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第25話 聖レガリア王国の崩壊

 

 腐敗は、静かに、しかし確実に進行していた。

 かつて栄華を極めた聖レガリア王国の王都は今、死に瀕した巨獣のように息も絶え絶えだった。


 大通りにはゴミが散乱し、商店の陳列窓は割られ、略奪の爪痕が生々しく残っている。煌天樹イグドラシルの輝きは日に日に色あせ、その根元に巣食う都全体を、鉛色の空気が覆っていた。

 王都の路地裏では、子供たちが泥にまみれた残飯を奪い合っていた。骨と皮だけになった犬が、ゴミの山を漁っている。その隣で、かつては商店主だったであろう老人が、同じように地面を這いつくばっている。

 もはや、人と獣の区別すらない。


 中央広場には、不安と怒りを抱えた民衆が集まり始めていた。


「王は何をしている!」

「聖女はどこだ! なぜ祈りを捧げない!」


 怒号が響く。だが、王城からの返答はない。

 かつては絶対的な守護の象徴であった城門は堅く閉ざされ、民の声を拒絶している。

 煌天樹の光は、風前の灯火のように弱まっている。神の加護が、この国から去ろうとしていることは、誰の目にも明らかだった。


 ノヴァ・エデン帝国、中央宮殿の執務室。

 ザラキエルからの報告書に目を通すセレスティアの表情は、氷のように冷たかった。


「……食料価格は、先週比で三倍。パン一斤が銀貨五枚ですか」


 セレスティアは羊皮紙を机に置いた。そこに記されているのは、国家としての機能不全を示す絶望的な数字の羅列だ。


「はい。小麦の備蓄は底をつきかけています。治安維持部隊は、先月で完全に解散。現在の王都に、法の番人はおりません」


 ザラキエルの報告は淡々としているが、その内容は凄惨だ。


「貴族の国外逃亡率は?」

「六割を超えました。残っているのは、逃げる資金も伝手もない下級貴族と、狂った王に付き従う一部の狂信者のみです」


 セレスティアは眉をひそめた。国を支えるべき特権階級が、我先に泥船から逃げ出している。


「周辺諸国の動きは?」

「ネクロポリス魔導帝国が北の国境に五千、ヴォルカノス火山王国が東に三千の兵を集結させています。……彼らは、腐った果実が落ちるのを待っているのではなく、木ごと切り倒して領土を奪い合うつもりです」


