第22話 王都に咲く七色の神罰
聖レガリア王国の王都、セント・レガリア。かつて大陸で最も栄華を誇り、神の愛し子と呼ばれた白亜の都は今、鉛のように重苦しい空気に包まれていた。
石畳の街路には、重厚な鎧が擦れ合う硬質な金属音を轟かせて警備兵が溢れ、人々は息を潜めて家路を急ぐ。明日は国を挙げての「聖樹祭」だが、そこに祝祭の浮かれた空気はない。あるのは、喉元に刃を突きつけられたような切迫した焦燥と、何か取り返しのつかない恐ろしいことが起きるという予感だけだ。王都特有の華やかな香油の匂いは消え失せ、代わりに焦げ付いたような鉄と埃の臭いが、湿った夜風に乗って漂っていた。
その淀んだ空気の中心、王城の地下深く。
湿った石造りの冷たい床に、重い鉄の鎖が石床を擦る、耳障りな音が寒々しく木霊した。
「歩け、偽聖女」
神官の冷徹な声と共に、背中を蹴り飛ばされる。
もつれるように無様に倒れ込んだのは、かつてこの国で最も愛らしいと謳われ、社交界の華であった少女――ミレイユ・ノヴァルーナだった。
だが今の彼女に、その面影はない。豪奢なドレスは剥ぎ取られ、罪人であることを示す薄汚れた粗末な麻袋のような衣服が、荒れた肌を容赦なく擦る。蜂蜜のように輝いていた金色の髪は油と埃にまみれて艶を失い、頬はこけ、目は落ち窪み、昏い諦観だけを映していた。
「……痛い。痛いよぉ……」
ミレイユは掠れた声で嗚咽した。喉が張り付き、呼吸をするたびに肺が苦しげな笛の音を漏らす。
姉であるセレスティアを陥れ、追放し、全てを手に入れたはずだった。王太子の婚約者の座も、聖女の称号も、輝かしい未来も。あの日、大聖堂で姉を見下ろした時の優越感は、永遠に続くはずだった。
それがどうして、こんなことになったのか。
レオンハルトの遠征失敗。剣が砂塵に変わるという不可解な敗北。その責任のすべてを、教会と王家は彼女一人に押し付けたのだ。「聖女の加護が偽物だったから負けたのだ」と。民衆から石を投げられ、汚泥をかけられ、ついにはこの凍てつく地下牢へと放り込まれた。
「国王陛下のご到着だ。頭が高い!」
重々しい音を立てて扉が開き、豪奢なマントを羽織った初老の男が入ってきた。聖レガリア国王、アルトゥール・ソル・レガリア。その横には、青ざめた顔をした元婚約者、レオンハルト王子の姿もある。
そして彼らの背後には、沈痛な面持ちで控える宰相エドガルトの姿があった。彼はこの国の終わりを予感しながらも、最期まで王に仕える道を選んだ忠臣だった。
アルトゥール国王は、かつて賢王と呼ばれた威厳をかなぐり捨て、焦燥しきった表情で部屋を見渡した。彼の治世において、これほどまでに国が傾いたことはない。隣国の不穏な動き、国内の暴動寸前の不安、そして何より「謎の敵」への根源的な恐怖。彼はその全てを、目の前の少女を生贄に捧げることで清算しようとしていた。
「……始めようか、教皇殿。一刻も早く、あの森を焼き払わねばならん」
国王が低い声で告げる。
祭壇の前に立つ教皇カルディナスが、恭しく頷き、歪んだ笑みを浮かべた。彼の目には、信仰心など欠片もない。あるのは、自己保身と組織の存続への妄執だけだ。
その傍らで、若い枢機卿イグナーツだけが、苦渋に満ちた表情で俯いていた。彼はかつて会議で「神への冒涜だ」と異を唱えたが、老獪な上層部に押し切られ、無力感に苛まれながらこの場に立たされていた。
「はっ。……この女の命を薪として、禁忌術式『聖火の楔』を発動させます。魔の森に巣食う異端者どもを、根こそぎ浄化するために」
ミレイユは震え上がった。
殺される。それも、ただ殺されるのではない。魂ごと燃やし尽くされ、魔力の燃料にされるのだ。存在そのものを消滅させる、究極の冒涜。
