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第17話 追放の代償

 

 大聖堂に、朝の光が差し込んでいた。


 高い天井から吊るされたステンドグラスを透過した光が、七色の煌めきとなって大理石の床に降り注いでいる。赤、青、緑、黄――聖樹の恵みを表現した色彩が、床の上で複雑な模様を描いている。その光の筋の中を、無数の塵が舞っていた。まるで、光の粒子そのものが生命を持っているかのように、ゆらゆらと漂っている。


 香炉から立ち上る白檀の煙が、光の中を這うように流れていく。その香りが、鼻腔を満たす。甘く、濃密で、どこか眠気を誘うような香り。いつもなら、この香りが心を落ち着かせてくれるはずだった。


 美しい光景だった。荘厳で、神聖で、この世ならぬ空間。いつもなら、この光の中で「聖女」として振る舞うことが、最も満たされる時間だったはずだ。民衆の期待を一身に受けながら、姉様には決してできなかったことを成し遂げる。それが、ミレイユが手に入れた地位であり、誇りだった。


 ミレイユ・ノヴァルーナは、大聖堂の中央に設けられた祭壇の前に立ちながら、自分の手のひらを見つめていた。白い絹の手袋に包まれた、小さな手。繊細なレース細工が施された、聖女専用の手袋。この手から、いつも光が溢れ出していた。温かく、優しく、全てを包み込むような聖なる光。


 それが今朝、着替えの時に鏡を見た瞬間から――手袋の下の皮膚だけが、凍りついていた。


 でも、最近――体の中の何かが、少しずつ欠けていく。まるで、誰かが遠くから引き剥がしているかのような空虚感。胸の奥に何かを探そうとしても、触れるものがない。魂が抜け落ちてしまった抜け殻のように、からっぽだった。それが、目覚めた瞬間から彼女を苛んでいた。


 祭壇の前には、数百人の民衆が跪いている。前列には絹の衣装を纏った貴族たち、その後ろには質素な服の平民たち、さらに後方には革の作業着を着た職人や商人たち。身分も、職業も、年齢も様々な人々が、一様に頭を垂れている。毎週休息日の朝に行われる、聖女の祝福の儀式。ミレイユが聖女として認定されてから、一度も欠かしたことのない、神聖な儀式だ。


 その視線が、今は圧迫感となって彼女を押しつぶす。疑念が、混じっている。不安が、混じっている。そして――敵意すら、感じられる。


 ざわめきが、大聖堂の中に満ちていた。小さな、囁くような声。本来なら儀式中は静寂を守るべきなのに、あちこちから漏れ聞こえてくる私語。


「本当に、聖女様なのだろうか」


「ここ数週間、祝福の光が弱くなっていると聞いた」


「噂では、あの追放された女が本物だったとか」


「セレスティア様、と呼ばれていた方だろう。義妹に地位を奪われたという」


 疑念の囁き。それが無数に重なり合って、不協和音のようなうねりとなって彼女の耳に届いてくる。


 ミレイユは、必死に平静を保とうとした。聖女として。姉様には決してできなかった、「真の聖女」として。民衆の前で、動揺を見せるわけにはいかない。背筋を伸ばし、顎を引き、両手を胸の前で組む。聖女の正しい祈りの姿勢。何百回、何千回と繰り返してきた所作。


 目を閉じる。瞼の裏に、赤い光が滲む。ステンドグラスからの光が、瞼越しに感じられる。深く、深く息を吸う。肺に空気が満ちていくのを感じながら、心を鎮めようとする。呼吸法。これも、聖女としての訓練で叩き込まれたものだ。


 祈りの言葉を、心の中で唱え始める。


 煌天樹イグドラシルよ、光の母なる樹よ、どうか力を。


 祝福を、この民に。


 慈愛を、この国に。


 私こそが、真の聖女。姉様ではなく、私が。


 言葉が――喉につかえる。


 いつもなら滑らかに紡げる祈りが、途中で止まる。まるで、見えない何かが喉を塞いでいるかのように。


 あなたの恵みを――


 言葉が、出ない。


 指先が、異様に冷たい。手袋の下で、血の気が引いていくのが分かる。まるで、氷水に手を浸しているかのような冷たさ。


 言葉を紡ぐ。いつもなら、この祈りを唱えた瞬間に、体の中心――胸の奥から、温かいものが溢れ出してくるはずだった。それが血管を通って全身に広がり、やがて手のひらから光となって放たれる。その感覚は、まるで自分の中に小さな太陽が生まれるかのようで、いつも彼女を満たしてくれた。


