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「仕事は確認ごっこじゃない!」と叱られた私。Excel音痴を救ったのは、上司の教える「右クリック」の魔法だった

作者: レイコchan
掲載日:2026/02/26

【第1エピソード:新しい職場での第一歩】


それは、汗ばむ季節がようやく終わり、朝晩の風に、かすかに金木犀(きんもくせい)の香りが混じり始めた頃、私はとある企業、M社に就職が決まった。

面接は自信がなかったが、二人の上司は揃って人柄がよく、気前がよく、快く私を迎え入れてくれた。私はその業界では未経験者で、一から勉強することになった。同期のもう一人の女性・小園さんは経験者であった。よくころころと笑う快活な人だったが、仕事には厳しく、二人で上司の話を聞いている時、私がこっそり隣でノートを取っている彼女をのぞき込んだら、ものすごい顔で睨まれた。

私たちは二人、退職する女性二人と交代で入社したのだが、小園さんの方は中学生のお子さん二人の母でもあるというのに、とても仕事熱心でいつも遅くまで残業して引き継ぎを受けていた。

上司二人は白髪の年配の峰田部長と、中堅で独身の大森主任。どちらも絵に描いたような理想的な上司で、私の新しい職場での一歩は前途洋々のように感じられた。



【第2エピソード:苦手なExcelを克服】


峰田部長も大森主任もいつも忙しそうだった。それもそのはず、ベテラン社員が同時に二人も辞めてしまったのである。

それでも大森主任は自分の仕事は後回しにしてまで、丁寧にわかりやすく教えてくれた。おかげで私は楽しみながら仕事を身に付けていくことができた。ある日、私の書いていた台帳がとてもきれいで読みやすいと、峰田部長、大森主任、そして小園さんまでもが褒めてくれた。私は心の中で「やった!」と叫んだ。

大森主任は、私が当時苦手だったExcelを手取り足取り教えてくれた人でもある。

「わからなくなったら、まずは右クリックだよ」

これを教わってから、私のExcelの腕は数段上がった。それまで霧がかかったようによく分からなかった画面が、大森さんの魔法の一言で、秋の晴天のようにスッと見通しが良くなった。窓の外では銀杏の葉が鮮やかな黄色に染まり、午後の柔らかな光を反射して輝いている。私の心も、その光に応えるようにパッと明るくなった。大森主任は上司の鏡だと思った。

同じ部署には、システム対応で常駐していた佐藤さんもいた。佐藤さんは始めはそっけない人かと思っていたが、私の台帳に関心を寄せてくれて、パソコンの疑問についても教えてくれるようになった。ショートカットキーも、佐藤さんのおかげで色々覚えることができた。



【第3エピソード:異動で加わった面白社員】


ある日、応援の社員が二人加わった。宮地さんと佐久間さんという、中堅の男性社員だ。

宮地さんもパソコンに精通していて、仕事をやりやすくする工夫をたくさん教えてくれた。仕事の更なる面白さを教えてくれた人だ。

佐久間さんもパソコンはできたようだが、時々、面白い人だった。

ある日、どう対処したらいいかわからず考え込んでいると、佐久間さんが助け舟を出してくれた。

「これは他部署の担当だな。そちらへエスカレーションすればいいんじゃないかな」

そう言うなり、私のパソコンでメールを書き始めた。

「お疲れ様です。下記案件について、ご教示いただきたく……」

と言いながら、私にドヤ顔で教える。

「わかる?こういう時は、“ご教示”願います、って書くんだよ」

私は心の中で、「そんなの知っとるわい!」と叫びながら、佐久間さんにハリセンをくらわせたくなった。



【第4エピソード:職場で求められるセンス(秩序)の正体】


金曜日は、男性社員も軽装で来て良い会社だった。

佐久間さんの服のセンスはちょっと惜しい、いや、正直、ちょっとダサい。

いつも、センスにはうるさい小園さんは、私に対しても厳しい目を向けるが、佐久間さんに対しても、同様のようだった。

小園さんのセンスは、常に最新版にアップデートされている。

そうはいっても、佐久間さんは、私たちより格上の立場だ。

私は、ハラハラして、小園さんに、言ってしまった。

「私のこの服だって、売っているんです」

なんとも、おかしなフォローである。言ってしまってから、反芻し、赤面した。


私の言葉を聞いた瞬間、佐久間さんのタイピングする音が少しだけ強くなった。

「……杉村、それはどういう意味だ。売っていない服を私が着ているとでも?」

彼は画面から目を逸らさず、低い声でそう言った。フォローが、完全に裏目に出た。


佐久間さんからすれば、「格上の私に対して、その言い方・そのタイミングで指摘するのはセンスがない(空気が読めていない)」となる。


それ以来、佐久間さんは私の前でだけ、心なしかいつもより背筋を伸ばして歩いているような気がする。


佐久間さんにとってのセンスとは、**「ルール(秩序)を、人間関係という潤滑油を使ってどう上手に転がすか」**という技術だったのではないだろうか。



私は、いつも、お昼休みは、一人で過ごしていたのだが、郵便室の藤木さんが、いつか言ってくれた。

「隣の部署に、昼休み、一人の女性がいるよ。確か、名前は、片桐さん、だったかな。あの人に、声かけてみたら」

片桐さんは、見たことがある。男性ばかりの隣の部署の、紅一点の人だ。

藤木さんのせっかくの親切を無にするのは心苦しかったが、私は、片桐さんに声はかけなかった。

何故かといえば、片桐さんも、小園さん同様、いつもセンスの良い身なりをしていた。しかも、長身でスラッとした細面の美人。

「私より、小園さんとの方がお似合いだわ」

私は、小園さんに、藤木さんからのアドバイスについて伝えると、小園さんは、間もなく、片桐さんと、お昼休みを伴に過ごすようになった。

2人を見ていると、まるで美しくデザインされたWebサイトのトップ画面みたいだった。



【第5エピソード:大ベテラン女性の自信と誇り】


窓ガラスが白く曇り、外の世界が遠のいたような静かな午後。

また新しい女性が異動で加わることを知らされた。久保田さんは、たくさんの書類やMy文房具、暖かそうなひざ掛けを抱えてやってきた。彼女は定年間近の大ベテランで、落ち着きと自信に満ち溢れ、はつらつとしていた。

