【4】
「ハルにも今夜のことは黙っておこう」
「ノブおじさんに眼を見せたこと?」
「あぁ。あいつは繊細だから余計な情報を入れない方がいい」
あたしから見ると、ハルより唯花の方がずっと繊細そうだが……家族でないと見えない部分もあるということだろうか。
「今度はあたしが質問してもいいですか?」
「何だい?」
「管理人さんの異彩のことですけど。住人に話さないよう、ノブおじさんが口止めしているんですよね? それはどうして?」
「お前さんのような子を苦しめるかもしれない……いや、違うな。もしかしたら……心のどこかで恐れている……のかもしれない」
「恐れているって、異彩を知られること?」
「……まぁ、そうだね」
「ここの住人はみんないろんなものを抱えてます。管理人さんに世話になってるわけだから、そうそう拒否反応を示したりしないんじゃないですか? あたしだって、管理人さんにどんな異質さがあったとしても受け入れる覚悟はあるつもりです」
「……受け入れる覚悟がないのは俺の方だよ」
「え? どういう意味ですか?」
「律子ちゃんは『生きる意味など考えたことがない』と言っていたね」
「……そうですけど」
「俺は明確な目的を持って生きている。唯花とハルを幸せにすること――それが俺の生きる意味さ」
結局のところ、ハルの異彩を口止めしている理由を語るつもりはないということか。あまり詮索して「住人規約に抵触する」など指摘されても厄介だ。今は信行の言葉を信じておくことにしよう。
彼は「また訊きたいことができたら来る。協力してもいいと思ったら協力してくれ」と言った。ハルはあたしのことを心配してくれたが、自分の眼について詳しく知ることができるなら……それはそれでありがたい。できる範囲で協力すると伝え、信行を見送った。
* * *
翌日の夕方、俊介がコンビニに顔を出した。フレンチレストランの面接に行った帰りだという。まだ合否は出ていないそうだが、俊介は自信満々といった様子で胸を張っていた。「無事受かるといいね」と言いながら、彼が購入した品を袋に入れて差し出す。
「実は律子ちゃんに聞いてみたいなーと思ってたことがあるんだけど。ハルとは良い感じの関係だったりするの?」
「何それ」
「ハルのストラップ、二人で捜しに行ってたじゃん? もしかして付き合ってたりするのかな、なんて思ったりして」
「……その程度で付き合ってることになるなら、あたしの家に何度か上がってる俊介も彼氏だね」
「嫌味な言い方しないでよー……ってのはさておき。ハル、律子ちゃんのおかげで宝物が戻ってきたって嬉しそうだったよ? あれはもはやノロケ話だったね」
「そんなの、俊介の勝手な思い込みでしょ。管理人さんと恋愛に発展するような出来事なんてないから」
「〝恋愛に発展する出来事〟って何?」
「なんて言うか……ドラマみたいな展開? 事故やトラブルに巻き込まれたときに助けてくれたとか、気持ち悪いレベルの偶然が続いて意識し始めるとか。人って、そういう出来事をきっかけに恋に落ちるんでしょ?」
真面目に論じたつもりだったのに、俊介は声を上げて笑いだした。何がそんなに可笑しいのか分からない。
「律子ちゃん、フィクションの世界に影響されすぎだよ。恋に落ちるのに特別なきっかけがあるとは限らない。〝いつの間にか自然に好きになってた〟ってこともある。些細な出来事を機に意識しちゃうってこともね」
「……俊介はそういう経験あるの?」
「うん。オレの初恋は小学校三年生のときだったんだけど、相手を意識し始めたきっかけはホントに些細なことだった。隣の席になったとき、忘れた教科書を見せてもらったんだよね」
「そんなくだらないことで?」
俊介は「失礼な子だね」と眉を寄せた。咄嗟に謝ったが、くだらないという感想自体は変わらない。その程度の出来事で恋に落ちていたら、そこらじゅうで人を好きになってしまいそうだが……。
「オレはそんな感じだったから。きっかけなんていくらでも転がってるよ」
「小学校三年生の経験をベースに語られても、子供すぎてアテにならないんだけど」
「子供も大人も大差ないって。案外単純な恋愛もある」
「そういうもんなのかね……」
「そうそう。ハルと一緒に発注画面を覗いてるだけで恋に落ちちゃった、なんてこともあるかもしれない」
