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第24話 楽園の亀裂

 

 東の空が白み始め、魔獣の森の深い緑が、夜の帳を脱ぎ捨てていく。

 朝霧が立ち込めるノヴァ・エデン帝国の東門前には、既に長蛇の列が形成されていた。

 彼らは、かつて「死地」と呼ばれた森を、ザラキエルによって示された「白き大道」を通ってやってきた者たちだ。聖レガリア王国の崩壊から逃れてきた人間たち。その数は、昨晩だけで五百を超えていた。


 門番を務めるガルディウスは、眼下に広がるその光景を、兜の奥から厳しい眼差しで見下ろしていた。

 彼らの身なりは一様に薄汚れている。着の身着のままで逃げ出したのだろう。荷車に積まれた家財道具は最小限で、子供たちは疲れ果てて眠り、大人たちの目には、安堵と不安が複雑に混ざり合っていた。


「……また、増えたか」


 ガルディウスの呟きは、隣に立つ部下の豹族獣人、キリクの耳に届いた。


「隊長。……これ、本当に入れるんですか? こいつら、人間ですよ?」


 キリクの声には、隠しきれない嫌悪感が滲んでいた。彼の背中にある古い火傷の痕は、かつて人間の冒険者によってつけられたものだ。彼だけではない。この国の兵士の大半は、人間に追われ、傷つけられた過去を持つ亜人たちだ。


「陛下の勅命だ。『来る者を拒むな』と仰せられた」


 ガルディウスは短く答えたが、その声色には、彼自身の葛藤も透けていた。元聖騎士として、民を守る義務感はある。だが、かつて自分を「役立たず」と追放した国の人々を、無条件で受け入れることへの抵抗感がないと言えば嘘になる。


「開門!」


 号令と共に、重厚な鉄の門が軋みを上げて開く。

 その瞬間、押し寄せるような人の波が、堰を切ったように帝国へと流れ込んだ。

 腐臭と汗の匂い。そして、安堵の溜息と、子供の泣き声が混ざり合った、人間特有の喧騒。

 静謐だった森の国に、異質なノイズが混入した瞬間だった。


 中央宮殿、最上階の執務室。

 セレスティアは窓辺に立ち、眼下に広がるその光景を見つめていた。

 朝日は彼女の銀髪を照らしていたが、そのアメジストの瞳には、冷ややかな理性の光が宿っていた。


(……始まりましたね)


 彼女の背後には、いつものようにアザゼルが控えている。彼は腕を組み、不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「……汚泥が流れ込んできたな。この森の清浄な空気が穢れるようだ」


「アザゼル。言葉を選びなさい」


 セレスティアは振り返らずに窘めたが、その声音に怒気はない。むしろ、彼がそう感じるのは当然だという理解が含まれていた。


「ですが、これは必要な工程です。……純粋培養された楽園は、外圧に対して脆い。異なる文化、異なる価値観、そして過去の因縁。それらを飲み込み、消化してこそ、この国は真の『強国』になれる」


「……毒を食らわば皿まで、か。お前の胃袋は底なしだな」


 アザゼルは呆れたように肩をすくめたが、その瞳は、主君の覚悟を静かに肯定していた。


 ザラキエルの工作から一週間。

 帝国の人口は、爆発的に増加していた。

 元々の亜人住民が千五百人。そこに、聖レガリア王国からの難民が千五百人加わり、総人口は三千人に達しようとしていた。

 単純計算で、倍増だ。

 セレスティアの『万象錬成術』によって、住居や食料の供給は辛うじて間に合っている。だが、物理的な許容量と、精神的な許容範囲は別物だ。


 その日の午後、中央広場で最初の亀裂が入った。


「おい! なんだこの水は! 濁ってるじゃないか!」


 怒号が響いたのは、配給所の一角だった。

 中年男性の難民が、配給された水桶を地面に叩きつけていた。泥水ではない。少し川の砂が混じっている程度の、飲用には問題のない水だ。だが、王都の上水道に慣れきった彼らにとっては、それは「家畜の水」に見えたのだろう。


