは読んでいたものを机に戻した。何かの原稿みたいだけど、二人の行方に関係することが書かれてあるようには見えない。さては、私一人に仕事させたわけ?

「アルバイトばかりしてるからよ。上手く特徴をつかんでいると思わない?」

「やりたくてやっているわけじゃないわよ。そうしないと学費と食費が稼げない……って、そうじゃなくて、タクシーに乗ってどこかに行ったなら、いったん仕切り直した方がいいかもしれないわね。それとも時間を巻き戻す?」

 私たちがここで気絶させられる前まで巻き戻せば、不意を襲われることもなく目的は完遂できるのだけど、クロックは何か腕組みして考え込んでいる。いつもは即決で力を使うくせに。

「クロック?」

「確かにそれだと効率的だけど、納得してくれるかしら、飯田って娘は」

「飯田さん? 飯田さんがどうかしたの?」

 私はクロックの口から意外な名前が出てきたことに驚くよりも不審に思った。

「え? いや、なんでもない。今回は巻き戻さないで解決させるわ」

 クロックは反動をつけて立ち上がった。

「行き先もわからないのに大丈夫?」

 クロックなりに考えがあるいうだけど、この子の思考回路って今ひとつ信用に欠けるから。

「林田は空港に向かったのよ」

「空港? 確かに富野には空港があるけど」

 その根拠がまったく不明なのよ。まさか、高飛びといえば、飛行機なんていうんじゃないでしょうね。

「ふふふ。凡人には神の思考を理解できないようね。犯人はこういう場合、高飛びするのが定番だからよ。そして、高飛びといえば、文字通り、飛行機なのよ! うーん、完璧な推理。さあ、さすが神様と崇め奉りなさい。いまなら、お賽銭の半額割引セール中よ」

「それはサスペンスドラマの話でしょう!」

 私は容赦なくクロックの頭をその辺においてあった本でどついてやった。

「い、痛いじゃないの。ちゃんとこれには根拠があるのよ」

「ほほう。それじゃあ、一応、聞いてあげようじゃないの」

「飯田愛美はお金持ちなんでしょう? そうすれば、ウチらの追ってこれないような場所、つまり、追うのにお金がかかる場所に逃げようとするのが筋でしょう」

「うっ! 一見、筋が通っていそうな推理。でも、たとえそうでもどうするのよ。今から追いかけて空港に行っても、ゲートの中に入られたらお終いよ」

 航空券を持ってなければゲートの中には入れないし、話によるとお得意様専用のラウンジもあるみたいだから、そういったところに入られると航空券を買っても探し出せない。

「確かに空港は広いし、人も多い。しかーし、神の前では無力よ」

 クロックが自信満々に胸を張っている。なんだかさっきも見たような気がする。

「要するに、高飛びできないように飛行機を飛べなくすればいいのよ」

 クロックの発言に私があっけにとられていると、クロックは研究室の備え付けの電話を引き寄せてどこかに電話をかけはじめた。

 私は電話の内容が聞こえるようにスピーカーモードのボタンを押した。

『はい。交換室です』

 スピーカーから少々くぐもっているが、若い女性の声が聞こえた。

「私は第七管区限定第二種、時の女神のクロックです。自然現象局の気象の女神、ひまわりに繋いでください」

 クロックの口調はいつもよりも落ち着いて、硬い感じがした。

『わかりました。しばらくお待ちください』

 事務的な返答の後、のんきな保留音が聞こえて、しばらくしてから保留音が鳴り止んだ。

『おひさしぶり、クロック。元気にしてた?』

 打って変わって、スピーカーから能天気な声が聞こえて、私はちょっと拍子抜けした。

「一応、元気よ。そっちはどう?」

 クロックもさっきとは打って変わって、いつもの軽い調子に戻っていた。どうやら、知り合いみたいね。

『元気だよ。でも、心配してたんだよ。管区の大御所のところに怒鳴り込んで、石頭の偏屈ババァ呼ばわりして逆鱗に触れるんだもの。話し聞いたときは大笑いしちゃったわよ』

「あんたねぇ~。もう少し優しい言葉はないの? 苦労している友達に対して」

『うーん……ない』

 クロックはきっぱり言い切られて、さすがにショックなのか、机に手を付いてうなだれていた。

『だって、そんなことしたら事務所がクビになるのはバカでもわかることだし、自業自得? でも、友達として心配はしてあげたよ、するだけだけど』

「いい友達を持って涙が出てくるわよ」

『でも、地上界でなんとか生活できてるみたいね。職にあふれて、地上界に行ったはいいけど、神様の仕事も見つからずに信仰も得られず、野良神さましている神さまが多いのに』

 そんなに神様はこっちに来ているのか。でも、その神様が路頭にまとう地上界って、結構地獄かもしれない。

「パートナーが見つかったからね」

 クロックはちらりと私の方を見た。ちょっと気恥ずかしい気分になって、わざと視線を外した。

「これもウチの日ごろの行いがよいおかげよ。きっと、どこかで偉い神様がウチのことを応援してくれているのよ。そのうち、白馬に乗った大神さまがウチを迎えに来てくれるのよ」

