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飯田愛美の逃避行

 あたしはいつものように健次郎さまの研究室に向かった。健次郎さまは今度の学会で論文を発表することになっているのよ。あたしはその手伝いをするため毎日通っているわけ。

 本当は最近、ちょっと体調崩してて、気分悪いのだけれど、そんなこと言ってられないのよ。今が追い込みだもの。がんばらなくちゃ。

 健次郎さまは今、すごくがんばってるのよ。いつも真面目でがんばっているけど、今回はそれ以上にがんばっているのよ。

 何しろ、今度の発表は以前から独自で研究していたもの。健次郎さまが本当にやりたかった研究のその第一歩の発表なのだから、気合が入らないわけが無いわよ。だから、あたしも気合を入れて手伝ってるのよ。

 と言っても、大したことはできないけど……。でも、データ入力や雑用とかは結構あるし、健次郎さまも助かるって言ってくれるもの。体調が悪いぐらい無視して、がんばらなくちゃ。

 あたしが研究室に行くと健次郎さまは来客中だった。

 来客なんて珍しいから、はしたないとは思ったけど、そっと中を覗いた。

 客の一人は見覚えがある。去年の大学祭であたしを差し置いてキャンパスクイーンになった時任とかいう女だ。コンテスト賞品で農学部からの新米一俵にはしゃいでいた。ハッキリ言って、あんな貧乏くさいのに票を入れる審査員たちの美的感覚を疑うわよ。

 もう一人はどこかで……あっ、昨日行ったレストランで働いていたウェートレス。整形しているのかってくらい顔が整ってたから憶えてる。

 そういえば、確か時任もあのレストランで働いてるっていってたわね。

 で、その二人があたしの健次郎さまに何の用かしら? まさか、健次郎さまにちょっかいかけに来たんじゃないでしょうね。健次郎さまほど素敵な人なら他の女の子が放っておくはず無いものね。

 でも、残念でした。健次郎さまにはあたしというちゃんとした彼女がいるのよ。今頃のこのこ出てきたって、今回はあなたの負けよ。キャンパスクイーンだからって、学校中の男を振り向かせられるなんて、ハッキリ言って思い上がりもいいところだわ。

 そうだ。あの貧乏娘がどんな風にふられるのか聞いてやろう。

 あたしはそっと研究室に忍び込んで聞き耳を立てた。

「――悪いけど、僕はそういう宗教には興味が無いから、他をあたってくれないかい? せっかく来てくれて悪いと思うけど」

 ああん。健次郎さまのお声。いつ聞いても優しい暖かい声だわ。

「だから、宗教じゃなくて、ウチはれっきとした時の女神なんですって」

 自分のことを女神? ちょっと顔がいいと勘違いする人は多いけど、ここまで勘違いするなんてすごいわね。このバカ女。

「クロック。普通の人にそういって、はいそうですかって納得してくれる人はいないわよ」

「じゃあ、聡美も何とか言いなさいよ」

「言えって言われてもねぇ」

 うーん、話を最初から聞いて無いからかもしれないけど、いったい、何の話をしてるのよ。ハッキリ言って意味不明だわ。

 でも、どうやら積極的に用事があるのはバカ女の方みたいね。時任とかいう貧乏女は付き添いかしら?

「もういいのかな? 僕は研究の途中なんだ。来月には学会もあるし、それまでにはこの論文をまとめないといけない。今は追い込みなんだ。再来月になったら時間ができるから、その時に来てくれたらゆっくり話を聞くよ」

 健次郎さま、優しい。こんな意味不明なバカ女たちなんて蹴り飛ばして追い返せばいいのに。

「やっぱり時の獣が記憶をブロックしているようね。至れり尽くせりも善し悪しだわ」

 バカ女がまたわけのわからないことを言っているわね。

「時任さん。そろそろいいかな? 僕はこの研究にかけているんだよ」

 そうよ、健次郎さま。健次郎さまはお忙しいお体なのよ。バカ女をかまっている余裕はないの。

「ご、ごめんなさい。林田先輩。――ほら、クロック。出直しましょう」

「何言ってるのよ、聡美! この人は――」

「クロック!」

 なに? 逆ギレ? 健次郎さまに危害を加えるつもりなら、黙ってみてるわけにはいかない。あたしはいつでも飛び出せる体勢になった。

「この人は未来から流れ着いて来た人なのよ! 間違った、望まない時間にいる人なのよ」

 未来から来た?