 聖レガリア王国が崩壊すれば、その広大な領土と資源は草刈り場となる。

 それは、ヴェルサディア大陸全土を巻き込む大戦の引き金になりかねない。そして、その戦火は間違いなく、隣接するこのノヴァ・エデン帝国にも飛び火する。


「民衆暴動は時間の問題か」


 アザゼルが窓の外、遥か西の空を見つめながら呟く。彼の紅い瞳には、かつて自分が滅ぼした国々の末路が重なって見えているのだろう。


「ええ。ですが、こちらから不用意に手を出せば、侵略戦争と見なされます。……介入するなら、向こうから頭を下げてくる『大義名分』が必要です」


 その日の夕刻、ルミナリスが血相を変えて執務室に飛び込んできた。

 彼女の手には、ぐったりとした小柄な男――密使が掴まれている。


「陛下。……こいつ、結界を突破しようとしました」


 男は、貧相な黒服に身を包んでいる。諜報員だ。

 だが、その腰には聖レガリア王家の紋章が刻まれた短剣が差してある。ルミナリスによって拘束された彼は、恐怖に震えながらも、必死に主君の名を口にした。


「話せ。誰の命で?」


 ルミナリスが短剣を男の喉元に突きつける。


「エ、エドガルト様……王国の宰相です……」


 男は震える手で、懐から封蝋された書簡を取り出した。

 泥で汚れているが、確かに王家の封蝋だ。


 セレスティアは書簡を受け取り、封を切った。

 羊皮紙に走る文字は、几帳面で端正だ。宰相補佐官ヴァルドリックの筆跡に間違いない。


『女帝陛下。

 我が主、レオンハルト殿下が、貴国との会談を望んでおります。

 場所と時刻は、そちらにお任せいたします。

 殿下は単身で参ります。武装はいたしません。

 どうか、お会いいただけませんでしょうか。


 ——聖レガリア王国宰相 エドガルト』


 セレスティアは書簡を机に置いた。


「……本物ですね」

「陛下、これは明らかに罠です!」


 ルミナリスが声を荒げる。


「皇太子が単身で来る? 武装しない? そんな馬鹿な話があるはずありません! 自爆攻撃か、あるいは伏兵を潜ませているに決まっています!」

「ええ、常識的に考えれば」


 セレスティアは窓の外を見つめた。


「ですが……この文面には、切迫感があります。追い詰められた者の、最後の賭けのような」


 アザゼルが、不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「……会うつもりか」

「はい」

「正気か?」

「正気です」


 セレスティアは振り返り、アザゼルを見つめた。


「……話がある。二人だけで」


 ルミナリスに目配せし、彼女を退出させる。

 重厚な扉が閉ざされ、執務室には、セレスティアとアザゼルだけが残った。


「行かせるわけにはいかない」


 アザゼルの声は、いつになく強硬だった。

 彼は腕組みを解き、セレスティアの前に立ち塞がるようにして距離を詰める。その威圧感は、かつて魔王と呼ばれた頃のそれを彷彿とさせた。


「それは命令ですか?」

「……お前を、守りたいだけだ」


 その言葉に、セレスティアは目を細めた。


「貴方が私を守る。それは分かっています。……でも、これは必要なリスクです」

「リスク? 死のリスクを、か?」


 アザゼルの紅い瞳が、怒りに燃える。


「あの男は、一度はお前を殺そうとした男だ。国を挙げてお前を否定し、追放した張本人だ。……そんな奴が『話がしたい』などと、どの口が言う。お前が死ねば、この国は終わる。民は、また路頭に迷う。……それを『必要なリスク』などと、よく言えたものだ」


