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第19話 虚飾の崩壊

 

 夜明けの光が、石畳の冷たさをゆっくりと温もりへ変えていく頃、ノヴァ・エデン帝国を覆っていた夜の帳が剥がれ落ちた。地下避難所の分厚い鉄扉が、錆びた蝶番の軋みを上げることなく滑らかに開かれると、そこから湿った土の匂いと共に、息を潜めていた民たちが地上へと吐き出された。彼らは眩しそうに目を細め、あるいは鼻翼を震わせて外気を確かめる。彼らの瞳に宿るのは、勝利の熱狂などではない。ただ、見慣れた我が家が、踏みしめる大地が、傷一つなく其処にあるという事実を噛みしめる、重厚な安堵であった。


 その群衆の中に、一人の獣人の母親がいた。兎族の彼女は、胸に抱いた幼子を、昨晩から一度も離さずにいたため、腕の感覚が麻痺し始めている。昨夜、警報が鳴り響いた時、彼女の脳裏をよぎったのは「またか」という絶望だった。故郷を焼かれ、逃げ惑い、ようやく辿り着いたこの地もまた、炎に包まれるのだと確信していた。だからこそ、彼女は避難所の隅で、子供の目と耳を塞ぎ、最期の瞬間がどれほど痛むのか、そればかりを想像して震えていたのだ。


 けれど、朝は来た。


 彼女は恐る恐る、我が子の頬に触れる。温かい。柔らかい。そして、広場の向こうに見える我が家の煙突からは、昨日と変わらない角度で影が伸びている。


「……生きてる」


 言葉にならぬ吐息が漏れる。誰かが剣を振るう音も、悲鳴も、肉が焼ける匂いもしなかった。ただ静寂のうちに、死の予感が遠ざけられたのだ。彼女はその場にへたり込み、麻痺した腕でさらに強く子を抱きしめた。涙は出なかった。あまりに巨大な守護を前にして、感情の処理が追いつかなかったのだ。


 その穏やかな静けさこそが、彼女にとっての何よりの救いだった。


 広場の隅、鍛冶工房の軒先では、初老のドワーフが太い腕を組んで空を見上げていた。彼の足元には、昨夜のうちに研ぎ澄ませた戦斧が転がっている。かつて傭兵として戦場を渡り歩いた彼は、血の匂いには敏感だ。五千の軍勢が迫れば、風向きが変わるだけで殺気が肌を刺すものだと知っている。だが、昨夜の空気は異様だった。殺気は確かにあった。だが、それは結界という巨大な壁に阻まれ、波が岩に砕けるように霧散した。


 彼は足元の戦斧を拾い上げる。ずしりと重い。この重さは、本来なら敵の頭蓋を砕くためのものだ。だが今、その重さは「無用」であるがゆえの安堵へと変わっている。


「……出番なしかよ」


 呟きは憎まれ口のようだったが、その口元は緩んでいた。彼は戦斧を布で包み直し、工房の奥へと放り投げる。カラン、と乾いた音が響く。その音こそが、この国における「平和」の宣言だった。


 羊族の老夫婦は、避難所から出るなり、背負っていた大きな荷物を下ろそうともせず、呆然と互いの顔を見合わせていた。彼らの荷袋の中身は、数日分の干し肉と水、そして着替えだけだ。いつでも逃げ出せるように。何かあればすぐに捨てて走れるように。それが、彼らが長い放浪の中で身につけた、悲しい習性だった。


 だが、今朝の陽光の下で、その荷物はあまりにも滑稽で、そして愛おしいほどに無意味だった。


「じいさん、荷解きだね」

「ああ、そうだな。……どうやらここは、逃げるための場所じゃあなかったようだ」


 老人が背中の荷を降ろすと、重みから解放された背骨がポキリと鳴った。その音に二人は顔を見合わせ、皺だらけの顔をくしゃくしゃにして笑い合う。生活の音が一つ、また一つと積み重なっていく。井戸のつるべが水を汲み上げる音、箒が石畳を掃くリズミカルな音。それらの音は、彼らの心の奥底にあった「いつかまた追われるのではないか」という根源的な怯えを、ゆっくりと、しかし確実に溶かし始めていた。


