第20話 森の賢者、美しき女帝に謁見す
風が、泣いていた。
それは比喩でも、詩的な修辞でもない。大気を構成する精霊たちの震える歌声として、エステリーゼ・エルフィンディアの長い耳には、痛いほどに届いていた。
彼女が背を向けてきた西の空――聖レガリア王国の方角は、どす黒い澱みで塗り潰されている。そこにあるのは、大地が腐り落ちるような死臭と、行き場を失った精霊たちの断末魔だ。かつて聖なる大樹の加護を受け、光に満ちていたはずの大国は、今や巨大な膿疱のように膨れ上がり、破裂の時を待っている。
対して、目の前に広がるこの地はどうか。
大陸の中央に位置し、いかなる聖なる加護も及ばぬとされた魔の森。かつては何者も寄せ付けぬ魔獣の巣窟と恐れられ、地図の上ではただの空白として扱われていた森の深奥。
だが今、エステリーゼの『精霊の眼』に映るのは、目が眩むほどに鮮烈で、そして恐ろしいほどに整然とした魔力の奔流だった。
「……信じられませんわね」
エステリーゼは、深い緑色の旅装のフードを目深に被り、唇だけで呟いた。
彼女の周囲には、同じように身をやつした数名の護衛と調査員が、市民のフリをして付き従っている。
エルフィンディア森林国が秘密裏に派遣した、現地調査団。彼らがこの地に潜入したのは、数週間前のことだ。「魔獣の森に、追放された『偽聖女』が亜人を集めて集落を作っている」という噂を聞きつけ、その真偽を確かめるために送り込まれた先遣隊に、エステリーゼ自身も「一介の調査員」として身分を隠し、同行していたのだ。
当初の目的は、単なる生態系への影響調査だった。あくまで、森の異変を見極めるだけのつもりだった。
だが、事態は劇的に変化した。
つい数日前、聖レガリア王国の正規軍がこの森へ侵攻し――そして、刃を交えることすらなく、恐怖に駆られて敗走したのだ。
その一部始終を影から目撃していたエステリーゼは、認識を改めざるを得なかった。ここは「亜人の集落」などではない。「国家」に匹敵する、巨大な力を持った何かなのだと。
「……団長。魔力の濃度が異常です。まるで、聖樹の根元にいるかのような……」
随行していた若いエルフの魔導師が、青ざめた顔で囁く。
エステリーゼは無言で頷いた。
彼女は、エルフィンディア森林国の第一王女でありながら、『森の賢者』の称号を持つ高位の精霊術士でもある。百五十年の時を生きてきた彼女の知識と経験をもってしても、この森で起きている現象は理解の範疇を超えていた。
彼らが足を踏み入れたのは、森の中に突如として現れた「拠点」――いや、その規模はすでに都市と呼ぶべき威容を誇っていた。
石畳の一枚一枚にまで、緻密な魔力の脈路が血管のように通っている。街路樹として等間隔に植えられた若木は、ただの植栽ではない。地下水脈から魔力を吸い上げ、葉脈を通して大気へと循環させる「魔力を濾過する樹木」として機能しているのだ。
(これは、私の国以上だわ。……誰かに強制されて整えられたものではない。土地そのものが、喜びを持って呼吸している)
本来、土地を開拓すれば、そこにあった自然の魔力循環は一時的に乱れるものだ。だが、この都市は違う。人工物でありながら、森の一部として完全に調和し、むしろ周囲の森に活力を与えている。
エステリーゼは、市場とおぼしき広場で足を止めた。
そこには、信じがたい光景が広がっていた。
本来なら虐げられ、人間に憎悪を抱いてしかるべき獣人が、誇り高いドワーフが、そして少数だが人間の難民たちが、同じ空気を吸い、同じ屋台で笑い合っている。そこには、種族間の軋轢はおろか、支配者に対する恐怖の陰りすらない。
「いらっしゃい! 採れたての果実だよ! 森の恵みだ!」
「こっちの剣を見ていきな! ドワーフの親方が鍛えた逸品だ!」
活気。希望。そして、明日への確信。
腐敗し、人々が俯いて歩く聖レガリア王国とは、対極にある「生」の輝き。
エステリーゼの視線が、ふと一人のドワーフの老人に吸い寄せられた。彼が愛おしげに布で磨いている一本の剣。その刀身が放つ、夜明け前の空のような青白い輝きを見て、彼女は息を呑んだ。
噂に聞く、新素材。
