【3】
ハルを部屋に入れると、ベッドにタオルケットを敷き、その上にうつ伏せで横になってもらった。その上からさらにタオルケットを掛け、まずは凝り固まっている肩、肩甲骨回りをほぐしていく。
普段対面しているときは細身に見えるが、やはり男性。母さんと違って背中が広い。先ほど玄関先で言われたことが頭によみがえり、脈が速くなってきた。誤解は解けているから気にする必要などないのに、妙な緊張を感じてしまう。
血流を良くする効果があると言われるふくらはぎのマッサージを終えると、ハルの身体からタオルケットを外した。上半身を起こした彼は清々しい表情で伸びをしている。
「どう? 多少は効果あった?」
「えぇ、とても楽になりました。ほんの十分程度のマッサージで、こんなにも身体の軽さが変わるんですね」
「管理人さんは働きすぎなの。適度に手を抜かないと早死にするんじゃない? そうなったら時間を大事にする意味もないよ」
「……そうですね。できる限り気を付けます」
玄関先まで見送ると、ハルは「またお願いしてもいいですか?」と言った。自分のマッサージが役に立つなら嬉しい。「いつでもやってあげるよ」と返しておいた。
ハルが帰ってから十分ほど経った頃、再びインターフォンが鳴った。
今度は誰だろう。
ドアスコープから確認すると、白衣のポケットに手を突っ込む信行の姿が見えた。ハルの懸念が現実になってしまったか……と思ったが、無視するわけにもいかない。仕方なくドアを開けた。
「やぁ律子ちゃん。遅くに悪いね」
「……何ですか?」
「昼間の返事、聞かせてもらおうと思ってね」
「やっぱり異彩のこと……。管理人さんに免じて身を引くとか言ってませんでした?」
「あいつは〝叔父が住人に迷惑を掛ける〟と思い込んでいるようなんだ。そんなことはないんだけどねぇ」
信行は白髪交じりの頭をわしわしと掻いた。顔には笑みが浮かんでいるが、どことなく胡散臭いものに感じられる。
「ノブおじさん、住人の異彩を調べているって聞きました。医療従事者なんて濁してましたけど、仕事に関係してるんですか? どっかの病院に異彩の詳細を売りつけることで儲けてるとかじゃないですよね?」
「そんな酷いことはしないよ。前にも話したと思うが、多くの異分子データを集めたいと思っているだけさ」
「……『面白いから興味がある』とか失礼なこと言ってましたよね」
「誤解しているようだが、単にデータ集めを楽しんでいるわけじゃない。ここに住む異彩者の中には、日常生活に不便を覚えている人間もいる。その不便さを完全に消すことはできなくても、緩和させたり隠したりすることはできるかもしれない――そんな思いもあるんだ。律子ちゃんから見ればしがないオッサンだろうが、これでも腕に覚えはあるからね」
「腕って、医者としての?」
「あぁ。今も様々な分野を勉強している」
「実際、ノブおじさんのおかげで生活が改善した人はいるんですか?」
「片手の指で足りるほどの数だけどね。正直どうにもならない異彩の方が多い。現在の医学では解明不可能な要素ばかりだからこそ、様々なケースを見て自分なりに研究したいんだよ。どこで何が役に立つか分からないからね」
いつの間にか、信行の顔から笑みが消えていた。あたしを捉える瞳は真剣そのもので、彼の話に嘘偽りがあるようには見えない。
「……ホントに見せるだけでいいんですよね?」
「もちろんさ。もし嫌な思いをしたら警察を呼んでくれたって構わない」
「分かりました。そこまで言うなら見せます」
信行を部屋に上げ、ローテーブルの前に促す。コンタクトケースを用意してレンズを外すと、信行は顎に手を当てて唸った。
「……なるほどね。先天性のものと聞いたが、視力はどのくらいあるのかな?」
「両目とも〇・八あります」
「他人に見られる心配以外で、生活に困ることはない?」
「はい。しいて言えばコンタクト代が高いくらい。あたし専用の特注なので」
「そうか。少しだけ、瞳の動きを見せてもらえるかな」
信行は白衣の胸ポケットからボールペンを抜き取り、あたしの顔の前にかざした。ゆっくりと上下左右に動かされるボールペンを目で追う。続いて「部屋の電気を見てくれ」と指示されたため、天井を仰いだ。上から顔を覗き込んできた信行が、手のひらであたしの視界を遮る。