『はいはい。いつも通り元気そうで何よりよ。それじゃあ、こっちはまだ仕事中で暇じゃないからそろそろ切るね』

「ウチも仕事中よ。実はひまわりに頼みがあるの」

『何? 聞くだけなら聞いてあげる』

「今から言う時間と場所に雪を降らせて。飛行機が飛べなくなるぐらい盛大に」

『そ、そんなことできるわけないでしょ』

 クロックの頼みがどれほど無茶か知らないが、相手の反応を聞くと結構無茶みたい。

「もちろん、ただとは言わないわよ。はさみ将棋の未払いになっている賭け分。その利子ってことで」

『高すぎる~』

「じゃあ、ひまわりの職場の上司に、ひまわりの賭けはさみ将棋のツケが溜まっているんですって、相談しちゃおうかな~?」

『そ、それはだめっ!』

「そうよねぇ。ひまわりの上司って、かっこよくて若い娘に人気があるのよね。しかも彼、清純な女神が好みって話だったわよね。ひまわりが賭け事なんて知ったら百万年の恋でも一気に冷めちゃうかもねぇ。ましてや、付き合う前だったら軽蔑しちゃうかも」

 クロック、あんたは鬼か?

『うう……』

「というわけよ。元利からも一本差し引いておくから、やってくれない?」

『うー、こんなのは今回だけよ』

「商談成立。今後のことは善処しますとだけ言っとくわ」

『鬼ー!』

 クロックは空港の場所を教えて、今日の夕方まで雪を降らせるように念押しして電話を切った。

 空港の方を空を見ると不自然に暗雲が垂れ込めている。本当に雪を降らせているようだった。こういうのを見るとクロックも神様の端くれなんだなと思いそうになる。

「早速、行動開始してくれたみたいね。とろそうに見えても、やるときはやる娘よね。さすが、ウチの親友。さて、これで空路は封鎖したわ」

 クロックは早速、空港に電話して欠航が出ていることを確認した。

「でも、空港が使えないとなったら、どこかに身を潜めるんじゃない? 探し出せるかしら?」

 私は彼女の家は知っているが、別荘など知らないし、ホテルに泊まられては手も足も出ない。

 クロックは腕組みして考えてから、ふと顔を上げた。

「聡美。この辺で、断崖絶壁のある海岸とかある?」

「断崖絶壁の海岸? なんで?」

 質問の意味がわからずに間抜けな声を上げてしまった。

「追い詰められた犯人は断崖絶壁に逃げる法則を知らないの?」

「そんな法則知らないわよ。ちなみに、この近くにそういうところはないわよ」

 まったく、サスペンスドラマじゃないんだから。私もサスペンスは好きだけど、そこまでそのとおりになるとは思ってないわよ。

「ないのか……戦隊ものなら石切り場や造成地って法則なんだけど、ここではその法則は適用できないし……」

 クロックはいたって真剣そうだが、私はちょっと生暖かい視線で見守ろうと精神的に距離を置いた。

「そうだ。何か思い出の場所に行くというのも定番ね」

 法則とか、定番とか、このまま黙っているとどこに連れて行かれるかわかったもんじゃない。精神的に距離を置くつもりだったけど、自分の身にも災難が降りかかるのだった。私は仕方なく、その意見に反論することにした。

「確かに追い詰められたら思い出の場所にって思うかもしれないけど、あの強気で鼻っ柱の強い飯田さんが追い詰められたなんて思うかしら?」

「うっ。確かに。実際に見たことないけど、ウチらをのして逃げるような女がそう簡単にあきらめるとは思えないわね」

「そうでしょ?」

 やれやれ、やっと自分の推理がずさんだとわかってくれたか。

「うーん……。捜査はふりだしね。思い出の場所なら心当たりあったのだけど」

 クロックは机の上の写真を私に見せた。この部屋には他にデートの写真はない。となると、そこが一番の思い出か、唯一の思い出なんだろう。

 写真はテレながらも幸せそうに笑っている林田先輩と、あの気の強そうなお嬢様の飯田さんが子供のように明るい笑顔をしていた。

 この二人の笑顔を、どう決着をつけるかわからないが、おそらくは奪うことになるのだと思うと改めて気が重い。

 そのことはなるべく考えないようにして、背景に写っているものから写真の場所を探ってみることにした。しかし、あっさりと場所を特定するものが写っていた。

「この写真の場所、海浜公園ね」

「そうだと思う」

 写真に写っている帆船は公園に係留している船としか思えないから間違いないだろう。

 海浜公園……ヨットハーバーとかがあって、定番のデートスポットよね。意外に飯田さんも普通の女の子なのね。プレジャーボートを持っているって自慢するぐらいお金持ちなのに……ボート?

