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第23話 楽園の異物、泥の産声


 空間が裏返るような不快な浮遊感が鼓膜を圧迫し、直後、肺に満ちたのは、むせ返るほどに濃密な森の芳香だった。


 転移の光が収束し、世界が再構成される。足裏に伝わるのは、聖レガリア王国の冷たい石畳ではなく、温かみを帯びた大理石の感触。頬を撫でる夜風は、腐臭や血の匂いを含んでおらず、清浄なマナと夜露の湿り気を帯びていた。


 ノヴァ・エデン帝国、中央宮殿最上階――「空中庭園」。

 眼下に広がるのは、先ほどまで見下ろしていた王都の虚飾の輝きとは異なる、穏やかで力強い光の海だ。魔導灯の青白い光が整然と区画された街路を照らし、深夜だというのに、どこか体温を感じさせる営みの気配が満ちている。


「……お帰りなさいませ、女帝陛下」


 鈴を転がすような、しかし微かに震えを帯びた声が響いた。

 テラスの手すりに寄りかかり、夜空を見上げていたのは、月光を編んだような金髪と、長い耳を持つ美しい少女――エルフの姫君、エステリーゼだった。

 彼女は、遥か彼方の空、聖レガリア王国の方角から視線を外し、セレスティアに向き直った。その碧眼には、畏怖の色が色濃く宿っている。


「……素晴らしい、花火でしたわ。あのような距離から、一国の対魔障壁を粉砕し、禁呪を書き換えるなど……エルフの長老たちでさえ、神話の御業と疑うでしょう」


「お気に召しましたか、エステリーゼ殿下」


 セレスティアは優雅に微笑んだ。まるで、友人とお茶会の感想を言い合うかのような軽やかさで。


「ええ。……背筋が凍るほどに」


 エステリーゼは自嘲気味に笑った。彼女は理解している。あの花火は、聖レガリア王国への断罪であると同時に、この場にいる自分――ひいてはエルフの国に対する、強烈な「境界線」の提示なのだと。この国に敵対すれば、次は自分たちの空が焼かれるのだという、無言の通告。


 その時、セレスティアの背後で小さな悲鳴が上がった。

 ミレイユだ。彼女はドレスの裾を握りしめたまま、ガタガタと膝を震わせていた。無理もない。彼女にとって、ここは「魔の森」の最深部。人類の生存圏外にある、死と絶望の領域だ。その上、目の前にはお伽話の中にしか存在しないはずの「高貴なエルフ」がいる。


「あら? その方は……」


 エステリーゼが怪訝な顔をする。

 煌びやかだが汚れたドレス。憔悴しきった表情。そして何より、濃厚な「人間」の気配。


「息をなさい、ミレイユ。呼吸をするのに金貨はいりませんよ」


 セレスティアは、足元で硬直している妹に淡々と告げた。

 アザゼルが、やれやれと肩をすくめて一歩離れる。


「さて。荷物は運び込んだが……どうするつもりだ、この『異物』を」


 アザゼルの言葉には、明確な拒絶が含まれていた。彼はセレスティアの誓約を尊重こそすれ、ミレイユという人間に価値など見出していない。彼にとって、この女は主を陥れた害虫であり、楽園に持ち込まれた汚泥に過ぎないのだ。


 鋭い殺気と共に、テラスの入り口から影が飛び出した。

 銀色の疾風。月光を弾く長い銀髪と、怜悧な美貌を持つ銀狼族の女性――ルミナリスだ。彼女は短剣を逆手に構え、アザゼルとエステリーゼの無事を確認して安堵の息を吐きかけたが、その直後、セレスティアの足元にうずくまる「それ」に気づき、全身の毛を逆立てた。


「貴様……ッ! その匂い、人間か!」


 ルミナリスの喉から、理性を超えた唸り声が漏れる。続いて、その後ろから金狐族のソラリスが顔を覗かせたが、彼女もまた、ミレイユを見た瞬間に表情を強張らせ、九本の尻尾を威嚇に膨らませた。彼女たちにとって、人間とは「略奪者」であり「殺戮者」だ。ましてや、ミレイユが纏う微かな残り香――聖レガリア王国の香油の匂いは、彼女たちのトラウマを刺激する最悪のトリガーだった。