「いや……! 助けて、お兄様! お義父様! 私は聖女よ!? こんなのあんまりだわ!」
彼女は床を這いずり、レオンハルトの足に縋り付いた。かつてのように甘えた声で、義兄であり婚約者である男に慈悲を乞う。冷たい床に爪を立て、必死に彼の温もりを求めた。
だが、王子は無慈悲にその手を振り払った。
「触るな、汚らわしい! 貴様が本物の聖女であれば、余は敗北などしなかった! 全ては貴様のせいだ! 貴様さえいなければ、余は賢王として讃えられていたはずなのだ!」
「そ、そんな……。お姉様を追い出せって言ったのはお兄様じゃない……! 私、言われた通りにしただけよ!」
「黙れッ!」
レオンハルトがミレイユの頬を打つ。乾いた打撃音が響き、ミレイユは床に伏した。口の中が鉄の味で満たされる。
国王アルトゥールは、その醜い兄妹喧嘩を冷ややかな目で見下ろしていた。
「騒がしい。……レオンハルト、情けをかけるな。その女はもはや王家の恥部だ。国の安寧のため、礎となってもらう他ない」
王の言葉は絶対だった。宰相エドガルトが短く息を吐き、目を閉じる。もはや、諫める言葉すら彼の中では枯れ果てていた。
誰も助けてくれない。誰も愛してくれない。
絶望がミレイユの心を黒く塗りつぶしていく。
その時、ふと脳裏に浮かんだのは、かつて自分が嘲笑い、泥を投げつけた姉の姿だった。銀色の髪、アメジストの瞳。いつだって静かで、何を考えているか分からなかった姉。今にして思えば、彼女だけが自分を人間として見てくれていたのかもしれない。あの静かな瞳は、自分を蔑んでいたのではなく、哀れんでいたのではないか。
(お姉様……助けて……)
虫のいい願いだと分かっている。それでも、願わずにはいられなかった。
教皇が杖を掲げ、詠唱を始める。祭壇に刻まれた魔法陣が、不吉な赤色に輝き出し、空気が焦げるような臭いが充満し始めた。
ミレイユの体から、強制的に魔力が吸い上げられていく。激痛。全身の血管が沸騰し、魂を引き剥がされるような苦しみに、彼女は喉が裂けんばかりに絶叫した。
その悲鳴は分厚い石壁を震わせ、地下道を駆け上がり、城壁を越え、夜の王都の空へと吸い込まれていった。そして、遥か上空三千メートルの薄い大気の中へと拡散し、そこに浮かぶ二人の鼓膜を微かに震わせた。
眼下に広がるのは、宝石箱をひっくり返したような王都の夜景。無数の光が瞬くその光景は、地上で起きている惨劇など微塵も感じさせないほどに美しい。
漆黒の翼を広げ、夜風を従えるように飛ぶ青年――アザゼルが、その光の海を見下ろして口を開いた。
「……随分と煌びやかな街じゃないか。中身が腐りきっているとは思えないな」
その隣、重力など存在しないかのように虚空に立つ銀髪の少女――セレスティア・ノヴァルーナは、氷のように冷たい瞳で故郷を見つめていた。高度三千メートルの冷気さえ、彼女の纏う静謐な怒りの前では生温く感じられる。
「そうですね。……綺麗に見えます。腐っている中身が見えなければ」
彼女の声には、感傷など欠片もなかった。あるのは、汚物を処理する清掃人のような、淡々とした義務感だけだ。
かつて、この国のために尽くそうとした。民の幸福を願い、身を粉にして働いた。だが、返ってきたのは裏切りと蔑み。そして今、彼らは彼女が築いた新しい居場所さえも、理不尽な暴力で焼き払おうとしている。
「慈悲は必要か?」
アザゼルが問う。彼は腰の剣に手をかけ、主の命令を待っている。
セレスティアは首を横に振った。
「無関係な民を積極的に殺す必要はありません。ですが……」
彼女は右手を掲げた。その掌に、膨大な魔力が収束していく。アメジストの瞳の奥で、万象の理を解き明かす青白い燐光が揺らめいた。
「私たちの邪魔をする者は、王であれ神であれ、等しく『障害物』として処理します」