ただ、血圧が高めで通院しているとのことで、よく当日欠勤した。朝の九時少し前に電話が鳴ると、皆「あ、またか」と内心思っているのが伝わってきた。大森主任も「久保田さん、あれはちょっと休み過ぎだよ」と、よく愚痴を漏らしていた。

そんな久保田さんだったが、仕事に関してはミスもなく、確固たる自信と自負を持っていた。私はそんな彼女に褒めてもらいたくて、よく質問をした。自分が分かっていることをアピールするような質問の仕方だ。だが、久保田さんは決して私を褒めてはくれなかった。

「あの、久保田さん。この集計って、こっちのデータを参照して□□って処理をする……という理解で合ってますよね?」

私は「よく勉強してるね」という言葉を期待して、精一杯の『分かってます感』を出して微笑んだ。しかし、久保田さんは手元のペンをピタッと止めると、ゆっくりと眼鏡を指で押し上げ、冷ややかな視線を私に向けた。

「……で、どこがわからないの?」

期待していた甘い言葉の代わりに、氷のような問いが返ってくる。私は思わず、背筋が凍りつくのを感じた。「いえ、確認というか……」と口ごもる私をよそに、彼女は「あのね、仕事は確認ごっこじゃないの」と言わんばかりのトーンで、淡々と、しかし完璧な講義を始めたのだった。



【第6エピソード:競争心よりチームワークが優先】


三寒四温(さんかんしおん)を繰り返し、風の尖った冷たさが和らいできた頃。

ついに久保田さんが定年退職する日が近づいた。色々世話を焼いてくれたお礼にと、デスク周りの片付けを手伝おうとしたが、あっさり断られた。というより、怒鳴られた。

「いいから、放っておいて!」

彼女にとって、定年まで勤め上げたデスクは、誰にも触らせたくない愛おしい聖域だったのだろう。

その時、私はあることに気が付いた。

久保田さんに褒めてもらおうとして、分かっていることをわざわざ質問した無駄な時間。それは仕事の生産性を下げ、自己満足を優先した行為だった。久保田さんも、私にそれを教えたかったのかもしれない。

仕事は、誰かとパスを回し合って進めるチームプレー。そこに相手を打ち負かそうとするような「競争心」や「自己顕示欲」が入り込むと、途端にパスは乱れ、心はささくれ立ってしまう。

久保田さんの背中が教えてくれたのは、優秀さよりも大切な、調和の心だった。



【第7エピソード:春、恋の季節到来】


季節は、春爛漫、歩道に舞う桜吹雪、恋の季節だろうか。

小園さんと私が、揃って入社した頃、私は、ほとんど、定時か残業をしても1時間ほどまでで、いつも家路を急いでいた。買い物をして家に帰って、いつも仕事で帰宅が遅い夫のために、下手な料理をし、夕食の準備をするためだ。


一方、小園さんは、超パワフルウーマンで、仕事の引き継ぎのため、2時間でもそれ以上でも、残業してから帰宅し、それから買い物をして、料理も完璧にしていたと聞いたことがある。おしゃれにも敏感で、自分磨きにも手を抜いたことがない。

「小園さん、いつも何時間、寝ているの?」

私は、いつだったか、そう聞いてみたことがある。小園さんは、「う〜ん、2、3時間かな。」と、面倒くさそうに答えた。


「すごいね〜、小園さん、家も、私より遠いのにね。」と言うと、当たり前じゃない、と、小園さんが、お腹の中で言ったような気がした。

小園さんは、旦那さんと、中学生でバスケ部員の食べ盛りの男の子と女の子のお母さんで、よく、食事を作るのがたいへんだと漏らしていた。

「まったく、男の子って、どうして、あんなによく食べるのかしらね。作っても作っても、あっという間になくなっちゃう」


大森主任は、私の面倒もよく見てくれたが、小園さんの頑張りも、とても良く認めていて、仕事に関して信頼を置いているようだった。

ある日、私が、珍しく、新しい仕事を教わり、残業が長引いてしまった時、横並びに座っている大森主任と小園さんの、ある現場を目撃してしまった。


その日は雨が降り、比較的蒸し暑く、扇風機が回っていた。私も、首筋から背中までジトッと汗ばんで、ハンカチが手放せなかった。

大森さんの横で仕事をしていた小園さんが、ふーっと溜め息をつき、椅子の背もたれに寄りかかり、ミディアムレイヤーに綺麗にカットされた髪をかきあげ、クルクルと巻いて頭の上の方でお団子を作ってみた。小園さんの細いうなじが丸見えになる。


すると、その瞬間、大森主任が、ソワソワとし始めた。「え?」と、突然、びっくり仰天の声を上げそうになった私は、慌てて引っ込める。

大森主任は、たぶん40歳代位かと思われたが、独身だ。仕事が恋人なのか、今まで一度も結婚したことがないそうだ。

そういえば、小園さんも、いつも言っていた。

「(旦那さんと)子供がいるから一緒にいるのよ。(子供が)いなきゃとっくに別れてる」



大森主任が小園さんの仕事をチェックする際、普段は冷静に「右クリック」でメニューを出す指先が、その時だけ少し震えていた……


私は、見てはいけないものを見てしまった自分が、何故か、のけ者にされたような、妙に寂しい気持ちになった。



【第8エピソード:花粉と共に流れる涙】


今朝は、花粉飛散量が半端ではない。毎春、花粉にやられている私は、この季節が苦手だ。

マスクと花粉除け用ゴーグル眼鏡で通勤する私の姿は、周りからどんな風に映っているのか…


大森主任と小園さんの、何やら秘密めいたワンシーンを思い出したが、

「あ〜、もう、どうでもいいから、この花粉、なんとかして!」と、叫びたくなる。

会社に着いて、鼻をかみ、涙を拭いて目薬をさし、やっとひと心地ついた。


大森主任と話すのは好きだった。上司でありながら、上から目線がまったくなく、私がどんなバカな話をしても、受け入れて上手に返してくれる。いつだったか、私には、未だに独身の友人がいて、紹介したいと、いらぬお節介を焼いた。その時も、