「ひぃぃっ! け、獣……! 化け物……っ!」


 ミレイユが悲鳴を上げ、セレスティアの背後に隠れようとする。その言葉が、火に油を注いだ。


「化け物だと……? よくもぬけぬけと、陛下の御前で……!」


 ルミナリスが床を蹴る。殺意の切っ先が、ミレイユの喉元へと一直線に走る。

 だが。


「『静止ロック』」


 セレスティアの唇から紡がれた言葉は、物理的な干渉力を伴って空間を固定した。

 ルミナリスの身体が、空中で凍りついたように止まる。見えないゼリーに閉じ込められたかのように、指一本動かせない。


「早まらないでください、ルミナリス。……私のドレスが血で汚れます」


 セレスティアは静かに、しかし絶対的な声音で告げた。指を弾き、拘束を解く。ルミナリスは音もなく着地し、悔しげに唇を噛みながら跪いた。


「……申し訳、ありません。ですが、陛下。その女は……あの国の人間です。穢れた血の匂いがします」


「ええ、その通りです。彼女はミレイユ・ノヴァルーナ。かつて私を陥れ、あなたたち亜人を迫害する側の象徴だった女です」


 セレスティアは隠すことなく事実を告げた。ミレイユが、信じられないものを見る目で姉を見上げる。守ってくれるのではなかったのか、と。だが、セレスティアの瞳にあるのは、甘やかしではない。冷徹な管理者としての光だ。


「ですが、彼女は今、全てを失いました。地位も、名誉も、聖女という虚飾も。……ここにあるのは、ただの無力な『観察対象』に過ぎません」


 セレスティアは、震えるミレイユの肩に手を置いた。


「ルミナリス、ソラリス。彼女は今日から、私の管理下に入ります。客ではありません。……『労働力』です」


「労働力……ですか?」


 ソラリスが狐耳をピクリと動かす。


「ええ。人間が、魔力を持たない身で、どれだけこの環境に適応できるか。そして、罪人が労働によってどれだけ更生しうるか。……その試金石とするための、貴重な先例ケースです」


 セレスティアは嘘をついてはいなかった。だが、それは同時に、部下たちの納得を得るためのロジックでもあった。「妹だから助けた」と言えば、部下たちは不満を抱くだろう。だが、「利用するために回収した」と言えば、彼女たちは主の冷徹な判断として受け入れる。


 その様子を静観していたエステリーゼが、感心したように小さく息を吐いた。

(……身内であろうと、罪人であれば『労働力』として定義する。情に流されず、かといって無益な殺生もしない。……やはり、この方は王としての器が違う)

 エルフの姫君は、セレスティアへの畏敬の念をさらに深め、黙って頭を垂れた。


「……陛下がそう仰るなら」


 ルミナリスは渋々といった様子で剣を収めたが、ミレイユに向ける視線は依然として氷点下だった。セレスティアはミレイユを見下ろした。


「聞きましたね、ミレイユ。貴女はここでお姫様に戻れるわけではありません。……生きるために、働きなさい」


 ミレイユは、コクコクと必死に頷いた。殺意を向けられる恐怖の中で、姉の言葉だけが唯一の命綱だった。


 重厚な気配を纏うアザゼルがルミナリスたちに目配せをし、その場を制する。セレスティアはエステリーゼに一礼し、踵を返して宮殿の奥深くへと続く階段を降り始めた。ミレイユが転がるようにその後を追う。


 案内されたのは、宮殿の地下にある質素な石造りの部屋だった。

 窓はなく、あるのは硬いベッドと、小さな机、そして水差しだけ。かつての公爵令嬢の部屋とは比べるべくもない、独房に近い簡素な空間だ。


 セレスティアは部屋に入ると、背手で静かに扉を閉めた。

 重厚な扉が閉ざされ、外界の音――亜人たちのざわめきや、夜風の音が遮断される。部屋には、魔導灯の淡い光と、二人だけの沈黙が満ちた。


「ここが、貴女の部屋です」


 セレスティアの声が、石壁に反響する。

 ミレイユは部屋の中央で、借りてきた猫のように身体を縮こまらせていた。先ほどのルミナリスの殺気が、まだ骨の髄まで染み付いているのだろう。指先は白く震え、呼吸は浅く、今にも過呼吸を起こしそうだ。


