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第27話 共生の証

 

 セレスティアが病から回復して一週間。

 帝国には、つかの間の平穏が訪れていた。

 難民の受け入れは順調に進み、仮設住宅の建設も一段落した。人間と亜人の間の緊張も、ミレイユの献身的な働きをきっかけに、少しずつではあるが和らぎ始めていた。


 だが、その平穏は長くは続かなかった。


 中央宮殿、謁見の間。

 豪奢な大理石の床に、不吉な影が伸びている。

 セレスティアは玉座に座り、眼下に立つ来訪者を冷ややかな眼差しで見下ろしていた。


 黒いローブに身を包んだ男。

 顔の半分は骸骨の意匠を凝らした仮面に覆われ、その周囲には生きている者特有の生気がなく、代わりに湿った墓土のような死の気配が漂っている。

 北の大国、ネクロポリス魔導帝国の使者だ。


「……我が主、ネクロマンサー・カイン陛下より、ノヴァ・エデン帝国女帝殿への伝言を預かってまいりました」


 使者の声は、まるで古井戸の底から響くように低く、一切の感情を含んでいなかった。


「聞きましょう」


 セレスティアは平然と答えた。だが、その傍らに控えるアザゼルの全身からは、鋭利な刃物のような殺気が放たれ、室内の温度を数度下げていた。


「聖レガリア王国は、我が国との長年の盟約により、北部三州の統治権を我が国に委譲する密約を交わしておりました」


 使者は淀みなく続ける。その口調には、有無を言わせぬ傲慢さが滲んでいた。


「貴国が王国を保護領化したことにより、その密約は当然、貴国が継承すべきものと考えます。……北部三州を、一週間以内にネクロポリスへ引き渡していただきたい」


 謁見の間がざわめいた。

 居並ぶ重臣たち——防衛隊長ガルディウス、諜報部ルミナリスとソラリス、そして執事長ザラキエル——が、一斉に敵意の視線を使者に向ける。

 北部三州は穀倉地帯であり、鉱物資源も豊富な要衝だ。そこを渡すということは、帝国の喉元に敵の剣を突きつけられるに等しい。


「お断りします」


 セレスティアは即座に、断固たる口調で答えた。


「そのような密約の存在は、旧王国の記録には一切残されておりません。仮にあったとしても、聖レガリア王国は既に消滅しています。……貴国との、存在すら定かではない約束を、私が引き継ぐ義務はありません」