 彼の言葉は正論だった。指導者として、軽々しく命を危険に晒すべきではない。

 だが、セレスティアは退かなかった。


「……五百年前、俺は『和平交渉』という名の罠で、部下を失った」


 アザゼルは、セレスティアから視線を外し、窓辺に歩み寄った。

 月のない夜。闇だけが広がっている。


「三人だ。……信頼していた、優秀な部下たちだった」


 彼の声は、遠くを見つめるように静かだったが、そこには決して消えない悔恨が滲んでいた。


「敵国の将軍が『停戦したい』と言ってきた。武器を捨て、話し合おうと。……俺は、信じた。無益な血を流したくないという、相手の言葉を。……馬鹿だった」


 拳が、窓枠を叩く。ミシッ、と木枠が悲鳴を上げる。


「会談の場は、伏兵だらけだった。毒、結界、暗殺者。……俺は生き延びたが、三人は、俺を庇って死んだ。俺の甘さが、あいつらを殺したんだ」


 重苦しい沈黙が落ちる。


「……それ以来、俺は『話し合い』を信じなくなった。言葉など、時間を稼ぐための道具に過ぎない。力だけが、裏切らない真実だと」


 セレスティアは、静かに彼の背中を見つめた。

 最強の魔王と呼ばれた男が抱える、癒えない傷跡。彼が頑なに他者を拒絶し、孤独を選んできた理由がそこにあった。


「……三人の名前は?」


 セレスティアが、静かに問うた。


「……何?」


 アザゼルは振り返る。その表情には、戸惑いがあった。


「貴方を庇って死んだ三人の、名前です」


 アザゼルは、一瞬言葉を失った。

 五百年間、誰もその名を問うたことはなかった。誰も、覚えているはずがないと思っていた。


「……エリク。カーラ。ダリウス」


 一人ずつ、名を口にする。

 その声は、僅かに震えていた。


「エリクは……剣士だった。明るい奴で、いつも冗談を言っていた」


 アザゼルは目を閉じる。五百年前の記憶が、鮮明に蘇る。


「カーラは魔術師。真面目で、俺によく説教をした。……煩わしかったが、今思えば、あれは忠告だった」


 拳が、震える。


「ダリウスは、一番若かった。まだ二十歳にもなっていなかった。……あいつには、故郷に婚約者がいた」


 沈黙が落ちる。

 重く、冷たい沈黙。


「……いつか、彼らのことを聞かせてください」


 セレスティアは、アザゼルに近づいた。


「忘れないために。……そして、同じ過ちを繰り返さないために」


 アザゼルは、驚いたように彼女を見た。


「お前は……本当に」

「貴方が背負っているものを、私も知りたいのです」


 セレスティアは微笑んだ。


「それが、一緒に歩むということですから」


 アザゼルは、目を伏せた。

 この女は、いつも予想外のことを言う。

 だが、それが——心地良い。


「……ああ。いつか、話そう」


 彼は小さく頷いた。


「でも……お前は違う」


 アザゼルは振り返った。その瞳には、切実な色が宿っていた。


「お前は、話し合いを信じている。理想を信じている。性善説を捨てきれていない。……だから、怖いんだ」

「怖い?」

「お前が、裏切られるのが。……俺の目の前で、また誰かが、俺の甘さのせいで失われるのが」


 それは、彼にとって最大の恐怖だった。

 もう二度と、守るべきものを失いたくない。その想いが、彼を臆病にさせている。


 セレスティアは立ち上がり、ゆっくりとアザゼルに近づいた。


「……私も、怖いですよ」


 その言葉に、アザゼルが驚いたように目を見開く。


「怖くないはずがありません。レオンハルトは、私を殺そうとした男です。彼が隠し持った毒で、あるいは自爆の魔法で、私を道連れにする可能性は十分にあります」


 彼女は、自分の手を見つめた。微かに震えている。


「でも、行かなければなりません。……これは、賭けです」

「賭け、だと?」

「はい。彼が本気で降伏するつもりなら、これは聖レガリア王国を無血で手に入れる千載一遇の好機です。多くの血を流さずに済む、唯一の道なのです」


 セレスティアは顔を上げ、アザゼルの紅い瞳を真っ直ぐに見つめた。


「そして……彼が罠を仕掛けてきたとしても」


 彼女は微笑んだ。

 それは、何の曇りもない、全幅の信頼を寄せた微笑みだった。