「ふざけるな! 俺たちは人間だぞ! こんな扱いを受けるために、わざわざここまで来たんじゃない!」


 男の周りには、同じように不満を募らせた人間たちが集まっていた。

 彼らは口々に叫ぶ。

 もっとまともな食事を出せ。

 ふかふかのベッドを用意しろ。

 なぜ、獣人と同じ空気を吸わねばならないのか。


 同じ頃、共同食堂では別の火種が燻っていた。


「ここは俺たちが先に座っていたんだ! どけ!」


 人間の男が、テーブルに座っていた犬族の家族に怒鳴りつけている。


「先に座ったのは、私たちです」


 犬族の父親が、怯える子どもたちを庇うように答えた。


「嘘をつくな! 獣の分際で、人間と同じテーブルに座ろうなんて図々しい!」


「……ここは、ノヴァ・エデン帝国です。聖レガリアではありません」


 父親の言葉に、周囲の亜人たちがざわめいた。一触即発の空気が流れる中、ガルディウスの部下が割って入り、どうにか事態を収めた。


 さらに広場の片隅では、もっと直接的な暴力が起きていた。


「痛い……やめて……」


 兎族の少女が、人間の少年たちに囲まれ、石を投げつけられていた。


「化け物!」

「お前らのせいで、俺たちの国が……!」


 だが、次の瞬間、人間の少年の一人が地面に倒れた。

 狼族の少年が、拳を振るったのだ。


「……弱い者いじめは、卑怯だ」


 喧嘩は、大人たちが駆けつけるまで続いた。


 その言葉の一つ一つが、周囲で作業をしていた亜人たちの神経を逆撫でした。


「……おい、人間」


 低い唸り声と共に、狼獣人の男が歩み出た。手には、建築用のハンマーが握られている。


「文句があるなら、森へ帰れ。誰も頼んで来てもらったわけじゃない」


「な、なんだと……? たかが獣風情が、人間に口答えするか!」


「獣だと……? その獣に守られて、飯を食わせてもらってるのはどこのどいつだ!」


 一触即発の空気が張り詰める。

 人間側の男が、腰に差していた護身用のナイフに手をかけた瞬間、銀色の閃光が走った。


 甲高い金属音が響き、男の手からナイフが弾き飛ばされる。


 男たちの間に割って入ったのは、銀色の疾風――ルミナリスだった。

 彼女は逆手に持った短剣を構えることなく、冷徹な瞳で双方を睨みつけた。


「騒ぐな。……陛下の御前であるぞ」


 その声は低く、しかし絶対的な威圧感を伴っていた。

 諜報部長官としての彼女の気配に、人間たちは本能的な恐怖を感じて一歩下がる。だが、その目は納得していない。恐怖で押さえつけられた不満は、より深く、暗く澱んでいくものだ。