 その安堵の波紋は、広場だけにとどまらず、帝都のあらゆる場所へと静かに染み渡っていた。


 帝国医療院――


 広場から少し離れた白亜の建物の中にも、異質な静寂が満ちていた。

 医療院長のフィーアは、真っ白なリネンが敷き詰められた二十床のベッドの間を、亡霊のように音もなく歩いていた。彼女の指先が、糊の効いたシーツの端をなぞる。ひやりとした感触が指紋の溝に染み込み、そこにあるはずのない血の温かさを錯覚させる。

 昨晩、彼女は戦慄していた。五千の軍勢。魔法の撃ち合いになれば、前衛の兵士はもちろん、流れ弾を受けた民たちが次々と運び込まれてくるだろう。火傷、裂傷、切断、そして絶命。彼女が持つ『時間遡行治癒』は、死後数分以内であれば蘇生さえ可能にする禁断の御業だ。だからこそ、彼女は覚悟を決めていた。自分の魔力が枯れ果て、意識が焼き切れるまで、命の時間を巻き戻し続ける地獄のような夜になるだろうと。


 そのために用意した大量の包帯の山は、一度も解かれることなく棚に積まれている。調合した痛み止めや止血薬の入ったガラス瓶は、朝陽を浴びて宝石のように煌めくだけで、一滴も消費されていない。

 フィーアは立ち止まり、震える手で自身の白衣を握りしめた。

 かつて聖女教会にいた頃、彼女は「癒やしの道具」だった。怪我人が出れば叩き起こされ、感謝されることもなく魔力を搾り取られた。けれど昨夜、セレスティアが作り出した結界は、彼女から「出番」を奪い去ったのだ。

 それは彼女にとって、自身の存在意義を問う空白であると同時に、生まれて初めて味わう「許し」にも似た安息だった。


「……誰も、痛くないのね」


 ぽつりと漏らした言葉が、誰もいない病室に吸い込まれる。

 その時、廊下の奥から、何かを引きずるような重たい音が聞こえてきた。ズリ、ズリ、という音と共に、扉が緩慢な動作で開かれる。

 現れたのは、金狐族の少女、ソラリスだった。

 普段であれば重力に逆らってふわりと広がっているはずの自慢の九尾が、今は濡れた雑巾のように床に投げ出されている。黄金色の毛並みは艶を失い、トレードマークの狐耳もぺたりと頭に張り付いていた。


「……フィーア。お腹、すいた」


 開口一番、ソラリスが発したのは子供のような訴えだった。彼女はよろめく足取りで一番手前のベッドに倒れ込むと、そのままスプリングの反発に身を任せて天井を仰いだ。


「お疲れ様、ソラリス。結界の維持、大変だったでしょう」

「ん……大変だった。魔力はね、そんなに使ってないの。セレスティア様の構築式が完璧すぎて、九尾を解き放っても、ただの予備の器みたいなものだったし」


 ソラリスは天井のシミを指でなぞるように空中に手を伸ばし、力なく笑った。


「でもね、怖かったの。神経が、すり減っちゃった」

「怖かった?」

「うん。結界越しにね、伝わってくるの。五千人の人間の、ドロドロした悪意が」


 ソラリスの瞳が、僅かに揺らいだ。

 彼女たち亜人は、人間から理不尽な暴力を受け続けてきた。森に隠れ住み、怯えて暮らしていた記憶は、そう簡単に消えるものではない。昨夜、結界の膜一枚を隔てて向かい合ったのは、かつて彼女たちを狩り立てた「恐怖」そのものだったのだ。


「『殺せ』『燃やせ』『奪え』……そんな声が、結界を叩く振動と一緒に、直接頭の中に響いてきて……私、逃げ出したかった。アザゼル様が隣にいなかったら、きっと叫んでた」


 ソラリスは体を丸め、自身の豊かな尻尾を抱き枕のように抱え込んだ。その姿は、帝国魔法研究所長という要職にある賢者ではなく、ただの怯える少女に戻っていた。


 フィーアは無言でサイドテーブルのポットを傾け、カップに温かいハーブティーを注いだ。カモミールの甘い香りが立ち昇り、薬品の匂いが充満していた病室の空気を優しく塗り替えていく。