彼女の手から放たれた不可視の干渉波が、王都全体を覆う巨大なドーム状の「対魔障壁」に接触した。
国宝級の魔道具によって数百年維持されてきた、鉄壁の守り。数千の魔導師による一斉攻撃すら防ぐとされる、王国の絶対防衛線だ。
だが、セレスティアの視界において、その強固な結界は単なる「魔力素子の配列」に過ぎない。彼女は結界を構成する数式の要、いわば編み物の結び目を視認し、指先一つでそれを解いた。
大気そのものが悲鳴を上げたかのような、甲高い破砕音が響き渡る。
蜘蛛の巣のような亀裂が走り、次の瞬間、ガラス細工のように結界全体が砕け散った。破片となった魔力が光の塵となって降り注ぎ、霧散していく。
解析も、解除も必要ない。ただ、構成する魔力構造を「分解」し、大気に還しただけ。SSS級万象錬成術士にとって、既存の魔法理論など、積み木細工に等しい。
「……相変わらず、出鱈目な力だ」
アザゼルが愉しげに笑う。
結界の崩壊と共に、王都中にけたたましい警鐘が鳴り響いた。無数の魔導灯が慌ただしく空を薙ぎ、二人を照らし出す。
「さあ、始めましょうアザゼル。……私の『査定』は終わりました。この国に、存続の価値はありません」
「御意。我が主」
二人は重力に引かれるまま、光の矢となって王都の中心へ――王城へと急降下を開始した。風切り音が鼓膜を打ち、景色が線となって後方へ飛び去っていく。
王城前広場は、蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
緊急招集された近衛騎士団五百名と、宮廷魔導師団二百名が、厳戒態勢を敷いている。その中心で指揮を執っていたのは、銀色の鎧に身を包んだ男――レオンハルトの側近、ヴァルドリックだった。
彼は先日の遠征での無様な撤退を挽回すべく、血走った目で部下たちを怒鳴り散らしていた。
「構えろ! 敵襲だ! 今度こそ殿下の御為に、賊の首を上げるのだ!」
だが、彼の顔には隠せない動揺が走っていた。空から降ってきたのは、軍隊でも、ドラゴンでもない。たった二人の人間だったからだ。
その困惑を粉砕するように、天地を揺るがす轟音と共に、広場の中央に巨大なクレーターが穿たれた。
もうもうと立ち込める砂煙。その中から、悠然と歩み出てくる二つの影。
「と、止まれ! 何者だ!」
ヴァルドリックが剣を抜き、恐怖を振り払うように怒声を上げる。
煙が晴れる。
現れたのは、夜会服のような優雅なドレスを纏った銀髪の少女と、その横に侍る黒衣の青年。戦場にはあまりに不釣り合いな、しかし周囲を圧する「格」を持つ二人。
「……ミレイユ様? いや、違う……あれは……」
古参の騎士の一人が、亡霊を見るような目で呟いた。
かつて「偽聖女」として追放された、地味で目立たなかった姉。だが今の彼女が放つ気配は、かつてのそれとは比較にならない。女神か、あるいは魔王か。
「退きなさい」
セレスティアは、立ち塞がる七百の兵を前に、静かに告げた。声量は大きくない。だが、その声は広場の隅々まで、明瞭に届いた。
「私は国王に用があるだけです。道を空けるなら、命までは取りません」
「ふ、ふざけるな! たった二人で包囲されている現状が見えんのか!」
ヴァルドリックが顔を紅潮させて叫んだ。彼は、この好機を逃すまいと必死だった。相手は女と従者一人。ここで彼らを討てば、自分の失態は帳消しになる。
「総員、攻撃開始! 一斉射撃で蒸発させろ!」
号令と共に、二百の杖から炎、氷、雷の奔流が放たれた。視界を埋め尽くす殺意の光。城壁をも粉砕する熱量と衝撃の嵐が、無防備な二人に殺到する。
だが。
「……騒がしい」
アザゼルが一歩、前に出た。