 なにそれ?

 健次郎さまは今ここにいるじゃない。こうやってしゃべっているし、昨日だって一緒に食事までしたのよ。同じ時間をすごしているのよ。

 未来から来たなんて、そんなSFみたいなこと信じられるわけがないじゃない。

「……困ったなぁ。……時任さん、何度も言うようだけど僕は研究があるんだ。今のことは聞かなかったことにしておくけど、彼女、知り合いなら、あまり人にそういうことを言わない方がいいって教えてあげたほうがいいよ」

 そうよ! あの女が頭おかしいのよ。健次郎さまが未来人なんてわけ無いじゃない。

「ああ、もうっ――聡美! いいから、やっちゃいなさい」

 やるって何をする気?

 あたしはもう一度いつでも飛び出せる体勢を取り直した。

「クロック、やっぱりやめましょう。私も無理やり元の時間に戻すのはちょっと……」

「いつもと一緒でしょ」

「いつもは物だし、時の獣も困っている感じだし、納得できるけど……時の獣も困っているように見えないし……」

「それでも同じことよ」

「でも……」

 なにぐずぐずしてるのよ、貧乏女。さっさとその、バカ女をつれて帰りなさいよ。

「じゃあ、これで失礼するね。いいかな?」

「だから、ダメだって! ――聡美!」

「でも……」

「もういい! 無理やりでもウチがする」

 バカ女が健次郎さまに近づこうとした。あたしは本能的に何かすごく嫌な予感がした。ハッキリ言って、誘拐犯に拉致された時ぐらいヤバイ予感。

 あたしは何も考えずに潜んでいた物陰から飛び出して、驚いているバカ女と貧乏女の首筋に続けざまに手刀を叩き込んで気絶させた。小さい時から護身術を習っていたから、これぐらいできて当然。ハッキリ言って、お金持ちのたしなみよ。

「愛美君!」

 驚いていたのはバカ女と貧乏女だけではなく健次郎さまもだった。というか、健次郎さまの方が驚いていた。

「健次郎さま。この二人、とっても危険ですわ。今のうちに」

 あたしは健次郎さまの手をとって研究室を飛び出した。


 あたしの名前は飯田愛美。いわずと知れた、飯田カンパニーの社長の娘よ。ひがみっぽい貧乏人はあたしの家は成り上がりの成金だっていうけど、父様は合法的に賭けに勝ち続けて、今の財産を築き上げたのよ。それが悪いというならハッキリ言って、亡命でも革命でもすればいいのよ。止めはしないわよ。

 とにかく、あたしは父様を尊敬しているし、いづれは父様の仕事を手伝いたいと思っている。あたしを育ててくれた仕事だもの。あたしもその仕事を手伝って恩返しするのが筋ってものよ。

 でも、父様はあたしがその道に進むのはあんまり喜んでくれないみたいなの。確かに、お兄様たちもいるし、あたしの出番は無いのかもしれないけど、それでもあたしは経済学部に進んだ。

 あたしは大学に進学して経済の勉強をした。ハッキリ言って、あたしは抜群に頭がいいわけじゃない。けど、別に学者とか大学教授になるわけじゃないから構わないのよ。要するに大学に行って、そこそこの経済の基礎が勉強できればじゅうぶん。ハッキリ言って、本当の目的は人脈を作って、社会を見ること。幸い、あたしは美人だしお金もある。これだけ武器があったら、人脈を作るのなんてわけないわよ。大学はあたしにとって、社会へのほんの入口に過ぎないのよ。

