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第26話 代償

 

 その始まりは、静かだった。


 セレスティアの命を受けたガルディウスが、三百の兵を率いて王都へ向かったのは、レオンハルトの降伏から一晩が経った朝だった。

 部隊の先頭には、かつての皇太子——今は帝国の二等兵となったレオンハルトが立っている。粗末な帝国軍の制服に身を包み、武器も持たず、ただ黙々と歩く。


 王都の門に到達すると、門番たちは槍を構えた。

 だが、レオンハルトが兜を脱ぎ、顔を見せた瞬間、彼らは武器を捨てて跪いた。


「レオンハルト様……」

「殿下……本当に、貴方様なのですか……」


 門番たちの声は震えていた。

 主君が、敵軍を率いて帰還する。その異様な光景に、誰もが言葉を失った。


「門を開けろ」


 レオンハルトの声は、かつての威厳を失っていたが、命令としての重みは残っていた。


「これより、この王都は……ノヴァ・エデン帝国の保護下に入る」


 重い鉄の門が、軋みを上げて開いていく。


 大通りには、飢えた民衆が集まっていた。

 彼らは、整然と行進してくる亜人の軍隊を見て、恐怖に怯えた。獣人たちが、ついに王都に攻め込んできたのかと。


 だが、兵士たちが運んできた荷車を見た瞬間、その恐怖は歓喜に変わった。

 荷車には、パン、干し肉、野菜、果物——飢えた民が何日も目にしていなかった食料が山積みにされていた。


「食べ物だ!」

「助かった……神よ、感謝します……!」


 民衆は涙を流し、帝国軍に感謝の言葉を投げかけた。

 子供たちが、犬族の兵士に駆け寄り、その手を握る。

 老人たちが、狼族の兵士に頭を下げる。


 かつて憎しみの対象だった亜人が、今は救世主として迎えられている。

 皮肉な光景だったが、それが現実だった。


 王城への道は、抵抗もなく開かれた。

 玉座の間に到達すると、そこには一人の男が座っていた。


 アルトゥール・ソル・レガリア。

 聖レガリア王国、最後の王。


 彼は、虚ろな目で宙を見つめていた。

 誰が入ってきても、何の反応も示さない。

 王冠は傾いたまま頭に乗り、豪華な法衣は汚れている。


 彼は既に、精神の死を迎えていた。


「……父上」


 レオンハルトが呼びかけるが、返答はない。

 ただ、乾いた唇が小刻みに震え、同じ言葉を繰り返している。


「聖女……聖女はどこだ……ミレイユを……呼べ……」


 それだけを、壊れた人形のように呟き続けている。


 セレスティアは、玉座の前に立った。


「アルトゥール・ソル・レガリア。貴方を、王位剥奪の上、幽閉とします」


 彼女の言葉に、王は何の反応も示さなかった。

 ただ、聖女の名を呼び続けている。


 宰相エドガルトは、執務室で待っていた。

 机の上には、国の譲渡に関する全ての書類が整然と並べられている。羊皮紙の山、封蝋の準備、インク壺。全てが完璧に用意されていた。


「……お待ちしておりました、女帝陛下」


 エドガルトは深く一礼した。


「手続きは全て整っております。署名をいただければ、正式に保護領として……」

「結構です」


 セレスティアは、書類に目を通し、淀みなく署名していく。


 こうして、聖レガリア王国は、静かに歴史の幕を閉じた。

 血は流れず、悲鳴も上がらなかった。

 ただ、時代が終わり、新しい時代が始まっただけだった。


 ——だが、本当の試練は、ここから始まるのだ。


 聖レガリア王国の崩壊と、ノヴァ・エデン帝国による保護領化。

 その歴史的な転換点から、二週間が過ぎようとしていた。


 事態は、セレスティアの想定を遥かに超える速度で推移していた。

 国境の門は昼夜を問わず開け放たれ、かつての王国から逃れてきた難民の群れが、濁流のように押し寄せている。その数、既に五千。

 彼らは家を失い、職を失い、何より生きる希望を失っていた。飢えた子供の泣き声と、疲弊した大人たちの虚ろな視線が、帝国の広場を埋め尽くしている。


 これほどの人数を、準備期間なしで受け入れる。

 それは、国家運営という観点から見れば、自殺行為に等しい暴挙だった。食料、住居、衛生管理。すべてが不足している。一歩間違えれば、帝国そのものが難民という重圧に押し潰され、共倒れになるだろう。