「瞳孔は正円、動作に不審な点もないな。瞳孔径も正常範囲だろう」
「眼科的な部分で問題はないと思いますよ? 主治医が何度も調べてるので」
「その主治医というのはどんなヒト?」
「どんな、って訊かれても……ごく一般的な眼科医だと思いますよ。ただ、ちょっと変わった人なのかもと思ったことはあります」
「どんなこと?」
「……内容は伏せさせてもらいますけど、主治医も病気絡みで辛い経験をしたらしいんですよね。『あたしみたいな子供にそんな話までする?』っていうくらい込み入った事情まで、語り始めると止まらなくて。しかも泣きながら」
「律子ちゃんに心を許しているということだろうか。それにしても患者の前で泣くというのは……なかなか理解しがたいね。その医者が初めてお前さんの眼を見たときの反応は?」
「小さい頃のことだから覚えてないです。母親いわく、主治医に出会うまでに三軒の眼科を回ったらしいですけど」
どの眼科も検査は行ってくれたが、結局「他をあたってくれ」と投げ出されてしまった。酷い医者は「珍しいものだからお金になるかもしれませんよ」と言い、専門の研究機関に行こうと誘ってきた(もちろん断ったが)。
母さんは「今の主治医に出会えてよかった」と繰り返していた。あたし自身感謝している。コンタクトレンズを作成してからはレンズの交換時しか足を運ばなくなったが。
「律子ちゃんはいつからそのコンタクトレンズをしているんだい?」
「小学校二年生です」
「それ以前は裸眼で生活していたんだよね? お前さんの周囲で異変が起きたことは?」
「酷いいじめに遭いました」
「そういったことではなく。たとえばお前さんの眼を見たヒトが体調を崩して倒れたとか、逆に重い病気が奇跡的に治ったとか」
昔は近所の人に不躾な視線を向けられ続けた。もし信行の言うような効力があるなら、早い段階で気付いていたのではないだろうか。それに、ファミリアでも数人に眼を見せている。少なくともあたしの知る範囲では、彼らに目立った変化はない。彼らが何かを隠しているなら話は別だが。
「――あ、でも。管理人さんに眼を見せたとき、頭が痛くなりそうだと言ってましたね」
「頭か。具体的にどんな様子だった?」
「たまたま眼を見せたタイミングと重なっただけかもしれないですけど、偏頭痛の前兆が起きたって。目がチカッとしたって言ってました」
「閃輝暗点か。特に問題ないとは思うが……」
「管理人さんの偏頭痛、ノブおじさんが診てあげたって聞きましたけど。ちゃんと病院に行かせなくて大丈夫なんですか? ただの偏頭痛じゃなく病気が隠れてる可能性もあるし、頭痛の専門医に診てもらった方が良いんじゃないですか?」
「その必要はない」
「……なんか冷たくないですか? やっぱり、所詮他人だと思ってるから?」
「頭痛に関しては俺に任せてくれればいいということさ。脳神経外科で十年以上、脳血管障害や頭部外傷の患者を診てきたからね」
要するに、信行自身が頭痛に詳しい医者だったということか。それならそうと最初から言えばいいのに……相変わらず真意の見えない語り方をする人だ。
「律子ちゃんが他に眼を見せたヒト、訊いてもいいかい?」
「俊介、杏子さん、ノブおじさん。管理人さんを入れて四人ですね」
「唯花には見せていないのか?」
「あたしが眼を見せるのは頼まれた場合だけですから。今でも自分から見せるつもりはないし、自分から打ち明けるつもりもないです」
「お前さんにとって不快な反応――具体的には『怖い』だとか『気持ち悪い』だとか、そういったことは三人とも言わなかったね?」
「はい。むしろ感激されたり綺麗だって言われたり……あたしの方が驚かされました」
「異彩を見せたのは一人一回ずつ?」
「そうですね。『また見せて』とか頼まれたことはないです」
信行は「そうか」と呟き黙り込んでしまった。彼を放っておくと俊介や杏子にまで意見を聞きに行ってしまうかもしれない。「他の人に眼の話をしないでくださいよ?」と念押しすると、信行は「分かってるよ」と肩を竦めた。