「お、お姉様……私、ここで……」


 ミレイユが怯えた瞳で振り返る。その目には、捨てられることへの根源的な恐怖が張り付いていた。役に立たなければ殺される。失敗すれば放り出される。聖レガリア王国で刻み込まれた強迫観念が、彼女を縛り付けている。


「……怖かったですか?」


 不意に、セレスティアの声色が柔らかく変化した。氷のような冷徹さが溶け、そこには懐かしい響きがあった。


「え……?」


 ミレイユが顔を上げるより早く、ふわり、と温かいものが彼女を包み込んだ。

 セレスティアが、震える妹を正面から強く抱きしめたのだ。


「っ……!?」


 ミレイユの息が止まる。予想していた罵倒でも、冷たい命令でもない。あの日、雷に怯えていた夜に感じたものと同じ、絶対的な安心感と体温。洗練されたドレスの生地越しに、姉の心臓の鼓動が伝わってくる。


「息をして、ミレイユ。もう誰も見ていません」


 セレスティアの手が、ミレイユの背中をゆっくりと、一定のリズムで撫でる。それは、幼い頃に母を失い泣きじゃくっていた自分をあやしてくれた、あの優しい手つきそのものだった。


「ごめんなさいね。あの子たちの前では、ああ言うしかなかったのです。貴女を守るためには、貴女を『私の所有物』として定義するしかなかった」


 耳元で囁かれる言葉に、ミレイユの目から堪えきれないものが溢れ出した。


「おねえ、さま……っ」


「ええ。ここにいます」


「わたし……わたし、ひどいことしたのに……殺されても、文句言えないのに……」


「そうですね。貴女は罪を犯した。それは消えません」


 セレスティアは抱擁を解くことなく、さらに強く抱きしめた。その腕の強さは、決して妹を離さないという意思表示だった。


「ですが、言ったはずです。『私がいる』と。『お姉ちゃんが守る』と。……私は、自分の言葉を違えたりはしません」


 その言葉を聞いた瞬間、ミレイユの中で張り詰めていた糸が完全に切れた。膝から力が抜け、崩れ落ちそうになる身体を、セレスティアが支える。


「うあ……あぁぁぁぁっ! ごめんなさい……っ! お姉様、ごめんなさいぃぃっ!」


 ミレイユは姉の胸に顔を埋め、子供のように泣きじゃくった。聖女の仮面も、プライドも、嫉妬も、すべてが涙と共に流れ落ちていく。残ったのは、ただ姉の温もりを求める、一人の無力な少女だけだった。セレスティアは、涙と鼻水で汚れることなど気にも留めず、妹が泣き止むまで、その頭を撫で続けた。


 やがて嗚咽が落ち着き、しゃくり上げる音だけが残る静寂の中で、セレスティアはゆっくりと身体を離した。その瞳には、先ほどまでの慈愛と共に、再び指導者としての厳しさが宿っていた。


「……落ち着きましたか?」


 ミレイユは赤く腫らした目を擦りながら、小さく頷いた。その顔からは、憑き物が落ちたような安堵が感じられたが、同時に、これからの運命への不安も滲んでいた。


「ミレイユ。ここからは現実の話をします」


 セレスティアは、ベッドの上に指先を向けた。空間が揺らぎ、そこには一着の衣服が現れる。灰色の粗末なチュニックと、動きやすさだけを重視したズボン。帝国の民が日常的に着る簡素な衣服だ。


「貴女の安全は、私が保証します。ですが、貴女の居場所は、貴女自身で作らなければなりません」


「……はい」


「この国の人々は、皆、傷を負っています。人間によって奪われ、虐げられてきた者たちです。……今の貴女と同じように」


 セレスティアは、ミレイユの瞳を真っ直ぐに見つめた。


「だからこそ、言葉ではなく、行動で示しなさい。貴女がただの『元聖女』ではなく、共に汗を流し、生きようとする『仲間』なのだと。……それができれば、この国は必ず、貴女の本当の家になります」