「ここよ!」

 私はいきなり大声を上げた。

「へ?」

「飯田さん。ここにプレジャーボートを持っているの。それを使うかも」

「でかした! 聡美」

 私たちは海浜公園に大急ぎで向かうことにした。


 海浜公園といっても、砂浜があるわけではなく、海釣り用の堤防があるだけである。昔からあるヨットハーバーに相乗りするように作られた公園でさほど広くはない。

 クロックは数百メートル範囲の時間の獣の気配をおおよそで感じることができるから二人を探し出すのはそれほど難しくはなかった。

「ここであったが、百年目! ウチらを出し抜いて逃げようなんて、百万年早い。おとなしく、お縄につけ。国のおふくろさんは泣いているぞ」

 林田先輩と飯田さんの行く手をふさぐように、階段の上で仁王立ちになってクロックが降伏勧告をした。

「邪魔しないでよ。急いでるんだから」

 先輩をかばうように飯田さんが前に出てクロックに怒鳴り返していた。

 先輩の時の獣は相変わらず、飯田さん同様、こちらに敵意を丸出しだ。ああ、やっぱり納得しているけど、気が進まない。

「その林田健次郎を置いていくのなら、通してやってもいいわよ」

 私はクロックの横で彼女の袖を引いた。

「クロック、なんだか悪役じみた台詞になっているわよ」

「うるさいわね、聡美! 今度こそ、躊躇しないでよね」

 クロックは二人に対する勢いそのままに私に言ってきたが、いざ、当の本人を目の前にすると決心が鈍る。というわけで返答は――

「善処します」

「だぁ! 政治家か、あんたは!」

「クロックもさっき使ってたでしょ!」

「ウチはウチ。聡美は聡美! 自分に優しく他人に厳しくがウチのモットーなの」

「そんな身勝手な……」

「漫才を見て欲しいのなら、劇場に行きなさいよ! とにかく、通してもらうわよ」

 私たちの掛け合いを付き合ってられないと強引に飯田さんが先輩を引っ張って通ろうとした。

「だめよ! 通さない!」

 しかし、クロックがその行く手を阻んだ。

「邪魔しないで!」

 飯田さんがクロックの手をつかんだと思うと、クロックはきれいに円を描いて投げ飛ばされた。

「クロック!」

 私はクロックに駆け寄った。飯田さんたちはその隙に脇を通り抜けていったが、クロックを放置して追いかけるわけにも行かない。

「っ! ……女神のウチを投げ飛ばすなんて罰当たりもの! 絶対に許さないからね」

 手加減してくれたのか、クロックが無駄に丈夫なのかわからないけど、あまりたいした怪我はなさそうだ。とりあえず、よかった。

「クロック、趣旨変わってる」

「いいから、追いかけるわよ!」

 私はクロックに従って、しぶしぶ二人の後を追いかけた。

「あれ?」

 逃げている飯田さんを見ていて、何か妙なものが見えた。

「どうかしたの?」

「ううん。なんでもない」

 クロックにはそう答えたが、今、確かに飯田さんにも絡みつく時の獣が見えた。とはいえ、形もはっきりしていない存在感があいまいなものだけど……見間違いかな? それとも先輩の時の獣の残滓か何か?

「聡美! 真面目に走りなさいよ! 真面目にやらないと晩御飯抜きよ」

 クロックが考え事してペースの落ちた私を怒鳴ったから考えがまとまらないじゃない。

「晩御飯の材料費も、晩御飯を作るのも私でしょうが!」

 そう言い返しつつも、私は考えるのは後にして二人を追いかけることに集中した。

 私たちが二人に追いついたのは、飯田さんちのボートが係留してある桟橋の手前であった。

「さあ、これまでよ。観念なさい」

 クロックは息も絶え絶えになって最後勧告をした。日ごろから運動不足よ、クロック。

「健次郎さまをどうするつもり!」

 ボートを出航させるには時間がかかる。だから、飯田さんは私たちと交渉するふりをして、私たちを油断させてから、もう一度気絶させるつもりだと思う。だけど、さっきみたいに気を抜くほどクロックも間抜けじゃない。