「じゃあ、もしよかったら、その人の写真を見せてくれるかな」と、乗ってきてくれた。

結局、その話は、双方合意できず、破談となった。


失礼だが、大森主任は、ひとり暮らしらしく、仕事が忙しく、あまりお料理をしている時間もなく、どうしても栄養が偏ってしまうのか、少々お太り気味だ。

小園さんは、対照的に、折れそうに痩せている。それにもかかわらず、仕事中に、しょっちゅうお菓子を口にしている。


ある時、大森主任が、私に言った。

「小園さんてさ、あんなに間食しちゃ、太るわけだよね」


私は、小園さんのどこが太ったのー?と思ったので、つい反射的に返してしまった。

「えー? いや、小園さん、あんなに細いじゃないですか。むしろ羨ましいくらいで……」

言った瞬間、空気が凍った。大森主任の顔が、みるみるうちに「あ、俺はデブだけどね」という複雑な色に染まっていく。


「いや、そりゃあ、俺も太ってるけどさぁー」

(心の声)あぁ、まただ。マウスの右クリック一つで、今の発言を『切り取り』してゴミ箱に捨てられたらいいのに。



またしても、私はマズい発言をしたようである。

「あぁ、大恩人の、大好きな大森主任を傷付けてしまった!どうして、私は、こうなんだろう。。」

その日の帰宅時、また花粉による涙を流しながら、自分が情けなくて心の内で泣いた。



【第9エピソード:主任の切ない気持ちが痛いほどわかる】


翌日、花粉症の症状は少し落ち着いたものの、昨日の失言の後悔で私の心は晴れない。

重い足取りで出社すると、大森主任はいつも通り、黙々とExcelの集計作業をしていた。


私は、デスクに置かれた主任のコーヒーカップが空になっているのに気づき、思い切って声をかけた。

「主任、コーヒー、淹れ直してきますね」

主任は少し驚いた顔をして、「あ、悪いね」と小さく笑った。昨日のトゲは、少しだけ丸くなっている気がした。

コーヒーを差し出した後、私は主任の横で、昨日から止まっていたExcel画面を覗き込んだ。


「あの……主任。昨日は、なんだか変なこと言っちゃって、すみませんでした。私、花粉症で頭がぼーっとしてて……」

主任はマウスを動かす手を止め、ふっと息を吐いた。


「いや、俺の方こそ大人げなかったよ。……小園さんみたいに、あんなに自由に食べて、それでも綺麗でいられるのが、ちょっと眩しかっただけなんだろうな」

主任の自嘲気味な言葉に、私は慌てて、マウスを握る主任の手に視線を向けた。


「そんなことないです! 主任の、その……どっしりした安定感があるから、私、安心して仕事ができてるんです。Excelで迷った時、主任が『右クリックだよ』って言ってくれるみたいに、主任の存在そのものが、私にとっての魔法の言葉なんですから」


主任は一瞬、目を丸くしたが、やがて顔を真っ赤にしてキーボードを叩き始めた。

「……なんだよそれ。お世辞が過ぎるよ」

でも、その横顔は少しだけ誇らしげで。

私は心の中で、自分の脳内にある『昨日の気まずい記憶』を**右クリックして『削除』**した。




【第10エピソード:女性は会社の何?】


季節は、春から夏、秋があっという間に過ぎ、また寒さの季節がやってきた。

銀杏並木の葉はすっかり枯れ落ち、木枯らしが吹きすさぶ通勤途中、私はこの年末年始の計画を練っていた。今年は何より、大掃除を徹底的にやらないと。洗剤は揃っていたっけ、よし。


会社に着くと、峰田部長と大森さんが、いつものように温かく迎えてくれた。

「おはようございます。」

「おはよう、杉村さん。寒くなったね。」

大森さんは、パソコンをせわしげに叩いていた。

おじゃましちゃわるいかなぁ、と思いつつも、またいつもの癖で、話しかけてしまった。

「大森さんは、この年末年始は、ご実家に帰られますか?それとも、また、お一人で過ごします?」


「もちろん、一人でゆっくり過ごすよ。それが、最高の幸せ」

大森さんの実家は、岡山で、ご両親がいらっしゃると聞いていたが、大森さんは、いつも、お正月に、帰省しない。ご両親はお寂しいだろうに、独身男性とはそういうもの?


そこへ、いつものように、小園さんが、始業時間スレスレのタイミングで滑り込んで来た。

「小園さんは、年末年始も、お家のことで、忙しそうですね。」と、私は言ってみた。

せわしなくカバンを置いて、パソコンを立ち上げながら、

「そうよ。でもね、この度に限っては、、お正月元旦だけは寝てよう日にしたの。」

と、嬉しそうに言う。そうか、日頃、そんなに忙しいのね。小園さんが、いつも仕事に厳しく、ちょっとぶっきらぼうなのも、つくづく解る気がした。


すると、大森さんが、少々、悲しそうな表情をした。

「あらら、小園さんが、家庭円満そうな発言をするから。。」

私は、思い切って、言ってみた。

「大森さん、よかったら、うちへいらっしゃいます?」来ないと言うのはわかっていたが、

「いや、とんでもない!杉村さんのご主人に会うなんて、絶対にイヤだよ。」

私は、その発言に、咄嗟に返してしまった。

「え?それはどうして?どうしてですか。」


「いやぁ、どうしてもこうしても、僕は、杉村さんのご主人にも、小園さんのご主人にも、絶対に会いたくないよ。そういうものでしょ?」

「え、でも、それ、ちょっと、おかしくないですか?」

私は、どこまでも食い下がり、お仕事そっちのけで、いつまでもこだわり続けたのだった。


「ちょっと、大森さん!『そういうもの』って何ですか? まるで私たちが、会わせちゃいけないヤバい人たちみたいじゃないですか!」

私はデスクに身を乗り出した。大森さんは、私の剣幕に少しのけぞりながらも、困ったような、でもどこか達観したような笑顔を浮かべている。

「いやいや、杉村さん。落ち着いて。別に旦那さんたちが怖いとか、そういう話じゃないんだよ。」

「じゃあ、どうして? 私はただ、一人で寂しくお正月を過ごすくらいなら、賑やかな方がいいかなって思っただけなのに。」


すると、それまで黙って画面を見つめていた小園さんが、キーボードを叩く手を止めて、低く、でもはっきりとした声で言った。

「杉村さん……大森さんの言う通りよ。会社っていうのはね、『聖域』なのよ。」

会社という名の「避難所」

「聖域……?」

私がポカンとしていると、小園さんは椅子をくるりと回転させて、私の方を向いた。

「いい? 私たちは家では『妻』であり『母』であり『嫁』なの。一歩家に入れば、掃除、洗濯、お節の準備、親戚への気遣い……息つく暇もない『役割』に縛られてる。でもね、会社に来ている間だけは、誰のものでもない**『ただの私』**でいられるのよ。」