「はい。蜂蜜を多めに入れておいたわ」

「……ありがと」


 ソラリスは起き上がり、両手でカップを包み込むようにして口へ運ぶ。一口飲むごとに、強張っていた肩の力が抜け、垂れていた狐耳が少しだけピクリと動いた。


「……甘い」

「そうね。甘いわね」


 フィーアも自身のカップを手に取り、隣のパイプ椅子に腰を下ろした。

 二人はしばらくの間、言葉を交わさなかった。ただ、カチコチと時を刻む時計の音と、カップを置く陶器の音だけが、平和なリズムを刻んでいる。


「ねえ、フィーア」


 カップの底を見つめながら、ソラリスが呟いた。


「私たち、勝ったんだよね?」

「ええ。完全勝利よ。怪我人はゼロ、損害もゼロ」

「そっか。……なんか、変な感じ。勝つって、もっとこう、必死で魔法を撃ち合って、誰かが倒れて、泥だらけになって掴み取るもんだと思ってた」

「私もよ。私が知っている戦争は、運び込まれる悲鳴と、床を流れる血の掃除で終わるものだったから」


 フィーアは窓の外へ視線を向けた。ガラス越しに見える広場では、兎族の親子が抱き合い、ドワーフたちが笑い合っている。その光景は、彼女が教会で教わった「神の加護」などよりも、遥かに尊く、温かいものに見えた。


「でも、これがセレスティア様の戦い方なのね」


 フィーアの声には、深い畏敬が滲んでいた。


「敵を倒すのではなく、敵意そのものを無力化する。誰かを傷つけることで守るのではなく、誰も傷つけさせないことで勝つ。……私たちの出番がなかったことこそが、彼女の最強の証明だわ」

「……うん。お姉ちゃんも言ってた。『暇なのが一番の贅沢だ』って」


 ソラリスは飲み干したカップを置き、ベッドの上で大きく伸びをした。骨がポキポキと鳴り、彼女の体に生気が戻ってくる。


「あーあ! なんか悔しいな! こんなことなら、もっと美味しいお菓子でも用意して、優雅にお茶会しながら監視すればよかった!」

「ふふ、次はそうしましょう。ティルラにお願いして、特製のスコーンを焼いてもらいましょうか」

「賛成! 絶対そうする!」


 無邪気に笑うソラリスを見て、フィーアもつられて微笑んだ。

 彼女たちの心に残っていた古傷――役立たずと罵られ、追放された過去の痛み――は、この静かな朝の光の中で、かさぶたとなって剥がれ落ちていくようだった。

 ここはもう、彼女たちが消費される場所ではない。彼女たちの力が「必要とされない」ことが、何よりの幸福として許される場所なのだ。


 フィーアは立ち上がり、未使用のまま積まれた包帯の山に、そっと「お休み」と告げるように布をかけた。

 その白さは、もはや死装束の色ではない。これから始まる、新しい日常のキャンバスの色だった。


 同じ朝霧が、白亜の病室の窓を濡らし、遠く離れた宮殿のバルコニーにも静かにまとわりついていた。

 その静けさは、宮殿の高みへも等しく満ちていた。


 中央宮殿――


 バルコニーに立つ私の肌を、朝霧を含んだ風が撫でる。その湿り気は、焼きたてのパンや沸き立つスープの香りを微かに孕んでいた。隣に立つアザゼルの気配が、朝陽よりも鮮明に私の輪郭を支えている。彼は欄干に手を置き、その視線を眼下の営みへと注いでいた。


「……良い顔をしているな」


 アザゼルの唇から零れた言葉は、風音に混じりそうなほど低い。それは単なる感想ではなく、長い時間を孤独の中に生きた者だけが漏らすことのできる、確認の響きを含んでいた。私は彼を見上げず、広場の隅で荷物を解く老夫婦の背中を見つめたまま問い返す。