 それは、ただの慰めよりも遥かに残酷で、しかし何よりも誠実な、姉からの贈る言葉だった。ミレイユは、ベッドの上の衣服に手を伸ばした。

 指先が震える。ゴワゴワとして肌触りが悪い布地。だが、今の彼女には、それが聖女のドレスよりも輝いて見えた。


「私……やります。お姉様に、もう一度認めてもらえるように」


「いいえ。私のためではありません」


 セレスティアは微笑み、ミレイユの頬に残る涙を指で拭った。


「貴女自身のために、生きるのです。……さあ、まずはそのドレスを脱ぎなさい。そして、自分の手で洗い流すのです。染み付いた過去を」


「はい……っ!」


 ミレイユは力強く頷き、ドレスの紐に手をかけた。

 豪奢な布地が床に落ちる。同時に、部屋に充満していた甘ったるい香油の匂いが鼻につき、ミレイユは眉をひそめた。これまでは当たり前だったその香りが、今はひどく人工的で、不快にすら感じる。

 彼女は部屋の隅にある水差しに目を向けた。冷たい水が並々と入っている。

 かつては、顔を洗うことさえ侍女任せだった。水が冷たければ文句を言い、布が硬ければ投げ捨てた。

 ミレイユは唇を噛み締め、その水に両手を突き入れた。

 突き刺さるような冷たさが指先を襲う。だが彼女は手を引かなかった。むしろ、その痛みを確かめるように強く布を握りしめ、自分自身の意志でゴシゴシと擦り合わせ始めた。

 その冷たさと痛みこそが、彼女が初めて自分の足で立つための、確かな「現実」の手触りだった。


 セレスティアは部屋を出た。

 扉を閉める直前、もう一度だけ振り返る。そこには、不慣れな手つきで、しかし懸命に冷水と格闘し、新しい人生いふくに身を包もうとする妹の姿があった。


 扉を閉め、廊下に出る。

 セレスティアは壁に背を預け、長く息を吐いた。張り詰めていた肩の力が抜け、公爵令嬢でも女帝でもない、ただの一人の姉に戻る瞬間。


「……不器用な主だ」


 影の中から染み出すように、黒衣の青年が現れた。アザゼルだ。気配を消して、護衛として控えていた彼は、すべてを見ていた。


「甘やかすでもなく、突き放すでもなく。……飴と鞭の使い方が極端すぎるぞ」


 呆れたような、しかしどこか温かい声音。アザゼルはセレスティアの隣に立ち、同じ壁に背を預けた。石造りの廊下の冷気が、二人の距離を自然と縮める。


「彼女は、何も知りませんから。服の洗い方も、誰かが守ってくれているというありがたみも。……全部、私が教え損ねたことです」


 セレスティアは、ミレイユの涙で濡れた自分の胸元に触れた。


「だから、これは罰ではありません。……遅すぎた、姉としての責任の取り方なのです」


 だから私は、壊れた糸を結び直す。


「責任、か」


 アザゼルは短く呟き、視線を宙に彷徨わせた。その紅い瞳の奥に、遠い過去の情景が過るのをセレスティアは感じ取った。かつて「処刑人の魔王」と呼ばれ、壊すことしか知らなかった彼。守る術を知らず、ただ奪うことだけを強いられてきた孤独な魂。