彼は剣を抜くことさえしなかった。ただ、襲い来る魔法の嵐に向かって、片手をかざしただけだ。
「『停止』」
世界から、色が消えた。
燃え盛る炎が空中で凍りつく。雷がジグザグの軌跡を描いたまま静止する。氷の礫が空中に固定される。
物理法則が無視された、静寂の世界。それは時間停止ではない。事象そのものを「固定」する、高位の干渉魔法。熱も、音も、運動エネルギーも、全てがその場に縫い留められる。
アザゼルだけが、その灰色の世界を悠然と歩いた。彼は凍りついた魔法の隙間を縫って、呆然と口を開けているヴァルドリックの目の前まで移動する。そして、指先で軽く、ヴァルドリックの額を弾いた。
「解除」
時が動き出す。
放たれた魔法は、すべて標的を見失って霧散した。
そして、ヴァルドリックは、見えない巨人に殴られたかのように後方へ吹き飛び、城壁に激突して崩れ落ちた。
「な……っ!?」
騎士たちが言葉を失う。何が起きたのか理解できない。魔法が無効化されたのではない。魔法そのものが、この男の意のままに操られたのだ。
「魔法ごっこは終わりか? なら、次は剣舞といこう」
アザゼルが初めて腰の剣を抜いた。
それは剣というより、夜の闇を切り取ったような黒い刃だった。
彼は獰猛に笑うと、姿を消した。
否、速すぎるのだ。
騎士たちが我に返り、槍を突き出した。盾が打ち鳴らされ、陣形が“包囲”へ形を変える。数十の刃が一斉にアザゼルへと殺到し、背後からは弩弓の矢が雨のように降った。
――だが、当たるはずがない。
黒衣の青年は、踏み込む足場の石畳すら選ぶように、最小の動きで“殺到”の密度だけを切り裂く。刃は空を切り、盾は風を受け、矢は彼の残像に突き立った。
次の瞬間、陣形の“要”だけが失われた。ヴァルドリックの代わり指揮を執ろうとした隊長格の膝が崩れ、号令が途切れ、包囲が包囲でなくなる。
銀色の閃光が、崩れた陣形の中をジグザグに駆け抜けた。剣戟の音すらしない。風が通り抜けただけのように見えた。
数秒後、アザゼルが元の位置に戻って納刀すると同時に、無数の金属音が連鎖した。
前列にいた騎士百名の鎧が、一斉に砕け散ったのだ。
体は傷つけられていない。留め具と、装甲の継ぎ目だけが正確に斬り裂かれ、彼らは武具を失い、無防備な姿を晒すことになった。
「う、うわあああああっ!」
「化け物だ! 剣が見えなかった!」
最強を誇った近衛騎士団が、恐怖に駆られて悲鳴を上げる。
殺されていないことが、逆に恐怖を煽った。アリが人間を殺せないように、彼らもまた、この男にとって殺す価値すらない存在なのだと理解させられたからだ。瓦礫の中から這い出そうとしていたヴァルドリックは、その光景を見て完全に戦意を喪失し、震えながら、床を濡らしていた。
「さて。……道は開けましたね」
セレスティアが歩き出す。
残った兵士たちが、震える手で槍を構える。だが、彼女が近づくと、信じがたい現象が起きた。
石畳が生き物のように波打ち、彼女の足元にだけ平坦な道を作る。
突き出された槍の穂先が、彼女の体に触れる直前で、分子レベルで構造を書き換えられ、鮮やかな薔薇の花に変質する。
放たれた矢が、白い鳩になって飛び立つ。
「ひっ……!」
「魔女だ……!」
万象錬成。接触すらせずに、対象の構成要素を書き換えている。
兵士たちは武器を捨てて逃げ出した。戦意など維持できるはずがない。剣を花に変える相手に、どうやって勝てというのか。
セレスティアとアザゼルは、一度も立ち止まることなく、波を割って進む船のように敵陣を突破し、王城の正門へと到達した。
巨大な城門が立ちはだかる。厚さ数十センチの鉄の塊。
セレスティアは、それに手を触れ、小さく呟いた。
「『開門』」