「そうですか? 疲れ切って、泥のように眠りたい顔に見えるかと思っていましたけれど」

「民の方だ。あいつらは分かっている。剣を抜き、血飛沫を浴びて勝ち取る栄光など、今のこの国には不要だと」


 アザゼルは手すりに体重を預け、紅玉のような瞳を細めた。


「血を流さずに敵を退ける。それがどれほど困難で、王としての器を問われることか。……かつて力で制圧し、恐怖で統治しようとして失敗した俺には分かる」

「買い被りすぎです。私はただ、効率的な選択をしただけ。……修理費も、治療費も、埋葬の手間もかからない。それが一番、国益に適うでしょう?」

「その『効率』が、五千の兵の命を救い、ここにいる千五百の民の心を救った。……へらず口を叩くな。誇っていい」


 彼の手が私の髪に触れ、風に乱れた銀の一房を優しく耳にかける。その指先の熱に、張り詰めていた神経が僅かに緩んだ。私は肺の奥まで清浄な空気を吸い込み、統治者としての仮面を内側から丁寧に張り直す。


「……感傷はここまでですね。皆が待っています」

「ああ。行こうか、女帝陛下」


 私たちは執務室へと戻った。重厚な扉の向こうには、既にザラキエルたちが控え、次なる業務の指示を待っていた。彼らの表情もまた、昨夜の張り詰めたものから、日常の実務者としての顔へと戻っている。平和とは、滞りない日常の積み重ねによってのみ維持される巨大な機構だ。私はその歯車の一つとして、今日なすべき決済書類の山へと視線を落とした。


 私たちが築く帝国の上空を、太陽は慈悲深く照らしていたが、その同じ太陽が、魔獣の森を抜けて敗走する五千の兵にとっては、嘲るような灼熱の眼差しとなって降り注いでいた。


 魔獣の森・外縁部――


 森の出口付近、鬱蒼とした木々が途切れた先で、聖レガリア王国軍の行軍は泥のように重く淀んでいた。一睡もしていない兵士たちの顔色は土気色で、瞳の下には濃い隈が刻まれている。鎧の隙間に染み込んだ汗が不快な蒸れとなり、兜の下の皮膚を焼く。擦れた革帯が肌を食い破り、水膨れが潰れる痛みが一歩ごとに走るが、彼らの歩みを鈍らせているのは肉体的な疲労ではなかった。


 彼らの脳裏に焼き付いて離れないのは、「理解不能な現象」への根源的な恐怖であった。


 行軍の中ほどで、若い兵士が突然、悲鳴を上げて首元を掻きむしった。


「砂だ! 砂が入ってくる!」


 隣を歩く古参兵が慌てて彼の手を押さえつける。


「落ち着け! 砂なんてどこにもねぇ!」

「嘘だ! 鎧の中に、口の中に、砂がいっぱい詰まってるんだ! あの時みたいに、俺も砂にされるんだ!」


 若い兵士の目は血走り、焦点が定まっていない。昨夜、最前列で剣が崩れ落ちる様を目撃した彼は、その瞬間から、自分の肉体もまた脆い砂上の楼閣に過ぎないという強迫観念に囚われていた。水を飲んでも、ジャリリと砂を噛む音がする。肌に触れる風さえもが、皮膚を削り取るヤスリのように感じられるのだ。


 狂気は、静かな波紋のように広がっていた。


 ある小隊では、休憩のたびに全員で祈りを捧げていたが、その祈りの言葉はひどく早口で、何かに追い立てられるようだった。


「神よ、我らを守りたまえ。悪魔の目から、魔女の呪いから……」


 だが、いくら祈っても、森のざわめきが止むことはない。風が木々を揺らす音が、女の嘲笑のように聞こえる。鳥のさえずりが、呪詛の詠唱に聞こえる。


「神はいねぇよ」


 誰かがポツリと漏らした。


「見ただろ、あの結界を。千人の魔法を吸い込んだんだぞ。神様の加護があんな化け物に通用するわけねぇ」


 その言葉は、彼らが信じてきた「正義」の崩壊を意味していた。聖レガリア王国軍こそが正義であり、神に守られているという前提が、昨夜の無音の敗北によって根底から覆されたのだ。