 そう、健次郎さまに会うまではそう思っていた――

 ううん。健次郎さまに会った時もそう思ってた。だって、最初に健次郎さまに会った時は第一印象、最悪だったもの。

「愛美君!」

 あたしは健次郎さまの声ではっと我に返った。無我夢中で走り出して正門のところまで来ていた。

「ごめんなさい。あたし……」

「びっくりしたよ。君までいきなり……。いったい、今日は何の日なんだい? さあ、戻って、彼女たちに謝ろう。暴力はよくないよ」

 健次郎さまがあたしの手を引いた。うれしい。こんな積極的なのは初めて――なんだけど、戻るわけにはいかないわ。

「だめ! 戻っちゃダメ。だいたい、先に襲い掛かってきたのは向こうじゃない」

「それでも、やっぱり怪我させたのはこっちだから」

「怪我なんてさせてません。気を失わせただけです。すぐに意識はもどりますから」

 ハッキリ言って力が弱いあたしではせいぜい、二、三十分ぐらいしか効果が無い。それに他の研究員もそのうちやってくる。

「とはいっても」

 ああ、もう。健次郎さまが優しいのもこういう時はまどろっこしいわ。でも、そこも含めて好きなんだけど。

 健次郎さまは何とかあたしを連れ戻そうとしている。このまま、ここで押し問答をしていたら、あの二人がやって来るかもしれない。そうしたら……どうなるかわからないけど、すごくまずい気がする。ハッキリ言って女の勘がビシバシあたしにそう告げている。

 とにかく、この場を何とか納得させなきゃ。あたしは頭をフル回転させた。ハッキリ言って、こういうときの機転は自信があるのよ。

 ……ぽんっ。

 あたしの頭上でシャンデリアが輝いた。

「健次郎さま。あたし、あの時任さんを知っているんです」

「知り合いなのかい? それじゃあ、なおさら――」

 手を引こうとする健次郎さまを逆に手を引いて止めた。

「でも、いい知り合いじゃないんです。彼女、変な宗教にはまっているらしくて」

 あたしはわざとらしく悲しい顔をした。

「ああ、そういえば、時の女神がどうとか、時間を進めるとか言ってたね」

「そうでしょう? そうなんです! なんだかすごく怪しい黒魔術をしている教団に入信しているらしくって、あたしも何度か勧誘されたんです」

 あたしが一気に迫ったので、健次郎さまはちょっと押され気味。健次郎さまは強引な押しに弱いところがあるの。

 ごめんなさい、健次郎さま。弱点を突くようなことをして。でも、あたしを信じて。これは愛のある行為なのよ。

「そ、そうなのか。信仰は個人の自由だからね。でも、それとこれとは別だと思うよ」

 健次郎さま、意外に頑固ね。新しい健次郎さま発見……なんて喜んでいる場合じゃなかった。

「違うんです。同じなんです。その、その教団の教義で健次郎さまの研究は神の領域を汚すとかいって、健次郎さまを研究できないようにするって……最初は呪いとかで殺そうとしていたそうなんだけど、効かないから実力行使に……それを知って、あたし、急いで駆けつけたんです。一緒に逃げましょう」

「……」

 ……無理があったかしら。でも、ここまで来て後には引けない。

「……っぷ。あはははは」

 な、なんなの? なんで、健次郎さまは笑ってるの?

「なるほど。そういうことなんだね。わかったよ。そうだね、そんな危険が差し迫っているのなら、逃げないといけないね。うん。ここのところ、根を詰めすぎていて研究室にこもりっきりだったからね。たまにはこんな気分転――じゃなかった、逃避行もしないと、世紀の大発見はできないよね。わかったよ。今日一日、愛美君についていくよ」

 笑い終わった健次郎さまは目に涙をためながら優しく笑ってくれた。なんだか、激しく勘違いされているようですけど、とにかく、目的は達成したわ。ハッキリ言って目的を果たせば細かいことは気にしないのがあたしの信条。