鉄がねじ切れる不快な轟音と共に、扉が飴細工のように捻じ曲がった。そして、左右に引き裂かれるようにして、宮殿内部への道が開かれる。
そこはもう、戦場ではなかった。
ただの、王の凱旋だった。
その頃、地下儀式の間では、上階からの振動に国王アルトゥールが玉座から腰を浮かせ、青ざめた顔で天井を見上げていた。
「何が起きている! 近衛は何をしている! たった二人の賊ごときに、これほど手こずっているのか!」
「へ、陛下! 通信魔術が繋がりません! 地上部隊、壊滅……いえ、沈黙しました!」
側近の悲鳴のような報告。
壊滅ではない、沈黙。それはつまり、戦いにすらなっていないということだ。
「馬鹿な……。聖レガリアの騎士団は大陸最強のはずだぞ……」
レオンハルトが震える膝を抱えて呟く。彼のちっぽけなプライドは、砂上の楼閣のように崩れ去ろうとしていた。
その時。
儀式の間の分厚い扉が、内側から爆発したように吹き飛んだ。
砂塵と共に現れたのは、返り血一つ浴びていない、優雅な姿の二人組。
「ごきげんよう、皆様」
セレスティアが、お茶会にでも来たかのような気軽さで微笑んだ。
その背後には、鬼神の如き殺気を放つアザゼルが控えている。
「き、貴様は……! セレスティア!」
国王アルトゥールが立ち上がり、指を突きつけた。
その顔には、恐怖を押し殺した憤怒が張り付いている。
「なんという不敬! 追放された分際で、王城を破壊するとは何事だ! 余は国王であるぞ! 神樹に選ばれた正統なる支配者だ!」
国王は必死に虚勢を張った。王権という名の鎧を着ていれば、どんな相手も平伏すと信じていたかったのだ。
「直ちにその男を捕らえさせ、余の前に跪け! そうすれば、温情をもって死罪だけは免じて……」
「……うるさいですね」
セレスティアの冷ややかな一言が、王の言葉を遮った。
彼女は、王冠を被った男を、道端の石ころを見るような目で見つめた。
「貴方が王? 神樹に選ばれた? ……それが、今の私に何の関係があるのです?」
その言葉には、侮蔑すら含まれていなかった。ただの、無関心。有機物を視界に入れているとは思えない、無機質な眼差し。
アルトゥールは言葉を失った。彼女の瞳に映る自分があまりにも小さく、無力な存在であることを突きつけられたからだ。
「セ……セレスティア……!?」
レオンハルトが裏返った声を上げた。
かつての婚約者。地味で、従順で、自分の後ろを黙ってついてくるだけだった女。だが今、目の前にいるのは、圧倒的な支配者のオーラを纏った「女帝」だった。
「お久しぶりですね、レオンハルト殿下。……ああ、今はもう『敗軍の将』とお呼びすべきでしたか?」
セレスティアは氷河のような視線を滑らせ、祭壇に縛り付けられたミレイユを見た。
ボロ雑巾のような姿。魔力を吸い尽くされ、今にも消えそうな命の灯火。
セレスティアの瞳が、一瞬だけ揺れた。だが、それは同情ではない。哀れみだ。愚かな選択をした者への、底知れぬ哀れみ。
「お……お姉様……」
ミレイユが虚ろな目で手を伸ばす。
セレスティアは静かに歩み寄り、その場に片膝をついた。穢れることなど気にも留めない様子で、油と埃にまみれたミレイユの頭にそっと手を伸ばす。
「……っ!?」
ミレイユが息を呑む。
姉の手は温かく、かつて熱を出した時に看病してくれた時と同じだった。優しく、愛おしむように、絡まった金髪を指で梳いていく。
セレスティアの脳裏に、不意に古い記憶が蘇った。
――孤児院から引き取られ、ノヴァルーナ公爵家に連れてこられたばかりの、小さなミレイユ。
扉が閉まる音ひとつで肩が跳ね、皿が触れ合う乾いた音に、指先が震えた。
豪奢な食卓の湯気は腹を鳴らさず、喉を塞いだ。銀の食器に映る自分の顔が怖くて、視線を落とすことすらできない。