「あーもう、うるさいね。さっさと帰りな」
はーい、と残念そうに返事をした俊介がコンビニを出ていく。しかしすぐに「唯花ちゃん!」と呼ぶ彼の声が聞こえた。レジカウンターからは見えないが、エントランスで鉢合わせたようだ。「今日も可愛いね」とか「唯花ちゃんの手作りお菓子が食べたい」とか話している。
唯花の声は小さく、こちらまで聞こえてこない。それでも俊介の反応から、唯花が話を打ち切ろうとしているのだろうことは予想できた。「またねー」という俊介の挨拶を最後に話し声が途絶える。
棚掃除用のハンディモップを手にカウンターから出ると、エントランスを覗いた。エレベーターの方を見つめていた唯花の顔がこちらに向く。彼女の目つきは恐怖を感じるほど鋭く、思わず怯んでしまった。
「ど、どしたの? 何かあった?」
「律子は兄さまに恋をしているの?」
「さっきの会話、聞こえてたんだね? あれは俊介が勝手に言っただけだよ」
「……わたし、律子のことを嫌いになりたくない。お友達のままでいたい」
「何の話?」
唯花は瞳を潤ませ、言い淀む仕草を見せた。
それでもすぐに気持ちを切り替えたのだろうか。彼女の目の色が変わった。
「兄さまのこと、好きにならないで!」
「あたしは好きな人なんていないよ。唯花は人の心が読めるんだから、そのくらい分かるでしょ? あたしの心の中、好きなだけ読めばいいじゃん」
――そう、ハルに恋愛感情など抱いていない。
心の中で断言してみたが、唯花は瞳を潤ませているだけで何も言わない。
この緊迫した空気を破ったのは、事務所のドアが開く音だった。ハルが駆け寄ってくる。どの部分からなのか分からないが、あたしたちの会話が聞こえていたのだろう。ハルは唯花に向かって「やめなさい」と口にした。
「〝住人の皆さまに迷惑を掛けない〟という約束、忘れてないよね?」
「兄さまは……わたしより律子の方が大切なの?」
「僕が何を大事にしているか、キミには分かるはずだよね?」
「最近の兄さまは……なんか変な感じがする。心がちゃんと見えない。靄がかかってるみたいなの」
「……ちょっと疲れてるからかな。不安にさせてごめん」
「ずっとずっと、わたしが兄さまの一番だよね? 誰のところにもいかないよね?」
「大丈夫、僕は母さんたちとは違うよ。唯花を残してどこかに行ったりなんかしない。ずっと傍にいるから」
父親の裏切り、母親の死――そんな事情で両親を失ってしまった唯花は、心に大きな傷を負っているのだろう。ハルの言葉はとても重いものに感じられた。
「キミは部屋に戻っていて。あとで顔を出すから」
小さく頷いた唯花は、こちらを見ることなく歩き出した。彼女の姿が見えなくなったところで、ハルが「申し訳ありません」と頭を下げる。
「妹が大変失礼しました。よく言って聞かせますから」
「別にいいよ。でも……あたし、あの子に嫌われちゃったかな」
「そういうわけではないと思います。妹は僕と叔父以外の人を信じるのが怖いと……そう話していたことがありますから。おそらく幼少期からのトラウマなのでしょう」
ハルはもう一度、深々とお辞儀をした。
「明日ストラップを見付けていただいたお礼をする約束でしたが、延期させていただいてもよろしいですか? 今の妹を残して食事に出掛けるのは……」
「もちろん構わないよ。二人で出掛けるのを唯花が嫌がるなら、俊介か杏子さんに声掛けてみる」
「いえ、これまでどおり二人で行きましょう。妹にも理解してもらいます」
「そんな無理しなくていいよ?」
「無理などしていません。住人の皆さまと過ごす時間は僕自身の希望で作っていると、前にも言いましたよね? 僕は、本当は……」
「……何?」
「僕は、律子さんと二人でお食事する時間が好きなんです」
きゅっと、心臓付近を掴まれたような感覚に見舞われた。でも嫌な感じではない。不思議な気分を持て余し、視線を横に流した。
「そういうこと、あんまり言わない方がいいんじゃない? 唯花に誤解されるよ」
「僕の発言で嫌な気分にさせてしまいましたか?」
「……別に、平気だよ」
〝あたしもハルと一緒に美味しいものを食べる時間が好き〟――そう返せば良かったのに、何故か言葉にならなかった。自分の中で、何かが消化不良になっている感じがしていた。