 あたしは健次郎さまの気が変わらない、アーンド、あの二人が追って来ないうちにこの場を離れることにした。

 正門を出て表通りでタクシーを止めて、健次郎さまをその中に押し込んだ。

「空港までお願い」

 空港から飛行機に乗れば、あの貧乏女たちは追って来れないはず。ハッキリ言って追っ手が貧乏人で助かったわ。

 あたしはタクシーが走り出したことに、ほっとした。もう、あとは栄光のゴールまで一本道。そうよ。あたしはいつも勝利者よ。

 ふと、横に座っている健次郎さまの身体が小刻みに震えていた。

 なに? どうしたの? まさか、タクシーに押し込んだときにどこかぶつけさせた?

 あたしが心配して覗き込んでみると、健次郎さまは声を殺して笑っていた。

「健次郎さま。何がそんなにおかしいのですか!」

 あたしはちょっと腹が立った。人がこんなに真剣なのに。

「ごめん。愛美君と初めて会ったコンパのことを思い出してね」

 目に涙まで浮かべて健次郎さまが笑っている理由を白状した。

 そう、健次郎さまと会ったのはコンパでだった。物理学部の学生たちとだったのだけど、あたしは最初から乗り気じゃなかった。

 だって、物理学部って、一番お金から遠そうな学部でしょ。ハッキリ言って、ノーベル賞でも取らない限り世間で注目されることも無いところじゃない。そんなところに人脈作っても、あんまり意味ないじゃない。あのころのあたしはそう考えていた。

 どうしてもって、幹事の娘にお願いされて、しょうがなく行ってあげたの。

「初めて会ったっていいますけど、あの時、健次郎さまはろくにお話されていなかったじゃないですか」

 あたしはそれがなんで笑っている理由につながるのかわからず、むくれた。

 確かに、あたしはコンパで出会ったんだけど、健次郎さまはずーっと黙ったままで、自己紹介のときに声を聞いたっきりだった。ハッキリ言って、いたのかどうかさえも覚えていないほど印象薄かった。

「ああいった場所はどうも苦手でね。何を話していいかわからなかったんだよ」

 そうなのだ。健次郎さまはコンパなんかに来る人じゃないんだけど、あの時は男性側が突然人数が足りなくなって、無理やりつれてこられたんだって言ってた。健次郎さまらしいわ。さっきも思ったけど、優しいのはいいけど、押しが弱いのよ。時々、もっと強引さがあればいいのにって思うこともある。

「愛美君が席を立って、そのまま戻ってこなかったら心配したんだよ」

 あたしは途中でそのコンパは抜け出して帰ったんだのだ。そうなるかもしれないからと、会費――本当は女の子は要らなかったんだけど――は先に払っておいた。あとでお金持ちの癖に金払いが悪いなんて変な噂立てられたくないもの。

 でも、健次郎さまはあたしが帰ってこないことを心配してコンパが終わって、他の人が二次会に行くってなってもその店に残ったんだって。もし戻ってきた時に誰もいなかったら心配だろうからって。もう、本当に優しいんだから。

「結局、閉店までいたよ。支払いの時にびっくりしたけどね。まさか、みんなの分を払うことになるとは思いもよらなかったから」

 本当に優しすぎるわ。まあ、その話を友達から聞いたときは「ばかじゃないの」とか言って笑ったんだけど。

「あの時は、ごめんなさい。だって本当に退屈だったんだもの」

「うん。あの時はうまく逃げられたよね。だから今回も君に任しておけば、うまく逃げられると思ってね」

 健次郎さまの笑いの意味はわかった。でも、あたしは結局は捕まっちゃったのよ。

 あたしが健次郎さまと再会したのは、あたしがその話を忘れかけたころだった。

 全くの偶然。あたしは試験の勉強するのに図書館にいった時、偶然、健次郎さまも図書館にやって来て入口でばったり。

 健次郎さまはすごく喜んだのよ。「無事に帰っていたんだね」って。子供じゃないんだから一人で帰れるわよ。ハッキリ言って、あたしはこのずれた感覚にあきれちゃったわよ。

 それから、健次郎さまはおせっかいにもあたしに勉強を教えてくれた。ハッキリ言って最初は余計なお世話と思って断ろうと思ったけど、一般教養の物理はやばかったから、教えてもらったの。まあ、期待はしていなかったけどね。