「俺には、お前の真似はできん」


 アザゼルが自嘲気味に笑う。


「俺が知っているのは、壊れたものを捨てる方法だけだ。壊れた糸を結び直すなんて芸当は、俺の手には余る」


 彼の武骨な手が、視界に入る。かつては血に染まり、今は剣を握るその手。自分を卑下する彼の言葉に、セレスティアは首を横に振った。


「いいえ、アザゼル。貴方は知っています」


 セレスティアは、彼の手を取り、そっと自分の頬に寄せた。

 かつて、奴隷市場の檻の中で出会った時、そして、湖畔で彼が触れてくれた時と同じように。彼の手は武骨だけれど、その奥には不器用な温かさがある。


「貴方は、私を壊さなかった。……あの日、私が檻を開けた時から、貴方はずっと、孤独だった私を守り、支えてくれています」


「……セレスティア」


「拾ったのは私かもしれません。でも、本当に救われたのは、貴方に守られた私の方です」


 アザゼルの指先が、微かに震えた。セレスティアの頬の柔らかさと、そこにある確かな体温が、彼の手を通して心臓へと伝わる。

 奴隷市場で彼女が差し伸べた手。その手が今、自分の手を包んでいる。


「それは、結び直すことよりも、ずっと難しいことです」


 セレスティアは見上げた。アメジストの瞳が、彼を真っ直ぐに射抜く。そこには、主従の枠を超えた、一人の女性としての情熱が揺らめいていた。


「……お前は、本当に」


 アザゼルは言葉を詰まらせ、観念したように息を吐いた。そして、触れていた手を彼女の首筋へと滑らせ、優しく引き寄せる。

 抵抗などするはずがない。セレスティアは身を委ね、彼の胸に額を預けた。硬い筋肉の感触と、どこか安心する夜の匂い。


「お前が光なら、俺はその影でいい。……お前が結び直した糸を、二度と誰にも切らせはしない」


 それは、愛の囁きであり、同時に絶対的な騎士の誓いだった。

 セレスティアは、彼の服をぎゅっと握りしめた。王都を焼き払い、妹を断罪し、女帝として振る舞った長い一日の終わりに、ようやく見つけた安息地。


「はい。……頼りにしています、アザゼル」


 二人の影が、廊下の灯火に照らされて一つに重なる。

 安らかな沈黙が満ちる中、セレスティアはふと思い出したように口を開いた。


「……そういえば、ミレイユの当面の世話係ですが」


「ルミナリスには無理だぞ。目を離せば、あの『異物』を噛み殺しかねん」


 アザゼルが即答する。ミレイユがルミナリスたち亜人にとって、憎悪の対象である事実は変わらない。


「ええ、分かっています。ですから、フィーアに任せようと思います」


「……あの緑髪の治癒術師か」


「はい。彼女なら、ミレイユの立場も、その脆さも理解できるはずですから」


 フィーア。かつて聖女教会の精鋭治療班にいながら、「回復しかできない」という理不尽な理由で追放された少女。

 彼女もまた、組織の矛盾に傷つけられ、捨てられた過去を持つ。同じ痛みを知る者として、そして今は帝国の仲間として生きる先輩として、彼女以上にミレイユを導ける者はいないだろう。


「あの娘か。……ふん、適任かもしれん。甘やかしはしないだろうが、見捨てもしない芯の強さがある」


「ええ。それに、もしミレイユが慣れない労働で倒れても、彼女なら死の淵からでも引き戻せますしね」


 セレスティアは悪戯っぽく微笑み、アザゼルもまた、やれやれと肩をすくめた。

 そんな彼の油断した横顔を見て、セレスティアはさらに目を細めた。


「……ところで、アザゼル」


「ん?」


「貴方の『全て』を話してくれるという約束。……いつ、果たしていただけるのですか?」


「……!」


 不意打ちを食らったのか、アザゼルが珍しく言葉を詰まらせ、視線を泳がせる。処刑人の魔王も、この主の追撃には分が悪いらしい。


「……準備ができたらだ。……善処する」


「ふふ。……楽しみに待っていますからね」


 廊下の奥から、冷たい水に布を打ち付け、懸命に擦り合わせる音が聞こえてくる。それは、かつての聖女が、一人の人間として流す最初の産声のようにも聞こえた。


 その瑞々しい水音とは対照的に、宮殿のさらに深層、静謐な空気が支配する地下牢獄には、重厚な足音が響いていた。


 金属の具足が石床を叩く、硬質なリズム。その音を聞きつけ、鉄格子の奥から三つの視線が向けられる。

 聖レガリア王国の「スパイ」として捕らえられ、この場所に隔離されてから数週間。聖騎士ブルーノ、若手兵士カイル、そして宮廷魔導師ヴィクトール。彼らは殺されることもなく、かといって解放されることもなく、清潔だが変化のない部屋で、ただ時間を浪費していた。