 だからこそ、女帝は動いた。

 休息という概念を、自らの辞書から抹消したかのように。


 中央宮殿、執務室。

 深夜だというのに、魔導灯の光が煌々と輝いている。


「……南区画の整地、完了しました。仮設住宅五百棟、錬成終了です」


 セレスティアの声は、渇いていた。

 彼女は執務机に広げた帝国全図に手をかざし、膨大な魔力を注ぎ込み続けていた。『万象錬成術』。物質を自在に組み替え、世界を書き換える神の御業。

 窓の外では、彼女の意志に応えるように大地が唸りを上げ、森の木々が形を変え、一夜にして新しい街区が形成されていく。


「次は、上水道の拡張です。今のままでは水圧が足りません。貯水槽を三つ増設し、浄化の魔法陣を……」


「いい加減にしろ、セレスティア」


 低い声が、彼女の思考を遮った。

 傍らに控えるアザゼルだ。彼の表情は険しい。怒りではなく、痛切な懸念がその瞳を揺らしている。


「三日間、一睡もしていないだろう。食事もまともに摂っていない。……顔色が悪いぞ」


「平気です。少し、貧血気味なだけですから」


 セレスティアは顔を上げずに答えた。羽ペンを走らせ、物資の配分計画を修正していく。


「それに、今手を止めるわけにはいきません。明日にはさらに二千人が到着します。彼らを雨ざらしにするわけにはいかないのです」


「それは俺たちがやる。ガルディウスも、あの元皇太子も、死に物狂いで働いている。……お前が全てを背負う必要はない」


「効率が悪すぎます」


 彼女は淡々と言い放った。


「人力で家を一軒建てるのに、どれだけの時間がかかりますか? 一週間? 十日? ……私なら、一秒です。私が動けば、それだけ多くの命が救える。なら、動くのが合理的でしょう」


 正論だった。

 圧倒的な力を持つ者が、その力を行使する。それが最も効率的であり、指導者としての責務であると、彼女は信じている。


(……休んでは、いけない)


 セレスティアの脳裏に、忘れようとしていた記憶が蘇る。


 灰色のオフィス。終わらない残業。鳴り止まない電話。

 デスクに積み上がる書類の山。点滅し続けるパソコンの画面。


 『君に任せたよ』

 『期待している』

 『失敗は許されない』


 上司の言葉が、呪いのように耳に残る。


 休めば、プロジェクトが止まる。

 止まれば、クライアントが困る。

 誰かが路頭に迷う。


 だから、働き続けた。

 心臓が悲鳴を上げても。

 脳が焼けるような感覚があっても。

 体が、限界を訴えていても。


 そして、その果てに待っていたのは——

 冷たいオフィスの床の感触と、永遠の闇だった。


 あの時と同じだ。

 私がやらなければ。私が支えなければ。

 この国は、私が作った「企画プロジェクト」なのだから。


「……セレスティア」


 アザゼルが手を伸ばし、彼女の肩を掴もうとした。

 その時だった。


 ポタリ。


 赤い飛沫が、羊皮紙の上に落ちた。

 インクではない。鮮血だ。


「……あ」


 セレスティアは、自分の鼻から液体が滴り落ちていることに気づき、呆然とそれに触れた。

 指先が、小刻みに震えている。

 視界が、急激に狭まっていく。まるで、世界の彩度が落ちていくように。


「セレスティア!」


 アザゼルの切迫した声が、水底で聞く音のように遠く響いた。


(まだ……だめ……)

(まだ、北区画の……食料庫が……)