「……チッ。行くぞ」


 人間たちは捨て台詞を吐いて散っていった。

 残された亜人たちもまた、不満げに鼻を鳴らし、作業に戻っていく。

 ルミナリスは、その場に残された水桶を見つめ、小さく舌打ちをした。


「……面倒なことになった」


 その夜、緊急会議が招集された。

 円卓を囲むのは、セレスティア、アザゼル、ガルディウス、ルミナリス、ソラリス、フィーア、そしてザラキエル。

 議題は一つ。「人間と亜人の対立」についてだ。


「報告します」


 ガルディウスが重い口を開いた。


「本日だけで、大小合わせて十件の小競り合いが発生しました。主な原因は、生活習慣の違いと……やはり、根深い差別意識です」


「人間たちは、自分たちが『客人』だと勘違いしているようですね」


 ザラキエルが優雅に紅茶を啜りながら、冷ややかに言った。


「国を捨てて逃げてきた難民の分際で、要求だけは一人前。……実に人間らしい浅ましさです」


「追い出せばいいじゃないですかぁ」


 ソラリスが頬杖をつきながら、つまらなそうに言った。


「あいつら、私の研究所の近くでも騒いでて、うるさいんですよ。実験の邪魔なんです」


「私も同意見だ」


 ルミナリスが短く同意する。


「陛下。彼らは、我々にとっての敵でした。今は牙を隠しているだけで、隙を見せれば必ず喉笛を食いちぎりに来ます。……火種は、小さいうちに消すべきです」


 彼女たちの意見は、亜人側の総意と言ってもいい。

 被害者が、加害者を養う。その理不尽さに耐えろと言う方が酷なのだ。


「……居住区を、分けるというのはどうでしょう」


 ガルディウスが提案した。


「北区画を人間用、南区画を亜人用とし、接触を最小限に抑える。……根本的な解決にはなりませんが、当面の衝突は避けられます」


 現実的な妥協案だ。アザゼルも、顎をさすりながら頷きかけた。

 だが。


「却下します」


 セレスティアの声が、会議室の空気を凍らせた。

 彼女は、円卓に置かれた地図――帝国全図を見下ろしながら、静かに、しかし断固として告げた。


「居住区を分ければ、そこには必ず『格差』が生まれます。どちらが良い土地か、どちらが便利か。……そして何より、それは『隔離』です」


 彼女は顔を上げ、全員の顔を見渡した。


「種族によって住む場所を分け、壁を作る。……それでは、あの聖レガリア王国と同じではありませんか?」


 その言葉に、ガルディウスが息を呑む。

 そうだ。彼らが憎み、逃げ出してきたあの国こそが、まさにそのシステムで成り立っていたのだ。


「私が作りたいのは、壁のない国です。……痛みも、不満も、すべてを共有し、それでも隣り合って生きる。それができなければ、この国に未来はありません」


「……ですが、陛下。理想だけで、彼らの憎しみは消せません」


 ルミナリスが食い下がる。彼女の言葉には、実体験に基づいた重みがあった。


「ええ、分かっています。ですから……『避雷針』を用意しました」


 セレスティアは、扉の方へと視線を向けた。


「入りなさい」


 重い扉が開き、一人の少女が入室してきた。

 粗末な灰色のチュニック。化粧気のない顔。手荒れで赤くなった指先。

 かつての煌びやかな聖女の面影はどこにもない。

 ミレイユ・ノヴァルーナだった。


「……失礼いたします」


 彼女は怯えたように身を縮こまらせながら、それでも自分の足で歩き、セレスティアの前で深く頭を下げた。


「彼女には、明日から『難民相談窓口』の担当になってもらいます」


「はぁ!? 元凶じゃないですか!」


 ソラリスが素っ頓狂な声を上げる。


「そうです。人間たちにとっては『元聖女』という顔役であり、亜人たちにとっては『憎悪の象徴』。……彼女が矢面に立つことで、双方の不満を一手に引き受けさせます」


 あまりにも残酷な、しかし合理的な配置だった。

 ミレイユは、顔を蒼白にしながらも、小さな声で答えた。


「……謹んで、お受けいたします。それが、私の償いになるのなら」


 会議が終わり、全員が部屋を出て行った後。

 セレスティアは、一人残ったミレイユの前に膝をついた。


「……ごめんなさい、ミレイユ」


 その声は、女帝のものではなく、姉のものだった。


「え……?」


「皆の前では、冷酷な配置だと説明しました。でも、本当は……」


 セレスティアは、震える妹の手を両手で包み込んだ。


「貴女にしか、できないことなのです。人間と亜人、両方の痛みを知っている貴女だからこそ。……それに」


 彼女は、ミレイユの目を真っ直ぐに見つめた。