 こういう理系の男って、教えるのヘタなの多いから。自分がわかってるから先に先に進みたがるのよね。ハッキリ言って過去の問題のコピーとか持ってたら貰おうと思った程度の期待だったのよ。

 だけど、予想に反して健次郎さまはすごく丁寧でわかりやすく教えてくれた。ハッキリ言って物理が楽しいと思ったのはあれが初めてよ。

 物理以外も教えてくれたけど、どれもすごくわかりやすかった。あたしは「教師になればいいのに」といったけど、健次郎さまは「研究したいことがある」と言って、その研究の内容をあたしに話してくれた。ハッキリ言うと、半分以上……ごめんなさい、ほとんどチンプンカンプンだった。時間の対称が云々かんぬん、ちんぷんかんぷん、ぷぷいのぷい。

 でも、その話をしている健次郎さまの目は本当にきらきら輝いて、子供みたいで、父様が仕事している時の目に似てたの。

 ハッキリ言って、あれは反則よ。

 それっきり、あたしは健次郎さまに夢中。

 あたしは健次郎さまに出会うために、この大学に進んだのよ。きっとそう! そうに決まっている。このあたしがそう決めたの。

 林田健次郎さま。それがあたしの運命の人。だから、あたしが守ってみせる。


 タクシーが空港に到着すると、空港が大変な騒ぎになっていた。話によると、季節外れの雪が突然すごい勢いで降り始めたらしいけど。

 珍しいけどありえない話じゃない。それにこのあたりで降る雪なんて、せいぜいうっすら雪化粧が限界。あたしたちには関係ないわ。

 あたしは航空会社のカウンターに行こうとしたが、カウンターは人山の黒だかりができて近づくこともできないじゃない。

「いったい、どういうことなの?」

 あたしは手近な職員を捕まえて問いただした。

「我々にもさっぱりで……十数分前から突然雪が降り出して、滑走路は全面使用不可能になってしまいまして……」

 出発便の掲示板には運航調査中の文字が並んでいた。

「そんな! ここに来るまで雪なんて降ってなかったわよ」

 職員が自分の目で確かめてくださいと力なく返事した。そうさしてもらうわよ。

 あたしは展望デッキにあがり、ハッキリ言って自分の目を疑った。

 一面の銀世界。このあたりでこんなに積もったことは記憶になかった。しかも、狙ったように空港だけ。

「すごい雪だね。この空港はもともとそれほど雪の降らない想定で、しかもいきなりこの雪じゃあ、機能麻痺しても仕方ないね」

 健次郎さまが硬直しているあたしの後ろからのんきなことを言う。

「なんだか神様の嫌がらせとしか思えないような雪だね。案外、さっき研究室にやってきた二人が降らせてたりして」

 健次郎さまは本当にのんきに笑っていた。

「笑い事じゃありません、健次郎さま!」

「ごめん、ごめん」

 謝っている割にはぜんぜん悪びれていない。今日の健次郎さまはちょっといたずらっ子みたい。意外な一面を見れてうれしいけど、ハッキリ言って今はそんなときじゃない。

「とにかく。除雪して復旧するのはいつごろか聞いてきます」

 あたしはもう一度カウンターに戻った。さっきよりも人ごみが増えている。

 ハッキリ言って、人ごみは好きじゃないのよ。貧乏人の群れみたいで。でも、そんなこと言っている場合じゃない。

 あたしは果敢に人ごみにアタックを試みた。

 結局わかったことは、運航調査とはしてあるが、実質は今日中に復旧する見込みがないことだけだった。

 そして、人ごみに酔ったあたしは一気に気分が悪くなって、トイレに駆け込んだ。体調が悪いから仕方ないとはいえ、イベリコ豚とミモレットのサンドイッチを消化しないまま下水に流すのはもったいない話よ。まあ、お金があるあたしにとっては大したことじゃないけど。