「……では、これは宣戦布告と受け取ってよろしいか?」


 使者の声が、一段と冷たくなる。仮面の奥の瞳が、不気味な光を帯びた。


「我が国は既に、国境に一万の死霊騎士団を配備しております。痛みも恐怖も知らず、食事も睡眠も必要としない不死の軍団です。……戦えば、貴国に勝算はありません」


「脅迫か」


 アザゼルが一歩前に出た。その紅い瞳が、殺意に燃えている。彼が手をかざせば、この無礼な使者は一瞬で塵となるだろう。


「……ここで貴様の首を刎ねても、誰も文句は言わんぞ」


「どうぞ。……ですが、私が帰還しなければ、明日の夜明けと共に侵攻が始まります。我が主は、慈悲深いお方ではありませんので」


 使者は臆することなく答えた。自身の命さえも、交渉の駒の一つとして差し出しているのだ。


 セレスティアは、静かに立ち上がった。

 その双眸は、使者を射抜くように強く、鋭い。


「……一週間の猶予をいただきました。ならば、一週間後に返答をいたします」


「賢明なご判断を期待しております」


 使者は深々と一礼し、踵を返して去っていった。黒いローブが翻り、死の気配が遠ざかっていく。


 その背中を見送りながら、セレスティアは小さく呟いた。


「……戦争、ですか」


 その言葉は重く、謁見の間に沈黙をもたらした。

 建国間もない帝国にとって、大国との全面戦争はあまりにもリスクが高い。だが、不当な要求に屈すれば、主権国家としての尊厳は失われる。

 難しい舵取りを迫られていた。


 翌朝、セレスティアは中央広場に立っていた。

 朝日が差し込む広場は、昨日の重苦しい空気とは打って変わり、活気に満ち溢れていた。


 眼下では、人間と亜人が入り混じって作業をしている。

 祭りの準備だ。

 これは、セレスティアが回復後に提案した「共生祭」——人間と亜人が共に祝い、互いの文化を知るための、帝国初の祭典である。


 ネクロポリスの脅威が迫る中、祭りを開催することには反対意見もあった。だが、セレスティアは強行した。「外敵の脅威があるからこそ、内なる結束を固める必要がある」と。


 広場のあちこちで、種族の壁を越えた協力が見られた。


 犬族の大工が、人間の若者に指示を出している。

「もっと右だ! そうそう、いい感じだ!」

「ありがとうございます、親方!」


 人間の料理人が、兎族の少女に調理を教えている。

「火加減はこのくらいで。……上手ね、筋がいいわ」

「えへへ、お姉ちゃんみたいに美味しく作れるかな?」


 狼族の子どもが、人間の子どもと一緒に飾り付けをしている。

「ねえねえ、この花、どこに飾る?」

「うーん、あそこがいいんじゃない? 一番目立つよ!」


 数週間前には考えられなかった光景。

 罵り合い、石を投げ合っていた者たちが、今は同じ目的のために汗を流し、笑い合っている。

 それは、セレスティアが作りたかった「楽園」の雛形だった。


 そして、祭りのクライマックスとして用意されたのが、一組のカップルの結婚式だった。


 新郎は人間。トーマスという名の、三十歳になる元聖レガリア王国の兵士だ。

 彼は王国崩壊の際、魔獣に襲われて重傷を負い、命からがら帝国に逃げ込んだ難民の一人だった。当初は亜人への偏見が強く、治療を受けることさえ拒んでいたという。


 新婦は銀狼族の女性、リーナ。二十八歳。

 医療院で働く看護師であり、頑ななトーマスを献身的に看病し続けた女性だ。彼女自身、かつて人間に故郷を焼かれた過去を持つが、目の前の患者を見捨てることはしなかった。


 二人の恋は、医療院の白いベッドの上で、静かに育まれた。


 広場の中央に設けられた祭壇の前で、トーマスとリーナが手を取り合っている。

 トーマスは質素だが清潔な服に身を包み、緊張した面持ちで立っている。その横顔には、かつての荒んだ兵士の影はない。

 リーナは、白い野花で編まれた冠を被り、伝統的な銀狼族の婚礼衣装を纏っている。その美しさに、広場の誰もが息を呑んだ。


「……俺は、最初、獣人を憎んでいた」


 トーマスが、集まった数千の民衆に向かって語り始めた。その声は震えていたが、言葉の一つ一つに力が込められていた。


「王国で教えられたことを信じて、亜人は化け物だと思い込んでいた。自分たちが正義で、彼らは悪だと。……でも、違った」


 彼は、隣に立つリーナの手を強く握りしめた。


「この人は……リーナは、俺が何も持たない難民だと知っていても、毎日毎日、傷の手当てをしてくれた。俺が『触るな』と怒鳴っても、笑顔で励ましてくれた。……俺が人間だと知っていても」


 会場が静まり返る。人間も、亜人も、彼の言葉に耳を傾けている。


「俺は恥じた。勝手に決めつけ、憎んでいた自分が、どうしようもなく惨めだった。……そして、気づいたんだ。俺を救ってくれたのは、人間の王でも神でもなく、この人の優しさだったんだと」


 リーナが、涙ぐみながら微笑んだ。


「私も、最初は怖かったです。人間に殺された家族のことを思い出して、憎しみを感じていました。……この人の傷を見るたびに、あの日を思い出して手が震えました」


 彼女の声は、優しく、しかし芯の強さを感じさせた。


「でも……この人は、ある日、私に『ありがとう』と言ってくれました。獣人の私に、心から感謝してくれたんです。その言葉を聞いた時、私の中で何かが溶けました。……その時、分かりました。憎しみは、過去に縛られることではなく、未来を選ぶことで乗り越えられるのだと」