大森さんが、大きく頷く。

「そう。僕にとっての杉村さんも、小園さんも、有能で、時に厳しくて、でも信頼できる『仕事のパートナー』なんだ。そこに旦那さんが登場しちゃうと、君たちの背後に『家庭』という現実が透けて見えてしまう。それは、なんて言うか……魔法が解けちゃうような感じなんだよ。」

右クリックで消去したい「現実」


大森さんは、マウスをカチカチと動かしながら続けた。

「杉村さん、君がさっき言った『大掃除の洗剤』の話。あれを聞いただけで、僕は君が必死に換気扇を磨いている姿を想像しちゃう。でも、会社ではシャキッとした杉村さんでいてほしい。僕にとって、このオフィスは日常の煩わしさを**『右クリック→削除』**した後の、純粋な空間なんだ。」


小園さんが、ふっと口角を上げた。

「大森さん、たまにはいいこと言うじゃない。そうよ、杉村さん。私たちが会社の『何』かって? それは、お互いの人生のしんどい部分を切り取って、一番いい顔だけを見せ合える**『都合のいい他人』**なの。だからこそ、居心地がいいのよ。」


魔法が解けるその前に


私は、二人の顔を交互に見た。

年末年始の計画、大掃除、家族の義務。私が「良かれ」と思って持ち込もうとした厚意は、彼らにとっては、せっかくの聖域を現実の色で塗りつぶす行為だったのだ。

「……わかりました。じゃあ、大森さん。お正月の招待は『右クリックでキャンセル』しておきますね。」


私がそう言うと、大森さんは心底ホッとした顔で笑った。

「ありがとう、杉村さん。その代わり、仕事納めの日には、最高に美味しいコーヒーを淹れるよ。それが、僕たちなりの『良いお年を』だ。」


窓の外では木枯らしが吹いている。でも、このキーボードの打鍵音が響く空間だけは、外の寒さも、家の忙しさも届かない、私たちだけの特別な場所なのだ。




【第11エピソード:仕事始め、マウスの調子と心の同期】


新しい年が明けた。

玄関に飾った門松を片付け、お節料理の残り香が染み付いた台所を後にする。主婦としての戦場だった年末年始を終え、私は今、久しぶりに「杉村さん」に戻るための電車に揺られていた。

オフィスに入ると、冷んやりとした空気が肌を刺す。でも、不思議と嫌な感じはしなかった。

「おはようございます。おめでとうございます!」

私の声に、一番乗りしていた大森さんが顔を上げた。

「おめでとう、杉村さん。今年もよろしく。……おや、なんだか指先がカサカサだね。大掃除、頑張りすぎたんじゃない?」

「ふふ、バレました? 右クリックしきれなかった現実が、指先に残っちゃいましたね。」


私が自分のデスクにつき、パソコンの電源を入れる。聞き慣れた起動音が鳴り、デスクトップが立ち上がる。さあ、仕事始めだ。

動かないカーソル、動かない心

ところが、異変はすぐに起きた。

マウスを動かしても、画面上のカーソルがピクリとも動かないのだ。

「あれ……? おかしいな。」

マウスを裏返してセンサーを拭いてみたり、USBを抜き差ししてみたりするが、反応がない。まるで、私の心の一部がまだ冬休みのコタツの中に置いてきぼりにされているのを、パソコンが見透かしているかのようだった。


そこへ、小園さんが悠然と現れた。

「おはよう。……何、杉村さん。朝からマウスと格闘してるの?」

「小園さん、おめでとうございます。そうなんです、なんだか同期してくれなくて。電池はあるはずなんですけど。」

小園さんは自分のカバンを置くと、私の手からひょいとマウスを取り上げた。

「これね、休み中にホコリが溜まっただけじゃないわよ。**『仕事の感覚』**が冬眠してるのよ。見てなさい。」

右クリック、プロパティ、そして再起動

小園さんは手際よく私のパソコンを操作し始めた。

「いい? 休み明けっていうのは、ハードウェアじゃなくてソフトウェア……つまり私たちの『意識』のドライバが古いままなの。無理に動かそうとするとフリーズするわ。」

彼女はキーボードだけで設定画面を開き、デバイスの管理画面を呼び出した。

「大森さんもそう。年末年始に一人で静かに過ごしすぎて、他人との同期設定がオフになってるでしょ?」


大森さんが苦笑いしながらコーヒーを運んできた。

「手厳しいね。確かに、今朝は誰かに話しかけるのが少し照れくさかったよ。マウスと同じで、僕たちの心も**『右クリック→更新』**が必要だね。」

小園さんが最後に力強くEnterキーを叩いた。

「はい、これで同期完了。動かしてみて。」

私が恐る恐るマウスに手を添えると、カーソルは滑らかに、私の思考を先回りするかのように画面上を駆け巡った。

心を「同期」させる儀式

「動いた……! ありがとうございます。」

「杉村さん、マウスが動くようになったら、次は心よ。家のこと、親戚のこと、全部一回ログアウトして。今、この瞬間から、あなたはここの一員なんだから。」


小園さんの言葉は、冷たい水で顔を洗ったときのような清々しさがあった。

大森さんが淹れてくれたコーヒーの香りが、オフィスの乾燥した空気と混ざり合う。

キーボードを叩く音。

電話のベル。

シュレッダーの回る音。

バラバラだった三人のリズムが、少しずつ一つの「職場のメロディ」として同期していくのがわかった。

「さあ、始めましょうか。」

私はマウスをカチリとクリックした。それは、私にとっての「仕事始め」のスイッチだった。




【第12エピソード:予期せぬエラー?峰田部長の『右クリック』】


仕事始めの慌ただしさがようやく落ち着き、オフィスに日常のリズムが戻ってきた頃のこと。

いつも温和で、仏の顔の峰田部長が、珍しく険しい表情で自分のパソコン画面を凝視していた。

「……困ったな。どうしてこうなるんだ。」

部長の独り言に、真っ先に反応したのは大森さんだった。

「部長、どうされました? 新年早々、システムエラーですか?」

「いや、大森君。エラーというほどじゃないんだが……この、会議用の資料を直そうと思って右クリックをしても、変なメニューしか出てこないんだよ。コピーも貼り付けもできない。」

部長の「右クリック」は、少しズレている?


