会員ナンバー797
軽い自傷行為をにおわせる描写があります。(じっさいに行っている描写はありません)
苦手な方はご遠慮ください。
私はぼさぼさの髪を揺らしながら、安さがウリのチェーンの美容院へ向かった。店に入ると、マニュアルどおり。全員があいさつしてくれる。
聞き流して、シャンプーをしてもらう。人に洗ってもらうのは気持ちよくて眠たくなるけど、どうもここは、シャンプーがあっていないのか、かゆい。
かゆみの残るまま、今度はカット。今日は女の人だった。メイクは薄く、髪は茶色のロング。この店では珍しい、ハデ系じゃないタイプ。
「今日はどうしますか?」
「髪がかたにつかない程度で、あと少なくしてください。」
私のいつもの注文だ。美容師さんは、ドライヤー片手にわかりました、と答える。
ブローは後ろとサイド中心だった。私は髪が風に揺られるのが大嫌いだ。ドライヤーもまた然り。けれど今日は、風がそんなに強くないブローだったから、まだマシだ。
「じゃあカットしていきますね。」
私の多い髪をいくつものピンで止めていき、内側の髪から切っていく。そして長細いくしでまっすぐに伸ばしう長さをたしかめつつ切る。その繰り返し。
慎重な人だな、と思っていたら、正面にある鏡に映ったその人の顔が、微妙に変化した。それでも手はとまることなく、くしで髪をといている。
「…後ろがちょっとなっちゃってるね。」
その人は不意にそういった。
「くせになっちゃってるのかな?」
落ち着いたその人の声は、茶化して人事だというニュアンスや、押し付けのおせっかいなやさしさが一切ない、損隘路だった。
言いたくなかったら言わなくていいよ。
いいたかったら話を聞くよ。
そんなことを言われたわけではないけれど。
「じぶんで…やっちゃいます。」
私はこの人だから言うことにした。
髪の毛を切ってもらいながら、私たちはこの店では珍しく、話をした。
勉強しているときやしんどいときにやってしまうこと、前髪で隠れるところや、左右どちらにもうっすらとあること、背の高い人が苦手なこと、指摘されるのが、そのときの反応がいやで、長い間髪を切りにこれなかったこと―。
ゆっくり、ゆっくり切られた髪の毛が落ちていく。美容師さんは、うなずきながら話を聞いてくれた。
「中側だから大丈夫。背が高い人が見ても、分からない。きにしなくてもいいのよ。」
なぜだか気休めではなく、説得力があると思えた。
「美容師さんの髪、長い。いいなあ…。」
私は本心から、そうつぶやいた。
「のばしてみる?似合うと思うよ。きれいな黒なんだから。」
そんなことを言われたのは初めてで、なんだかくすぐったくなった。
「のばしたいとは思ってるんですけど、無理です。髪の量が多いから変になっちゃう。」
美容師さんは、手を止めた。
「確かにそうね。でも、洗った後の髪の乾かし方をしっかりすると、次の日まとまるわ。それに、今みたいにこまめにすいていくのもいいし。」
ぇあたしは、黙っていた。店内はざわついている。耳には、髪を切る音が再び聞こえ始める。
「…のばせ、ますか?」
「うん、できるよ。」
美容師さんは、にっこり笑った。
「伸ばせるように、だんはつけないでおくね。」
床には、私の一部だったものが落ちている。昔より減ってしまったそれを、美容師さんがほうきで集めている。
ここは、人の入れ代わりが激しい。また、会えるかどうかも分からない。せめて名前だけでも覚えていたい。会計のときにそう思って、名札を見た。
苗字が、読めない。
「会員証をお持ちですか?」
その声に、あわててカードをだす。会員ナンバー797.そこに書かれている名前を、その人は少しだけ長く見ていた。
自然な笑顔でカードを返され、私は受け取る。読み仮名が書かれていないこのカード。初対面で読めた人は、だれもいない。
「おせっかいかもしれないけど」
その前置きの後、小声だけどはっきりした声が続く。
せっかくきれいな髪なのに、もったいないよ。
私はお礼を言って、店を出た。遠くにマニュアルのあいさつが聞こえる。
外に出て、髪に手をやる。いつものようにかきむしりそうになったけど、なでてみた。風が吹いて、軽くなった髪が揺れた。