 神に見放された兵士たちは、もはや軍隊としての体をなしていなかった。隊列は乱れ、命令に対する反応は鈍く、誰もが虚空を見つめながら、自分の影に怯えて歩を進めていた。


 彼らは撤退しているのではない。ただ、正気の世界から逃げ出しているだけだった。


 その崩壊の連鎖は、軍の頂点に立つ男をも蝕んでいた。


 隊列の先頭を行くレオンハルト・ソル・レガリア。豪奢な馬具を纏わせた愛馬の上で、彼は手綱が千切れんばかりの力で拳を握りしめていた。


 体調は最悪だった。馬の揺れに合わせて、胃の腑から酸っぱいものがせり上がってくる。


「うっ……」


 レオンハルトは口元を手で覆い、込み上げる嘔吐感を無理やり飲み下した。胃液が喉を焼き、口の中に鉄錆のような味が広がる。額からは脂汗が止まらず、拭っても拭っても不快な粘り気が肌に張り付いた。視界の端がチカチカと明滅し、耳の奥ではキーンという高周波の耳鳴りが止まない。


(なんだ……これは。なぜ、私がこんな目に……)


 脳裏に浮かぶのは、月明かりの下で見下ろしてきたセレスティアの瞳だ。冷徹で、理知的で、そして恐ろしいほどに澄んでいた瞳。


 不意に、彼の記憶の底から、一つの情景が浮かび上がった。


 まだ婚約破棄をする前、執務室で夜遅くまで書類仕事をしていた時のことだ。セレスティアが淹れてくれた紅茶。完璧な温度、完璧な香り。そして、整理された書類の山。


『レオンハルト様、少しお休みになっては?』


 あの時の彼女の声は、優しかったのではないか? 彼女は、本当に無能だったのか? もし、あの時、私が彼女の手を取っていたら――。


「――ッ!?」


 レオンハルトは激しく頭を振った。馬が驚いて嘶く。何を考えている。あの女は魔女だ。国を欺いた大罪人だ。あの完璧な振る舞いも、紅茶の味さえも、すべて私を油断させるための演技だったのだ。そうだ、そうでなくてはならない。


「……違う。違う、違う、違う!」


 彼は荒い息を吐きながら、自分自身に言い聞かせる。


「騙されんぞ。あいつは、私の人生を狂わせるために現れた悪魔だ。私の判断は間違っていなかった。追放したのは正解だったのだ……!」


 その思考は、もはや論理ではなく、崩れそうになる自我を支えるための唯一の柱だった。もし自分の過ちを認めてしまえば、五千の兵を無駄に動かし、国に泥を塗った責任はすべて自分に降りかかる。それだけは、王族としてのプライドが許さない。


 だからこそ、彼は現実をねじ曲げる。セレスティアが優秀であればあるほど、彼女は「強大な悪」でなければならないのだ。


「殿下……」


 側近のヴァルドリックが馬を寄せ、怯えた声で沈黙を破った。


「王都への報告ですが……なんと伝えればよろしいでしょうか」

「……」

「『魔獣の森に強力な結界があり、侵攻不可能だった』としますか? それとも『偽聖女が禁術を用いた』と……」

「黙れ」


 レオンハルトが吐き捨てた声は、枯れ木が折れるように乾いていた。


「黙れと言っている!」

「ひっ……申し訳ございません!」

「報告など、どうとでもなる。……あれは、罠だ」


 彼は歪んだ唇で、呪文のように繰り返す。


「セレスティアは魂を売り、人ならざる力を得た魔女だ。我々は、その邪悪な儀式の準備が整う前に、一時撤退したに過ぎない。……次は、国を挙げての聖戦だ。教会も、父上も、魔女討伐となれば動かざるを得ない」


 彼の瞳には、狂気に似た昏い執着の火が灯っていた。かつてのセレスティアへの微かな未練や後悔は、歪んだ自己防衛本能によって塗り潰され、どす黒い殺意へと変質していた。王都の尖塔が遠くに霞んで見える頃には、彼は完全に「悲劇の英雄」を演じる準備を整えていた。魔女に立ち向かい、生還した唯一の男として。


 聖レガリア王国・大聖堂――


 その執着の炎が向けられた先、王都の中心に鎮座する大聖堂の奥深く。


 かつては百合や薔薇の香りに満ちていた「聖女の私室」は今、窓が閉め切られ、澱んだ空気が重く滞留している。床には粉々に砕け散った高価な花瓶の破片が散乱し、水を含んだカーペットからはカビのような湿った臭いが立ち上っていた。