小園さんが、横からスッと覗き込んだ。

「部長、それは右クリックの場所がズレているだけですよ。アイコンの上じゃなくて、何もない背景でクリックしてませんか?」

「いや、ちゃんと狙っているつもりなんだが……」

峰田部長は、震える手でマウスを握りしめ、渾身の力でカチッと音を立てた。しかし、画面には無情にも『最新の情報に更新』という、今求めていないメニューが表示される。

私は、部長のその姿を見て、ふと思った。

部長にとっての「右クリック」は、私たちのように効率を求めるためのツールではなく、何か大切なものを必死に手探りで探している儀式のように見えたのだ。


「部長、ちょっと失礼しますね。」

私は部長の隣に立ち、そっとマウスに手を添えた。

「右クリックって、実は『魔法の杖』なんです。でも、力を入れすぎると魔法は逃げてしまうんですよ。優しく、添えるだけでいいんです。」

魔法のメニューが隠していたもの

私が部長の代わりに、スッと目的のファイルの上で右クリックを押すと、そこには見慣れたメニューがズラリと並んだ。

「おお! これだ、これだよ杉村さん。さすがだね。」

部長は子供のように目を輝かせた。


「でも部長、どうしてそんなに焦って修正を? この資料、もう完成していたはずじゃ……」

小園さんの問いに、部長は少し照れくさそうに頭を掻いた。

「実はね、去年の忘年会で君たちが『会社は聖域だ』って話していたのが聞こえてね。それで、今年の抱負のページに、少しだけ言葉を足そうと思ったんだよ。**『ここは、誰もが自分に戻れる場所であること』**ってね。」

その言葉に、オフィスが一瞬、しんと静まり返った。

いつも私たちのやり取りを遠くから見守っていた部長もまた、この場所を「聖域」として守ろうとしてくれていたのだ。

右クリックで開く、新しい関係

「部長……それ、右クリックの『プロパティ』じゃなくて、私たちの『心』を更新しちゃいましたね。」

大森さんが、少し鼻をすすりながら言った。

「ははは、そうかな? でも、右クリック一つでいろんな選択肢が出るように、会社もいろんな生き方が選べる場所でありたいと思っているんだよ。」


峰田部長は、今度は自分一人の力で、優しくマウスをクリックした。

画面には、部長が書き足した不器用で温かい一文が、カーソルの横で誇らしげに点滅していた。

私たちは、自分たちの「役割」から解放されるためにここに来ている。

でも、その場所を守っているのは、システムでも魔法でもなく、こんな風に誰かを想って動かす指先ひとつなのだ。




【第13エピソード:ショートカットキーの誘惑、小園さんの『Ctrl+Z』】


冬の午後の光が、ブラインドの隙間から細長く差し込んでいる。

ランチの後の気怠い空気の中、オフィスにはリズミカルな打鍵音だけが響いていた。

突然、隣のデスクで「あっ……」という、小園さんらしからぬ小さな悲鳴が上がった。

見ると、いつも鉄仮面のように冷静な小園さんが、珍しく眉間に深くシワを寄せ、固まっている。

「どうしたんですか、小園さん。珍しいですね、ミスなんて。」

大森さんが、コーヒーカップを片手にひょいと覗き込んだ。

「……消しちゃったわ。一時間かけて整理した顧客データのフォーマット。上書き保存する前に、変なショートカットを押しちゃったみたい。」


魔法の呪文「Ctrl+Z」

「小園さん、落ち着いて! 魔法の呪文があるじゃないですか。」

私は自分のキーボードを叩く真似をしながら言った。

「**『Ctrl+Z』**ですよ。元に戻す、あの魔法!」

小園さんは、ため息混じりにキーを叩いた。

カチ、カチ。

すると、画面上の表が生き物のようにパタパタと形を変え、消えたはずのデータが鮮やかに蘇った。

「……ふぅ。助かったわ。これを発明した人には、ノーベル平和賞をあげたいくらいね。」

小園さんは椅子の背もたれに深く体を預け、モニターを見つめたまま、ポツリと独り言を漏らした。

「仕事はいいわね。こうやって、間違えても『Ctrl+Z』で、なかったことにできるんだから。」

「やり直したい」という本音


大森さんが、少し真面目な顔をして言った。

「おや、小園さん。もしかして、私生活でも『元に戻したい』ことがあるんですか?」

小園さんは、一瞬だけ遠くを見るような目をした。

「……さあね。例えば、昨夜の夕食で、夫に余計な一言を言っちゃった瞬間とか。あるいは、もっと昔……自分がこの道を選んだあの分岐点とかね。人生には『右クリック→元に戻す』なんてメニュー、出てこないでしょ?」

私たちは、黙って彼女の言葉を聞いていた。

いつも仕事に厳しく、非の打ち所がない小園さん。でも、彼女の心の奥底には、いくつもの「消してしまいたい後悔」や「やり直したい過去」が、保存されないまま残っているのかもしれない。


すると、峰田部長が書類の束を抱えて通りがかった。

「おやおや、小園さん。人生の『Ctrl+Z』を探しているのかい?」

上書き保存で、未来を作る

部長は、小園さんのデスクに新しいプロジェクトの資料を置いた。

「いいかい、小園さん。人生には確かに『元に戻す』ボタンはない。でもね、**『上書き保存』**なら何度でもできるんだよ。」

部長は優しく微笑みながら続けた。

「昨日の一言を消すことはできなくても、今日、優しい一言を上書きすることはできる。過去の失敗をなかったことにはできなくても、それを糧にした成功で、新しいページを書き換えることはできるんだ。」