 二人は向き合った。種族も、生まれも、育ちも違う。かつては敵同士だった二人。

 だが今、彼らの間にあるのは、確かな愛だけだ。


「俺は、憎しみではなく、愛を選ぶ」

「私も、愛を選びます」


 セレスティアが、二人の前に進み出た。

 白いドレスに身を包んだ彼女は、まるで女神のように神々しかった。


「トーマス・クラーク。貴方は、リーナ・シルバームーンを妻とし、生涯を共にすることを誓いますか?」


「誓います」


 トーマスが力強く答える。


「リーナ・シルバームーン。貴方は、トーマス・クラークを夫とし、生涯を共にすることを誓いますか?」


「誓います」


 リーナの声が、鈴のように響く。


「では、二人の誓いを、この国の最初の『共生の証』として認めます」


 セレスティアは、二人の重ねられた手に、一本の白い布を巻き付けた。

 それは、二つの異なるものを一つに結びつける、絆の象徴。


「この布は、種族を超えた絆の証です。……どうか、幸せに」


 祭壇の周りから、割れんばかりの拍手が起こった。

 人間も、亜人も、区別なく祝福の声を上げている。

 口笛を吹く者、花びらを撒く者、涙を流して喜ぶ者。


 トーマスがリーナを抱きしめ、口づけを交わす。

 その光景を見て、広場にいた全ての者が——かつて憎しみ合っていた者たちが——涙を流した。

 過去の傷は消えないかもしれない。だが、新しい絆を結ぶことはできる。

 これが、共生の証だ。

 理屈ではなく、言葉ではなく、ただ二人の愛が、全てを超えていく瞬間だった。


 夜になり、祭りは最高潮を迎えていた。

 広場の中央では、巨大な焚き火が燃え上がっている。その炎は、人々の顔を赤く照らし出していた。

 焚き火の周りを、人間と亜人が手を繋いで輪になり、踊っている。


 人間の音楽家がリュートを弾き、犬族の太鼓奏者が力強いリズムを刻む。異なる文化の旋律が混ざり合い、新しい音楽を生み出している。

 料理のテーブルには、人間の伝統的なシチューと、亜人の郷土料理である肉の串焼きが並んでいる。

 人間が亜人の料理を恐る恐る口にし、「これ、香ばしくて美味いな!」と目を見開く。

 亜人が人間のパンを食べ、「ふわふわで甘い!」と尻尾を振って喜ぶ。


 子どもたちは、種族など気にせず、笑い声を上げて追いかけっこをしている。

 そこには、差別も偏見もない。ただ、純粋な喜びだけがある。


 セレスティアは、宮殿のバルコニーからその光景を見下ろしていた。

 夜風が、彼女の銀髪を優しく撫でる。


「……美しい光景ですね」


 隣に立つアザゼルが、珍しく穏やかな声で言った。彼もまた、眼下の光景に目を細めている。


「ええ。……これが、私が夢見た世界です」


 セレスティアは微笑んだ。その瞳には、焚き火の明かりが映り込んでいる。


「人間も、亜人も、種族など関係なく。ただ、同じ空の下で笑い合える世界。……それを、この目で見ることができました」


「……だが、その世界を守るためには、戦わねばならないかもしれないぞ」


 アザゼルの言葉に、セレスティアの笑みが消えた。現実は、夢物語だけでは終わらない。


「……ええ。分かっています」


 彼女は、北の空を見つめた。そこには、不気味な暗雲が立ち込めている。


 翌日、円卓会議が招集された。

 議題は一つ。「ネクロポリスとの戦争を回避できるか」。

 祭りの熱狂から一転、会議室には重苦しい空気が漂っていた。


「……戦力差は圧倒的です」


 ガルディウスが、地図の上に駒を並べた。黒い駒が一万、白い駒が千。


「敵は死霊騎士団一万。痛みを感じず、恐怖も知らない化け物たちです。対して、こちらは訓練された兵が千。義勇兵を合わせても二千が限界です。……正面から戦えば、勝ち目はありません」


「ザラキエル。貴方の情報網では?」


 セレスティアが問う。


「ネクロポリスは、現在、東のマリンフォード海洋王国と領土紛争を抱えています。主力部隊の半数はそちらに割かれており、本気でこちらと二正面作戦を行う余裕はないはずです」


 ザラキエルが冷静に分析する。


「つまり、脅しか」


 アザゼルが呟く。


「その可能性が高いかと。……ですが、脅しだとしても、こちらが引き下がれば、彼らは図に乗って次々と要求をエスカレートさせるでしょう。『北部三州を渡せば許してやる』などというのは、侵略者の常套句です」


 ルミナリスが鋭く指摘する。


「では、どうする?」


 アザゼルが問うた。戦えば負ける。だが、要求を呑めば国が切り売りされる。進むも地獄、退くも地獄だ。


 セレスティアは、しばらく考え込んだ後、静かに口を開いた。


「……北部三州は、渡しません。ですが、別のものを提示します」


「別のもの?」


「交易路です」


 セレスティアは立ち上がり、地図を指差した。


「ネクロポリスが欲しいのは、本当は領土そのものではなく、そこで生産される食料と資源です。死霊術師たちが支配するあの国は土地が痩せており、慢性的な食糧不足に悩まされています。農業ができないのです」