ミスリルよりも軽く、アダマンタイトよりも硬いという『エーテル鋼』。王国の商人たちが血眼になって探している幻の金属が、ここでは露店で無造作に売られている。だが、賢者である彼女が見た「本質」は、その物理的な硬度や切れ味ではなかった。
(……物質としての『格』が違う。これは、自然界に存在する鉱脈から掘り出されたものではない。魔力によって万物の根源を分解し、再構築された……言うなれば『固形化した魔法』そのもの)
こんなものを量産できる存在がいるとしたら、それはもはや人ではない。神か、あるいは悪魔か。
本国の父王や元老院の老人たちは、「辺境の森に亜人が集まって、ごっこ遊びをしている」と鼻で笑い、調査団の報告も軽視していた。
だが、エステリーゼは確信した。
時代が変わる時は、いつだって緩やかには訪れない。雪崩のように、雷鳴のように、一瞬で旧い世界を押し流すのだ。
聖レガリア王国という大樹は、もう根腐れを起こしている。それにしがみついていれば、共に倒れるだけだ。
「……行きますよ」
彼女は小さく部下たちに合図を送る。
視線の先にあるのは、街の中央、天を突くようにそびえる白亜の宮殿。
あそこに、その「雷鳴」の主がいる。
名を、セレスティア・ノヴァルーナといったか。
追放された偽聖女にして、王国軍を沈黙させた謎多き統治者。
彼女が、我らエルフにとっての希望となるか、それとも森を焼き払う災厄となるか。王女としての誇りと、賢者としての責務を胸に、エステリーゼは雑踏の中へとその身を溶け込ませた。
◇◆◇
市場の賑わいが風に乗り、焼きたてのパンの香りとなって、街の中央にそびえる白亜の宮殿――その最上階にある執務室まで届いていた。
穏やかな陽射しが差し込む室内には、しかし、市場の喧騒とは異なる、冷徹な緊張感が満ちていた。
「――以前から監視していた『エルフの集団』が、ついに動きましたか」
私が問いかけると、デスクの前に控えていた諜報長官ルミナリスが、無表情に頷いた。
彼女の銀色の瞳は、獲物を追い詰めた狩人のように鋭い。
以前、湖での視察時に確認されていた数名のエルフたち。害意が見られなかったため、アザゼルの判断で泳がせていた「観察者」たちだ。
「はい。本日未明、彼らは認識阻害の魔術を用いて、居住区の深部へ侵入しました。……ただの視察ではありません。明らかに『中枢』を目指しています」
「王国軍が撤退した後ですからね。ただの傍観者ではいられなくなったのでしょう」
私は羽根ペンを置き、インクの乾いていない報告書に視線を落とした。
彼らがこのタイミングで動いた理由は明白だ。私たちが王国軍を退けたことで、この「集落」が無視できない勢力になったと判断したのだ。
「それで、ルミナリス。侵入者の規模と、戦力は?」
「総勢六名。そのうち五名は熟練の斥候として申し分ない動きですが……問題は、その中心にいる一名です」
ルミナリスの声が、一段低くなった。
「魔力の質が桁外れです。量はもちろんですが、その制御の精密さが異常なほどに洗練されています。結界のわずかな綻びを見つけ、そこを針の穴を通すようにすり抜けてくる手腕……ただの兵士や密偵のものではありません。相当な手練れ、いえ、高位の術士として名のある人物かと」
高位の術士。
その言葉に、ソファで退屈そうに短剣をもてあそんでいたアザゼルが、ピクリと反応した。
彼は興味なさげに欠伸を噛み殺しているが、その紅玉の瞳の奥には、侵入者に対する鋭い光が宿っている。
「ほう。……随分と面白そうな獲物が釣れたじゃないか。ただの鼠だと思っていたが、猫が化けていたか」
「彼らは、こちらの検問を魔術的に欺いています。私の配下である密偵たちの目をかいくぐる手際……油断なりません」
ルミナリスの報告を聞きながら、私は思考を巡らせる。
かつて私が生きた世界での経験――数多の組織を統べ、難局を乗り越えてきた「長」としての判断力が、瞬時に危険性と利を天秤にかける。
聖レガリア王国が自壊しつつある今、私たちに必要なのは「正当なる承認」だ。今はまだ、私たちは世界から見れば「謎の武装勢力」や「魔獣の森の集落」に過ぎない。
だが、歴史あるエルフの国と何らかの繋がりを持てれば?
