第18話 静寂の底で
月が、森の木々の向こうへ沈みかけている。ノヴァ・エデン帝国の中央宮殿、最上階の執務室。窓から差し込む月明かりが、机の上に積まれた羊皮紙を青白く照らしていた。インクの匂いはいつも通りだが、その奥に、かすかな湿りが混じる。土と枯れ葉が崩れていく匂い。魔獣の森が吐く、生と腐朽の境界線。
私、セレスティア・ノヴァルーナは、報告書の数字を追いながら羽根ペンを走らせていた。受理した難民の数、食料の備蓄量、建設の進捗。前世でプロジェクトマネージャーとして、過不足のない数字を積み上げていった日々と重なる。違うのは、今は私の意志で止められることだ。誰かの顔色ではなく、誰かの都合ではなく、この国の呼吸のために、必要なだけ働ける。
書類から目を上げると、帝国の街並みが眠っている。石造りの家々、整った街路、中央広場の噴水。錬成術で形にしたものが、今は暮らしの器になっている。さらにその外側を、アザゼルとザラキエルの結界が包む。目に見えない壁が、世界の悪意を拒む皮膚として働いている。
静寂が満ちていた。静寂という言葉が、ようやく恐れを伴わずに口の中で転がる。羽根ペンを置き、背もたれに体を預けると、革張りの椅子が小さく軋んだ。肩の奥に溜まった疲労が、遅れて自覚になる。休むべきだ。明日も、やるべきことは山積み。そう結論を出し、立ち上がろうとした瞬間だった。
扉が勢いよく開け放たれ、取っ手が壁に当たる鈍い音が執務室を揺らした。ザラキエルが立っている。いつもの穏やかな執事の仮面が剥がれ、黒い瞳だけが研ぎ澄まされていた。三千年を生きた竜の、静かな警戒の深さがそこにある。
「主よ」
低い声が、室内の空気を一段重くする。
「結界に、大規模な反応がございます」
皮膚の内側を冷たい水が走ったように感じた。顔に出すのは後だ、と前世の癖が先に働く。
「どういうことですか」
問い返した声は落ち着いていたはずなのに、胸の内側だけが速い。ザラキエルは執務室へ滑り込み、手をかざす。掌の上に小さな水晶球が生まれ、その中へ暗い森が映り込む。魔獣の森。闇を裂く松明の列が、一本二本ではなく、帯になって流れている。百や二百の規模ではない。火の点の密度だけで分かる。人の集団、しかも整った歩調。
「敵意の明確な集団が、帝国へ接近中です。規模は、およそ五千。装備から判断して、正規軍」
五千。数字が脳の奥で鈍く鳴った。偶然が許される範囲を越えている。誤解でも暴発でもない。意図を持った侵略。私は水晶球の映像を見つめ、火の帯が森を削るように進む様子を、目の奥に刻む。
「聖レガリア王国、ですか」
ザラキエルが頷いた。
「旗印は未確認ですが、装備の様式が一致しております」
水晶球の映像が拡大され、先頭の騎馬が浮かび上がった瞬間、喉が硬くなる。月明かりに照らされた金髪の青年。馬上で剣を掲げ、周囲に命令を投げる癖のある肩の角度まで見える。
レオンハルト・ソル・レガリア。
追放の宣告を口にした、その男。
「……ついに来ましたか」
驚きより、予測が当たったという冷えた確定が先に出る。帝国の存在は広まっている。亜人たちが流れ込み、王国から人が消えた。エーテル鋼の噂が経済を揺らし、王国の内側を軋ませた。動かない理由が、彼にはない。
「現在位置は」
「結界外縁まで、あと二刻ほど」
二刻。およそ四時間。時間の枠が与えられたなら、やるべき順序は組める。前世の血が、緊急対応の手順を無感情に並べていく。
「ザラキエル。全員を招集してください。今すぐに」
「御意」
ザラキエルが身を翻し、執務室を出ようとした瞬間、空間が僅かに歪んだ。光が滲むように広がり、次の瞬間には男が立っている。漆黒の髪、紅い瞳。時空転移。アザゼルの術が、空気の層を跳び越えて私の前へ彼を置いた。
「……聞こえた」
瞳が真っ直ぐに私を射抜く。いつもの冷静さの底に、細い怒気が混じっているのが分かる。
「レオンハルトか」
「ええ」
頷くと、アザゼルが一歩近づく。会話の距離としては近い。だが、この距離の狭さが今は不快ではない。彼の手が私の肩に触れた。重みと温度が、心臓の騒ぎだけを少し静める。