「……つまり?」


「北部三州を渡す代わりに、我が国の『万象錬成術』による農作物を、優先的に輸出する契約を結びます」


 一同が息を呑んだ。


「領土を奪って統治するコストよりも、安定した食料供給が約束される方が、彼らにとっても実利があります。……そして、交易によって経済的に結ばれた国同士は、簡単には戦争をしません」


「……なるほど」


 ザラキエルが感心したように頷いた。


「敵の胃袋を掴む、というわけですね。実に合理的です」


「ですが、陛下。貴女は万象錬成術の使用を制限されたはずでは?」


 ガルディウスが心配そうに尋ねる。


「ええ。ですから、週に一度だけ、大規模な農業支援のために使います。土壌を改良し、水路を整える。……それ以外は、民の手で作った作物を輸出すればいいのです。幸い、難民の中には優秀な農夫もたくさんいますから」


 セレスティアは全員を見渡した。


「これは賭けです。……ですが、無益な血を流す戦争よりは、遥かにましな選択でしょう」


 一週間後、ネクロポリスの使者が再び訪れた。

 謁見の間には、再び緊張が走っていた。


 セレスティアは、準備した提案書を使者に差し出した。


「北部三州の譲渡は拒否します。ですが、代案としてこれを提示します」


 使者は提案書を受け取り、仮面の奥で目を走らせた。しばらくの沈黙の後、彼は顔を上げた。


「……交易契約、ですか」


「ええ。年間一万トンの穀物を、市場価格の三割引で提供します。さらに、我が国特産の魔力野菜も優先的に輸出します。……その代わり、貴国は我が国への侵攻を永久に放棄し、不可侵条約を締結していただきます」


 使者は、提案書を持つ手を止めた。

 死霊の国にとって、新鮮な食料は喉から手が出るほど欲しい資源だ。それを、戦争というリスクを負わずに、しかも安価で手に入れられる。

 合理的に考えれば、断る理由はない。


 長い沈黙が流れた。

 やがて、使者は提案書を丁寧に懐にしまった。


「……主に伝えます。……カイン陛下も、無用な争いよりは実利を好むお方。おそらく、受諾されるでしょう」


 その言葉に、会議室に安堵の吐息が漏れた。

 戦争は、知恵と交渉によって回避されたのだ。


 ネクロポリスとの交渉が成立した翌日。

 セレスティアは、再び広場に全民を集めた。

 彼女は演壇に立ち、集まった人々を見渡した。


「皆さん。……私には、限界があります」


 セレスティアは、正直に告白した。


「万象錬成術は、世界を作り変える力です。ですが、それは私の命を削る力でもあります。……私一人では、この国を永遠に支えることはできません。私が倒れれば、この国も倒れてしまう。それは、あまりにも脆い構造です」


 民衆がざわめいた。女帝の口から語られる弱音に、不安の色が広がる。


「ですから、今日から新しい制度を始めます。……『共生評議会』です」


 セレスティアは、高らかに宣言した。


「人間から五名、亜人から五名、合計十名の代表を選出します。彼らが、私と共にこの国の方針を決定し、統治を行います」


「陛下が、権力を分けるというのですか?」


 民衆の一人が驚きの声を上げた。王権神授説が常識のこの世界で、王が自ら権力を手放すなど前代未聞だ。


「ええ。……この国は、私一人のものではありません。ここに住む全ての人のものです」


 セレスティアは微笑んだ。


「私は、独裁者ではなく、皆の代表でありたいのです」


 その日の午後、投票が行われた。

 そして、十名の評議員が選出された。


 人間代表として選ばれたのは:

 - トーマス(元王国兵士、共生の象徴)

 - エドガルト(元宰相、行政の専門家)

 - 老婆マルタ(民衆のまとめ役)

 - 料理長ゴードン(人間の料理人)

 - レオンハルト(元皇太子、贖罪を続ける者)


 亜人代表として選ばれたのは:

 - ガルディウス(防衛隊長)

 - リーナ(銀狼族、共生の象徴)

 - 猪族の料理長(厨房の責任者)

 - 兎族の教師(子どもたちの教育者)

 - 犬族の大工(建築の専門家)