大陸全土の勢力図が一気に塗り替わる。
「……向こうから来てくれたのは、好機です。こちらから出向けば足元を見られる。ですが、向こうが勝手に庭に入り込み、捕らえられたとなれば――」
「貸しが作れる、か。相変わらず性格が悪いな」
アザゼルがニヤリと笑い、立ち上がった。
その瞬間、部屋の空気が質量を持ったように重くなる。
「いいだろう。その高貴な迷い子に、誰の土地に足を踏み入れたのか、教えてやるとしよう。……役割は?」
「私が『主』、貴方が『守護者』。……いつもの通りに」
「承知した。我が主」
アザゼルが大げさに一礼する。その仕草に、私たちは微かな共犯者の笑みを交わした。
◇◆◇
陽が高く昇り、木々の影が最も濃くなる時刻。
建設されたばかりの「学び舎」の校庭に、一陣の風が吹き抜けた。
エステリーゼは、部下たちを周囲に散開させ、自身は校庭の隅にある木陰に身を潜めていた。
教室の中では、元教師のエルフ、エルミナが子供たちに歌を教えているのが見える。
獣人の子供が、人間の子供と肩を組んで笑っている。ドワーフの子供が、不器用そうに花冠を作っている。
美しい光景だった。あまりにも無垢で、眩しくて、エステリーゼの胸を締め付けるほどに。
(私の国でも、ここまで純粋な共生は実現できていない……。保守派のエルフたちは、他種族を見下し、森に閉じこもることを選んだ。……でも、この場所は違う。扉を開き、受け入れ、混ぜ合わせている)
これが、あの噂の「元・聖女候補」という統治者の器なのか。
あるいは、背後にいるとされる「黒い男」の圧倒的な武力がもたらした、かりそめの平穏なのか。
彼女が思考の迷路に入り込んだ、その時だった。
周囲の警戒に当たっていた部下の気配が、ふつり、と消えた。
悲鳴も、争う音もない。ただ、ろうそくの火を指先で摘んで消すように、唐突に存在だけがかき消されたのだ。
「――っ!?」
エステリーゼは背筋を凍らせ、即座に詠唱の構えを取ろうとした。
だが、遅かった。
彼女の喉元に、冷たい刃のような「視線」が突きつけられる。動けば、死ぬ。魔術を編む前に、首が飛ぶ。生物としての本能が、全身の毛を逆立てて警鐘を鳴らしていた。
「見学は自由ですが、コソコソとなさるのは感心しませんね。……森の都からの、お客様?」
背後から響いたのは、鈴を転がすような少女の声。
ゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのは、銀髪の美しい少女だった。豪奢なドレスではなく、動きやすさを重視したシンプルな白い衣服。だが、その佇まいは、どんな王冠よりも雄弁に彼女の身分を語っていた。
アメジストの瞳が、エステリーゼの認識阻害の魔術など存在しないかのように、その素顔を射抜いている。
そして、少女の隣には、漆黒の闇が凝縮したような青年が立っている。
彼だ。
彼が放つ威圧だけで、周囲に展開していた五名の精鋭護衛たちは、意識を刈り取られたのだ。殺されてはいないようだが、完全に無力化されている。
エステリーゼの脳裏に、いくつもの選択肢が浮かび、消える。
逃走? 不可能だ。この男の速度に勝てる想起が湧かない。
戦闘? 自殺行為だ。底が見えない。
誤魔化す? 『ただの旅人』で通すか? いや、高度な隠蔽魔術を使っている時点で、後ろ暗い調査員だと自白しているようなものだ。
残された道は、一つ。
エステリーゼは、賢者としての誇りを総動員して、震える膝を叱咤した。ここで逃げれば、ただの不法侵入者として処理される。もはや、身分を隠し通すことに意味はない。
対等な交渉の場に着くためには、虚勢でもいい、胸を張らなければならない。
