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第21話 楽園の査定と、たった二人の断罪者

 

 朝霧が晴れると共に、森の奥に隠された白亜の巨都――ノヴァ・エデン帝国が、その全貌を陽光の下に現した。

 客分としてあてがわれた宮殿の一室で、エステリーゼ・エルフィンディアは、肌触りの良い最高級のシルクのシーツから身を起こした。窓の外には、森の深緑と調和した美しい街並みが広がっている。鳥のさえずりと、遠くから聞こえるリズミカルな槌音が、彼女の目覚めを心地よく演出していた。


 だが、その優雅な目覚めとは裏腹に、エステリーゼの内心は嵐のように荒れていた。

 彼女はサイドテーブルに置かれたクリスタルの水差しを手に取り、グラスに注ぐ。水は微かに発光しているように見えた。口に含むと、甘露のような清涼感が喉を潤し、同時に高純度の魔力が体内に染み渡っていくのを感じる。

 ただの湧き水ではない。この国では、魔力を帯びた水脈が生活用水として管理され、蛇口を捻れば聖水に近い純度の水が出てくるのだという。


「……ありえませんわ」


 独り言が漏れる。

 彼女の国、エルフィンディアにおいて、このような魔力水は王族の儀式にのみ使われる貴重品だ。それを、この国は民草の喉を潤すために惜しげもなく流している。贅沢なのではない。「基準」が狂っているのだ。

 昨夜の会談で、彼女は「監視付きの滞在」を許可された。それは実質的な軟禁と言えるかもしれないが、待遇は王族に対するそれとして、過剰なほどに丁寧で、そして計算し尽くされていた。


 コンコン、と控えめな、しかし拒絶を許さない硬質なノックの音が響く。


「失礼します。エステリーゼ様」


 重厚な扉が開かれ、入ってきたのは銀色の髪を後ろで束ねた、鋭い瞳の女性――諜報長官ルミナリスだった。彼女の所作に隙はなく、その背後には威圧感を隠そうともしない「影」のような気配が漂っている。


「おはようございます、ルミナリス殿。……今日は、どこを見せていただけるのかしら?」

「陛下からは、軍事機密の最深部以外であれば、ご自由にとの仰せです。……ただし、私の目の届く範囲で」


 ルミナリスの声は事務的だが、その眼光はエステリーゼの呼吸一つ見逃さないという意思に満ちていた。エステリーゼは鏡の前で身支度を整えながら、鏡越しにルミナリスを見据える。


「貴女は、同族エルフへの情というものはお持ちでないの?」

「私は銀狼族です。姿かたちは似ていても、群れの掟が違います」


 ルミナリスは表情一つ変えずに切り返した。

「私の主はただ一人。……それ以外の者は、貴女がたとえ他国の王族であろうと、喉笛を噛み切る対象でしかありません」


 清々しいほどの殺意。エステリーゼは背筋に冷たいものを感じながらも、王女としての微笑みを崩さずに振り返った。

 さあ、査定の時間だ。

 この地が、本当に我らエルフの盟友たる資格を持つのか。それとも、美しく飾り立てられただけの「魔物の巣」なのか。彼女は賢者としての冷徹な瞳を宿し、ルミナリスの先導で部屋を後にした。


 宮殿の静寂な廊下を抜け、一歩外へ出ると、そこには活気あふれる朝の空気が満ちていた。石畳の道を歩きながら、エステリーゼはすれ違う民たちの表情を観察する。誰もが満ち足りた顔をしている。強制労働の悲壮感も、明日の食事を憂う不安もない。