 十名の評議員が、セレスティアの前に並んだ。

 彼らの顔には、責任の重さと、未来への希望が宿っている。


「皆さんに、この国の未来を託します」


 セレスティアは、一人一人に評議員の証である銀の徽章を渡した。


「困難な道のりになるでしょう。意見が対立することもあるでしょう。……ですが、共に歩みましょう。対話を諦めなければ、道は必ず開けます」


 評議員たちは、深く頭を下げた。

 これが、ノヴァ・エデン帝国の新しい統治の始まりだった。


 評議会発足の夜。

 セレスティアは、独りバルコニーに立っていた。

 満月が、静まり返った帝国を青白く照らしている。眼下では、祭りの余韻が残る広場に、まだいくつかの灯りが点々と残っていた。


「……眠れないのか?」


 背後から、低い声がした。

 アザゼルだ。彼は音もなく近づき、セレスティアの隣に立った。


「ええ。……色々と、考え事をしていて」


 セレスティアは夜空を見上げたまま答えた。


「……お前は、変わったな」


「変わった?」


「ああ。……最初に会った時のお前は、全てを一人で背負おうとしていた。誰も信じず、自分だけの力で世界を変えようとしていた。……だが今は、人を頼ることを覚えた」


 アザゼルは、手すりに肘をついて夜景を見下ろした。


「評議会を作ったのも、そのためだろう?」


「……ええ。貴方が教えてくれましたから」


 セレスティアはアザゼルを見て微笑んだ。


「『二度と、独りで背負うな』と」


「……覚えていたのか」


「貴方の言葉は、全て覚えていますよ」


 その言葉に、アザゼルは僅かに動揺したように視線を逸らした。

 沈黙が流れる。だが、それは気まずいものではなく、心地よい静寂だった。


「……なあ、セレスティア」


 アザゼルが、珍しく躊躇いがちに口を開いた。


「もし……もし、この国が本当に平和になったら、お前はどうする?」


「どうする、とは?」


「お前の目的は、楽園を作ることだっただろう。……それが完成したら、もう俺は必要ないんじゃないか?」


 その声には、隠しきれない不安があった。

 最強の力を持ちながら、常に孤独だった男。彼は、自分の居場所がなくなることを恐れているのだ。


 セレスティアは驚いて、彼の方を向いた。


「何を言っているのですか?」


「……俺は、お前の護衛として雇われた。だが、平和になれば、護衛は要らない。この国にはもう、強力な軍隊も、優秀な評議会もある」


 アザゼルは自嘲気味に笑った。


「お前は、もっと優秀な側近を見つけるだろう。……俺は、また一人になるのかと」


 セレスティアは、胸が締め付けられるような思いがした。

 この人は、まだそんなことを考えていたのか。


 彼女は、彼の手を強く握った。


「……馬鹿なこと、言わないでください」


 その声は、いつになく強かった。


「貴方が必要なのは、護衛としてではありません。……私が、貴方を必要としているのです」


「……」


「じゃあ、何としてだ」


 アザゼルが問いかける。その瞳は、縋るような色を帯びていた。


「……それは」


 セレスティアは言葉に詰まった。

 自分でも、まだ整理できていない感情。

 だが、一つだけ確かなことがある。


「貴方がいない未来など、考えたくもありません。……平和になったとしても、私の隣には、貴方にいてほしいのです」


 アザゼルは、彼女を見つめた。

 月明かりの下、セレスティアのアメジストの瞳が揺れている。


「……セレスティア」


「はい」


「俺は……」


 彼が何かを言おうとした、その時だった。


「陛下! 緊急事態です!」


 遠くから、見張りの兵士の切迫した声が聞こえてきた。

 二人の時間は、唐突に断ち切られた。


 緊急事態は、誤報だった。

 見張りの新兵が、森の野生動物を魔獣と見間違えただけだった。

 騒ぎはすぐに収まったが、あの瞬間の空気はもう戻らない。


 セレスティアは自室に戻り、ベッドに横たわった。

 窓から差し込む月明かりを見つめながら、自分の胸に手を当てる。

 心臓が、早鐘を打っている。


(……私は、何を言おうとしたのでしょう)


 アザゼルの問いかけに、答えられなかった言葉。

 護衛としてではなく、何として傍にいてほしいのか。

 答えは、胸の奥で熱く脈打っていた。


(アザゼルは……どう思っているのでしょう)


 同じ頃、アザゼルも自室で天井を見つめていた。

 腕で目を覆い、深いため息をつく。


(……俺は、何を言おうとした?)


 五百年間、誰にも言えなかった言葉。

 誰かを愛することも、愛されることも諦めていた。

 だが、彼女になら、言えるかもしれない。いや、言いたいと願っている自分がいる。


(次こそは……)


 二人は、同じ月を見上げながら、同じことを考えていた。

 まだ言葉にはならない。

 だが、確かに芽生え始めている。

 愛という名の、小さな、しかし決して消えることのない炎が。

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