「……何の用だ、盾使い」


 ブルーノが低い声で唸る。彼はいまだに敵意を隠そうとしないが、その声には以前ほどの覇気はない。与えられる食事は驚くほど上質で、寝床も快適だ。憎むべき「魔女の国」で、王国の兵舎よりも人間らしい扱いを受けているという事実は、彼の戦意を内側から腐らせていた。


 現れたのは、帝国の防衛隊長を務める大男、ガルディウスだった。

 彼は無言で鉄製の簡素な椅子を引き寄せ、鉄格子の前にどっかりと腰を下ろした。その顔には、かつて王国で「役立たずの盾」と蔑まれていた頃の卑屈な影はない。あるのは、守るべきものを持った男の、揺るぎない自信だ。


「……外が、騒がしかっただろう」


 ヴィクトールが、本から視線を上げて問いかけた。彼は差し入れられた書物を読み耽り、この幽閉生活を最も有効活用している男だ。


「ああ。少し、デカい仕事があった」


 ガルディウスは短く答えた。その口調に、敵に向けるような刺々しさはなかった。


「デカい仕事……? ……まさか、王国軍が攻めてきたのか!?」


 カイルが鉄格子に縋り付いて叫ぶ。その目には「助けが来たかもしれない」という期待と、「戦場になるかもしれない」という恐怖が入り混じっていた。


「逆だ」


 ガルディウスは首を横に振った。


「陛下が、王都へ出向かれた」


「は……?」


 三人が同時に固まる。敵国の王が、単身で敵地へ乗り込む。常識では考えられない。


「王都では、禁忌の儀式が行われようとしていた。あんたらの国の『聖女』ミレイユを触媒に、この森を焼き払うためのな」


「なっ……!?」


 ヴィクトールが目を見開く。魔法理論に詳しい彼なら、それが何を意味するか理解できるのだろう。


「そんな……まさか、殿下はそこまで……」


「陛下はそれを止め、儀式を『花火』に変えて帰還された。……そして、ミレイユを連れ帰った」


 ガルディウスの言葉は、簡潔すぎて、逆に現実味を欠いていた。禁呪を花火に? 聖女を連行? たった二人で?


「嘘だッ! そんな出鱈目、信じられるか!」


 ブルーノが格子を叩く。


「あの女は魔女だ! 我々を惑わすために、そんな大嘘を……!」


「嘘じゃない。……ここに来る途中、すれ違った」


 ガルディウスは静かに告げた。その瞳は、何か信じがたいものを見た直後のように、微かに揺れていた。


「元聖女様は、粗末な仕事着を纏い、暗い回廊を歩いておられた。……供も連れず、たった一人でな」


「……は?」


 ブルーノが口を開けたまま凍りつく。あの我儘で、贅沢好きで、指一本動かさなかった聖女が? その光景は、王都が炎上するよりも想像し難いものだった。


「信じられんのも無理はない。俺も、自分の目を疑った。……だが、これが今の『現実』だ」


 ガルディウスはヴィクトールを真っ直ぐに見た。


「ヴィクトール殿。あんたは賢い人だ。……今の王国の惨状と、この国の在り方。どちらが『人』として生きるに値するか、もう答えは出ているんじゃないか?」


 ヴィクトールは苦渋に満ちた顔で俯いた。分かっている。この数週間、提供される食事、聞こえてくる民の笑い声、そして看守として接してくる亜人たちの態度。その全てが、王国の教えが「嘘」だったと証明している。