彼女はゆっくりとフードを外し、その正体を露わにした。
陽光を浴びて輝く金緑色の髪。王族の証である額の刻印。長い耳が、微かに緊張で強張っている。
「……お初にお目にかかります。この地の、統治者殿」
エステリーゼは、その場で優雅に膝を折り、正式な礼を披露した。旅装でありながら、その所作は宮廷のそれと寸分違わぬ完璧なものだった。
「エルフィンディア森林国、第一王女。エステリーゼ・エルフィンディアと申します。……無粋な真似をして申し訳ありません。ですが、どうしてもこの目で確かめたかったのです」
王女。
その名乗りを聞いても、少女の表情は変わらなかった。まるで、相手が誰であろうと関係ないと言わんばかりに、あるいはその程度の身分の者が来ることを予期していたかのように。
「何を、確かめたかったのですか?」
「この場所が……貴女という存在が、我が国にとっての『希望』となり得るかどうかを」
少女の眉が、ピクリと動いた。
隣の黒い青年が、面白そうに目を細める。
「ほう。泥船から逃げ出した鼠が、随分と大きな口を叩く」
「鼠ではありません。……私は、未来を選びに来たのです」
エステリーゼは青年の殺気を真っ向から受け止め、少女を見据えた。
「場所を変えて、お話し願えますか? ……我が国と、貴方たちの勢力の未来について」
校庭に落ちていた陽光は、いつしか茜色に染まり、やがて夜の帳が静かに降りようとしていた。
場所を移したのは、宮殿の一室にある応接間だ。
窓の外には、夕暮れに染まる街並みが広がっている。だが、室内の空気は夜の闇のように重い。
対面に座る銀髪の少女。その背後に立つ黒髪の青年。
そして部屋の隅には、先ほどエステリーゼの部下たちを音もなく制圧したであろう、銀狼の女性と、黒髪の執事が控えている。
この部屋にいる戦力だけで、小国なら一夜で滅ぼせるだろう。エステリーゼは、冷えた指先を隠すように膝の上で組んだ。
「単刀直入に申し上げます」
エステリーゼは、出された紅茶には口をつけず、乾いた唇を湿らせて切り出した。
「我が国、エルフィンディア森林国は、聖レガリア王国との関係を見直し……貴方たちの勢力との友好的な関係を視野に入れています」
爆弾のような発言だった。
だが、少女は表情一つ変えない。紅茶を一口含み、カップをソーサーに置く。カチャリ、という陶磁器の触れ合う音が、部屋に冷たく響いた。
「……視野に入れている、ですか。随分と慎重な言い回しですね」
「父王は保守的です。まだ、聖レガリア王国との関係を断つことには反対しています。ですが、私は……そして私の周りの若き精霊術士たちは、気づいています。あの国がもう、終わっていることに」
エステリーゼは、熱を込めて語った。
聖レガリアの土地が枯渇し始めていること。精霊たちが去り、魔力の循環が滞っていること。そして、人々の心が荒廃し、内側から腐り落ちていく予兆。
「対して、この地は……美しい。魔力が澄み渡り、命が循環している。貴女が創り上げた循環の理は、私たちエルフの理想そのものです。……私たちは、貴女たちと手を結びたい。技術、文化、そして魔導の交流を通して、共に新しい時代を創りたいのです」
一気に語り終えたエステリーゼを、少女は静かに見つめていた。
やがて、彼女は口を開いた。
「素晴らしい提案です。ですが、一つ伺いたい。……貴女は、私たちを『何』と呼ぶおつもりですか?」
「え?」
エステリーゼは虚を突かれた。
「貴女は先ほどから、『この地』『貴方たちの勢力』と呼んでいる。……国として、認めているわけではないのでしょう?」
痛いところを突かれた。