「これは、貴女が自分の足で立つための場所です。誰かに守られるのではなく、誰かを守る側に」


「お姉様……」


「辛かったら、いつでも言いなさい。私は、貴女の姉ですから」


 ミレイユの目から、涙が溢れた。

 それは、恐怖の涙ではなく、温かい涙だった。


「……はい。頑張ります」


 セレスティアは優しく微笑み、立ち上がった。

 扉を開けると、そこにはアザゼルが腕を組んで立っていた。


「……聞いてましたね?」


「ああ」


「盗み聞きは趣味が悪いですよ」


「お前の本音を聞けて、安心した」


 二人は並んで廊下を歩いていく。


 その夜、ミレイユの部屋をフィーアが訪れた。

 彼女は、塗り薬の入った小瓶をテーブルに置いた。


「……手、荒れてますね」


 フィーアの声は淡々としていた。同情も、軽蔑もない。ただの事実の確認。


「あ、ありがとうございます……フィーア様」


「様付けは不要です。私はただの医師ですから」


 フィーアは、ミレイユの震える指先を見つめた。


「明日からは、もっと酷いことになりますよ。……石を投げられるかもしれません。罵声を浴びせられるかもしれません。それでも、やるんですか?」


「……はい」


 ミレイユは、自分の手を握りしめた。かつては宝石で飾られていたその手は今、ささくれ立ち、爪の間には泥が詰まっている。


「お姉様が……チャンスをくださいました。私みたいなクズでも、役に立てる場所を」


「……そうですか」


 フィーアは短く答え、部屋を出て行こうとした。だが、ドアノブに手をかけたところで立ち止まり、背中越しに言った。


「死なない程度に、頑張ってください。……死なれたら、院長の私が怒られますから」


 翌日から、ミレイユの地獄が始まった。

 広場の隅に設置された簡素なテント。そこが彼女の職場だった。

 人間たちは、彼女を見るなり罵声を浴びせた。


「なんだその格好は! 聖女のくせに!」

「お前のせいで、俺たちはこんな目に遭ってるんだぞ!」

「役立たず!」


 亜人たちは、遠巻きに彼女を睨みつけ、時には小石や泥を投げつけた。


「人間の魔女め」

「いい気味だ」


 ミレイユは、飛んでくる石を避けることもせず、ただひたすらに頭を下げ続けた。


「申し訳ありません。……ご要望は、承りました」

「お水が足りないのですね。すぐに手配いたします」

「毛布ですね。確認してまいります」


 額から血が流れても、彼女は拭わなかった。

 かつての彼女なら、ヒステリーを起こして泣き叫んでいただろう。だが今の彼女は、ただ無心に、機械のように謝罪と対応を繰り返していた。

 その姿は、痛々しく、そしてどこか異様だった。


 数日が過ぎたある日の夕暮れ。

 事件は起きた。


「ママー! ママー!」


 幼い子供の泣き声が、森の外縁部から聞こえてきた。

 五歳くらいの、人間の男の子だ。親とはぐれ、結界の境界線付近まで迷い込んでしまったらしい。

 そこはまだ、安全が確保されていないエリアだった。


 茂みの中から、三匹の魔獣――フォレストウルフが現れた。

 喉の奥から漏れる飢えた唸り声が小さな獲物を捉える。


 たまたま近くを巡回していたルミナリスは、木の上からその光景を見下ろしていた。

 彼女の手には短剣がある。助けようと思えば、一瞬で片付く相手だ。

 だが、彼女は動かなかった。


(……人間のガキか。放っておけばいい)


 彼女の脳裏に、かつて人間に殺された同胞たちの姿が過ぎる。

 因果応報だ。人間の子が魔獣に食われる。それは自然の摂理であり、我々が味わってきた理不尽のほんの一部に過ぎない。

 彼女は冷ややかに目を細め、踵を返そうとした。


 その時だ。


「危ないっ!!」


 飛び出してきた影があった。

 灰色のチュニックを泥だらけにした、ミレイユだった。

 彼女は、武器も持たずに子供と魔獣の間に割って入った。


「ッ……!」


 魔獣の爪が、ミレイユの背中を切り裂く。

 鮮血が舞い、彼女は子供を抱きかかえるようにして倒れ込んだ。


(……は? 何を、している?)


 ルミナリスは動きを止めた。

 理解できなかった。あの女は、魔力も失い、ただの非力な人間だ。助かる見込みなどない。それどころか、自分が犠牲になるだけだ。

 なぜ? 偽善か? 点数稼ぎか?


「うぅ……っ! 逃げて……! 早く……!」


 ミレイユは、激痛に顔を歪めながらも、子供を庇って魔獣を睨みつけていた。その足は震えている。恐怖で失禁しそうになっているのが、上からでも分かった。

 それでも、彼女は一歩も引かなかった。


 魔獣が、止めを刺そうと大きく口を開ける。


(……チッ!)