広すぎる部屋の天井が落ちてくるようで、夜はベッドの端に丸まって、息を殺していた。廊下を行き交う使用人の足音がするたび、毛布の内側で小さく縮こまり、まるで“連れ戻される”のを待つ子犬のように。
その子の前に、幼いセレスティアは膝をついた。
公爵家の“姉”として振る舞えと求められた立場。それでも彼女は、役目の顔ではなく、まっすぐな眼で義妹を見た。
『泣かなくていいわ、ミレイユ』
震える手を、そっと包む。
『私がいる。お姉ちゃんが守る』
『この家で泣く理由があるなら、まず私が受け取る。だから、あなたは私の後ろにいなさい』
『……約束よ。軽い言葉じゃない。私が言った以上、必ず守る』
小さなミレイユは、怯えたまま頷いた。
その頷きが、誓約の受領だった。
――そして今。
油と埃と血の臭いにまみれた地下の儀式場で、同じ温度の頭が、同じように彼女の掌の下にある。
誓約は、時間では風化しない。破られた関係の上でも、誓った側の責務だけは残る。
「……本当に。昔から、手のかかる子でしたね」
赦しではない。誓いの履行だ。私が決めた“姉”という立場を、私が投げ捨てるわけがない。
だから私は、壊れた糸を結び直す。
セレスティアの指先から、柔らかな金色の光が溢れ出した。
それは攻撃魔法ではない。『万象錬成』による、事象の書き換え。
「汚れ」を「清浄」に。「傷」を「治癒」に。「粗末な麻袋」を「清潔な純白のドレス」に。
光が収束すると、そこには泥にまみれた罪人ではなく、かつての美しさを取り戻した――しかし、どこか憑き物が落ちたような少女が座っていた。
「これで少しは、見られるようになりましたか」
セレスティアは微笑んだ。それは聖母のように美しく、そして死神のように残酷な笑みだった。
「どうして……どうして、私を……?」
ミレイユの声が震える。美しいドレスに包まれた今も、中身は空っぽで、罪の意識だけが渦巻いていた。
「私、酷いことをしたの。お姉様を罠に嵌めて、全部奪って、追い出して……。それなのに、誰も助けてくれなくて……」
大粒の涙が、再び溢れ出す。
「私、ずっとお姉様が羨ましかった。地味なくせに何でもできて、みんなに褒められて……だから、全部奪ってやりたかった。私が主役になりたかったの。……でも、私はただの悪い子だった。聖女になんてなれなかった……」
嗚咽混じりの懺悔。それは初めて吐露する、彼女の魂の本音だった。
セレスティアは、泣きじゃくる妹の涙を、親指で丁寧に拭い去った。
「ええ、知っています。貴女は愚かで、嫉妬深くて、本当に悪い子でした」
言葉は鋭利だった。だが、その声色はどこまでも穏やかで、慈愛に満ちていた。
「でも、言い訳にはなりません。……貴女は身の丈に合わない夢を抱き、都合のいい糸を喜んで掴んだ。だから人形になった」
セレスティアは、ミレイユの頬を両手で包み込んだ。
「人形劇はもう終わりです、ミレイユ。……これからは私の後ろで歩きなさい。私の国で、“償い”を生きるのです」
ミレイユの目が見開かれる。
許されたわけではない。罪が消えたわけでもない。けれど、この手は確かに、自分を見捨てなかった。
彼女は理解した。自分と姉の間には、埋めようのない断絶がある。けれど、その断絶の向こう側から、姉は手を差し伸べてくれているのだと。
「お姉様……っ、うわあああああん!」
ミレイユは姉の胸に飛び込み、子供のように泣きじゃくった。温かい。この温もりだけが、本物だった。
セレスティアは妹の背中を優しく叩いてから、ゆっくりと立ち上がった。
そして、視線を国王と教皇に移した瞬間、室内の温度が氷点下まで下がった錯覚を覚えるほどの殺気が満ちた。
「貴様ら……! ここをどこだと思っている! 神聖なる儀式の場だぞ!」