「……我々は、負けたのですね。剣を交える前に」


「勝ち負けじゃない」


 ガルディウスは立ち上がった。その巨躯が、鉄格子越しでも頼もしく見える。


「陛下は決めた。時期が来たら、あんたたちを解放すると」


「……なんだと?」


 ヴィクトールが顔を上げる。その目には希望ではなく、理解しがたい深淵を覗いたような困惑が宿っていた。


「解放……? それが慈悲だとでも言うのか? 我々の王は、守るべき民や国土を焼こうとした狂人だ。……そんな国へ帰れと言うのか、ガルディウス殿」


 彼は力なく笑った。


「それは自由ではない。我々は、廃棄されるように見えてならない」


「貴様! 何を言っている!」


 ブルーノが格子越しにヴィクトールへ掴みかからんばかりに怒鳴った。


「帰れるんだぞ! なら、戻って報告する義務があるだろう! あの魔女の暴挙を、王国の正義を!」


「そうだ! ヴィクトール様、弱気にならないでください!」


 カイルもまた、縋るように叫んだ。


「帰ればきっと、誤解も解けるはずです! 俺たちは王国の兵士なんですから!」


 ヴィクトールの冷めた予感と、ブルーノたちの盲目的な熱情。

 三人の間に走る亀裂は、かつて一枚岩だった王国の結束が、既に修復不可能なほど砕けていることを示していた。


 ガルディウスは何も言わず、踵を返した。

 背後で言い争う声が響く。だが、鉄格子の前を一歩離れる直前、彼はちらりと肩越しに振り返り、苦悩に沈む魔導師へ視線を投げた。


「ヴィクトール殿。……あんたのような男は嫌いじゃない」


 それだけ言い残し、重厚な扉を閉ざす。

 再び訪れた静寂は、以前のような停滞したものではなく、雪解けを待つ土の中のような、静かな胎動を孕んでいた。


 地下牢を後にしたガルディウスの足音が遠ざかり、夜がさらに深まる頃。

 宮殿の最上階、月光が降り注ぐバルコニーに、セレスティアの姿があった。

 彼女は手すりに寄りかかり、夜風に銀髪をなびかせながら、遥か彼方の闇を見つめている。


「……ザラキエル」


 彼女が虚空に向かって名を呼ぶと、背後の空間が陽炎のように揺らぎ、そこから一人の青年が姿を現した。

 黒髪を長く伸ばし、仕立ての良い執事服を着こなした美青年。その立ち振る舞いは優雅で紳士的だが、金の瞳孔を持つその瞳には、三千年の時を生きたエルダードラゴン特有の、底知れぬ叡智と威圧感が宿っていた。


「お呼びでしょうか、我が主(マイ・レディ)


 ザラキエルは胸に手を当て、流れるような所作で一礼する。その動き一つ一つに、洗練された美と、隠しきれない強者の余裕が漂う。


「私の命じる意味は、分かっていますね」


 セレスティアは振り返らず、夜の闇に向かって語りかけた。


「王国の民は今、恐怖と疑念の淵に立たされています。王は狂い、神は沈黙し、頼るべき道標を失っている」


「……愚かな羊たちです。自らの首を絞める鎖を、信仰と呼んで崇めていたのですから」


 ザラキエルが涼やかな声で答える。その口調は丁寧だが、人間という種族への冷ややかな観察眼が含まれていた。


「ええ。ですが、迷える羊には、新しい牧草地が必要です」


 セレスティアは振り返り、悪戯っぽく、しかし冷徹な眼差しで配下を見下ろした。


「行きなさい、ザラキエル。聖レガリア王国へ。……そして、市井の人々に『噂』を流すのです」


「噂、ですか」


「ええ。『魔獣の森の奥深くに、新たな国が生まれた』と。『その名はノヴァ・エデン帝国。神に捨てられた者も、王に裏切られた者も、全てを受け入れる楽園だ』と」


 それは、剣による侵略よりも恐ろしい、民心への侵食だった。

 武力で国を落とすのではない。民自身に国を捨てさせ、内側から空洞化させるのだ。


「民衆に、選択肢を与えてあげましょう。沈みゆく泥船に残るか、新しい方舟に乗るか。……選ぶのは彼ら自身です」


 主の命を受け、ザラキエルは恭しく一礼した。だが、その表情には僅かな翳りがあった。彼は執事として、そして三千年の時を知る竜として、一つの懸念を口にする。


「差し出がましいようですが、陛下。……人間を招き入れるということは、この国に『毒』を混ぜるようなもの」


 彼の金の瞳が、宮殿の下層――多くの亜人たちが眠る街並みを見下ろした。


「今ここに住まう民たちは、人間に追われ、傷つけられた者たちです。彼らにとって、人間は恐怖と憎悪の対象。……反発は免れません。下手をすれば、楽園の内側から亀裂が入るでしょう」


