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【4】



「管理人さんはそれでいいと思ってるの?」

「……どうなんでしょうね。律子さんから見た僕は普段と変わらないでしょうが、これでも頭の中は混乱しているままなので。自分が何を望んでいるのか曖昧です」

「AIチップを抜き取る方法はないの?」

「頭に穴を開けるしかありませんね」

「そんなの――」

「むろん、叔父にしかできません。それ以前に、妹が許可しない限り無理です。叔父は自分の血を引いている唯花が可愛くて仕方ないようですからね」


 数歩踏み出したハルが右手を伸ばし、あたしの頭に触れる。撫でる手は柔らかいが、彼の作る笑顔は引きつっていた。


「〝負の感情を抱かない〟という本質は変わっていませんので心配しないでください。現に今、僕は大した苦痛を感じていません。もう少し休めば元どおりになるでしょう。そうすれば今までと同じ、自分にとって負担となる感情は全て自動排除されていく。自我を失うことになったとしても、悲しみも苦しみも感じません。それに僕を捧げることで、妹の寂しさを和らげることができますから」


 頭に乗っているハルの手を払い退ける。ぶつかった手に痛みを感じたのか、彼の表情が少し歪んだ。


「管理人さん、嘘ついてる。思考を制御されるのが嫌だから、ノブおじさんから逃げ出そうとしたんでしょ?」

「叔父の部屋を出たときは今より混乱が強かったんです。何も考えずに飛び出してしまった、程度のことでしょう」

「それが管理人さんを突き動かした衝動――本当の願望だとは考えないの?」

「律子さんは今、僕が告白を断ったせいで苦しんでいるんですか?」

「……何なの突然。そんなこと、今はどうでもいいよ」


 質問の意図は掴めなかったが、もうそれどころの問題でないと感じているのは本心だ。ハルは戸惑ったように視線を泳がせている――この様子には見覚えがあった。あたしがハルに対し「冷たい」と言ってしまったときと全く同じ態度だ。


「今の律子さんは悲しい顔をしているように見えます。でも僕には、その理由が思い当たらない。失恋や死別などは〝悲しい出来事〟だと理解できるのですが、今の状況で何が悲しみを生むのか……。自分の痛みが分からないということは、他者の苦しみを察してあげられないことにも繋がるんです」

「そんなの……あたしだって、何がどう悲しいのかなんて説明できないよ。でも、分かってほしいなんて思ってないから。気にしなくていい」

「律子さんの苦しみを理解できないだけじゃありません。僕はあなたを傷付けていることに何の罪悪感もない……どんなに注意されようが叱責されようが、そういう感情は抱けないんですよ? あなたの痛みに共感することもできない人間に、優しさを注ぐ必要はありません」


「それは管理人さんが決めることじゃない。大体あたしは、罪悪感を抱いてほしいなんて思ってない」

「律子さんの優しさがあれば、いくらでも素敵な恋ができるはずです。僕のことなど忘れてください」

「別に片想いでもいいよ。でも、管理人さんの思考が人に制御されたものになるなんて……今までの〝月下ハル〟じゃなくなるなんて絶対に嫌。あたしの身勝手だとしても、それだけは譲れないよ」

「管理人としての仕事が変わるわけではありませんから。お気になさらず」


 ハルはあたしのことを突き放そうとしている。信行のもとへ戻り、さらなる思考の制御を受け入れようとしている。


 ハルのことが大切だから、しつこいと思われたくない。

 でも、大切だからこそ引き下がりたくない。

 初めて抱く感情に戸惑うばかりで、具体的に何をすればいいのか分からなかった。


 どんな言葉で表現すれば、この想いを伝えることができる?

 どんなふうに振る舞えば、この想いが伝わる?

 胸の奥底から熱い何かが込み上げてきて、爪が食い込むほど拳を握り締めた。


「管理人さんには、自由に生きてほしいよ。自分が本当にやりたいことをして……与えられた恋じゃなく自分で好きな人を見付けて、自分自身のために生きてほしい。いくら大事な家族だとしても、妹と叔父のために自分の人生を犠牲にする必要ない」

「…………律子さんの想いを聞いて、自分が勘違いしていた本心に気付きました」

「勘違い?」

「律子さんに告白されたとき言葉が浮かんでこなかったのは、無意識下でAIチップの制御に抗おうとしていたからでしょう。僕は……〝妹以外の誰か〟を愛したかったのではなく、律子さんのことを愛したかった。本当は、あなたの気持ちに応えたかったんです」