 そのまま案内されたのは、街の東区画。熱気と金属音が絶え間なく響く「職人街」の中心にある巨大な工房だった。


 一歩足を踏み入れた瞬間、肌を焼くような熱波と、鉄の匂いが鼻腔を突いた。

 そこはドワーフたちの聖域のはずだった。彼らは本来、頑固で、伝統を重んじ、槌の一振り一振りに魂を込める職人たちだ。

 だが、エステリーゼが目にしたのは、従来のエルフの常識、いや、この大陸の鍛冶技術の概念を根底から覆す、冒涜的ですらある光景だった。


「ほらほらー! 魔力の供給、乱れてるよ! 第三術式展開! 呼吸を合わせて、結晶の並びを整えて!」


 工房の中央、一段高い足場で指揮を執っているのは、金色の髪と九本の尾を持つ少女――ソラリスだった。

 彼女の周りには、複雑怪奇な幾何学模様を描く魔法陣がいくつも展開され、そこから伸びる魔力の腕が、空中に浮いた無数のハンマーを操っている。カン、カン、カン、と正確無比な自動人形のような律動で、赤熱した金属が同時に何本も叩き延ばされていく。


「……なっ」


 エステリーゼは絶句した。

 鍛冶とは、職人と素材の対話だ。だがここでは、魔法によって命じられたハンマーが、感情を持たない機構の一部として金属を「処理」している。職人たちは汗を流す代わりに、魔力炉の調整と、魔法陣の監視を行っていた。


「あら? お客さん?」


 視線に気づいたソラリスが、作業の手を止めることなくパタパタと駆け寄ってきた。煤で少し汚れた頬と、無邪気な笑顔。だが、その瞳の奥には、探求者特有の冷徹な光が宿っている。


「ええっと、森の国のお姫様だっけ? 見て見て! これ、今日完成した新作!」


 ソラリスが作業台から無造作に拾い上げ、差し出したのは一本の短剣だった。

 刀身は透き通るような青色。噂に聞くエーテル鋼だ。だが、驚くべきはそこではない。柄の部分に埋め込まれた魔石が、心臓の鼓動のように脈打ち、刀身に微かな魔力を供給し続けている。


「『自己修復』と『属性付与』の二重術式を焼き付けてあるの。刃こぼれしても大気中のマナを吸って勝手に直るし、使い手の魔力に合わせて炎でも氷でも纏えるよ! 量産するための試作品だけどね」


 エステリーゼは、震える手で短剣を受け取った。

 軽い。羽のように軽いのに、その内包する魔力密度は、エルフィンディアの国宝級である「精霊剣」に匹敵する。

 こんなものが、「量産」を前提とした試作品として、無造作に作られているのか。


「……ソラリス殿。これは、どのような理屈で? これほどの付与魔術、熟練の術士が数ヶ月かけて、命を削って施すものですわ。それを、こんな……流れ作業で?」


 エステリーゼの声には、非難の色が滲んでいた。

 職人の魂を、魔法の神聖さを、冒涜しているように思えたのだ。

 だが、ソラリスはキョトンとして、そして残酷なほど無邪気に答えた。


「だって、一つ作るのに数ヶ月もかけてたら、守れる命も守れないでしょ?」


 その言葉に、エステリーゼは息を呑んだ。


「魂とか伝統とか、そういうのはよく分かんないけど。……私は、セレスティア様が『必要だ』って言った数を、最高の品質で揃えるだけ。誰でも使えて、誰でも強くなれて、誰も死なない武器。それが一番えらいでしょ? それにね、この術式はまだまだ改良の余地があって――」


「ソラリス」


 得意げに語り始めた妹の言葉を、氷のような声が遮った。

 エステリーゼの背後に控えていたルミナリスが、静かに、しかし有無を言わせぬ鋭い視線をソラリスに向けていた。


「喋りすぎだ。その技術理論は、部外者に開示してよい範囲を超えている」

「えー? いいじゃんお姉ちゃん。どうせ聞いたって真似できないし、減るもんじゃないし」

「慢心は隙を生むと言ったはずだ。……陛下のご慈悲に甘えるな」


 ピシャリと言い放たれ、ソラリスは不満げに頬を膨らませながらも、反論することなく口を噤んだ。

 姉妹の上下関係、そして何より、この国における「情報管理」の厳格さが垣間見える一幕だった。ソラリスという天才も、ルミナリスという規律によって管理され、その力は完全に統制されているのだ。


「ちぇっ。お姉ちゃんは固いなぁ……。ごめんね、お姫様。ここから先は『機密』だってさ」


 ソラリスは悪戯っぽく舌を出した。

 エステリーゼは、手の中の短剣を見つめた。そこには職人の「情念」はないかもしれない。だが、使う者を絶対に死なせないという、製作者の狂気的なまでの「機能美」が宿っていた。