教皇が杖を構える。まだ儀式は中断していない。祭壇の魔法陣は赤く輝き続けている。
「神聖? 妹を燃料にして、自分の保身を図ることがですか?」
セレスティアは鼻で笑った。
「面白い術式ですね。『聖火の楔』……土地の魔力を強制的に収束させ、熱量に変換して放出する。なるほど、理論自体は悪くありません」
彼女はまるで、未熟な術士の描いた魔法陣を添削するように、禁忌の魔法陣を指差した。
「ですが、効率が悪すぎます。触媒への負荷が高すぎるし、魔力の循環に無駄が多すぎて、これでは森を焼くどころか、この城の地下を自爆させて終わりですよ?」
「な、なんだと……!?」
「ですから、私が正してあげましょう」
セレスティアが指を鳴らした。
乾いた音が、世界の理を書き換える合図だった。
赤黒く輝いていた魔法陣が、瞬時に純白の光へと変色する。禍々しい熱気が消え、代わりに清浄な魔力の風が吹き荒れる。
「な、何をした!?」
「術式の構成を書き換えました。……『自爆』ではなく、『祝福』にね」
次の瞬間。
魔法陣から光の柱が立ち昇り、天井を突き破って夜空へと駆け上がった。
王都の上空で、光が弾ける。
それは破壊の炎ではなかった。
夜空一面を埋め尽くす、巨大で美しい花火だった。
七色の閃光が降り注ぎ、王都の人々が見上げる中、花火は次々と大輪の花を咲かせる。浄化の光が降り注ぎ、人々の不安を拭い去っていく。
その光景を見て、枢機卿イグナーツは呆然と天井を見上げた。
恐怖も、絶望も消え失せていた。あるのは、ただ圧倒的な光への感動だけ。
かつて自分が「神への冒涜だ」と嘆いた儀式が、一瞬で「祝福」へと書き換えられたのだ。
「ああ……これぞ、神の御業……」
イグナーツは、カルディナスが腰を抜かしてへたり込む横で、静かに跪いた。涙が溢れ、止まらない。
教会が追い求め、見失っていた「真の光」が、今ここにある。彼は理解した。自分たちが切り捨てた少女こそが、本物の聖女だったのだと。
一方、セレスティアは、呆然とする国王アルトゥールの前に立った。
アザゼルが剣の柄に手を置き、いつでも王の首を撥ねられる距離で控えている。
「……そうですか。そこまで落ちましたか、レオンハルト。……国王陛下」
彼女の声は、氷点下の怒りを孕んでいた。それはもはや、人間に対する怒りではない。排除すべき「害悪」に向けられた、断罪者の響きだった。
「今回は、この花火で許して差し上げます。これは、かつての故郷への、最後の手向けです」
彼女は睥睨した。
「ですが、二度目はありません。次に私の国に手を出せば……今度はこの花火が、王都を焼き尽くす業火に変わると思いなさい」
国王は、全身を激しく震わせながら、玉座にすがりついていた。
プライドも、権威も、全てが粉砕された。目の前の少女は、国一つをいつでも滅ぼせるだけの力を持っている。その事実が、老いた王の心をへし折った。
彼は助けを求めるように、傍らの宰相エドガルトを見た。
「エドガルト! な、何とか言え! 近衛はどうした! この賊を……」
だが、老宰相は静かに首を横に振った。その目には、深い悲哀と諦めが宿っていた。
「陛下……もはや、軍は機能しておりません」
エドガルトは、窓の外で輝く花火を見つめた。
「あれをご覧ください。あのような御業を前にして、誰が剣を握れましょうか。……終わったのです。我々の時代は」
その言葉が、王への引導だった。
国王は絶望の声を漏らし、ゆっくりと、玉座から滑り落ち、床に膝をついた。
「ま……待ってくれ……!」
その声に続いて、レオンハルトもまた、糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。