「貴方が、守ってくれるんでしょう?」


 アザゼルは、言葉を失った。

 彼女は知っているのだ。自分がどれだけ反対しても、最終的には彼女を守るために剣を抜くことを。

 そして、その信頼に応えないことなど、自分にはできないことを。


「……ああ」


 彼は、諦めたように、しかし力強く頷いた。


「守る。……絶対に、死なせない。たとえ世界中を敵に回しても、お前だけは」

「約束ですよ」

「ああ。約束だ」


 二人の視線が交差する。そこには、主従を超えた、魂の契約とも呼べる絆があった。


 指定された場所は、魔獣の森の西端。かつてセレスティアが追放され、魔獣に襲われた因縁の場所に近い。

 鬱蒼とした木々が途切れ、荒野との境界線となるその場所に、一人の男が立っていた。


 レオンハルト・ソル・レガリア。


 彼は、酷く憔悴していた。

 かつての煌びやかな白銀の鎧は失われ、煤けた旅装束に身を包んでいる。美しかった金髪は乱れ、無精髭が伸び、目の下には濃い隈が刻まれていた。

 だが、その背筋は、まだ伸びていた。

 王族としての矜持が、彼を支える最後の支柱となっているかのように。


 セレスティアが姿を現すと、彼の瞳が動いた。

 複雑な感情が、一瞬で過ぎる。

 憎悪、後悔、羨望、そして——深い諦念。


「……久しいな、セレスティア」


 彼は、敬称をつけなかった。

 まだ、彼女を対等だと思っているのか。それとも、そう思い込もうとしているのか。


「皇太子殿下。随分と、お見苦しい姿で」


 セレスティアの声は、氷のように冷たかった。


「……皮肉か」

「いいえ。事実です」


 彼女は一歩も近づかない。

 アザゼルが抜身の剣を提げ、その背後に控えている。その殺気は、レオンハルトが少しでも不審な動きを見せれば、即座に首を刎ねる構えだ。


「単刀直入に言おう。……俺は、交渉をしに来た」


 レオンハルトの声には、まだ僅かな威厳が残っていた。


「交渉?」


 セレスティアは首を傾げた。まるで、理解できない言葉を聞いたかのように。


「貴方には、交渉するだけの立場がありますか?」


「……何だと?」

「国は崩壊寸前。兵はいない。金もない。民心は離れ、貴方は孤立無援。……貴方には、何も残っていません」


 セレスティアは冷徹に言い放った。


「それで、『交渉』ですか。……笑止千万。物乞いの間違いではありませんか?」


 レオンハルトの顔が、屈辱に歪む。


「貴様……ッ!」

「『貴様』?」


 セレスティアの目が、鋭く光った。


「一国の女帝に向かって、随分な口の利き方ですね。……それとも、まだ私を『偽聖女』だとでも? 現実が見えていないのは、お父上譲りですか」


 その言葉が、レオンハルトの胸に突き刺さる。

 図星だった。彼はまだ、どこかで認めていなかったのだ。自分が敗者であり、彼女が勝者であることを。


「俺は……っ」


 レオンハルトは言葉に詰まった。

 何を言っても、彼女の言う通りだ。自分には、もう何も残っていない。虚勢を張れば張るほど、自分の惨めさが浮き彫りになる。


「……すまなかった」


 絞り出すような声だった。


「は?」


 セレスティアは、わざと冷淡に聞き返した。


「すまなかった、と言ったんだ!」


 レオンハルトは叫んだ。


「お前を……追放したこと。偽聖女だと罵ったこと。……全て、俺の間違いだった! 俺の目が曇っていたせいで、国をこんな状態にしてしまった!」


 彼の声は、荒野に吸い込まれていく。

 必死の謝罪。だが、セレスティアの心には響かない。


「そうですか」


 セレスティアの返答は、驚くほど平坦だった。


「それで?」

「……それで、とは?」

「謝罪を聞いたところで、何も変わりません。……それとも、謝れば許してもらえるとでも? 貴方の謝罪一つで、失われた時間が戻るとでも思っているのですか?」


 レオンハルトは、拳を握りしめた。爪が掌に食い込み、血が滲む。


「では、どうすればいい! 俺は……俺は、民を救いたいだけなんだ!」


 その叫びに、セレスティアの表情が僅かに変化した。


「……民を、ですか」


「ああ」