 ルミナリスの脳裏に、過去の光景が閃いた。

 炎に包まれた村。逃げ惑う子どもたち。助けを求める声。

 あの日、自分もまた、誰かに助けられた。

 人間ではなかったが――それでも、「見捨てない」と決めた誰かがいた。


 思考が追いつく前に、体は動いていた。


 銀色の閃光が、夕闇を切り裂く。


 三つの首が宙を舞い、魔獣の巨体が重苦しい音を立てて崩れ落ちた。

 着地したルミナリスは、血振るいをして短剣を鞘に納めると、倒れているミレイユを見下ろした。


「……馬鹿な女だ。死にたかったのか?」


 ミレイユは、虚ろな目でルミナリスを見上げた。背中の傷は深く、出血が激しい。


「あ……ルミナリス、さま……」


「喋るな。血が出る」


「あの……子は……?」


「無事だ。気絶しているだけだ」


 それを聞いて、ミレイユはふにゃりと力なく微笑んだ。


「よかった……」


「……なぜだ」


 ルミナリスは問わずにいられなかった。


「お前は、人間だ。自分の命を捨ててまで、守る価値などないだろう」


「……約束、したから……」


「約束?」


「お姉様に……もう、誰も、見捨てないって……」


 ミレイユの声は、消え入りそうだった。


「私……ずっと、見捨ててきたから……自分が助かるために……いろんな人を……」


 涙が、泥と血で汚れた頬を伝う。


「だから……もう、嫌なの……。誰かが傷つくのを……見て見ぬふりするのは……」


 意識が途切れ、ミレイユの首ががくりと落ちた。


「……ッ、フィーア! どこだ! 急げ!」


 ルミナリスは叫んだ。自分でも驚くほど、焦った声だった。


 医療院の白いベッドの上で、ミレイユは静かな寝息を立てていた。

 フィーアの『時間遡行治癒』によって、傷は跡形もなく消えている。だが、失われた血液と体力までは完全には戻らない。絶対安静の状態だ。


 病室には、セレスティアとアザゼル、そしてルミナリスがいた。


「……傷は塞がりましたが、精神的なショックが大きいです。目覚めるには、少し時間がかかるでしょう」


 フィーアが淡々と報告し、部屋を出て行った。

 セレスティアは、眠る妹の顔を覗き込み、そっと前髪を払った。


「……馬鹿な子」


 その言葉は、ルミナリスが現場で吐いたものと同じだったが、そこに含まれる温度はまるで違っていた。慈愛と、誇らしさと、そして微かな悲しみ。


「……陛下」


 ルミナリスが、気まずそうに口を開いた。


「私の、判断ミスです。……あの時、すぐに介入していれば、彼女が傷つくことはありませんでした」


「そうですね。貴女は彼女を見殺しにしようとした」


 セレスティアは振り返らずに言った。声は冷たい。


「処罰を……」


「必要ありません」


 セレスティアは立ち上がり、ルミナリスの方を向いた。


「貴女が人間を憎む気持ちは理解しています。それを無理に曲げろとは言いません。……ですが、今日、貴女は彼女を助けました。それが全てです」


「……私は、ただ気まぐれで……」


「理由はなんでもいいのです。結果として、貴女の剣は『守るため』に使われた。……それで十分です」


 セレスティアは、ルミナリスの肩に手を置いた。


「少しは、見直しましたか? あの『馬鹿な女』を」


 ルミナリスは、視線を逸らし、小さく鼻を鳴らした。


「……度胸だけは、認めてやります」


 ぶっきらぼうな物言いだが、その声には僅かな柔らかさが混じっていた。

 それが、彼女なりの精一杯の歩み寄りだった。


 病室を出て、廊下を歩く二人。

 窓の外には、満月が浮かんでいる。


「……亀裂は、一晩では埋まらないぞ」


 アザゼルが、静かに言った。

 今回の件で、ルミナリスの態度は軟化したが、国全体の対立が消えたわけではない。人間と亜人の溝は、依然として深い。


「ええ、分かっています。……でも、今日、一本の糸が繋がりました」


 セレスティアは、自分の胸に手を当てた。


「ミレイユが流した血は、無駄にはなりません。あの愚かな行動が、理屈を超えて誰かの心を動かした。……それが、この国を繋ぐ最初の結び目になるはずです」


「……お前は、本当に」


 アザゼルは言葉を探すように間を置き、やがて諦めたように首を横に振った。そして、セレスティアの頭にそっと手を置く。


 言葉はない。

 だが、その掌の温もりが、全てを語っていた。


「……知っていましたよ」


 セレスティアは微笑み、彼の手に自分の手を重ねた。

 月明かりの下、二人の影が寄り添いながら伸びていく。

 楽園の亀裂は、まだ塞がらない。だが、その隙間から、微かな光が差し込み始めていた。

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