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【2】



* * *



 初めての失恋で落ち込んでいようが、ファミリアを出るべきか否か悩もうが、当たり前に朝はやってくる。浮かない気持ちのまま一階フロアへ向かった。エレベーターを降り、コンビニが目に入ったところで反射的に立ち止まる。


 コンビニ前に唯花の姿があった。あたしに用事があるとみて間違いない。不安を抱きながら近付くと、唯花があたしの名を呼んだ。


「話したいことがあるの。一緒に来てくれる?」


 自分で結論を出すまでもなく、追い出されることになるかもしれない。

 短く溜め息をつき、事務所へ向かう唯花に付いていく。室内でハルが待っているかと思ったが、誰もいなかった。唯花と二人、距離を空けて向かい合う。コンビニの開店時間まで二十分を切っているが、それまでに話は終わるのだろうか――という疑問を唯花は読み取ったようで、「遅れたって構わない」と口にした。


「管理人さんも同席する話なのかと思ったけど。違うの?」

「兄さまは倒れてしまったわ」

「倒れたって――」


 ハルは昨夜〇時過ぎ、唯花の部屋を訪れた際に意識を失ったそうだ。現在まで意識は回復しておらず、信行の部屋のベッドに寝かされているという。すぐにでも病院に連れていくべきだと思ったが、唯花は首を横に振った。


「病院に行っても治らないもん」

「意味分かんない。ちゃんと分かるように説明して」

「兄さまは、重い心の病を抱えているの」

「心の……病?」

「兄さまの心は〝自分にとって負担となる感情を抱かない〟ようになっているの」


 悲しい、辛い、苛立ち、不快感――本来ならそういった感情を抱くような出来事が起きても、ハルの心は〝無〟を保つようになっている。喜びや幸せを抱くことはできるが、悲しみや苦しみを抱くことはない。

 これは自分自身を守るために発症した精神疾患の一種だと、信行は言っていたそうだ。


「叔父さまは〝心の麻痺〟だと説明してくれたわ。心が完全に壊れるのを防ぐための自己防衛で、自然とそんなふうになってしまったんだって」


 ハルがストラップを失くしたときのことが頭に浮かんだ。宝物を失くしたにもかかわらず平然としていたが、あれは探す時間を惜しんでいたわけでなく、宝物を失くしたところで悲しくも何ともなかった――ということか。


「家庭が壊れる前のこと……わたしたち兄妹が連れ子同士だってこと、律子も把握してくれたよね。お母さまはわたしと血が繋がってて、兄さまは父親と血が繋がっていた」

「父親は……唯花の異彩のせいで、家庭を捨てて逃げたんでしょ? あたしのクソ親父と同じように」

「そう。お母さまが亡くなったとき、あの男を交えて話し合いの場を設けた。あの男はわたしの異彩に怯えていただけ。叔父さまも『血の繋がった子は可愛いはずだ』と考えていて……『ハルのことは実父のあなたに任せたい』と頼んだの。でも……あの男、面倒くさそうに舌打ちした」

「……最低」


「叔父さまも『子供の前でその態度は何だ』と怒ってた。でもあの男、『今更出てこられても困るんですよ。恋人がいるんで』と開き直ったの。叔父さま、ものすごい形相で掴み掛かってた。あの二人の大ゲンカを最後に、兄さまは〝負の感情〟を失ったの」

「……邪魔者扱いされた管理人さんがズタボロになって、心の病を患ってしまったというのは分かった。昨夜倒れたのもそのせい?」

「違う、兄さまが倒れたのは律子のせいなの。あなたが余計なこと(・・・・・)を言ったから、兄さまは感じることのないはずの苦悩を体感してしまった」


 もしかして、昨夜の告白のことだろうか。

 考えがそこに至った途端、唯花の視線が鋭くなった。


「兄さまは十年くらい〝悲しい〟とか〝苦しい〟という感情と無縁の生活をしてきた。ずっと遠ざけてきたトラウマが突然、心の中に(なだ)れ込んできたら……人はどうなると思う?」


 あたしの告白が、ハルの心に大きな負担を与えてしまった。当人は「気持ちは嬉しい」と言っていたが、それは住人相手の建前で、本当は好かれることさえ迷惑だったのだろうか。不快な思いをさせるつもりなどなかったのに――。


「兄さまは今も悪夢にうなされているの。負の感情を抱かなくなったことでバランスを保っていた兄さまの心を、律子が壊したから。兄さまは優しいから……告白を断ることで、律子を傷付けるのが怖かったのかもしれない」

かもしれない(・・・・・・)ってどういうこと? 管理人さんの心を読めば本音が分かるんじゃないの?」

「今の兄さまの心は酷く乱れていて、明確に読み取ることができないの。ただ、律子の想いを掻き消そうとしたり大切にしようとしたり……矛盾した感情が渦巻いていた。心に大きなダメージを受けてる。だからもう、兄さまのことを好きだなんて言わないで」


 あたしのせいでハルが倒れてしまったのは心苦しい。告白なんてしなければよかったとも思う。それでも――少なくともハルが無事に目覚めたことを確認するまでは、ファミリアから追い出されたくないという気持ちが湧き上がった。