「元いた時間に戻ってもらうのよ。自然の摂理に従って」

 クロックはいつになく真剣な顔で飯田さんに真実を告げた。

「元いた時間? 変な事いわないでよ。健次郎さまは今ここにいるじゃない。今ここが健次郎さまの時間よ、場所よ」

 飯田さんは半分泣きかけていた。クロックの話を本気にした? 女の勘で何かを感じたのかしら? それとも……

「林田健次郎。あなたはもう、うすうす気づいているんじゃない? ここがあなたの時間でないことを」

 クロックは飯田さんの後ろにいる先輩に向かって問いかけた。

「君たちには僕はそういう設定かもしれないけど、そろそろいい加減にしてくれないか?」

 先輩は飯田さんをかばうように抱き寄せて、私たちを厳しい目でにらみつけた。

 そりゃあ、そうだろう。彼女を半泣きにさせられて怒らない彼氏は、恋人失格どころか人間失格だ。

「ええ、ウチらもそろそろ終わりにしたいと思っているわ」

 クロックはどこからともなくクラシカルな鍵に似た形の錫杖を取り出し、それを地面に打ちつけた。

 それと同時に一陣の風が沸き起こり、風が通り抜けると同時に耳に聞こえるかどうかぎりぎりの甲高い乾いた音が耳の奥で弾けた。

 ここにくるまでの間に聞いたクロックの説明だと、この音で時の獣が漂流物がその時代に馴染むようにかけた魔法が解けるのだという。

 つまり、林田先輩が時の獣に封印されている元の時代の記憶を思い出させることができる。

 そうすれば、時の獣が元の時代に戻ろうとしない謎が解けるかもしれないというのだけど。

 その音を聞いた先輩は抱き寄せていた飯田さんから離れ、ふらふらと数歩歩いて、頭を抱えるようにして膝をついた。

「ぼ、僕は……」

「健次郎さま!」

 飯田さんが先輩に寄り添った。

「ああ、アイ……無事だったんだ。よかった!」

 先輩は飯田さんを思いっきり抱きしめた。

「け、健次郎さま? い、痛いですわ」

 先輩は飯田さんを強烈な抱擁から開放したが、何かキャラが変わっているような感じがした。

「あ、ああ。ごめん……。君にもう一度会えるなんて思ってもいなくて……おなかの赤ちゃんも無事なんだね?」

「赤ちゃん?」

 飯田さんが怪訝な顔をして聞き返すと、林田先輩の顔が急に険しくなっていった。

「僕と君のだよ……あれ? 君、誰だい? アイによく似ているけど……」

「健次郎さま、しっかりして。あたしは飯田愛美よ」

「あいみ……愛美……愛美は僕の恋人だ。忘れるわけがないじゃないか……アイは? アイはどこなんだ!」

 完全に錯乱しているみたい……考えてみれば、元の時代と今の時代の記憶が一気に頭に入ってくるのだから混乱しない方がおかしい。

「なんだか、失敗みたい……」

 クロックを見るとちょっと青い顔をしている。

「クロック! どうするのよ!」

「だ、だって、ウチだって、こんなケースは初めてなんだから仕方ないでしょう。こんなのそうそうはないケースなんだから! 過去のケースではこれで上手くいったって書いてあったから……想定外よ。神様だって万能じゃないの」

「開き直るな!」

 先輩は完全にうずくまって本格的にやばい雰囲気がする。

「とにかく! 時間を止めて、考える時間を――」

 私がクロックに向かってそういうと同時に文字にもならない獣の咆哮が耳をつんざいた。

 とっさに咆哮の方向を見ると先輩の時の獣が凶悪な姿で巨大化して、今や牛ぐらいの大きさになっていた。

「時の獣の暴走……」

 クロックのつぶやきが尋常ならない事態という香りを漂わせている。正直、この状況を好転と思えるのは史上最強の楽天家ぐらいだろう。

「聡美! 気をつけて。時の獣の狙いは――」

 クロックの警告を最後まで聞く必要はなかった。だって、その前に私向かって襲い掛かってきているんだもの。

「聡美!」

 時の獣が私に向かって牙をむいている。こんな恐い時の獣は初めて。時の獣に攻撃力があるかどうかわからないけど、本能的にあの牙がものすごく危険なことはわかる。ああ、ここで私はこの獣に食われて命を散らすのね……

 ――なんて、諦めてる場合か、私!

 私は後ろに反り返って、そのままの勢いで地面に手をつき、バク転を決めて、時の獣の一撃を寸前でかわした。

 小学校の時、体操クラブに入っていたのが役に立った。その頃からバク転は得意だったのよ。バク転のサトちゃんといえば、私のことよ。参ったか!

 私は奇跡的に攻撃を避けれたことを感動するのは後回しにして、いつの間にか階段の上まで避難しているクロックのところへ転げるように走った。

 クロックは私が襲われている間に、自分を守る結界のようなものを張っていたみたい。私はその中に逃げ込んだ。

「聡美、大丈夫? 時の獣が暴走すると、狙うのは結晶石か調教者――聡美みたいな人なの」

 逃げ込んできた私にしたクロックの説明で理由はわかったが、納得はいかない。

「だから、真っ先に逃げたってわけね。この薄情者」

「だって、怖いじゃない。時の獣に襲われたら神様のウチだって危ないのよ」

 ぶりっ子してもごまかせないわよ。そして、今も逃げようとしていることも。

「と、とにかく、狙われるのは聡美だから、これを貸してあげる」

 クロックは手に持っていた錫杖を私に渡してくれた。

「使い方はさっきウチがやったみたいに鳴らして、時の獣にさせたいことを強く命令するの。猛獣使いの鞭みたいなものと思ってくれたらいいから」

 なるほど。それじゃあ、早速――

「おとなしくしなさい!」

 私は錫杖を鳴らし、そう命じた。しかし、時の獣は一向に大人しくする気配はない。

「利かないじゃないの!」

「聡美のバカ! 主語が抜けてるから利きが弱いの! 命令ももっと明確に」

 だが、多少は利いているのか、先ほどみたいにすぐには襲ってこない。でも、敵意十分でゆっくりだが、確実にこっちに向かってくる。

「林田先輩の時の獣! その場に止まりなさい!」

 私は錫杖を地面に打ちつけて命令した。

 昔、テレビでサーカスの猛獣使いの人が言っていた。猛獣を屈服させるのは「最後は気合」と。気圧されたら負けだ。私はこんなところで死にたくない。まだ、平凡な人生を送っていないのだから。