 レオンハルトは頷いた。その目から、尊大な光が消え、代わりに深い悲しみが宿る。


「王国は終わる。それは、もう覆らない。……父は狂い、貴族は逃げ、国は空洞化した」


 彼は、自嘲気味に笑った。


「全て、俺のせいだ。お前を追放すれば、全てが上手くいくと思っていた。ミレイユがいれば、国は安泰だと……自分の都合の良いように現実を捻じ曲げていた」


 彼の声が、震え始める。


「だが、間違っていた。……何もかも」


 レオンハルトは、地面を見つめた。


「でも、民に罪はない。彼らは、俺たち王族を信じて、税を納め、祈りを捧げてきた。……その報いが、餓死であっていいはずがない」


 その言葉には、確かに為政者としての責任感があった。

 遅すぎた、そしてあまりにも不器用な。だが、それは初めて彼が見せた、王族としての本心だった。


「だから、頼む」


 レオンハルトは、セレスティアを見つめた。


「民を、受け入れてやってくれ。お前の国なら……ザラキエルとかいう竜が言っていた通り、彼らを生かせるはずだ」


「……それが、貴方の願いですか」

「ああ」


 レオンハルトは、懐から短剣を取り出した。

 豪奢な装飾が施された、王族の証。


 瞬間、アザゼルの殺気が爆発した。


「動くな」


 冷たい剣先が、レオンハルトの喉元に突きつけられる。

 まばたきする間もなかった。音もなく、風のように。

 レオンハルトは呼吸すらできない。喉元に感じる冷たい鋼の感触が、死を告げている。


「待って、アザゼル」


 セレスティアが静かに手を上げる。


「……彼は、自分に向けています」


 アザゼルは、レオンハルトの手元を確認する。

 確かに、短剣の切っ先は自分自身に向けられていた。


 一瞬の後、アザゼルは剣を引いた。

 だが、その殺気は消えていない。少しでも怪しい動きをすれば、今度こそ首が飛ぶ。


 レオンハルトは、死を覚悟していた。

 目の前の男——かつての魔王の速さは、異常だ。本当に、一瞬で全てが終わっていただろう。

 彼は、改めて理解した。自分が、どれほど圧倒的な力の前に立っているのかを。


「俺の首をやる」


 彼は、その短剣を両手で差し出した。切っ先を、自分に向けて。


「聖レガリア王国皇太子、レオンハルトの命だ。……これがあれば、お前は名実ともに王国を打ち倒した勝者となれる」


 彼の手は、震えていた。死への恐怖か、それとも屈辱か。


「民への見せしめにもなるだろう。俺の首を刎ね、広場に晒せばいい。……だから、頼む」


 その目は、本気だった。

 自分の命と引き換えに、民を救おうとしている。


 セレスティアは、差し出された短剣を見つめた。

 そして。


「……はぁ」


 大きく、ため息をついた。


「馬鹿な人」


「な……ッ?」


「貴方の首に、そこまでの価値があるとでも?」


 セレスティアの冷ややかな言葉に、レオンハルトが固まる。


「死んで責任を取る。……それは、一番安易で、無責任な逃げ道です」


「じゃあ、どうしろと……!」

「生きて、償いなさい」


 セレスティアは、一歩近づいた。


「貴方が死んでも、民の腹は膨れません。ネクロポリスの軍勢も止まりません。……何一つ、解決しないのです」


 彼女は、レオンハルトの手から短剣を取り上げた。

 そして、それを無造作に地面に投げ捨てた。


「本当に民を救いたいのなら、死ぬのではなく、生きて働きなさい」


「……条件があります」


 セレスティアは宣言した。


「一つ。貴方は、二度と王冠を被らない」


 レオンハルトが、息を呑む。


「皇太子位を放棄し、聖レガリア王国を解体。その全領土と民を、ノヴァ・エデン帝国の保護領として譲渡しなさい」


「それは……国の、売却に等しい……!」


「ええ。無条件降伏です」


 セレスティアの声には、一片の慈悲もなかった。


「二つ。貴方自身は、一兵士として帝国軍に志願しなさい」


「……兵士、だと?」


「ええ。泥にまみれ、貴方が守れなかった民のために働きなさい。……それが、貴方の贖罪です」


 レオンハルトは、呆然とセレスティアを見つめた。

 処刑されると思っていた。あるいは、奴隷として辱められると。