 部屋の中央、大きな姿見の前で、ミレイユ・ノヴァルーナは膝をつき、通りがかった侍女に向けて金切り声を上げていた。


「水よ! 喉が渇いたと言っているでしょう! 早く持ってきなさい!」


 喉が張り裂けそうなほど叫んでも、その声は廊下に吸い込まれて消えていく。掃除用具を手にした侍女は、冷ややかな視線を一瞥投げただけで、足も止めずに通り過ぎていく。かつてなら、ミレイユが指先を動かしただけで数人の侍女が飛んできて、最上の果実水やハチミツを捧げたものだった。だが今は、誰も彼女を見ない。いや、見ているのだが、そこには「人間」を見る目がない。あるのは、壊れた家具を見るような、無関心と軽蔑だけだ。


「……聞こえないの? 私は聖女よ! この国の希望なのよ! レオン様が帰ってきたら、全員処刑してやるんだから!」


 叫び疲れたミレイユは、床にへたり込む。


「『元』聖女様、でしょう?」


 廊下の向こうから聞こえた、侍女同士の囁き声。その冷淡な言葉が、ミレイユの胸を鋭利な刃物のように刺し貫いた。


 彼女は震える指先で、自身の頬に触れる。そこには、昨日の広場で民衆から投げつけられた石礫の痕が、赤黒く腫れ上がって残っていた。ズキズキとした痛みが、現実を教えようとする。だが、ミレイユの心はその現実を拒絶していた。


 彼女は両手を組み、祈るようなポーズを取る。そして、体の中から魔力を絞り出そうとする。


 ――出ろ。出なさいよ。


 かつては、願うだけで温かい光が溢れ、人々は涙を流してひざまずいた。自分は特別な存在で、世界中から愛されるために生まれてきたはずなのだ。それなのに、今の彼女の中にあるのは、乾ききった井戸の底のような、冷たく空虚な穴だけだった。いくら力を込めても、指先からは蛍の光のような微弱な魔力さえ漏れ出さない。


 不意に、背後の分厚い樫の扉が無機質な音を立てて開かれた。入ってきたのは、教会の事務官だ。白い法衣に身を包んでいるが、その目は事務的に冷え切っている。


「見苦しいですよ、ミレイユ様」

「な、なによ……ノックもしないで」

「枢機卿がお呼びです。直ちに出頭するように」


 事務官の声には、敬意も敵意もなかった。ただ、不要な在庫を処理するような淡々とした響きがあった。


「い、嫌よ……会いたくない……! レオン様は? レオン様はまだ帰らないの!?」

「殿下は遠征中です。貴女を庇う方は、もうこの王城には誰一人おりませんよ」

「嘘よ……嘘よッ! 私が何をしたっていうの! 私は被害者なのよ!」


 ミレイユは爪を立ててカーペットを引っ掻く。なぜ、誰も分かってくれないのか。自分は悪くない。悪いのは、あの日森に捨てられた義姉だ。


「お姉様が……あの陰気な女が、全部奪っていったのよ……! 私の力を盗んだのよ! 泥棒! 返してよ、私の聖女の座を返してよぉ!」


 涙で化粧が崩れ、醜く歪んだ顔で彼女は喚き散らす。だが、事務官は眉一つ動かさなかった。


「独り言は査問会で伺います。さあ、立ってください」


 事務官の合図で、無表情な衛兵二人が部屋に入ってくる。ミレイユが抵抗する間もなく、その細い腕が乱雑に掴み上げられた。まるで屠殺場へ引かれる家畜のように、彼女は引きずられていく。床の絨毯が擦れる低い音だけが、彼女の抵抗の無意味さを際立たせていた。


「離して! 私は聖女なの! 選ばれた特別な存在なのよぉッ! お願い、誰か助けて! レオン様ぁぁぁッ!」


 聖女の仮面が剥がれ落ちた少女の絶叫は、分厚い扉が閉ざされる重い音と共に断ち切られ、誰の耳にも届くことはなかった。そこに残されたのは、砕けた花瓶と、腐りかけた花弁、そしてかつてここにあった栄華が、もはや二度と戻らないという冷徹な静寂だけであった。

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