 林田先輩の時の獣は、唸り声を上げながらも、その場に止まった。私の気合が勝ったのだ。でも、まだ油断できない。相手が完全に屈服はしていないのは、ありありとわかる。

「すごい……本当に時の獣を使役するなんてできるんだ」

 ちょっと待て。クロック、できるんだってどういうことよ。

「その技って、理論上はウチの錫杖でもできるんだけど、普通は結晶をふんだんに使った錫杖じゃないとできないのよね。すごいよ、聡美」

 クロックは純粋に感動している。

 クロック、これが終わったら、一回、じっくりと話をしましょう。私、クロックに確認したいことが山ほどできたわ。

 私がそんなことで気を逸らすと、時の獣が私の束縛を離れようとした。

「林田先輩の時の獣! そのまま、その場で留まっていなさい!」

 私は慌てて、錫杖を振って気合を入れなおした。今は、余計なことを考えている余裕はないみたい。

「それで、ここからどうするのよ?」

 今は何とかなっているけど、このまま、いつまでも時の獣を押さえ込むのはできそうにもない。

「それだけ動きを抑えてくれている今なら強制送還できるわ」

 クロックは強制送還のための準備を始めようとしていた。

 確かに今の状況ならそうするのが一番いいのだろう。正直、私もそうしたい気持ちはいっぱいだけれど――

「どうしてもそうしなきゃ駄目なの?」

「聡美! 普通の時なら、ウチも対話するわよ。でも、暴走した時の獣はウチらの手に追える代物じゃないの」

 クロックの声には、今の状態がどれだけ奇跡であるというのがにじみ出ていた。確かにそうだと思う。でも、私の中で何かが引っかかっていた。

「健次郎さま! 健次郎さま!」

 女性の悲痛な声が耳に聞こえた。すっかり忘れられていたが、飯田さんの声だ。

「ほんと、情けない」

 私は本気で苦笑した。自分のことしか考えてないなんて恥ずかしい限りよね、まったく。

「クロック、強制送還はなしよ」

「聡美!」

 私はもう一度錫杖を鳴らした。

「林田先輩の時の獣さん。この時代に留まりたい理由を話して」

 時の獣は私の命令に戸惑いを見せた。だが、戸惑いを振り払うように拒否の咆哮をあげた。

「お願い。林田先輩の時の獣さん。この時代に留まりたい理由を話して」

 もう一度、私は同じ言葉を繰り返した。それでも返ってきたのは先ほどと同じ咆哮である。

 あー、いい加減、腹が立ってきた。仏の顔も三度まで。だけど、私の心も顔もそんなに広くない。聡美の顔は二度までよ!

「がーがー吼えててもわかんないでしょうが! 言いたいことがあるならハッキリ言え、このバカ犬!」

 私は錫杖を握りなおして、高校時代、野球部のエースから球技大会で逆転ホームランを打ったことのある鋭いスイングで、時の獣の横っ面を錫杖で思いっきり張り倒した。

 クロックは私の行為に口をあんぐりと開けて、目を見開いて呆然としていた。

 いきなり横っ面を張られた時の獣は何が起きたのかわからずに、もっと混乱していた。

「もう一発、食らいたい? それとも、話す気になった?」

 私が錫杖を華麗なる一本足打法で構えると、時の獣はおびえた顔で左右に首を振って、尻尾を股の間に挟んでいた。

「よろしい。じゃあ、とっとと話しなさい」

 服従の鳴き声が聞こえ、周囲の景色がかすれて違う景色が浮かび上がった。

 いつも私が視ているイメージの拡大版みたいね。

「無茶苦茶するわね、聡美。時の獣をどつくなんて……」

 クロックが私のそばにやってきて、なんともいえない顔をしていた。

「そんなことより、ここはどこかしら?」

 そこは暗くはなかったが、お世辞にも明るいとはいえない照明で照らされていた。天井や壁、床でさえ構造体の骨組みが露出して、内装は必要最小限しかされていない。ケーブルやパイプがそこここを走り、よくわからない装置が並んでいる。

 どうやら何かの工場か研究室の実験施設みたい。これまでの経験からすると、この雰囲気は数百年ぐらい先の未来かしら?