小園さんは、しばらくその資料を見つめていたが、やがてフッといつもの鋭い目つきに戻った。

「部長……格好いいこと言ってますけど、それ、単に新しい仕事を振るための口実じゃないですよね?」

「ハハハ! バレたかな。でも、小園さんならこの『上書き』、完璧にこなしてくれると信じているよ。」

小園さんは、再びマウスを握り、力強く右クリックをした。

「わかりました。過去に戻るなんて、時間の無駄ね。さっさと最新版に更新して、誰も追いつけないくらいの未来を作ってやるわ。」




【第14エピソード:プロパティに隠された秘密、大森さんの「読み取り専用」な心】


冷え込みが一段と厳しくなった二月の午後。

オフィスでは、大森さんがいつになく真剣な顔で、分厚いファイルを整理していた。

「大森さん、その資料、私も手伝いましょうか?」

私が声をかけると、大森さんは珍しく、サッとファイルを閉じて脇に抱えた。

「いや、これはいいんだ。僕が自分でやっておかないといけないことだから。」

その拒絶の仕方が、いつもの軽やかな彼とは少し違っていた。まるで、誰にも触れさせたくない領域に、私が不用意に足を踏み入れてしまったような空気。


「読み取り専用」の心の壁

小園さんが、キーボードを叩きながら横目で大森さんを見た。

「何よ、大森さん。そんなに隠すなんて、怪しいわね。もしかして、密かに転職活動の履歴書でも作ってるんじゃないの?」

大森さんは苦笑いしながら、自分のパソコンの画面をスリープ状態にした。

「そんなんじゃないよ。ただ……僕の人生の**『プロパティ』**は、他人には書き換えられないように設定してあるんだ。」


「プロパティ……?」

私が聞き返すと、大森さんはマウスをカチカチと動かし、デスクトップにある一つのフォルダを指差した。

「右クリックして『プロパティ』を開くと、一番下にチェックボックスがあるだろう? **『読み取り専用』**っていうやつ。僕のプライベートは、それと同じ。誰に見せてもいいけれど、誰も書き込むことはできないし、変えることもできないんだ。」


岡山からの「更新通知」

その時、大森さんのスマホが机の上で震えた。

画面には「岡山の実家」という文字。彼は一瞬、困ったような表情を見せたが、通知をスワイプして消してしまった。

「……お母様からじゃないんですか? 出なくていいんですか?」

私が心配して尋ねると、大森さんは静かに首を振った。

「年末年始も帰らなかったからね。母はいつも、僕の人生のプロパティを勝手に書き換えようとするんだ。『いつ結婚するんだ』とか、『いつこっちに戻ってくるんだ』とか。それは、僕にとっては**『アクセス権限のない操作』**なんだよ。」

大森さんの言葉には、独身を貫く自由と、それと同じくらいの孤独が滲んでいた。

彼は自分を守るために、心の周りに何重ものファイアウォールを築き、「読み取り専用」という属性を付与して、誰も入り込めないようにしていたのだ。


権限を許可する相手

すると、ずっと書類に目を落としていた峰田部長が、眼鏡を外して言った。

「大森君。読み取り専用のファイルは、確かに壊れることはない。でもね、それでは新しいデータも保存されないし、成長も止まってしまうよ。」

部長は、大森さんの肩に優しく手を置いた。

「君がこの会社を『聖域』だと言ってくれるのは嬉しい。でも、たまには信頼できる相手にだけ、**『フルコントロール』**の権限を与えてみてもいいんじゃないかな。書き換えられることを恐れずにね。」


大森さんは、しばらく黙って自分の手元を見つめていた。

やがて、彼はゆっくりとスマホを取り出し、先ほどの着信履歴に指を置いた。

「……そうですね。一度、設定を変更してみます。エラーが出るかもしれませんが。」

大森さんが右クリックでメニューを開くように、少しだけ心のガードを下げた瞬間だった。

彼が電話を持って席を立った背中は、少しだけ、いつもの軽やかさを取り戻していた。




【第15エピソード:容量不足?「ゴミ箱」がいっぱい!】


三寒四温。春の気配が少しずつ混じり始めたある日の午前中、私はデスクで深いため息をついた。

パソコンの画面には、無情なダイアログボックスが表示されている。

『ディスクの空き領域が不足しています』

「……あぁ、まただ。なんでこんなにすぐいっぱいになっちゃうのかしら。」

独り言のつもりだったが、隣で耳ざとく聞きつけた


大森さんが、椅子をごろごろと転がしてやってきた。

「杉村さん、それはパソコンの話? それとも、自分の心の話?」


捨てられない「いつか使うかも」

私は苦笑いしながら、画面を指差した。

「両方、かもしれません。この資料も、あの写真も、『いつか必要になるかも』と思うと捨てられなくて。気がついたらハードディスクが真っ赤なんです。」


小園さんが、キーボードを叩く音をピタリと止めて、冷ややかに言い放った。

「杉村さん、あなたのデスクトップ、アイコンで埋め尽くされて背景が見えないじゃない。それはね、**『未練の塊』**よ。」

小園さんは私のマウスを奪い取ると、デスクトップにある「仮保存」「とりあえず」「2025年メモ」といった怪しげなフォルダを次々と選択した。

「いい? 整理の基本は、右クリックして**『削除』**。そして一番大事なのは、そのあとよ。」

小園さんは画面の隅にあるアイコンを指差した。

そこには、今にも中身が溢れ出しそうな、パンパンに膨らんだ「ごみ箱」のマークがあった。


「ごみ箱を空にする」という勇気

「みんなね、削除しただけで満足しちゃうの。でも、ごみ箱の中に残っているうちは、まだ容量を食ってるのよ。完全に消し去る勇気を持たなきゃ、新しいものは入ってこないわ。」

小園さんの言葉が、胸にチクリと刺さった。

私の心も同じだ。昨日のミスへの後悔、家でのちょっとしたイライラ、言えなかった不満。それらを心の「ごみ箱」に放り込んではいるけれど、完全に消去できずに、ずっと心の容量を圧迫し続けていた。

「杉村さん、右クリックしてみて。」

小園さんに促され、私は震える手でごみ箱のアイコンを右クリックした。

メニューの一番上に、**『ごみ箱を空にする』**という項目が浮かび上がる。

「これを押したら、もう戻せませんよ……?」

「それでいいのよ。」


大森さんが、後ろから優しく言った。「戻せないからこそ、前を向けるんだ。僕だって、岡山での葛藤や将来への不安、時々こうやって空っぽにするよ。じゃないと、新しい仕事のアイデアが入る隙間がなくなっちゃうからね。」