 この国は、伝統を捨てたのではない。伝統を「効率」という怪物の腹に収めて、さらに先へと進んでしまったのだ。

 ソラリスの笑顔に見送られ、エステリーゼは逃げるように工房を後にした。背中で響く正確無比なハンマーの音が、古い時代の終わりを告げる鐘の音のように聞こえてならなかった。


 工房の熱気が引くと、今度は乾いた土の匂いと、勇ましい掛け声が風に乗って運ばれてきた。

 次に案内されたのは、外壁に近い広大な訓練場だった。

 そこでは、数百名の獣人の兵士たちが、整然とした隊列を組み、人間離れした動きで模擬戦を行っていた。彼らの動きには無駄がなく、個の身体能力と集団の連携が完璧に融合している。

 その中心で、ひときわ大きな怒号を上げている男がいた。

 身の丈ほどもある巨大な大盾を背負った男――ガルディウスだ。


「甘い! 盾はただ受けるだけじゃない! 衝撃を流し、敵の体勢を崩す『武器』だと思え! 守ることは、攻めることの起点だ!」


 ガルディウスが手本を見せる。

 訓練用の巨大なゴーレムが、地響きを立てて突進してくる。重量数トンはある岩の塊だ。まともに受ければ全身の骨が砕ける。

 ガルディウスは一歩も引かなかった。

 轟音。

 彼は大盾をわずかに傾け、ゴーレムの突進を受け流すと同時に、盾の表面で衝撃を爆発させた。盾による打撃シールドバッシュ。その一撃で、巨大なゴーレムが木の葉のように宙を舞い、粉々に砕け散った。


「……信じられない」


 エステリーゼは、訓練場の柵を握りしめた。

 エルフの戦術は、回避と遠距離攻撃が主体だ。正面から受け止めるなど、愚策中の愚策。だが、目の前の男は、その「愚策」を芸術の域にまで高めている。


「よう、見学か?」


 訓練の合間、汗を拭いながらガルディウスが近づいてきた。その体からは、湯気と共に圧倒的な生命力が立ち上っている。


「素晴らしい技量ですわ。……貴方ほどの戦士が、なぜ王国の騎士団を追われたのです?」


 エステリーゼの問いに、ガルディウスは自嘲気味に笑った。


「王国じゃ、『守るだけ』は無能の代名詞だからな。いくら仲間を助けても、魔獣の首を取らなけりゃ評価されねぇ。……俺の盾は、ただの重り扱いだったさ」


「見る目がないのですね、人間というのは」

「ああ。だが、あのセレスティアは違った」


 ガルディウスの表情が、一瞬で引き締まる。そこには、王への絶対的な忠誠と、救われた者特有の崇拝が混じっていた。


「あの方は言ったんだ。『あなたの盾は、国を守る壁になる』ってな。……俺は、この盾一枚で、あの方が創ったこの楽園を、世界の理不尽から守り抜く。それが俺の生きる意味だ」