「どうやら林田も正気を取り戻したようね」

 クロックが視線で示す方を見ると飯田さんに抱きつかれながら体を起こし、周囲を見回している先輩の姿があった。

 私たちは彼らの方へとゆっくりと歩み寄った。

「どこなのよ、ここ! あたしたちに、まだ何かしようというの! これ以上、健次郎さまを苦しめるようなら、あたしが許さない!」

 飯田さんは先輩をかばうように両手を広げて立ちふさがった。

 まあ、当然の反応で返す言葉もないわね。でも、弁解して納得してもらわないと話が前に進まない。

「飯田さん、林田先輩。ごめんな――」

「止めたまえ、ドクターハヤシダ!」

 私が謝罪の言葉を言い終えないうちに私たち以外の誰かの声が施設に響いた。

 私たちが声のした方を見ると宇宙服のようなスーツを着て誰かが歩いてくるのが見えた。

「健次郎さま?」

 飯田さんがそうつぶやいて、自分の背後にいる先輩と宇宙服の人物を交互に見比べていた。

 ヘルメットのキャノピー越しでわかりにくいが、宇宙服の人物の顔を目を凝らしてみると、確かに林田先輩に瓜二つであった。

「多分、この時代の林田よ。ウチらのいる時代に来る前の」

 クロックの説明に私も納得した。これはやっぱり規模は大きいが、いつものイメージと同じなのだ。

「止めたまえ、ドクターハヤシダ!」

 もう一度、声が響いた。どうやら、この施設のスピーカーで宇宙服の林田先輩に呼びかけているようだ。

「いいえ、止めません。所長も知りたいでしょう? あの装置の効果を」

 宇宙服の先輩はぞくりとするほど冷たい声で答えた。まるで死人の声みたいだった。

「知りたくなどない! 危険を冒してまで知ることではない。戻って来るんだ、ハヤシダ!」

 所長と呼ばれた声が焦りをにじませて叫んでいる。

「その答えは知的探求者として落第ですよ、所長」

 笑ってはいるが、寒さは消えていなかった。むしろ、増してるように思えた。

「科学と無謀を一緒にするな。科学はもっと理性的だ」

「そうですか? 僕には狂気こそ科学と思うのですがね。でも、どっちでもいいんですよ。僕は戻るつもりはないのですから」

「……あの事故は君のせいではない。だれも予測できなかったことだ。不幸な事故なのだ。自分を責めるな」

 所長の声に宇宙服の先輩は初めて反応して、足を止めた。

「……ちがう……」

 小さな声で何かをつぶやいた。だけど、さっきのような冷たさが消えていた。

「いや、違わない」

「違う! 僕がアイを一緒に連れて行っていれば、彼女は助かった。彼女も一緒に行くって言っていた。それを聞いていれば」

 吐き捨てるように吐露した言葉は、冷たさは消えていたが、膿んだ澱のような病んでいる感じがした。

「その判断は間違っていない。居住区画が一番安全だったのだ。誰もその居住区が圧壊するなど予想できなかった。君のせいではない」

「僕が、あの時、そうすれば彼女は……子供も……」

 宇宙服の先輩がひざをつき、頭を抱えてうずくまった。

「ハヤシダ!」

 悲痛な所長の叫びに反応するように、宇宙服の先輩がむくりと身体を起こした。何事もなかったように。

 私は再び、何か背筋が凍りつくようなものを感じて今度は言葉を発することどころか、呼吸すら忘れかけた。

「僕は行かなくちゃ。アイが、僕たちの子供が待っている。行かなくちゃ……」

 宇宙服の先輩は待ち合わせに遅れた人のように平然と急ぎ足で何かの機械の方へと歩き始めた。

「待て! 待ってくれ、ハヤシダ! タイムマシンなどありえない。過去に成功したという記録はない。成功していないんだ、ハヤシダ!」

 所長の叫び声などまったく聞こえていないかのように宇宙服の林田先輩は歩き続けた。

 そして、無骨なチューブやケーブルが生えた、人一人が入るのがやっとという金属製の繭のようなものに乗り込んでいった。

「ハヤシダ!」

 その声を最後に風景が解け落ち、周囲はほのかに暗い闇に満たされた。

 そして、小さな鼓動がかすかに聞こえた。

 私は直感的に何かわかった気がした。時の獣が元の時代に戻りたがらない理由が。

 周囲の景色はいつの間にかもといた海浜公園の景色に戻っていた。

 林田先輩は目を閉じたまま天を仰いでいた。その傍らには飯田さんが彼の袖をぐっとつかんでいた。まるで、どこか遠くへ行ってしまわないように。

 そして、時の獣も元の大きさに戻り、心配そうに彼に寄り添っていた。

「健次郎さま……」

 先輩は飯田さんの手に自分の手をそっと添えて、包み込んだ。

「すべて思い出したよ。僕が誰なのか、どうしてここにいるのか」

 先輩はすべてを悟った賢者のように寂しそうに笑っていた。

「愛美くんは、アイによく似ている。アイも積極的で、僕をよく引っ張ってくれた。弱い僕を支えてくれた。僕は記憶を失っていたが、愛美くんにアイを重ねて惹かれていたのだと思う」