「それって――」


 直後、視界に黒い影が映り込んだ。

 こちらに駆け寄ってくる足音、息づかい。ひらひらとなびくものが白衣だと分かる距離まで近付いたところで「無事でよかった」という信行の声が耳に届いた。


「この歳になるとダッシュは辛いね。さぁ、帰ろう」


 信行がハルに向かって右腕を伸ばす。それを遮るべく二人の間に割り込んだ。腕を引っ込めた信行の眉間に皺が寄る。


「律子ちゃん、機嫌が悪そうだね。ハルの秘密を聞いたのかい?」

「はい。……AIチップ、抜き取ってください」

「やっぱり唯花とハルの仲を邪魔するつもりだね? これ以上唯花たちを傷付けるようなマネはやめてくれるかな」

「あたしは二人の関係を壊したいわけじゃないんです。ただ、人の意思を奪うなんて許せません。管理人さんの人生はノブおじさんや唯花のものじゃないんだから」

「……予想はしていたが、やはりお前さんが俺の研究を崩したようだね。自分の才能には自信があったんだがなぁ」


 自嘲気味に呟いた信行は、くしゃくしゃと頭を掻いた。あたしの後ろに立っていたハルが隣に並ぶ。


「僕は大人しく戻ります。律子さんに迷惑を掛けるのだけはやめてください」

「俺の部屋に戻ったらどうなるか分かっているよな」

「もちろん分かっています」

「……本当に、それでいいのか?」

「どういう意味ですか?」

「最初で最後、お前さんに選択権を与えてみることにした。律子ちゃんの熱い想いは伝わってきたが、ハルは何を考えている? 長いこと忘れていた〝痛み〟を一度に受け止め、酷いダメージを負った今の心で……何を思う?」


 ハルは無表情で沈黙した。

 本人の口から出る言葉で全てが決まる。そうすればもう、あたしには何もできない。導き出される結論を待ったが――突然、ハルの身体がぐらりと揺れた。咄嗟に腕を差し出し、彼を支える。


「大丈夫?」

「……はい、何とか」

「無理してまた倒れたら元も子もない。ノブおじさんだって、管理人さんの考えを聞くまでは待ってくれるでしょ。今すぐ結論を出さなくても――」

「AIチップが邪魔をしているのか、自分の意思を表現するための言葉を導き出すことができなかっただけです。だから、律子さんがくれた言葉を使うことにしました。……僕は、自由に生きたい」


 はっきりとした声が響く。

 信行が「思考のコントロールをやめろということか?」と訊ねると、ハルは頷いた。


「律子さんがそう願っているから。自分の気持ちを全て明確に理解できたわけではありませんが、彼女が悲しむ姿を見たくないという気持ちは確かにあります」

「律子ちゃんの代わりに唯花が傷付いてもいいのか?」

「きちんと話し合いをすれば、唯花は僕の気持ちを理解してくれるはずです」

「あの子はお前さんのことしか見えていない。身を引くことは絶対にないぞ」

「僕は唯花を信じます。叔父さんより長い時間、一緒に暮らしてきた家族ですから」


 今度は信行が沈黙した。

 その面持ちは夜闇と同化するほど暗い。

 ハルに選択権を与えておきながら、出された答えに納得がいかないのだろうか。それとも、最初からハルの意思に委ねるつもりなどなかったのか――。


「……お前さんのコントロールは既に崩れかけている。あとは唯花側のコントロールをやめればいい」


 信行の発言に驚いたのはあたしだけではなかったらしい。ハルは訝しげな顔で「どういうことですか?」と訊ねた。


「お前さんと同じAIチップを、唯花の頭にも埋め込んでいるんだ」

「そんな……そんな話は聞いていません」

「唯花はお前さんの心を乱さぬよう、事実を黙っていたからな」

「黙っていたって……。僕は頭に穴を開けられてから一週間、絶対安静を余儀なくされたじゃないですか。唯花にそんな期間は――」

「覚えていないのか? あの子が整形したときのこと」


 唯花と出会ったとき、彼女は美容整形していると言っていた。あたしは詳しく聞いていなかったが、唯花は「術後の腫れた顔を人に見られたくない」と言い、十日ほどファミリアを出ていたらしい。その時期に被せ、AIチップを埋め込む作業も行っていたという。


「僕に事実を隠すために、唯花は美容整形までしたと?」

「いや、整形も唯花の意思だよ。あの子は可愛いものに目がないからね。AIチップの研究開発については、お前さんより先に説明してあった」


 唯花は自身のタイミングで人の心を読むことができるため、隠したところで気付かれてしまう可能性がある。信行は「研究が成功するまでハルには秘密」という約束のもと、唯花に詳細を話したそうだ。


「この研究が成功すれば、ハルはずっと唯花のことだけ好きでいてくれると説明したんだが。あの子は『自分にもAIチップを埋め込んでくれ』と言ったんだよ。『私も兄と同じ感情を抱いた方がいい』とね」

「待ってください。それはつまり、唯花も僕と同じ……元々恋愛感情はなかったということですか? 唯花が僕のことを好きだったから、両想いにするため僕の思考を制御しようとしたのでは……」

「まぁそう思われて当然だろうね。……全ては俺のエゴだったのかもしれないな」


 絞り出すように言った信行はあたしたちに背を向けた。


「俺の部屋に来てくれ。そこで懺悔を聞いてくれないか」


 信行の姿が暗闇に溶けていく。

 ツリーの前に残されたあたしとハルは顔を見合わせた。信行の話が事実だとして、一体何のためにそんなことをしたのだろう。



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