軽くなった「システム」

私は意を決して、クリックした。

『これらのファイルを完全に削除しますか?』

「はい」を選択すると、シュレッダーのような小気味よい音がして、パンパンだったごみ箱が空っぽになった。

不思議なことに、それと同時に、私の肩の荷がふっと軽くなったような気がした。

「……あ、パソコンの動きが速くなった気がします。」

「心も同じでしょ?」

小園さんは満足げに自分のデスクに戻っていった。


そこへ、峰田部長がやってきて、私の机に一輪のチューリップが飾られた小さな花瓶を置いた。

「杉村さん、空いたスペースには、こういう綺麗なものを入れるといい。容量不足は、新しい幸せを呼び込むためのサインなんだよ。」


私は、真っさらになったデスクトップと、鮮やかな

花を見つめた。

右クリックは、捨てるための魔法じゃない。新しい自分を「インストール」するための、準備の魔法なのだ。




【第16エピソード:全選択(Ctrl+A)私たちのチームが繋がる時】


三月。年度末という魔物が、オフィスに牙を剥いていた。

窓の外の銀杏の木には小さな芽が吹き始めているというのに、私たちはそれを見る余裕すらない。


「杉村さん、こっちの集計表、差し替え! 急ぎで!」

「大森さん、クライアントからの修正依頼、B案じゃなくてC案だって!」

小園さんの指示が飛ぶ。いつもは穏やかな峰田部長までもが、何枚もの書類を抱えて走り回っていた。

一人ひとりが自分のタスクという「ウィンドウ」を何十個も開き、脳内のメモリは常に100%に近い状態。


「……だめだ、追いつかない。一人でやるには、このデータの量は多すぎる。」

大森さんが、マウスを握ったまま力なくデスクに突っ伏した。

「個」というファイルを閉じて

私たちはこれまで、「自分だけの領域」を大切にしてきた。

会社は聖域。深入りしないのが大人のルール。

でも、今目の前にある壁は、個々の「読み取り専用」なプライドでは到底乗り越えられない高さだった。


「小園さん、大森さん……これ、バラバラにやってちゃ終わりません。一旦、全部止めませんか。」

私の言葉に、二人が顔を上げた。

「止める? 杉村さん、正気? あと数時間で締め切りなのよ。」

「そうです。だからこそ……**『全選択』**するんです。」

私は立ち上がり、二人の間に入った。

「今まで、私たちは自分のファイルだけを必死に守ってきました。でも、このプロジェクトというフォルダの中にあるすべてのファイルを、今ここで繋げなきゃ。」


魔法のショートカット「Ctrl+A」

私は小園さんのマウスを借りて、画面上のすべてのデータを選択した。

青く反転したファイルたちが、まるで「私たちを繋いで」と言っているように見えた。

「『Ctrl+A』。全選択です。私の得意な入力作業、大森さんの分析力、そして小園さんの完璧なチェック。これを一つの大きなプロセスとして同期させましょう。」


小園さんが、ふっと不敵な笑みを浮かべた。

「……いいわね。私の『チェック専用』の権限、今だけフルコントロールで開放してあげるわ。」

大森さんも、眼鏡をクイッと押し上げた。

「僕の分析ロジックも、共有フォルダにコピーしたよ。杉村さん、これを使って。」

チームという名の「共有ドライブ」

そこからの数時間は、まるで魔法にかかったようだった。

誰かが詰まれば、誰かが右クリックで助け舟を出す。

一人がミスをすれば、誰かが「Ctrl+Z」を叫ぶ前にフォローに回る。

バラバラだった三人のカーソルが、一つの目的に向かって鮮やかな軌跡を描いていく。

それは、個人の「聖域」を超えた、チームという名の**「巨大な共有ドライブ」**が誕生した瞬間だった。

「……できた。送信完了。」

小園さんがEnterキーを静かに、でも力強く叩いた。

直後、オフィスに沈黙が訪れ、それから弾けるような安堵の溜息が漏れた。

境界線の上で、笑い合う


「お疲れ様。みんな、本当に見事だったよ。」

峰田部長が、差し入れのアイスクリームを抱えてやってきた。

「全選択か……いい言葉だね。個性を消すんじゃなくて、全部を包み込む。それが本当のチームワークなんだろうな。」

私たちは、青く反転していた画面を元に戻し、それぞれの「個」のウィンドウに戻った。

でも、その境界線は以前よりもずっと透明で、風通しの良いものになっていた。

「杉村さん、さっきの『全選択』……ちょっと格好良かったわよ。……一瞬だけね。」

小園さんが、少し照れくさそうに画面に向かって呟く。


「ありがとうございます。でも、次は右クリックで『お茶休憩』を選択しませんか?」

大森さんの冗談に、私たちは声を合わせて笑った。

春の風が、少しだけ開けた窓から、私たちの「聖域」に新しい季節を運んできた。




【第17エピソード:新しいウィンドウを開く。右クリックは未来への扉】


年度末の喧騒が嘘のように静まり返った、三月三十一日。

窓の外の銀杏並木は、淡い緑の芽をいっぱいに蓄え、新しい季節の始まりを告げていた。


私たちは、いつものようにデスクに座っていた。

でも、今日だけは少し雰囲気が違う。デスクの上はすっきりと片付き、まるですべてのキャッシュをクリアした後のブラウザのような、清々しくも少し寂しい空気が流れていた。


旅立ちの「プロパティ」

「杉村さん、これ。今までのお礼だよ。」

大森さんが差し出したのは、小さな包みと一枚のカードだった。

「僕、四月から岡山の支社に戻ることになったんだ。部長に言われた通り、自分の人生のプロパティを『書き換え可能』に変更してみたら……不思議だね、実家のことも、新しい挑戦も、受け入れてみようって思えたんだ。」


大森さんの表情は、冬の頃の「読み取り専用」な険しさは消え、春の陽だまりのように穏やかだった。

「寂しくなりますね、大森さん。でも、岡山でもきっと、素敵な魔法を使いこなすんでしょうね。」

私がそう言うと、小園さんが珍しく少し赤い目で、でも声だけはシャキッとさせた。

「当たり前じゃない。大森さんがモタモタしてたら、私がリモートで右クリックして、強制終了させてあげるわよ。」


右クリックで開く「未来のショートカット」

「小園さん、それじゃあ大森さんがかわいそうですよ。」

私は笑いながら、自分のパソコンを見つめた。

この一年、私はこの場所でたくさんの「右クリック」を学んだ。

それは単なる操作方法じゃない。

相手を思いやる「プロパティ」の確認、

嫌なことを忘れるための「ごみ箱」の活用、

そして、みんなで繋がるための「全選択」。


「さて、最後の一仕事だね。」

峰田部長が、私たちの真ん中に立った。

「みんな、自分のパソコンのデスクトップを見てごらん。何が見えるかな?」

そこには、私たちが一年かけて作り上げてきた、整理整頓されたフォルダや、お気に入りの壁紙が並んでいた。

「明日からは、また新しいウィンドウが開く。古いタブを閉じることを恐れなくていい。右クリックをすれば、そこにはいつだって『新しい作成』という選択肢があるんだから。」