「健次郎さま……」

 飯田さんは何かを我慢するようにじっと先輩を見つめていた。私が彼女の立場なら我慢せずい泣いていると思う。飯田さんは強い。

 でも、先輩は首を振り、飯田さんを抱き寄せた。

「記憶を失っていても、無意識に姿を重ねていても愛美くんへの想いは偽物でも代用でもないよ。僕が保障する。愛してるよ、愛美」

「健次郎さま……あたし、あたし……」

 飯田さんは我慢していたものがあふれ出し、先輩のシャツを濡らしている。私もちょっとうるっときた。

 この二人は本当に愛し合っている。疑いようもない事実。でも、私たちはこの二人を――

 私は確信はないけど、さっき感じたことをクロックに言おうと腕をつかみかけたが、その前にクロックが私の方を見た。

 その目を見て、私はつかもうとした手を引っ込めて小さくうなずいた。

 付き合いは短いけど、クロックが私の言いたいことをちゃんと知っている。そんな目だった。

 私はクロックを信じてみることにした。

 クロックは抱き合っている二人に歩み寄っていった。

「ハヤシダ。記憶が戻ったのならわかるわね? あなたは今、この時代にいちゃいけない人なの。ウチらはあなたを元の時代に還さなくちゃいけない」

 感動のシーンを終わらせる終演のベルのようにクロックが無感情に告げた。

 先輩の側にいた時の獣がクロックに威嚇のうなり声を上げたが、クロックはそれをまったく無視した。

 私がフォローすると信じてるってわけ? 私は一応、錫杖を構えて、時の獣を牽制した。

「どうしても、かい?」

 先輩の声は落ち着いていた。諦めているとは違う、何かもっと強い意志を感じる声だった。

「どうしてもよ」

「そんなことさせない! 逃げて、健次郎さま!」

 クロックと先輩の間に飯田さんがかばうように割り込んだ。クロックがかすかに顔をゆがめている。

「神の摂理に楯突くの? 人間であるあなたたちが?」

「神だろうが、悪魔だろうが楯突くわよ。あたしはささやかな幸せが欲しいだけの小さな人間だもの。健次郎さまのためなら悪魔にでも魂を売るわ。神にだって身を捧げるわ。だから、だから、健次郎さまを……」

 最後は嗚咽になっていた。私は本当にクロックに任せてよいのか不安になったが、一度信じると決めたのだからもう少し信じてみようと見守り続けた。

「神に身を捧げる? 飯田愛美。本当にできる?」

 クロックの瞳は冷たく容赦ない光を帯びていた。何か人間とは違う、絶対的な違いを感じさせた。多分、これがクロックの神様としての本当の姿なんだろう。

「健次郎さまが無事なら」

 飯田さんは真剣な顔でうなずくと、ひざをつき、目を閉じた。

「やめてくれ!」

「……健次郎さま」

 先輩が飯田さんを後ろから抱きしめ、首を振っていた。

「お願いだ。愛美。お願いだから、僕に二度とあんな悲しい思いをさせないでくれ。僕は二度も大事な人を喪って、生きていけるほど強くはないんだ。おねがいだから……」

 先輩の目から涙が零れ落ちていた。

「女神様。僕が元の時代に戻ればいいのでしょう? そうすれば、愛美に手を出さないでと約束してくれるますか?」

 先輩の声にはお願いというよりも、神を前にしても有無も言わせぬような迫力があった。

「飯田愛美だけでいいの?」

 クロックの言葉に先輩の表情が凍りついた。

 ああ、やっぱり。クロックも気が付いていたんだ。

「飯田愛美の中にあるあなたとの子供はいいの?」

 クロックがもう一度、問いかけた。

「……!」

 飯田さんが驚いているって……気が付いてなかったの?

「もちろん、子供もだ」

 先輩が飯田さんをさっきよりも強く抱きしめている。

 クロックの仕事の内容を考えれば、多分、子供をこの時代に残すことは許されないはず。だからといって子供を殺すのは間違っているように思える。

「クロック……」

 私は思わず声を漏らした。職務と情の間で苦しんでいるかもしれない彼女を思って。

「……ウチに人の命をどうこうする権利はない。人だけじゃなく、動物でも、物でも」

「じゃあ!」

「でも、そのままではだめ」

 そう言って、クロックは例の懐中時計を取り出し、それから光の玉を作り出した。

「なっ!」

 先輩は本能的に飯田さんの前に回りこんで、彼女をかばうよう抱き閉めたが、光の玉は彼女のお腹に吸い込まれるように消えていった。

「何をした!」

 襲い掛からんばかりの勢いで先輩がクロックに詰め寄った。

 クロックは詰め寄られて、先輩の体が少し当たっただけで大きくよろめいた。私が慌てて後ろから支えて、何とか倒れずに済んだが、クロックはかなり苦しそうにしていた。

 地上では私の助力なしに時の女神の力を使うと神力を大量に消耗して、使いすぎると消滅してしまうと言っていた。無茶をするわね。

 しかし、先輩にとってはクロックの様子など眼中になかった。倒れかけているクロックに更に詰め寄った。

「答えろ! 何をした!」

 先輩がもう一度問いただした。クロックは少し息を整えて、静かに答えた。

「赤ちゃんの時間を止めたのよ」

「赤ちゃんの時間?」

 クロックの言葉に先輩は毒気を抜かれたように不可思議な表情で聞き返した。

「今、妊娠三ヶ月。このまま出産すれば、父親のいない子供になるわ。シングルマザーは世間体が悪いと家を追い出されるかもしれないから時間を止めたのよ」

 そんなことなら、私が力を貸したのにと思ったが、後で聞いた話、その術を関係ない人間に使うことは禁止らしい。神の世界にパートナーとして登録している私の助力を使うと、それが神の世界にばれるから自力でやったのだという。