 それはもっともな懸念だった。

 被害者と加害者を同じ檻に入れれば、どうなるか。エルダードラゴンの叡智は、その混乱を予見している。


「分かっています、ザラキエル。……ですが、『異物』を受け入れられぬ楽園なら、それは所詮、ただの『檻』に過ぎません」


 セレスティアは断言した。その瞳に迷いはない。


「種族で選別し、他者を排斥する。それでは、あの愚かな王と同じです。……私が作りたいのは、真の『楽園エデン』。過去の傷を理由に未来を閉ざすなら、この国に先はありません」


「……なるほど。あえて毒を飲み、それを糧に変えると」


「ええ。それに、もし民がそれを乗り越えられないなら……私の教育不足ということでしょう」


「御意。……しかし、もう一つ物理的な懸念が。か弱き人間どもが、この魔境を踏破して辿り着けるとは到底思えませんが? 道中の魔獣は我々には恐るるに足りずとも、人間にとっては災害そのもの」


 魔獣の森は、熟練の冒険者ですら命を落とす死地だ。避難民が踏み込めば、そこは巨大な墓場と化すだろう。


「あら、そんな心配は無用でしょう? ……貴方が既に、森の主たちに『教育』を済ませていることは知っていますよ」


 セレスティアは悪戯っぽく微笑んだ。彼女の目は、全てお見通しだと言わんばかりだ。


「……やれやれ。主の目は誤魔化せませんか」


 ザラキエルは観念したように肩をすくめた。その表情には、主君への深い敬愛が滲んでいる。


「ええ、森の各エリアを統べるボス級魔獣たちには、既に言い含めてあります。『これから通る人間たちは、陛下の客である。手を出すな』と」


「流石ですね、ザラキエル。……では、私はお客様のために、レッドカーペットを敷いてあげましょうか」


 セレスティアは夜の森を見渡し、パチン、と指を鳴らした。

 その直後、セレスティアのこめかみが、ほんの僅かに脈打った。

 万象錬成は万能ではない。――世界を“ねじ曲げた”分だけ、必ずどこかで帳尻が合わされる。

 その瞬間、世界が震えた。

 彼女の指先から放たれた『万象錬成』の波動が、闇夜を切り裂いて地平の彼方まで走る。森の木々が意思を持ったように道を開け、沼地は固まり、茨は退き、そこには王都から帝国へと続く、一直線の「安全な街道」が刻まれたのだ。


「……これで、文句はありませんね?」


「……恐れ入りました」


 ザラキエルの端正な唇に、薄い笑みが浮かんだ。

 主君の策の鮮やかさと、その根底にある「甘くない慈悲」を面白がるように。


「愚かな王への引導ではなく、民への救済とどめ、そして我らが民への試練というわけですね。実にあなたらしい」


 彼はちらりと、セレスティアの隣――アザゼルが立っていたであろう場所へ視線を向けた。


「あの不器用な魔王陛下も、主の深慮遠謀には頭が上がらないことでしょう。……やれやれ、お二人の仲を取り持つのも、執事の務めと心得ておりますが」


 意味深な言葉を残し、ザラキエルは恭しく一礼した。

 次の瞬間、彼の姿は溶けるように消え失せた。羽音も、魔力の残滓すら残さない、完全なる消失。


 一人残されたセレスティアは、再び夜空を見上げた。

 その瞳に映るのは、慈愛か、それとも冷酷な断罪か。

 夜風に乗って、遠くから微かな水音が届く。

 冷たい水に布を打ち付け、泥を洗い流す音。不規則で、必死で、どこか頼りないその響き。

 それは、かつて聖女と呼ばれた少女が、一人の人間として息を吸い込み、初めて上げる、泥にまみれた産声のようにも聞こえた。


 ノヴァ・エデン帝国。

 魔獣と亜人と、追放者たちの楽園。

 そこに今、最も異質な「人間」たちが加わり、そして遠く離れた大国の民心さえも、その重力圏に捕らえようとしていた。

 それぞれの更生と、崩壊へのカウントダウンが、今、同時に始まったのだ。

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