 それでも、はずかしいやら、腹が立つやら。あたしの気が治まらない。

 あたしが空港ロビーに戻ると健次郎さまが迎えてくれた。

「大丈夫かい?」

 さすがに健次郎さまもさっきみたいな悪ふざけの顔じゃなくて、本気で心配してくれていた。ああ、その優しいお言葉だけであたしの元気は勇気百倍だわ。

「大丈夫です。心配させてごめんなさい」

「いや、気にしないでいいよ。だけど、この調子じゃ、飛行機は無理そうだね」

「ごめんなさい。健次郎さま。無理やりつれ出して、この様なんて……。あたし、穴があったら入りたいわ」

「そうか、君は客室乗務員になりたいのか」

「へ? あたし、そんなこと言いました?」

 あたしは健次郎さまが突然意味不明なことを言い出して目を丸くした。

 すると、健次郎さまは赤い航空会社のロゴを指差した。

「オール・ナショナル・エアライン。略称、アナ。アナに入りたいんだろ?」

 健次郎さまは得意満面の顔をしている。ハッキリ言って、笑えないオヤジギャグ。でも、あたしのために場を和ませようとしてくれた気持ちだけで少し笑える。ああ、これも愛のなせる技ね。

「やっと笑ってくれたね。この雪は君のせいじゃないよ。別に飛行機だけが移動じゃない。他にも電車バス、色々あるじゃないか」

 健次郎さまはあたしに優しく言ってくれた。

 でも、電車やバス……なんだか、美しくないわ。ハッキリ言って、あたしの華麗な逃避行の美的感覚にそぐわない。

 あたしがそのことを悩んでいると健次郎さまがそばで何かニヤニヤしていた。

「どうかしました? あたし、何か変なことを?」

 考えに没頭するあまり、はしたない格好や行動をしたのかしら? いやだわ、健次郎さまの前でそんなこと。

「いや、なんというか、逃げる手段にも美意識を持ち込むなんて君らしいなと思って」

「あたしはいつでもあたしです。健次郎さま、変なことを言わないでください」

 あたしはちょっと赤くなった。何故かよくわからないけど。

「ごめん。……そうだ。電車やバスが愛美君にとって美しくないのなら、船なんていうのはどうかな?」

 船……船なんていきなり言われても……豪華客船はこの辺に寄港していませんわ。……船? 船。船! 船があったんだわ。

「さすが、健次郎さま! そう! 船で逃げましょう」

 あたしは健次郎さまの手をとって踊りたくなった。

「さあ、善は急げ。さっそく、海浜公園へ」

 あたしはロビーからタクシー乗り場へ向かった。

「海浜公園? フェリー乗り場は南埠頭じゃなかったかい? 海浜公園には遊覧船もなかったはずだけど」

 ああ、わかって言われていたわけではないのね。でも、その天然の直観力も魅力だわ。

「健次郎さま。冬のフェリーに乗って逃避行なんて負け犬。そう、キングオブザ負け犬! 演歌の世界ですわ。海浜公園のヨットハーバーにあたしの家の船が係留してありますの。それで逃げましょう」

 あたしは健次郎さまに説明しながらタクシーに飛び乗った。

「家の船って、操縦は?」

「あたしがします。こう見えても免許は持っているんですよ」

 暇つぶしに遊びで取った免許だけど、こんなところで役に立つとは。夏に友達たちを乗せてあげたこともあるから大丈夫。動かせる。

 あたしは胸を一つたたいて、タクシーの運転手に目的地を告げた。

 もう一度ハッキリ言うわ。林田健次郎さま。それがあたしの運命の人。だから、あたしが絶対守ってみせる。


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