「あたしは構わない。健次郎さまの子供が産めるなら、そんなのぜんぜん構わない」

 クロックの話に飯田さんが割り込んできた。決意に燃えているように思える。だけど――

「あなたが構わなくても、子供が構うわよ」

 私は飯田さんの言葉にちょっとむっとして、私も話に割って入った。

「あなたの幸せだけじゃなくて、子供の幸せを考えてあげなさいよ。母親でしょう? 幸せはお金があることだけじゃないけど、それも幸せの一部なのは確かなんだから……貧乏は本当につらいわよ……」

 お金がないといらない苦労をするときがある。それが子供にとってはつらいときもある。

「じゃあ、どうしろって言うのよ! 中絶しろとでも言いたいわけ?」

「だから、赤ちゃんの時間を止めたのよ」

 クロックが再び話を戻した。

「四ヶ月、時間を止めた。妊娠三ヶ月だから、あと一ヶ月の間に誰かと婚約すれば父親のいない子供にはならない」

「そんな……あたしは健次郎さま以外の男の人となんて……」

「選ぶのはあなたよ。ウチはチャンスをあげただけ。好きにすればいいじゃない」

 クロックはつき放つように言ってのけ、先輩に向き直った。

「これで納得してくれた?」

「ありがとうございます。女神様」

 先輩は深々と頭を下げた。

「神様にだって温情ぐらいあるのよ」

 それから、少し迷ってからクロックは先輩に何か耳打ちした。

「……それは!」

 クロックの耳打ちに先輩は目を丸くしていた。いったい何を耳打ちしたんだろう?

「机の上に置いておいたでしょ? 面白い論文を読ませてもらったお礼よ」

「しかし、それでも――」

「言ったでしょう? 神様にも温情はあるって。偶然でなく意思と決意を持って来た者は追い返さないものよ」

「クロック?」

 私が怪訝な顔をしていると、クロックが私の方に向き直った。

「さあ、聡美。準備はいい?」

「準備?」

「あのね。何のためにここに来たのか忘れちゃったの?」

 そうだった。私は先輩の時の獣に近づいて、膝をついて視線を下げた。

「殴ったりしてごめんね。色々あったけど、無事に……無事に先輩を元の時代に送り返してあげてね」

 時の獣を抱きしめた。先ほどと同じイメージが流れ込んできて、クロックの祝詞がそれに重なった。

「ありがとう」

 イメージに重ねて、そういう声が聞こえたような気がした。

 そして、私が次に目を開けたときには林田先輩は消えていた。

 すでに星の瞬きはじめた空に飯田さんの哀哭の声が響いたが、私もクロックもただそれを聞いているしかできなかった。


 あれから一ヶ月、私は飯田さんの噂を偶然耳にした。

「自分で後押ししておいて言うのもなんだけど、現実的にならないと生きていけないのね」

「ん? どうかしたの、聡美?」

 私がポツリとつぶやいた言葉にクロックが反応してくれた。

「飯田愛美さん。憶えてる?」

「うーんと、ちょっと待って。……第一ヒント、プリーズ」

 クロックはこめかみを押さえながら考えていた。信じられない!

「一ヶ月前のあの事件の林田先輩の恋人よ! あんな大事件の関係者を一ヶ月で忘れるなんて!」

 私は心底あきれた。確かに、あれ以来、あの事件のことは口にしたことはなかったけど。

「ああ、あの娘のことね。憶えているわよ」

 クロックは私の不機嫌さを察知してか、ちょっと引きつりながらも笑顔でうなずいた。

「その飯田愛美さんがどうかしたの?」

 クロックはごまかすためか、話を先を進めるように私を促した。

「まあ、いいか。――その飯田愛美さん。学校を辞めるらしいの。それも、お見合い相手と婚約してアメリカに行くからだって」

 林田先輩との愛は本物だと思った。だから、現実的な私の意見は採用されるはずがないと、心のどこかで望んでいた。だけど、結果は……。

「ふーん。それで不機嫌なわけね」

 クロックが私の心を見透かすように納得した。私は急に恥ずかしさと、ちょっと怒りが湧き出て顔を赤くしてしまった。そりゃあ、別の男性と結婚を勧めたけどさ。

「別にそんなんじゃないわよ。その方が赤ちゃんのためだし、それを選ぶ権利も資格も飯田さんにしかないもの」

 そうなのよ。彼女の人生を決めるのは彼女自身。でも……。

「でも、その選択をした理由を聞きたくても、貧乏なウチらにアメリカまで行く旅費はないしね」

 クロックが私の台詞を先取りした。まったく、クロックに見透かされるなんて私も落ちたものだわ。

「聡美さえ、その気になってくれれば、それぐらいのお金、すぐに稼いじゃうんだけどなぁ」

 クロックが新聞をちらつかせながら私に言った。私はクロックから新聞を取り上げた。

「労働は清く正しく美しいものなの。さあ、バイトに行くわよ」

「へいへい。まったく、頭が固いんだから。ウチの提案どおりにしていれば毎日が波乱万丈、常に大冒険の日々間違いなし! ハリウッド映画も真っ青な大スペクタクルロマンを体験でいるというのに」

 正直、私の顔は引きつった。

「私は平凡に生きたいの!」

 私の人生はこれからどうなるのだろう。

 ああ、神様、私に平安な日々と平凡な生活を! プリーズ ギブミー ア ピースフル ライフ!


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