確かに、エルフィンディアはまだ、この集落を「国家」として承認していない。地図上では、依然として「空白」のままだ。
「それは……現時点では、国家としての体裁や法整備が……」
「ありますよ。法も、秩序も、民も」
少女は遮った。
そして、居住まいを正し、凛とした声で宣言した。
「我が国は『ノヴァ・エデン帝国』。……私はその初代皇帝、セレスティア・ノヴァルーナです。友好を望むのであれば、まずはその認識を改めていただかなくては」
帝国。
その響きに、エステリーゼは息を呑んだ。
王国でも、公国でもなく、帝国。それは、多種族を束ね、広大な領域を支配する覇者の称号。この少女は、本気でこの大陸に覇を唱えるつもりなのか。
「失礼いたしました……セレスティア陛下」
エステリーゼは、改めて頭を下げた。相手の格を認めなければ、交渉は始まらない。
「では、改めます。ノヴァ・エデン帝国との友好を、希望いたします」
「理由は分かりました。ですが……」
セレスティアは冷徹な眼差しを向けた。
「世界はまだ、私たちを『国』とは認めていません。むしろ、貴女の言葉を借りるなら、私たちはただの『得体の知れない脅威』であり、地図上の空白に巣食う『魔窟』に過ぎません」
エステリーゼは息を呑んだ。少女は、自分たちの置かれている立場を正確に理解している。
「貴女が望むのは『血塗られた覇道』ですか? 力で世界をねじ伏せ、恐怖で支配する道ですか?」
エステリーゼは、賢者としての最後の切り札を切った。
「それとも……この地を、正当な『国』として世界に認めさせ、陽の当たる場所へ導く道ですか?」
セレスティアの目が、わずかに見開かれた。
「エルフィンディアは、大陸で最も歴史ある国の一つです。我々が貴国を承認し、友として手を繋げば……それは、貴女たちが『討伐されるべき魔物』ではなく、『対話可能な国家』であるという、最強の証明になります。このままでは、いずれ大陸中の国々が恐怖に駆られ、連合軍を組んで押し寄せるでしょう。……私が提供できるのは、『正当性』という名の盾です」
沈黙が降りた。
長く、重い沈黙。
セレスティアは目を伏せ、指先でカップの縁をなぞる。
彼女の中で、天秤が揺れているのが分かった。感情ではなく、理屈と未来を見据えた、冷徹な天秤が。
かつて、幾多の難題を裁いてきた彼女の魂が、最適解を導き出そうとしている。
やがて、彼女は顔を上げた。
「……悪くない提案です」
その言葉に、エステリーゼは安堵で崩れ落ちそうになるのを必死で堪えた。
「ですが、即決はできません。貴女が言う通り、これは国家の未来を左右する重大事です。それに、貴女が本当に国を動かせるのか、まだ証明されていません。……父王を説得できていない現状では、貴女との約束は『個人の口約束』に過ぎない」
セレスティアは立ち上がり、エステリーゼを見下ろした。
握手の手は、差し出されなかった。
「まずは、客分として滞在を許可します。この国を、その目でしっかりと見てください。そして、私たちも貴女を見極めます。……本当に背中を預けるに足る隣人なのかどうかを」
「……見極めの期間、というわけですね」
「ええ。ただし、条件があります」
セレスティアは指を三本立てた。
「一つ、行動範囲の制限。居住区と市場、学び舎への出入りは許可しますが、軍事施設、工房、そして地下の魔力の源泉への立ち入りは一切禁じます。
二つ、情報の持ち出しの禁止。見たもの、聞いたものを本国へ報告する際は、必ずルミナリスの検閲を受けていただきます。無断での通信魔法の使用が発覚した場合、即刻追放とし、以後の交渉はすべて打ち切ります」
厳しい条件だ。実質的な軟禁に近い。