 彼は再び大盾を背負い、部下たちの元へ戻っていく。その背中は、どんな城壁よりも頼もしく、そして揺るぎない信念に満ちていた。

 エステリーゼは、自身の胸に手を当てた。

 エルフィンディアの近衛兵たちに、これほどの覚悟があるだろうか。国を守る義務感はあっても、主君個人へのこれほど強烈な「愛」にも似た忠誠心を持っているだろうか。

 この国は、技術だけではない。「心」の強度が違うのだ。


 その時だった。

 上空から、太陽を遮るほどの巨大な影が降り立った。

 突風が訓練場の砂埃を巻き上げ、獣人兵たちが一斉に足を止めて空を仰ぐ。エステリーゼの『精霊の眼』が、かつてない強烈な警告色に染まった。

 雲を裂いて現れたのは、巨大な翼を持つ漆黒の影――竜だった。

 全身を覆う黒曜石のような鱗、万物を睥睨する金色の瞳。それは伝説に語られる最上位の古竜エルダードラゴンそのものだった。


「ひっ……!?」


 エステリーゼは恐怖のあまり後ずさった。

 だが、竜は攻撃の炎を吐く代わりに、音もなく地上へと舞い降りた。着地と同時、その巨大な質量が、煙のように揺らぎ始める。

 黒い鱗が溶け、翼が収縮し、瞬く間に「人」の形へと凝縮されていく。

 煙が晴れた後に立っていたのは、漆黒の執事服を着た、長身の青年――ザラキエルだった。

 彼は首をコキリと鳴らし、服の埃を払う仕草を見せる。それはあまりに人間的で、だからこそ異様だった。たった今、天災そのものだった怪物が、平然と人の皮を被ってそこにいるのだ。


「おや、お客様でしたか。……失礼、少しばかり上空からの哨戒をしておりまして」


 ザラキエルは優雅に一礼したが、その瞳孔は未だ爬虫類のように縦に裂けていた。

 執事。冗談ではない。この男一人で、エルフィンディアの防御結界ごと王都を灰にできる。そんな災害級の存在が、なぜ人間に傅き、恭しく頭を下げているのか。


「……古代竜が、なぜ人の真似事を? 貴方ほどの存在が、なぜ……」

「退屈だったのですよ。三千年もの間、この遺跡で眠るだけの生は」


 ザラキエルは、宮殿の最上階を見上げた。


「ですが、あのお方は私の魂を揺り動かした。……強さだけではない。その『業』の深さが、私を惹きつけたのです。あのお方が描く覇道の果てを、この目で見届ける。それが今の私の愉悦」


 彼はエステリーゼに流し目を送った。

 その瞳には、「貴女にこの愉悦が理解できますか?」という、捕食者特有の嘲笑が含まれていた。

 エステリーゼは、言葉を返すことすらできなかった。

 規格外の技術。歴戦の英雄。そして、天災級の魔物。

 それらが全て、あの一人の少女――セレスティアの下に集い、忠誠を誓っている。

 カリスマ、という言葉だけでは説明がつかない。彼女は、彼らの「魂の渇き」を癒やし、生きる目的を与えたのだ。


 圧倒的な力の奔流に当てられ、精神的に疲弊したエステリーゼが、夕暮れの鐘と共に足を向けたのは、街の中央広場だった。

 日が傾き、街が茜色に染まる頃。仕事終わりの住人たちが、安息の時を楽しんでいた。

 ルミナリスは配慮したのか、少し離れた建物の陰で気配を消して控えている。


 ベンチに腰を下ろしたエステリーゼの目の前で、人間の母親が、獣人の子供にお菓子を分け与えている。ドワーフとエルフが、酒を酌み交わしながら建築談義に花を咲かせている。

 そこにあるのは、エステリーゼが夢見て、しかし自国では決して実現できなかった「完全なる融和」だった。


(私の国では、人間は『野蛮な短命種』として蔑まれている。獣人は『知性の低い労働力』として扱われている。……でも、ここでは違う)


 彼らは知っているのだ。

 種族の違いよりも、もっと大切な「絆」があることを。

 虐げられ、捨てられ、それでも生きようとした者同士の共感。そして、彼らを救い上げ、居場所を与えた「主」への感謝。この平穏な空気こそが、何よりの防壁となっている。


「……良い国、ですね」


 独り言のように漏らすと、隣にふわりと気配が降りた。

 いつの間にか、セレスティアが座っていた。護衛のアザゼルは、少し離れた街灯の下で腕を組み、彫像のように周囲を警戒している。


「ありがとうございます。……まだ、作りかけの箱庭ですが」


 セレスティアは、広場で遊ぶ子供たちを見つめながら微笑んだ。

 その横顔を見て、エステリーゼは息を呑んだ。

 美しい。

 容姿の話ではない。その魂の在り方が、透き通るように美しいのだ。

 膨大な魔力を持ちながら、それを誇示することなく、ただ民のために使い、民の幸福を我がことのように喜ぶ。かつてお伽噺で聞いた「聖女」とは、教会に祀られている人形ではなく、きっとこういう存在を指すのではないか。