 だが、彼女が提示したのは「生きろ」という命令だった。しかも、一兵卒として。

 それは、王族としての彼にとって、死よりも屈辱的なことかもしれない。


 だが同時に——

 彼が、心の奥底で求めていた「許し」の形でもあった。


 長い、長い沈黙が流れた。

 風が、二人の間を吹き抜ける。

 レオンハルトは、地面に転がった短剣を見つめ、そして自分の手を見つめた。


 何も持っていない、無力な手。

 だが、まだ動く。まだ、剣を握ることはできる。


「……分かった」


 彼の声は、小さかった。


「条件を呑む」


 レオンハルトは、震える指で左手の中指にはまった指輪を引き抜いた。

 王位継承者の証。ロイヤルリング。

 金と銀で編まれた、王家の紋章が刻まれた指輪。


 彼は、それをセレスティアの前に差し出した。


「聖レガリア王国皇太子、レオンハルト・ソル・レガリアは……」


 声が詰まる。喉が焼けるように熱い。


「本日をもって……その地位と権利の、全てを……放棄する」


 最後の言葉は、ほとんど聞き取れなかった。


 セレスティアは、指輪を受け取らず、アザゼルに顎でしゃくった。

 アザゼルが無造作にそれを受け取る。


「契約成立ですね」


 セレスティアは微笑んだ。


「ようこそ、ノヴァ・エデン帝国へ。……レオンハルト二等兵」


 その言葉が、レオンハルトの最後の支えを砕いた。


 彼はガクリと膝をついた。

 張り詰めていた糸が、音を立てて切れる。


 涙が、止まらなかった。

 悔し涙か、安堵の涙か。彼自身にも、分からなかった。

 ただ、全てが終わったという実感だけが、彼を包み込んでいた。


 レオンハルトを連れて、帝国への帰路についた。

 彼は無言で歩いていた。もう、王族ではない。ただの「二等兵」だ。


 しばらく歩いたところで、レオンハルトが足を止めた。


「……どうした」


 アザゼルが振り返る。


「いや……何でもない」


 レオンハルトは、深く息を吸った。


 帝国の門が、目の前に迫っている。

 あの門をくぐれば、もう後戻りはできない。

 王族としての人生は、完全に終わる。


(……これでいいんだ)


 彼は、自分に言い聞かせる。


(俺は、ここで生まれ変わる)


 一歩を踏み出す。

 二歩目は、少しだけ軽くなった。


 アザゼルが、小声でセレスティアに囁いた。


「……お前は、本当に」

「何ですか?」

「甘い」


 セレスティアは、肩をすくめた。


「甘さではありません。投資です」

「投資、か」


 アザゼルは呆れたように笑った。


「彼は腐っても王族。高等教育を受け、剣の腕もそこそこ立つ。……使い潰すには惜しい人材です」


 口ではそう言っているが、アザゼルは知っている。それだけではないことを。

 彼女は、かつての婚約者を「殺す」のではなく、「生かして変える」ことを選んだ。

 それは、彼女なりの復讐であり、同時に救済でもあった。


 帝国の門が、遠くに見えてきた。

 レオンハルトは、その門を見上げ、複雑な表情を浮かべた。

 かつて自分が追放した女が築いた国。そこに、救いを求めて戻る。

 皮肉としか言いようがない。だが、今の彼には、その皮肉を飲み込むだけの覚悟があった。


 その夜、セレスティアは執務室のバルコニーに立っていた。

 西の空を見つめる。

 あの方角に、聖レガリア王国がある。


「……これで、第一段階は終了です」


 彼女は手すりを握りしめた。

 レオンハルトの降伏。それは、王国崩壊の始まりであり、新しい時代の幕開けでもあった。


「これからが、本当の試練です」


 数千人の難民を受け入れる。

 周辺諸国の圧力と戦う。

 人間と亜人の共生を実現する。

 課題は山積みだ。


 だが、セレスティアの目には、迷いはなかった。

 月が、雲の向こうから顔を出す。

 その光が、彼女の銀髪を照らしていた。


「……さあ、次へ」


 彼女は執務室に戻り、羽ペンを手に取った。

 やるべきことは、まだ山ほどある。

 楽園の建設は、まだ始まったばかりだ。

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