「お前は、俺が守る」
命令ではない。決めてしまった者の声。私は息を整え、視線を逸らさない。
「ありがとうございます、アザゼル。でも、私も戦います。この国は、私の国ですから」
彼の瞳が揺れる。笑うというより、口角が僅かに持ち上がるだけの変化。それが彼の肯定の形だ。
「……そうだな。お前は、そういう女だった」
ザラキエルが咳払いをして、場の温度を戻す。
「では、私は他の方々を」
「お願いします」
ザラキエルが扉の向こうへ消えると、執務室に残るのは私とアザゼルだけになる。深夜の静けさが戻るが、さっきまでの静けさとは別物だ。空気が張り、音が触れる。
「恐れているか」
アザゼルが問う。私は首を横に振った。正確には、恐れはある。ただ、それを恐れと呼んでしまえば、手が遅れる。
「あなたがいるから」
言葉が出た瞬間、自分の胸の奥で何かが落ち着いた。彼の瞳が僅かに見開かれ、次に両肩を掴まれる。掴むというより、逃がさない確認。
「セレスティア」
「はい」
「何があっても、俺はお前の隣にいる」
過剰な甘さはない。約束の短さだけが、強い。私は息を一つ置いて返した。
「……私も。あなたの隣にいます」
視線が絡み、時間の感覚が薄れる。だが、扉のノックが現実を引き戻した。仲間たちが入ってくる。ガルディウスの盾が月光を受け、金属の傷が淡く光る。フィーアの緑の髪が揺れ、目の奥に覚悟が灯っている。ルミナリスの銀の耳が張り、ソラリスの尾は緊張でわずかに逆立っていた。人数が揃うというより、役割が揃っていく感覚がある。
ザラキエルが水晶球を再び掲げ、映像が室内に大きく投影される。森を進む松明の帯。五千という数字が、光の密度で再確認される。
「……五千」
ガルディウスが低く吐く。
「本格的な侵攻です」
フィーアが問いかける声は震えを含むが、逃げではない。
「聖レガリア王国の正規軍でしょうか」
ルミナリスが映像から目を離さず答える。
「装備を見る限り、精鋭だ。……こっちを潰す気で来てる」
ソラリスが息を呑み、言葉を探す。
「でも、五千って……私たち……」
私は彼女の声を切るのではなく、支えるように入れた。
「落ち着きなさい、ソラリス。数は事実、恐れは選べる」
室内の視線が私へ集まる。私は一人ひとりを見て、命令ではなく、役目を渡す。
「ガルディウス。民を地下避難所へ。最短の動線で、混乱を作らない。声を荒げないで」
「了解しました」
「フィーア。医療院の準備。薬草と包帯、それと治癒魔法の当番を組んで」
「はい」
「ルミナリスとソラリス。結界の監視と魔力供給。結界の“感触”が変わったら、すぐに私へ」
「了解」
「了解です……!」
「ザラキエルは中核維持。結界の癖が出たら、私に言いなさい」
「御意にございます」
最後に、私はアザゼルを見る。
「アザゼル。あなたは私と前線へ」
彼が笑う。
「それ以外があるとでも?」
全員が動き出す。躊躇がないのは、勇気のせいだけではない。手順があるからだ。前世で得られなかったものが、今はある。信頼と分担。その価値を噛み締める暇はないが、胸の奥に沈む重みは、確かに支えになる。
執務室に残った私とアザゼルは、言葉を短く交わすだけで歩き出した。彼が私の手を取る。温もりが、指の骨にまで染みる。
中央広場は深夜にもかかわらず、人で満ちていた。千五百を超える民が、整然と集まり、目だけが騒いでいる。獣人、エルフ、ドワーフ、人間。種族の違いよりも、居場所を守りたいという同じ緊張が、肌の表面を引き絞っていた。月明かりが広場を青くし、噴水の水音だけが妙に大きい。
私は噴水の前に設けられた簡易の演台へ上がった。アザゼルが隣に立つ。彼が立つだけで、背中側の空気が一枚厚くなる。
「皆さん」
声を張り上げない。届く高さで、削るように言う。
「森からこちらへ向かう軍が確認されました。数は五千。相手はこの国を試しに来たのではありません」
ざわめきが広がりかける。私は次の言葉で押さえる。