「セレスティア陛下。……いえ、セレスティア様」


 エステリーゼは、王女としての仮面を少しだけ外し、一人の為政者として、そして一人の女性として問いかけた。


「貴女は、怖くはないのですか? これだけの力と、異質な民を抱え、世界中を敵に回すかもしれないのに。……私なら、その重圧に押しつぶされてしまいます」


 セレスティアは、ゆっくりとこちらを向いた。アメジストの瞳が、夕日を反射して揺らぐ。


「怖いですよ」


 意外な答えだった。


「毎晩、考えます。私の判断一つで、この笑顔が失われるかもしれないと。……足が震えることもあります。私は、ただの人間ですから」


 彼女は、自分の膝の上で握りしめられた手を見つめる。

 その手は、白く、華奢で、剣だこ一つない。神ごとき力を振るう手には見えなかった。


「でも、震えているだけでは、何も守れませんから」


 そう言って、彼女は視線をアザゼルに向けた。

 アザゼルもまた、彼女を見ている。言葉は交わさない。だが、その視線だけで十分だった。

 絶対的な信頼。互いが互いの支柱となり、恐怖を分かち合い、前に進む力を与え合っている。


「私には、支えてくれる人がいます。信じてくれる民がいます。……だから、私は女帝として立ち続けることができます」


 エステリーゼは、完敗を認めた。

 技術でも、武力でもない。この「絆」の強さこそが、この国の真の国力なのだ。

 父王にどう報告すべきか、答えは出た。

 この国を敵に回してはならない。

 何があっても、友とならねばならない。さもなくば、エルフィンディアは時代の波に飲まれて消え去るだろう。


「……私も、貴女のような王になりたかった」


 ぽつりと漏れた本音に、セレスティアは優しく微笑んだ。


「なれますよ。貴女が、民を愛する限り」


 その言葉は、エステリーゼの胸に深く刻まれた。

 同盟の確約はまだない。条件付きの滞在という不安定な立場だ。だが、心の握手は、今ここで交わされた気がした。


 日が完全に落ち、宮殿の大広間でささやかな歓迎の晩餐が開かれようとしていた。

 会場には主賓であるエステリーゼを囲むように、アザゼル、ザラキエル、そして護衛として控えるガルディウスの姿があった。

 だが、その穏やかな時間は、唐突に切り裂かれた。

 血相を変えたルミナリスが、音もなく、しかし焦りを隠せない足取りで広間に入ってきたのだ。彼女は真っ直ぐにセレスティアの元へ駆け寄る。

 そのただならぬ気配に、グラスを傾けていたエステリーゼも表情を引き締めた。


「陛下、宰相閣下。……緊急報告です」


 ルミナリスの声は、いつもの冷静さを欠いていた。


「聖レガリア王国の王都に潜伏させていた影狼より、至急の連絡が入りました。……王国が、動きます」

「再侵攻か?」


 アザゼルが低い声で問う。場の空気が一瞬で凍りつく。

 ルミナリスは首を横に振った。


「いえ、軍事侵攻ではありません。……もっと、たちの悪いものです」


 彼女は一枚の羊皮紙を広げた。そこには、乱れた筆跡で、信じがたい情報が記されていた。


「聖レガリア王家と教会は、この森の『浄化』を宣言しました。……数日後に控えた『聖樹祭』において、禁忌とされる古代魔術『聖火の楔』を発動させるとの情報です」


 エステリーゼが、椅子を蹴って立ち上がった。

 ワイングラスが倒れ、赤い液体がテーブルクロスに染みを作る。彼女の顔色は蒼白だった。


「『聖火の楔』ですって!? 正気なの!? あれは、土地の魔力を根こそぎ燃料にして焼き尽くす、焦土作戦用の禁呪よ! そんなものを使えば、森どころか、王国自身の土地も死に絶えるわ!」


 賢者である彼女は知っている。それは戦術兵器ではない。自爆装置だ。自分たちの土地もろとも、敵対者を焼き尽くす狂気の沙汰。


「ええ。……ですが、彼らはやるつもりです」


 ルミナリスは、さらに絶望的な事実を告げた。


「その術式の『核』として……幽閉されていた『聖女』ミレイユ・ノヴァルーナを使用するとのことです。聖女の命を薪にして、このノヴァ・エデンごと、森全域を焼き払うつもりです」