 思考とは裏腹に、世界が反転する。

 膝から力が抜け、身体が重力に従って崩れ落ちる。

 硬い床に打ち付けられる衝撃を覚悟した瞬間、彼女を包み込んだのは、温かく、そして懐かしい夜の匂いだった。


 意識が、闇に溶けていく。

 最後に感じたのは、自分を強く抱きしめる腕の震えと、耳元で叫ぶ悲痛な声だった。


 目が覚めた時、そこには見慣れない天井があった。

 いや、見慣れた場所だ。医療院の特別室。清潔な白布の匂いと、薬草の微かな香りが漂っている。


 体を起こそうとして、セレスティアは自分の体が鉛のように重いことに気づいた。指一本動かすのも億劫だ。


「……動かないでください」


 静かな、しかし有無を言わせない声がした。

 ベッドの脇に、フィーアが立っていた。彼女の碧眼には、医師としての厳しさと、隠しきれない安堵が同居している。


「フィーア……。私は、どれくらい……」


「丸三日です」


 フィーアは短く告げた。


「三日……!? いけません、そんなに寝ていたら、仕事が……難民の受け入れはどうなって……」


「寝てください」


 フィーアは、起き上がろうとするセレスティアの肩を、強い力で押し戻した。


「貴女の体は、限界を超えています。……魔力枯渇ではありません。魂の損耗です」


「魂の……損耗?」


「はい。万象錬成術は、世界を書き換える力。それは、術者の魂を削って行使されるものです。……貴女は、自分の命を燃料にして、この国を作っていたのですよ」


 フィーアの言葉は重かった。

 魔力なら、休めば回復する。だが、魂の傷はそう簡単には癒えない。これ以上続けていれば、廃人になるか、あるいは肉体が崩壊していただろうと、彼女は告げた。


「……アザゼル様が、どれほど取り乱したか、ご存知ですか?」


 フィーアが、視線を扉の方へ向けた。


「彼は、この三日間、一睡もせずに貴女の手を握り続けていました。……食事も摂らず、水さえ口にせず。まるで、自分が片時でも目を離せば、貴女が消えてしまうと信じ込んでいるかのように」