 ガチャ、と事務所のドアが開く。

 白衣姿の信行が中に入ってきた。

 白髪交じりの頭を掻く彼の表情は、どことなく疲れたものに見える。唯花は信行に「兄さまは?」と訊ねた。


「まだ目覚めていないが、心配いらない。唯花こそ少し休みなさい。一睡もしていないだろう?」

「わたしは平気。兄さまの方が大事だもん」

「それと同じくらい、俺は唯花のことが大事なんだが。叔父の気持ちは無視かい?」

「……分かった。ちゃんと休む」


 涙目の唯花が事務所を出て行くと、信行は「やれやれ」と呟いた。改めて、ハルは大丈夫なのかと訊ねる。


「あいつなら問題ない。心は衰弱状態にあるが、肉体的にはいたって健康だ」

「……ノブおじさんも、管理人兄妹が恋愛関係にあるって知ってるんですよね? 複雑な気持ちになったりしないんですか?」

「愛し合う二人を引き離そうとする方が野暮じゃないかい?」

「でも……両親のことで心に傷を負った二人が、辛い気持ちを慰め合っているだけかもしれないでしょう? 管理人さんに唯花への気持ちを訊ねたときも即答はしなかった。ほんの少しだとしても、管理人さんの心には迷いがあるのかもしれない。恋愛感情とは違う感情が働いているかも――」


「今のお前さんは確証バイアスに支配されているね」

「……何ですか、それ」

「心理効果のひとつだよ。お前さんはハルのことが好きなんだろう? だから〝ハルは唯花のことを愛していない〟という結論に繋がる情報ばかり拾って、自分に都合のいい妄想を膨らませてしまうんだ。あの子たちが抱き合うとかキスをするとか、そういった事実情報は無意識に避けている」

「……じゃあ質問を変えます。管理人さんのこと、『実父に押し付けられたから仕方なく引き取った』とか思ってませんよね?」

「また随分と不躾な質問だね。俺は唯花もハルも等しく可愛がっているが?」


 信行があたしを見る目は冷ややかだった。深入りするなという気持ちが伝わってくる。これ以上の詮索は無駄だと諦め、コンビニへ向かった。


 失恋による落ち込みから一転、ハルの容態が気になるまま仕事を開始。ぽつぽつと来店する住人たち相手に接客し、迎えた午後八時、閉店準備に取り掛かった。唯花も信行も、もちろんハル本人も姿を見せなかったため、その後のことは分からない。


 陳列棚にネットを掛ける作業に差し掛かったとき、エレベーターの方から杏子が駆けてきた。先日の巻き髪ウィッグ姿でなく、見慣れた黒髪ボブに戻っている――いや、そんなことはどうでもいい。杏子は何やら慌てていた。


「あ、あの、律子ちゃん。ハルくんを見ませんでしたか?」

「……管理人さんなら体調を崩して倒れたって聞きましたけど」

「それは知ってるのです。でも、突然いなくなっちゃったらしいのです」


 ドクン、と心臓が鈍い音を立てた。

 ハルがいなくなった……行方が分からないということだろうか。


 杏子は先ほど、エレベーターで信行と一緒になったそうだ。そこでハルが倒れたこと、信行の部屋に寝かされていたことを聞いたらしい。今から約二時間前――午後六時頃、ハルはまだ眠っていた。しかし先ほど信行が確認したところ、室内からハルの姿が消えていたという。


「律子ちゃん、ずっとコンビニにいたでしょう? マンションを出るハルくんを見たんじゃないかと思いまして」

「見てないですよ」

「裏の非常口を使ったんでしょうか」

「電話は繋がらないんですか?」

「スマホもお財布も、車の鍵も置いたままだったみたいです。ノブおじさんは『そう遠くまで行っていないはず』と言ってました」


 ハルが倒れた原因は、心に大きな負担がかかったこと。そんな状態で行方をくらませたとなると……嫌な予感しかしない。


 捜しに行かなければ。

 スマホはジーンズのポケットに入っている。あとは移動手段――徒歩で捜すのはあまりにも効率が悪い。お金が必要だ。杏子に「ちょっとだけコンビニの様子を見てて」とお願いし、部屋に戻って財布を掴んだ。


 駆け足で階段を下りてコンビニへ。杏子はエントランスに面した陳列棚の前で、スマホを耳に当てていた。あたしが駆け寄ったところで電話を切る。哲司に連絡し、ハルの行方を知らないか訊ねていたそうだ。しかし有益な情報を得ることはできなかった――そんな報告を受けている最中、甲高い女性の悲鳴が聞こえた。


「ななな、なんですか、今の声!」


 怯えた様子の杏子があたしにしがみついてきた。おそらく非常口の方からだ。杏子の手を引っ張って駆け出す。階段の奥、非常口となっているドアの前に信行の姿が見えた。彼はぐったりとした唯花を支えている。


「一体何があったんですか? 唯花は――」

「気を失っているだけだ」

「さっきの悲鳴は唯花だったんですね?」

「あぁ、ハルがいなくなったことを知って混乱したんだろう」


 信行は意識のない唯花を抱き上げた。杏子は不安そうに眉を寄せ、あたしの腕を掴んでいる。


「心配を掛けてすまないね。ハルのことは俺が捜しておく」

「だったらあたしも――」

「お前さんたちは待機していてくれ。見付かったら報告を入れるよ」



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