「今から皆さんは、ガルディウスの誘導に従い、地下避難所へ移動してください。荷は最小。子どもと怪我人を先に。扉の前で立ち止まらない。互いの肩を押さない」
命令の形にして、恐れの形を整える。
「外で起きることは、私たちが引き受けます。皆さんの仕事は、今夜生き延びることです」
沈黙が落ちる。次に、拳が上がった。声はない。だが、千五百の腕が同じ方向を指す。無言の同意。無言の託し。私は頷いた。言葉より、この沈黙のほうが強い。
ガルディウスが動き、民が流れる。秩序を保ったまま、人の群れが地下へ吸い込まれていく。最後の背中が消え、広場に残ったのは私とアザゼルだけになった。風が吹き、銀髪が頬をかすめる。彼の黒髪も揺れ、夜の匂いを切った。
「準備はいいか」
「ええ」
私は手を差し出す。彼が指を鳴らすと、空間が折れ、足元の石畳が消えた。転移。次の瞬間、私たちは帝国外縁、結界の内側に立っている。
森の奥は暗く、月明かりも枝葉に裂かれて届かない。湿った土の匂いが濃い。結界は目に見えないが、肌が覚えている。薄い膜ではない。厚い壁。触れれば拒む意思がある。
向こうから音が来る。地鳴りに似た、しかし地鳴りより規則正しい音。無数の足音。鎧が擦れる金属音。馬の鼻息。鞍の軋み。軍が生む音は、自然の音とは違う。迷いがない。命令で進む音。
「……来るぞ」
アザゼルが呟いた。私は両手を前にかざし、錬成術の回路を意識の中で組む。発動の準備ではない。判断のための準備。必要な最小の一手で、最大の結果を取る。統治者の仕事は、力を見せることではなく、損害を減らすことだ。
森の闇から松明の光が現れる。点が線になり、線が面になる。やがて、先頭の騎馬が結界の前で止まった。月が雲間から覗き、金髪の顔を照らす。
レオンハルト。
隣に寄った騎士の声が聞こえた。ヴァルドリック。彼の声色は変わっていない。忠義のように聞こえるが、実態は保身だ。
「殿下、これが噂の結界かと」
「……見えない壁、か」
レオンハルトが宙に手を伸ばし、指先が空中で止まる。触れた瞬間、彼の眉がわずかに動く。違和感を掴んだのだろう。結界は攻撃を受ける前から、拒む温度を持っている。
「ヴァルドリック。魔法使い部隊を前へ。この壁を破壊する」
命令が伝播し、黒いローブの集団が前へ出る。千人。数が揃うというより、陣形が整う。詠唱が始まる前の静けさが、森の空気を粘らせた。レオンハルトは剣を掲げ、兵に向けて声を放つ。
「全軍に告ぐ。この先に、かつて王国を欺いた偽聖女セレスティアが潜んでいる。我らは威信にかけ、反逆者を討つ!」
歓声が上がり、「殺せ」「討て」という憎悪の声が森に散る。私はその言葉を“聞く”。胸の奥で何かが燃えたりはしない。燃える余裕がない。これは、事実。こちらの生存を脅かす事実。
詠唱が森に満ちる。火、氷、雷、風。属性名の響きだけで分かる。千人の魔法使いが、同時に構築する魔力の渦。空気が震え、木の葉が逆立ち、湿った土が乾くような匂いを立てる。
「放て!」
千の魔法が一斉に撃ち出される。炎の奔流、氷の槍、雷の束、風の刃。轟音が森を揺らし、夜が一瞬だけ白くなる。木々が揺れ、地面が跳ねる。だが、私の足元は揺れない。結界が揺れを吸っている。
光が収まり、煙が流れた。
結界はそこにあった。傷も揺らぎもない。拒む壁として、静かに存在している。
レオンハルトの顔色が薄くなる。兵のざわめきが一段高くなる。勝てないのではない。勝つための“道筋”が消えたのだ。千人を使って無傷、という事実は、次に出す札の価値を奪う。
「……嘘だろ」
レオンハルトの声が擦れる。
「なぜだ。千人の集中砲火だぞ!」
彼の焦燥は、指揮官にとって致命的だ。焦燥は命令を乱し、乱れは損害を増やす。私は結界の内側で一歩前へ出た。闇の中から姿を見せるのは、力を誇示するためではない。判断を相手に押し付けるためだ。
レオンハルトの視線が私に刺さる。かつての断罪の傲慢ではない。怯えと、理解の遅れが混ざっている。
「……セレスティア……!」
私は結界の前で止まる。彼の声が届く距離。私の声も届く距離。戦争の多くは、剣ではなく、距離で決まる。