魔法の言葉は、鳴り止まない

私たちは立ち上がり、最後にお互いを見つめ合った。


「杉村さん。あなたのおせっかいな『右クリック』、実は嫌いじゃなかったわよ。……少しだけ助けられたわ。」

小園さんが、不器用な笑顔でそう言った。

「小園さんの『Ctrl+Z』の厳しさも、大森さんの『読み取り専用』の優しさも、私の宝物です。」


大森さんは、自分のカバンを肩にかけると、軽やかに手を振った。

「じゃあ、みんな。それぞれの『新しいウィンドウ』で、また会おう!」

大森さんが部屋を出ていく。

その背中を見送りながら、私は自分のマウスにそっと手を置いた。

カチッ。

右クリックで開いたメニューの中に、私は未来へのショートカットを見つけたような気がした。

この場所で出会った魔法は、これからも私の指先から、誰かの心へと繋がっていくはずだ。





エピローグ

オフィスを出ると、春の風が頬を撫でた。

私はスマホを取り出し、連絡先の「大森さん」「小園さん」「峰田部長」という名前を見つめる。

明日になれば、私たちはまた別の「役割」を背負って歩き出す。

でも、たとえ離れていても、私たちは知っている。

行き詰まったとき、悲しいとき、心の中で「右クリック」を唱えれば、そこには必ず、新しい選択肢と、温かな仲間たちの笑顔が浮かび上がることを。

『右クリックは魔法の言葉…』―― 完





全17エピソード、お付き合いいただきありがとうございました!

杉村さんと仲間たちの物語はここで一区切りですが、もし「その後の彼ら」や、別のスピンオフが読みたくなったら、いつでも私を「右クリック(呼び出し)」してくださいね。





【第18エピソード:大森さんの「新しいプロパティ」】


岡山へ旅立った大森さんのその後について、私はずっと気にかかっていた。


実は、彼がまだ会社にいた頃の話だ。繁忙期の真っ只中、大森さんは不運にもオフィスのキャビネットの扉に顔をぶつけ、片目の視力のほとんどを失ってしまった。


包帯を痛々しく巻いた彼の姿に、私たちは言葉を失った。皆、どうにかして彼を励ましたいと願いながらも、その深い絶望の淵から彼を掬い上げる術を、誰も持っていなかった。



だが、大森さんはやはり、私たちが尊敬した通りの人だった。


片目ではPCの画面が見えづらいという現実に直面しても、彼は決して諦めなかった。「拡大鏡」や「音声読み上げ」、そして「マウスの設定変更」……。彼は、それまで知らなかったPCの「アクセシビリティ」という新しい魔法を、一つずつ自分のものにしていったのだ。


「不便になったからこそ、誰にでも優しい画面作りの大切さに気づけました」

そう穏やかに語っていた彼の横顔を、今でも鮮明に思い出す。



岡山に戻った大森さんは今、実家の手伝いをしながら、新しい職場で働いているという。



**大森さんの独白**

「片方の目が見えにくくなったことで、かえって『多角的に物事を見る(プロパティを確認する)』ことの大切さを知りました。少し不自由にはなりましたが、その分、人の優しさや新しい技術のありがたみに気づくことができたんです」

彼らしい、どこまでも前向きな言葉。



岡山へ帰って一年が過ぎた頃、私のもとに一通のメールが届いた。

『あの時は、一時は絶望していました。でも、君が教えてくれた「右クリック」……つまり、別のやり方を探すという魔法を思い出して、今は元気にやっています』



やっぱり、大森さんはすごい人だ。

あの絶望から自らの力で立ち上がり、たった一年で新しい居場所を見つけ、また誰かのために活躍している。



誰もが、人知れず苦労を抱えながら生きている。

でも、大森さんが遠い岡山の地で頑張っていると思うと、不思議と力が湧いてくる。


離れていても、あの時共に過ごした仲間たちの心は一つだ。


大森さんが教えてくれた人生の教訓を胸に、私も今日から、もう少し本腰を入れて頑張ってみよう。

窓の外、岡山の方角へと続く空を見上げながら、私はそっとマウスを握りしめた。





【第19エピソード:右クリック、あの頃への執着を捨てる】


季節は梅雨の終わり、初夏の気配が肌に scaffolding 始める頃。


大森さん、小園さん、峰田部長――あの愛おしい職場の仲間たちと離れてから、私はなかなか自分に合う仕事に巡り合えず、悶々とした日々を過ごしていた。



求人情報を入念にチェックするものの、見つかるのは期間限定の短期の仕事ばかり。


いくつかの職場を渡り歩くうち、新しくできた同僚との別れにもすっかり慣れてしまった。


次々と変わる環境への「適応力」と言えば聞こえはいいが、単に場慣れして、新鮮さを失っていくだけのようにも思えた。



今の現場は、自分だけの責任で進める仕事ではない。仲間と協力し、日々のノルマ達成のためにただ必死に奮闘する毎日だった。



年齢を重ねるにつれ、仕事を一つ辞めた後の「次」を探すのはどんどん難しくなる。選べる条件は、容赦なく狭まっていく。


そのたびに、私は小さくため息をついた。


「あの頃が懐かしいな。本当に、良い職場だった。あの頃に戻れたらいいのに……」


気がつくと、そんな独り言をブツブツと呟くのが癖になっていた。


ある日、夫から「おい、大丈夫か?」と怪訝そうに声をかけられた。



確かに、あの頃の自分が一番輝いていたと思う。


今ではパソコンもずいぶん進化し、かつて私を救ってくれた「右クリック」のお世話になることも、すっかり少なくなっていた。



「大森さんは、今も岡山で頑張っているのよね」


ふと、我に返る。私もいつまでも過去にすがり、ぐずぐずと言い訳をしていてはいけない。前を向いて進むしかないのだ。



よく考えてみれば、期間限定の仕事を卑下する必要なんてどこにもない。繁忙期で人手が足りないからこそ、即戦力として期待されて雇われたのだから。


「そうよ。私はちゃんと、誰かの役に立つ仕事をしている」



たとえ期間限定の任務であっても、目の前の仕事を真面目に全うしよう。大森さんも、小園さんも、峰田部長も、きっとそれぞれの場所で今を一生懸命に生きているのだから。



私は額の汗をぐっと拭い、手帳を開いて今週と来週のスケジュールを強く見つめた。






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