だが、エステリーゼは頷いた。それだけの価値がある秘密が、ここにはある。
「そして三つ目。……これが最も重要です」
セレスティアの声が、一段低くなった。
「貴女と、貴女の部下たちには、『帝国の民に危害を加えない』という誓約魔法を受けていただきます。……もし、民を傷つけるような真似をすれば、その命で償っていただく」
殺気。
本気の警告だった。彼女にとって、民こそが逆鱗なのだ。
エステリーゼは、背筋を正し、深く頭を下げた。
「承知いたしました。……賢者の名にかけて、誓いましょう」
エステリーゼは苦笑しつつも、瞳に強い光を宿して顔を上げた。
「必ず、貴女を納得させてみせます。……覚悟していてくださいね、セレスティア陛下。私は、欲しいものは必ず手に入れる主義なのです」
「奇遇ですね。私もです」
二人の視線が交錯する。
火花が散るような、それでいて共鳴するような。
同盟は結ばれなかった。約束も、契約も、まだ何もない。
だが、確かに何かが始まった音がした。
アザゼルが、やれやれと肩をすくめた。
「面倒な女が増えたな」
「あら、アザゼル様。……貴方のその『魔王の気配』、私の国では嫌われますわよ? 少しは隠された方がよろしくてよ?」
「……ほう。口の減らない鼠だ。やはり今のうちに喰っておくか?」
一触即発の空気を、セレスティアが手を叩いて霧散させる。
「はいはい、そこまで。……ザラキエル、エステリーゼ様に客室を。ただし、監視付きでね」
「御意。……こちらへ、王女殿下」
エステリーゼは、恭しく一礼し、部屋を後にした。
扉が閉まる直前、彼女はもう一度だけ振り返った。
夕日に照らされたセレスティアとアザゼルの姿は、まるで神話の一ページのようで。
(……賭けは、まだ始まったばかりね)
彼女は小さく笑みをこぼし、廊下へと足を踏み出した。
夜の帳が下り、空には無数の星々が瞬き始めていた。
執務室のバルコニーで、セレスティアは夜風に吹かれていた。
眼下には、平和な帝国の夜景が広がっている。だが、その風景は昨日までとは少し違って見えた。
外からの視線。外交という名の新しい風。
「……よかったのか?」
隣に並んだアザゼルが、夜空を見上げながら問う。
「あの女は食わせ物だぞ。腹に一物も二物も抱えている。……同盟なんぞ結べば、面倒なしがらみに巻き込まれるのは目に見えている」
「ええ、分かっています」
セレスティアは手すりを握りしめた。
王女を受け入れるということは、彼女の国の問題――派閥争いや、他国との関係――を背負い込むことと同義だ。危険は高い。
それでも。
「私たちは、いつまでも森の中に隠れているわけにはいきません。……この国を、本当の意味で『帝国』にするためには、外の世界と向き合わなければならない」
彼女はアザゼルを見上げた。
「それに……彼女の目は、嘘をついていませんでした。この国を『美しい』と言った、あの言葉だけは」
「フン。……まあ、お前が決めたなら従うまでだ」
アザゼルはぶっきらぼうに言い、彼女の肩に自分の上着をかけた。
「だが、警戒は解くなよ。……背中は俺が守ってやるが、前を見るのはお前の役目だ」
「はい。……頼りにしています、宰相閣下」
上着に残る彼の体温に包まれながら、セレスティアは西の空を見つめた。
そこには、分厚い雲に覆われた聖レガリア王国があるはずだ。
かつての故郷。彼女を捨てた国。
そして今、新しい隣人が手を差し伸べてきた。
世界が、動き出した。
もう、後戻りはできない。
女帝として、この国の舵を、未知なる海原へと切る時が来たのだ。
夜空の星々が、冷たく、しかし力強く瞬き、二人の行く末を見守っていた。