 静寂が、部屋を支配した。

 それは、単なる戦争の合図ではなかった。

 狂気に満ちた隣人が、自らの破滅と引き換えに、こちらを道連れにしようとする自爆の予告だった。かつての妹を、燃料として燃やし尽くすという外道。


 セレスティアの瞳から、感情の色が消えた。

 彼女はゆっくりと立ち上がる。その身から溢れ出る魔力が、部屋の空気をビリビリと震わせた。シャンデリアが揺れ、窓ガラスが共鳴音を立てる。


「……そうですか。そこまで落ちましたか、レオンハルト。……国王陛下」


 彼女の声は、氷点下の怒りを孕んでいた。それはもはや、人間に対する怒りではない。排除すべき「害悪」に向けられた、断罪者の響きだった。


「いいでしょう。そこまでして滅びたいというのなら……私たちが引導を渡してあげましょう」


「引導……? まさか、戦争を仕掛けるおつもり?」


 エステリーゼが震える声で問う。

 王国の軍隊と正面からぶつかれば、泥沼の消耗戦になる。たとえ勝てたとしても、こちらも無傷では済まない。

 だが、セレスティアは冷徹に首を横に振った。


「いいえ。戦争などという、野蛮な真似はしません。これは『害虫駆除』です」


 彼女はガルディウスの方を向き、短く、しかし絶対的な命令を下した。


「ガルディウス、動ける者総員を率いて森の境界を固めてください。蟻一匹たりとも、ここへは入れないように」

「御意!」


 ガルディウスが足音荒く部屋を出ていく。

 続いて、セレスティアは空になったグラスを持っていた執事に視線を向けた。


「ザラキエル」

「はっ」


 影のように控えていた漆黒の執事が、恭しく一礼する。


「貴方は宮殿の守護を。……留守中、鼠一匹たりともこの中枢には入れさせないように。エステリーゼ様も、頼みましたよ」

「承知いたしました。……掃除用具ブレスの使用許可は?」

「街に被害が出ない範囲で、お好きに」

「感謝いたします」


 古竜が、獰猛な笑みを浮かべて闇に溶ける。

 そしてルミナリスが、震える声で最後の問いを投げかけた。


「それから、陛下……。王都への攻撃部隊は?」


 セレスティアは、隣のアザゼルを見上げ、ふわりと微笑んだ。それは、先ほどまでの慈愛に満ちた聖女の顔ではなく、国を統べる女帝の、美しくも恐ろしい笑みだった。


「必要ありません。行くのは、私とアザゼル。二人だけです」


「――っ!?」


 エステリーゼは絶句した。

 敵国の中枢へ、たった二人で乗り込むというのか。


「正気ですか!? 相手は一国です! いくら貴女たちでも、多勢に無勢……!」

「国を滅ぼすのに、軍隊など必要ありません。……そうでしょう? アザゼル」

「ああ。退屈しのぎにはちょうどいい散歩コースだ」


 アザゼルがニヤリと笑い、闇色のマントを翻してセレスティアの腰を抱き寄せた。

 二人の周囲に、濃密な魔力が渦巻く。

 それは、エステリーゼが知るいかなる魔術体系とも異なる、純粋な「力」の具現化だった。


「エステリーゼ様。……特等席でご覧ください。これが、私たちの『外交』です」


 セレスティアの言葉が終わると同時、二人の姿がかき消えた。

 窓の外、夜空を切り裂くように、二条の光が西の空――聖レガリア王国の方向へと飛翔していく。

 それはまるで、天から下される裁きの雷のようだった。


 残された広間で、エステリーゼはへなへなと椅子に座り込んだ。

 外交の時間は終わった。

 彼女は悟った。これから始まるのは、国と国との戦争ではない。

 神のことわりすらねじ曲げる、新しい時代の「断罪」なのだと。

 彼女は震える手で自身の胸を押さえ、夜空に消えた二人の軌跡を、ただ呆然と見つめ続けた。

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