 セレスティアは息を呑んだ。

 自分の右手に視線を落とす。そこには、誰かに強く握りしめられていたような熱の名残があった。


「……彼は今、どこに?」


「外の空気を吸ってこいと、私が追い出しました。……今にも倒れそうでしたから」


 フィーアはため息をつき、濡れた手ぬぐいをセレスティアの額に乗せた。


「皆、心配しています。ルミナリス様も、ソラリス様も。……それに、ミレイユも」


「ミレイユが?」


「はい。貴女が倒れたと聞いて、毎日病室の前まで来ては、祈っていました。『お姉様を助けてください』と。中に入ろうとはしませんでしたが」


 セレスティアは目を閉じた。

 まぶたの裏に、妹の姿が浮かぶ。かつて自分を陥れた少女が、今は自分のために祈っている。


「……民も、です」


 フィーアが窓を開けた。


 眼下の広場には、無数の灯りが揺れている。

 蝋燭だ。人々が手に手に蝋燭を持ち、円を描くように座っていた。


 亜人も、人間も。

 銀狼族の老婆が、人間の子どもの手を握っている。

 犬族の男が、人間の女性と肩を並べて座っている。

 兎族の少女が、人間の少年と一緒に祈っている。


 種族の壁を越え、一つの願いのために。


「あれは……」


 セレスティアは息を呑んだ。


「貴女が救った全ての人々です。誰に言われたわけでもなく、自然に集まったと聞きました」


 フィーアの声は、珍しく柔らかかった。


 低く、穏やかな歌声が聞こえてくる。

 祈りの歌だった。


 亜人の言葉と、人間の言葉が混ざり合い、一つの旋律を紡いでいる。

 それは、セレスティアが夢見た光景——種族を超えた共生——の、最初の形だった。


 私は、一人ではなかったのだ。

 前世のように、孤独に数字と戦い、誰にも看取られずに死んでいく運命ではなかった。

 ここには、私が倒れることを悲しみ、目覚めを待ってくれる人たちがいる。


 扉が、静かに開いた。

 夜風の匂いを纏った影が入ってくる。

 黒衣の青年、アザゼル。

 彼の顔色は、フィーアの言う通り最悪だった。無精髭が伸び、目の下には隈ができている。いつも整えられている黒髪も乱れていた。


 彼は、ベッドの上で目を開けているセレスティアを見て、石像のように固まった。


「……セレスティア?」


 声が、掠れている。


「……おはようございます、アザゼル。ひどい顔ですね」


 セレスティアは、精一杯の強がりで微笑んで見せた。

 アザゼルは、よろめくように歩み寄り、ベッドの縁に膝をついた。そして、恐る恐る彼女の頬に触れる。

 その手は震えていた。温かい、生きた体温を確認するように。


「……よかった」


 深い、深い安堵の吐息。

 アザゼルは、彼女の額に自分の額を押し付けた。


「……もう、駄目かと思った。……また、失うのかと」


 彼の声が震えている。

 脳裏をよぎるのは、五百年前の記憶。冷たくなった部下たちの亡骸。何も守れず、ただ一人生き残ってしまった絶望。

 最強の力を持ちながら、一番大切なものを守れない無力感。それが、彼を苛み続けていた呪いだった。


「泣いて、いるのですか?」


「……泣いていない」


「嘘つき」


 セレスティアは、彼の頬に手を添えた。指先に、熱い雫が触れる。


「……怖かったか?」


「ええ。……怖かったです」


 セレスティアは素直に認めた。

 死ぬことが怖かったのではない。この人を、また一人にしてしまうことが怖かった。


「ごめんなさい、アザゼル。貴方に、辛い思いをさせました」


「……謝るな。俺が不甲斐ないだけだ」


 アザゼルは顔を上げ、充血した瞳で彼女を見つめた。


「俺は、誓ったはずだ。お前を守ると。……なのに、俺はお前を追い詰め、すり減っていくのを見ていることしかできなかった」


「いいえ。貴方が止めてくれなければ、私はきっと、あのまま壊れていました」


 セレスティアは首を横に振った。


「私は……驕っていたのです。自分一人で何でもできると。私がやらなければ、誰も救えないと」


 彼女は自分の手を見つめた。世界を作り変えることのできる、神の如き手。だが今は、コップ一つ持ち上げるのさえ億劫な、ただの人間の手だ。


「私の力は……万能ではなかったのですね」


「当たり前だ」


 アザゼルは、彼女の手を包み込んだ。


「お前は神じゃない。……ただの、無茶ばかりする、不器用な人間だ」


「……ふふ。ひどい言われようですね」


「事実だ」


 アザゼルは強く、彼女の手を握りしめた。


「だが……そんな人間だからこそ、俺は……」


 彼は言葉を飲み込み、代わりに誓いの言葉を口にした。


「二度と、独りで背負うな。……俺を使え。ガルディウスを使え。あの元皇太子でも、ミレイユでも、誰でもいい。……頼ることを覚えろ」


「……はい」


「お前が倒れたら、この国の意味がない。……俺にとっても、民にとっても」


 その言葉は、どんな甘い愛の囁きよりも、セレスティアの心に深く染み渡った。

 自分の存在が、機能や役割としてではなく、一人の人間として求められている。

 前世で得られなかったものが、今、ここにある。


「約束します。……もう、無茶はしません」


「信用できんな」


 アザゼルは苦笑し、ようやくいつもの皮肉げな表情を取り戻した。


「監視が必要だ。……これからは、俺が常にお前の傍にいて、仕事時間を管理する」


「えっ? 常、にですか?」


「ああ。執務中も、食事中もだ。……トイレと風呂以外はな」


「それは……少し、過保護すぎませんか?」


「文句は却下する」


 有無を言わせない口調。だが、そこには絶対的な安心感があった。


 一週間後、セレスティアはようやく歩けるようになった。

 まだ体は重く、長時間立っているのは辛い。だが、短い時間ならバルコニーに出ることは許された。

 ただし、アザゼルの厳重な監視付きで。


「無理はするなよ」

「分かっています。……少しだけ、外の空気を」


 セレスティアはアザゼルの腕を借りて、ゆっくりとバルコニーへ歩いた。

 眼下には、広がった帝国の街並みと、無数のテントが見える。

 彼女の姿を認めた民衆から、歓声が上がった。

 それは、女帝の復活を祝う声であり、彼女への愛と忠誠の証だった。


 その光景を見ながら、セレスティアはアザゼルに言った。


「……万象錬成術の使用を、制限します」


「賢明な判断だ」


「週に数回。本当に必要な時だけ。……それ以外は、皆の力を信じることにします」


 彼女は視線を移した。

 広場の隅では、レオンハルトが泥だらけになりながら、難民たちと共に資材を運んでいる。その横では、ミレイユが炊き出しの列を整理し、笑顔でスープを配っている。ガルディウスが指揮を執り、ルミナリスが治安を守っている。

 彼女がいなくても、世界は回っている。

 いや、彼女が種を蒔いた世界が、自らの力で芽吹き始めているのだ。


「……私の仕事は、全てを作ることではなく、皆が作れる環境を整えることだったのですね」


「ああ。……ようやく気づいたか、未熟者」


 アザゼルが、彼女の肩に上着をかけた。


「だが、悪くない国だ。……お前が命を削って作っただけのことはある」


「ええ。……私の、自慢の国です」


 セレスティアは、アザゼルの手に自分の手を重ねた。

 風が、二人の間を吹き抜ける。

 そこにはもう、焦燥も、孤独もなかった。

 あるのは、共に歩むべき未来への、静かな確信だけだった。

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