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【2】



 信行はデスクにノートを広げた。そこに黒いペンを走らせていく。完成したのは大雑把なイラストだが、説明がなくても〝人間の脳の形〟だと分かった。


「これは脳を左側から見た図だ。今回ポイントとなるのはこのあたり」

「脳の真ん中より、少し下付近ね?」

「そう。ここは〝大脳辺縁系(だいのうへんえんけい)〟と言い、人間の情動や欲求、本能などを司っている。喜怒哀楽なんかもね」

「じゃあ、そのうち〝怒〟と〝哀〟を感じなくなった管理人さんは……」

「大脳辺縁系に異変が生じた、という可能性もある」

「可能性? なんか曖昧なんですね」

「実のところ、正確には分からないんだ。ハルを()始めてから自分なりに勉強はしているんだが……」


 赤いペンに持ち替えた信行は、大脳辺縁系と呼ばれた図の中に、小さな丸を書き加えた。その赤丸を塗りつぶし、ペン先で叩く。


「これは〝扁桃体(へんとうたい)〟。感情の処理やストレス、不安や恐怖に関与している。いわゆる〝うつ病〟にも関与すると言われているが、ハルの場合うつ病とは違うからね。認知負荷の影響もあるだろう」

「認知負荷って?」

「ヒトの脳は、一度に入ってくる情報量が多かったり何かを判断したりする際に負担を感じるんだよ。ハルの場合はこれに耐え切れず、〝特定の感情を感知しない〟という状況を生み出してしまった可能性もある」

「実際〝心の麻痺〟っていう病気はあるんですか?」

「いや、それはあくまで仮称だ。ハルと同じケースは俺の知る限り報告されておらず、特殊な精神疾患と言えるだろう。そして重要なのはここから――AIチップの仕組みについてだ」


 扁桃体を表した赤丸の横に、小さなイモムシのような絵が追加される。イモムシのような部分は〝海馬(かいば)〟という器官らしい。


「海馬は記憶に関与する器官だ。性行動や快楽反応にも関与している――簡単に言うと〝好き嫌い〟の判断を担っているんだ。そんな海馬と扁桃体は繋がりを持ち、情報が行き来している。それから……」


 海馬から少し離れたところに、さらに小さな丸が書き足された。これは〝側坐核(そくざかく)〟と呼ばれるもの。


「ここも快楽に関与していて、扁桃体や海馬からの情報入力先にもなっている。細かな説明は省くが、こうした回路の中にAIチップ発の特殊信号やデータを介入させる――唯花の姿・声などで、ハルの脳が快楽を覚えるよう誤認させている。唯花のAIチップはその逆だ」

「……改めて説明されると、とんでもないシロモノですね」

「悪用しようと思えばいくらでも悪用できるだろう。だから、この研究成果を外に出すつもりは一切ない。まぁ俺としては悪用問題より、埋め込み成功例であるハルや唯花に危害が及ぶのを避けたいんだがね」


 信行はペンを置き、視線をこちらに戻した。


「最初に律子ちゃんの眼を見せてもらおうとしたときは単純に〝新たな異分子データがほしい〟という興味だった。もちろん断られたら引くつもりで打診したんだが……律子ちゃんを庇おうとするハルを見て、何としても見せてもらいたいと思い直したんだ」


 あたしの異彩がコンピュータによる制御に影響を及ぼすかもしれない。仮にその可能性があるなら、ハルと唯花のためにも放置しておくわけにいかない。そう考えた信行はあたしの部屋を訪れた。

 実際に異彩を見て気になる点を質問しても、制御に関与するか否かのヒントは得られなかったらしい。


「改めて『眼を詳しく調べさせてほしい』と頼むつもりだったんだが、悠長にしていたらハルの制御が完全崩壊する可能性もある。まずはそれを阻止しなければと思い、しばらくコンピュータと睨めっこしていたんだ。しかし……ハルが倒れたのを見て、ふと疑問が湧いた。〝ハルは今、幸せなのだろうか〟とね」


 唯花と想い合うよう制御され、苦痛を感じることなく過ごす――それは〝マイナスを生まない〟という意味で幸せなのかもしれない。


 しかし、所詮は他人(ひと)の手による作り物だ。


 AIチップによる制御が崩れたとき、ハルは何を望むのか。用意された〝幸せ〟に戻ることを選ぶのか、別の道を選ぶのか。ハルが自分の意思で導き出した答えこそ、本当の幸せに繋がるのではないか。

 そんな疑問が、あたしの異彩によって引き出された信行の潜在意識――。


「俺は、ハルと唯花が傷付かないよう生きられる方法だけ考えてきた。自分の行為に疑問を抱いたこともない。だが俺の手で作られたものが〝本当の幸せ〟でないということは、心のどこかで分かっていたのかもしれないな。だからこそ、AIチップについて住人に知られることも避けていたんだ……きっと。こうした本音を、律子ちゃんの異彩に揺さぶられたんだろう」


「やっぱり管理人さんも、あたしの影響で自分の本音に気付いたってことですよね。だからあたしを庇ってくれたり、ノブおじさんから逃げ出そうとしたりした」

「いや。ハルの場合、律子ちゃんの異彩は〝きっかけ〟にすぎないだろう」

「どういうことですか?」

「ただ本音に気付かされるだけでは意味がない。気付いたあと、自ら抜け出そうとする勇気がなければ――何かしら行動しなければ状況は変わらないだろう?」


 ハルが心を壊したのは約十年前。年月が経過し、いつしか〝以前の自分〟を取り戻したいと願うようになっていたのかもしれない。


 ハルの心は、本人も周囲も気付かないうちに少しずつ強さを取り戻し始めていた。そこにあたしの異彩の力が介入したことで、制御の崩れを引き起こした――信行はそう推測したようだ。


「俺が干渉しすぎたせいで、ハルや唯花、律子ちゃんを傷付ける結果になってしまった。申し訳なかった」


 立ち上がり、深々と頭を下げる信行。彼の研究は行き過ぎたものだったかもしれないが、甥と姪を心から大切に想っている上での行為だったということは伝わってきた。無表情でいるハルは何を感じているだろう。


「……僕と唯花のAIチップ、外してくれますか?」


 頭を上げた信行は「その必要はない」と告げた。パソコンからの遠隔操作でAIチップに入っている情報を削除してしまえば、同時に制御も失われるそうだ。


 今後、管理人兄妹は百パーセント自分自身の意思で生活する日々を取り戻すことになる。双方、兄妹以上の感情を抱くこともなくなるはずだ。万事解決――と思ったが、信行は「しかしなぁ」と呟いて椅子に座り直した。


「唯花は昔からハルを溺愛していた。恋愛感情が消えてもそこに変化はないからね。律子ちゃんという恋人を素直に受け入れるかどうかは別問題だな」


 勝手に恋人扱いされてしまっている。

 慌てて否定したが、隣からハルに呼ばれた。


「僕は今の気持ちを伝えたつもりだったのですが」

「さっき言ってたこと……〝愛したかった〟ってやつ?」

「はい。僕もいつの間にか律子さんに惹かれていたんです」

「でもそれ、あたしの眼を見たことがきっかけで起きた変化でしょ? それを〝好き〟ってことにしていいの?」

「僕が変わったきっかけは律子さんの異彩かもしれませんが、その後あなたに惹かれていると自覚したこととは無関係です」


 ハルは腕組みしている信行に視線を戻した。先ほどまで二人の間には重々しい雰囲気があったが、今はそれが緩和している。二人とも柔らかな笑みを浮かべていた。



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