「レオンハルト皇太子殿下」
敬称を付けるのは礼儀ではない。相手の役割を固定するためだ。
「お久しぶりですね」
彼の喉が動く。何かを言おうとして、言葉が見つからない。その隙に、私は事実だけを置く。
「あなたは私を偽聖女と呼び、魔獣の森へ追放しました。今、五千を率いてこの地へ来た。目的は交渉ですか、それとも討伐ですか」
問いを投げる。答えがどうであれ、彼はそこで“選ぶ”。選ばされる。レオンハルトは口を開いたが、言葉が噛み合わない。自分の正義を語るには、目の前の無傷の結界が邪魔をする。
アザゼルが半歩前へ出た。彼の影が私の影と重なり、結界の内側の暗さが一段深くなる。
「レオンハルト・ソル・レガリア」
その声は低く、怒鳴らないのに耳の奥へ沈む。
「お前は、ここで勝てない。千の魔法で無傷なら、次は何を投げる。兵を突っ込ませるか。結界の前で死体の山を積むか。王国は、それだけの損耗を許すのか」
“損耗”。その言葉が、戦の現実を引きずり出す。兵士たちのざわめきが、恐怖ではなく計算に寄る。生き残れるかどうか。帰れるかどうか。誰かの威信のために死ぬ価値があるかどうか。
レオンハルトは歯を食いしばった。ヴァルドリックが小さく馬を寄せ、耳元で何かを囁く。私には言葉は聞こえないが、彼の身振りで分かる。撤退の具申。指揮官なら当然だ。勝てない戦で兵を失えば、その後の国が保たない。
私は手を上げ、最小の手を示す。脅しは、数ではなく確度で効かせる。
前列の剣が一斉に砂へ崩れた。金属の光が消え、灰色の粒が地面へ落ちる音だけが残る。悲鳴が上がる。だが私は続けない。これ以上の誇示は不要だ。必要なのは、相手に“現実”を認めさせること。
「見せ札はこれだけです」
私は淡々と言う。
「私は兵を殺しません。あなたが撤退を命じれば、この場で追撃もしません。ここは私の国であり、あなたの国ではありません。境界を越える理由は、もうありません」
レオンハルトの顔が歪む。屈辱と恐怖と、理解の遅れが混じる。彼は私を見ているのに、私の背後の国を見ていない。彼が欲しかったのは、あの日の断罪の続きだ。だが現実は、続きではなく別の世界になっている。
アザゼルが静かに言い添えた。
「帰れ。二度と、この地に足を踏み入れるな」
命令の形をした最終通告。レオンハルトは唇を噛み、歯が軋む音がこちらへ届くほどの力で耐えた。耐えた末、彼は剣を下ろす。指揮官として最も重い言葉を吐く。
「……全軍、撤退する」
ざわめきが波になる。安堵と屈辱が混ざった吐息。ヴァルドリックが号令を繋ぎ、五千の軍が踵を返す。松明の帯が逆流し、森の闇へ飲まれていく。最後に、レオンハルトが一度だけ振り返った。目に浮かぶのは、後悔か、憎悪か、喪失感か。名前を付ける必要はない。彼自身が整理できていない。
私は無表情のまま見返し、彼が闇へ溶けるのを見届けた。やがて松明が消え、足音が遠ざかり、森が元の暗さを取り戻す。残ったのは葉擦れの音と、湿った土の匂いだけ。
アザゼルが小さく息を吐いた。私も、肩の内側に張り付いていた力がほどけるのを感じた。握りしめていた拳がゆっくり開く。指の関節が痛い。痛いのに、今まで気づかなかった。
しばらく、私たちは闇を見つめた。勝ったという昂ぶりはない。生き延びたという重さだけが残る。
「怖かった」
言葉が落ちた。弱音というより、事実の報告。アザゼルがこちらを見る。
「何がだ」
私は息を一つ置き、正直に言う。
「私が、冷静でいられなくなることが」
敵ではなく、自分の中の揺らぎ。統治者として、それが一番怖い。アザゼルは何も笑わず、ただ私の肩を抱き寄せた。抱擁というより、体温の支え。胸に頬を寄せると、心臓の鼓動が耳に届く。規則正しく、強い。ここにあるという事実が、脳の警鐘を鎮める。
「約束だ」
彼は短く言う。
「俺は隣にいる。お前が崩れないために」
私は声にならない息を吐き、頷いた。言葉を重ねれば薄くなる。今はこれでいい。
背後から気配が近づく。仲間たちだ。ガルディウスの足音、フィーアの浅い呼吸、ルミナリスとソラリスの緊張の匂い、ザラキエルの落ち着いた歩調。それぞれの違う音が、同じ目的で集まる。