五千の精鋭が一瞬で無力化され、禁呪すら遊び道具に変えられた。その現実が、彼の心を完全に破壊したのだ。
彼はセレスティアの足元に這いずり、額を床に打ち付けた。
「すまなかった……! 私が愚かだった! だから、頼む……!」
レオンハルトは涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、かつての婚約者を見上げた。
「戻ってきてくれ、セレスティア! 余の……いや、私の妃になれるのは君だけだ! 君がいなければ、この国は終わってしまう! 頼む、慈悲を……!」
続いて、国王もまた、震える頭を床に擦り付けた。
「領土もやる! 地位も、名誉も、望むものは何でも与える! だから、余を見捨てるな! この国には、そなたの力が必要なのだ!」
必死の懇願。かつて冷酷に追放を言い渡した男たちの、あまりにも無様な姿。
セレスティアは、足元にすがりつく二人を、ゴミでも見るような温度のない眼差しで見下ろした。
「……頭を上げてください」
彼女の声は、静かだった。
「汚れますよ、私の靴が」
小さく息を呑んで、二人が慌てて手を引っ込める。
セレスティアはスカートの裾を払い、淡々と告げた。
「今さら土下座などされても、もう遅いのですよ。貴方たちが捨てたものは、二度と戻らない。……永遠にね」
その言葉は、どんな罵倒よりも深く、彼らの魂を切り裂いた。
赦しすら与えられない。ただ、無価値だと切り捨てられたのだ。
「行きましょう、アザゼル。……空気が悪くて、気分が悪くなりそうです」
「ああ。十分な見せしめにはなっただろう」
二人は踵を返した。
レオンハルトと国王は、抜け殻のように床に突っ伏したまま、動くことさえできなかった。
セレスティアは数歩進んでから、ふと立ち止まり、ミレイユの方を振り返った。
「いつまで座っているのですか? ミレイユ」
「え……?」
ミレイユが呆けたように顔を上げる。
「貴女の命は、私が預かります。勝手に燃え尽きることは許しません。……一生をかけて、償いとして生きなさい」
セレスティアは、純白に生まれ変わったドレスを纏う妹に、淡々と、しかし絶対的な命令を下した。
「立ちなさい。そして、ついてきなさい。……私の国で、一生かけて罪を償わせてあげます」
それは、救済というにはあまりにも尊大で、断罪というにはあまりにも温かい宣告だった。
ミレイユは震える唇を噛み締め、涙を流しながら何度も頷いた。ここに居場所はない。自分を人間として見てくれるのは、この世界でただ一人、目の前の姉だけなのだと、魂が理解していた。
「お……お姉様……っ!」
ミレイユはよろめきながら立ち上がり、姉の背中を追った。
アザゼルが、やれやれと肩をすくめる。
「おいおい、また拾うのか? そんな壊れた人形を」
「壊れているなら、直して使います。……私の所有物を、勝手に処分されるのは癪ですから」
セレスティアはそっけなく答えたが、その横顔はどこか満足げだった。
王城の門を出ると、夜空にはまだ花火が咲き乱れていた。
それは、新興国ノヴァ・エデン帝国の、あまりにも強烈な初陣だった。
たった二人で一国を制圧し、禁呪を花火に変えて嘲笑った魔王と魔女。その噂は、明日には大陸全土へと広がるだろう。
「……派手にやりすぎたかしら?」
「いや。見せるべき相手に、見せるべきものを見せただけだ。……“境界線”というやつをな」
アザゼルが笑い、セレスティアの手を取る。
二人は転移魔法の光に包まれ、美しい花火を背に、自分たちの「楽園」へと帰還した。
その傍らには、小さく震えながらも姉の服の裾を握りしめる、一人の少女の姿があった。
後に残されたのは、夜空を焦がす皮肉な輝きを見上げながら恐怖に震える、敗北した国だけだった。