「陛下!」
ガルディウスが駆け寄り、状況を確認する目で私を見た。無事だと分かると、肩の線が少しだけ緩む。
「敵は撤退しました」
ルミナリスが言い、ザラキエルが続ける。
「結界の損傷はございません」
私は頷き、言葉を選ぶ。勝利の言葉は、今夜の民にはまだ重すぎる。必要なのは、次の行動だ。
「避難所の扉は閉めたまま。夜明けまで、誰も外へ出さないで。安心した顔ほど、油断を呼びます」
全員が頷く。ソラリスが胸に手を当て、息を整える。フィーアは目尻を湿らせながらも笑わず、ただ深く息を吐いた。ガルディウスの顎が固く引き締まる。誰も浮かれない。良い。これが私の国の強さだ。
アザゼルが静かに言う。
「終わっていない。あいつは、また来る」
私は頷いた。予想はできる。だが、予想できるなら備えられる。
「次は、こちらが選びます」
言葉にすると、胸の奥の揺れが少し静まる。私たちは森を離れ、宮殿へ戻った。帰路の空気が、少しだけ軽いのは、危険が去ったからではない。危険を“数字”と“手順”に落とし込めたからだ。
夜がほどけ、東の空が白み始める。オレンジ色の光が、森の上をゆっくり流れてくる。バルコニーへ出ると、冷えた石が足裏に伝わり、朝の匂いが鼻腔を洗った。湿った土、焼きかけのパン、煙の薄さ。帝国が目を覚まし始める匂いだ。
避難所の入口から、民が順に出てくる。走らない。叫ばない。昨日までの手順が、今日も生きている。子どもが母の手を握り、老人が杖をつき、獣人の尾が眠気に重く揺れる。誰も、今夜の森の音を知らない。それでいい。知らないまま朝を迎えられるのが、この国の価値だ。
アザゼルが隣で呟いた。
「……守れたな」
私は返事の代わりに、彼の手を取った。指の温度が、夜の冷えを押し返す。窓から入った腐臭はもうない。代わりに、朝の光が街路をなぞり、石畳の一枚一枚を淡く起こしていく。
私は息を吸い、吐く。胸の奥に残る震えが、少しずつ落ち着いていくのを感じながら、手を離さなかった。
朝の光が石畳を撫で、帝国の輪郭を少しずつ起こしていく。
昨夜、森の闇が吐き出した足音も、憎悪も、今は遠い。けれど消えたわけではない。ただ、結界の外側へ押し戻されただけだ。
静寂は、世界が優しくなった証ではない。
私が——私たちが、手放さずに守り切った結果なのだ。
私は繋いだ手に視線を落とす。冷えた指先が、彼の体温でゆっくりとほどけていく。
「ねえ、アザゼル」
呼ぶと、紅い瞳がこちらを向いた。
「私は、もう逃げません。追放された日から逃げてきたもの全部に——今度は、向き合います」
言葉は決意というより、確認だった。
この国のために。ここに生きる者たちのために。
そして、隣にいるこの人のために。
アザゼルは、短く頷いた。
「なら、俺も同じだ。お前が歩く場所を、俺は『ここ』に固定する」
意味は分かった。彼の流儀の誓いだ。
私は小さく息を吐き、朝の匂いを吸い込む。
恐怖は消えない。けれど、恐怖の底にも静寂は沈む。
私の手の中に、確かな重みとして。
恐怖も、怒りも、憎しみさえも、まだ胸の奥に確かに残っている。
けれど、それらはもう私を縛るものではない。
守ると決めた。
逃げないと決めた。
この国と、この民と、隣にいる存在と共に歩くと、確かに選び取った。
この夜を越えた私は、もう、あの日の私ではなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
本話で、ひとつの大きな区切りとなります。
長編としては初めての挑戦なので、私自身も「これで大丈夫か?」と確認しながら書いていますが、正直なところ、タイトルから想像される物語と、実際に描いている内容に、少しズレを感じている部分もあります。ただ、それは迷ったというよりも、書き進める中で、思っていた以上に広がってきた結果でした。
まだ先は長いですが、物語と登場人物には、最後まで責任を持って向き合うつもりです。
引き続き、お付き合いいただけたら嬉しいです。