 指先が、自分のものじゃない。


 左手の薬指にはめられた聖女の指輪が、異様に重い。まるで、鉛でできているかのように。この指輪は、いつも光と共に温かさを放っていたはずなのに。今は、ただ凍てついて、ずっしりと沈むだけ。


 焦りが、じわじわと込み上げてくる。心臓が、不規則に脈打ち始める。普段よりも速く、強く、まるで胸を内側から叩いているかのように。額に、氷のような汗が滲む。絹のヴェールの下で、髪の生え際に湿り気を感じる。


 もう一度、祈る。今度は、さらに強く。さらに必死に。心の中で叫ぶように、祈りの言葉を繰り返す。どうか、どうか、力を。


 でも――どこか遠くで、誰かが引っ張っている。


 この力を。私の力を。


 姉様が、何かをしているのか――?


 床の塵の動きが、止まった気がする。


 民衆のざわめきが、要求の声へと変わっていく。


「聖女様、まだ何も起きていませんが」


「いつもなら、もう光が見えているはずでは」


「何かおかしい」


「やはり、噂は本当だったのか」


 その声が、鼓膜を通して脳髄に直接伝わってくるかのように、耳に突き刺さる。


 ミレイユは、ゆっくりと目を開けた。


 視界が、ぼやけている。涙が、滲んでいるのかもしれない。瞬きをすると、視界がはっきりする。


 祭壇の前に跪く民衆の顔が、目に入る。その顔は――不安に歪んでいた。期待ではなく、疑念に満ちていた。尊敬ではなく、敵意すら浮かべている者もいる。


 前列の貴族の一人、ロットバルト伯爵が、眉をひそめてこちらを見ている。その目には、明らかな失望の色があった。彼は先月、多額の寄進をしてくれた有力者だ。その見返りとして、ミレイユは彼の病気の妻に祝福を与えた。でも――その妻は、一週間後に亡くなった。


 その時から、彼の目は変わった。


 後ろを振り返る。


 祭壇の奥、大聖堂の最も高い場所――枢機卿たちの席に、十二人の聖職者たちが並んでいた。聖女教会の最高幹部たち。皆、豪華な法衣を纏い、杖を手にしている。彼らもまた、ミレイユを見ている。


 その視線は――凍てついていた。


 中央に座るカルディナス枢機卿。腰まで伸びた白い髭を蓄えた、八十を超える老齢の聖職者。彼の目が、ミレイユを値踏みするように見ている。その視線の中に、失望が――いや、怒りすら混じっているのが分かった。


 隣のルドヴィコ枢機卿は、露骨に顔をしかめている。彼は元々、ミレイユを聖女として認めることに反対していた人物だ。セレスティアを推していた派閥の一人。


 もう一度、祈ろうとした。


 でも――手が、小刻みに痙攣している。


 制御できない。指先が、波打つように動いている。どうしても、祈りの姿勢を保てない。


 奥歯に、鉄の味がした。恐怖が、舌の付け根から這い上がってくる。


 胸骨が硬く閉じていくような息苦しさ。肋骨が、内側から締め付けられている。


 視界が、揺れ始める。足元の大理石が、波打って見える。膝が、笑っている。


 そして――ついに、民衆の中から声が上がった。


「聖女様、光が見えません!」


 若い男の声だった。その声が、引き金になった。


 あちこちから、堰を切ったように声が上がり始める。糾弾の声。


「本当に聖女なのですか!」


「力を見せてください!」


「証明してください!」


「私たちは、どれだけの金を寄進したと思っているのですか!」


 声が、どんどん大きくなっていく。怒号に近い声も、混じり始める。儀式の場とは思えない、混乱した喧噪。


 ミレイユは、必死に声を絞り出した。こわばった喉から、か細い声を押し出す。


「少し、お待ちください。今、力が――」


 でも、その声は揺らいでいた。自信のない、途切れ途切れの声。聖女の声ではなく、ただの怯えた少女の声だった。大聖堂の喧噪の中で、その声はかき消されてしまう。


「嘘だ!」


 突然、誰かが大声で叫んだ。後方にいた、職人風の男だった。


「あの女は、偽物だったんだ!」


 その言葉が、大聖堂中に轟いた。


 瞬間。


 民衆のざわめきが、怒号へと変わった。空気が、針で刺されたように裂ける。


「騙されていたのか!」


「本物は、追放されたあの女だったのか!」


「セレスティア様を追放したのは、間違いだったんだ!」


「返せ、寄進した金を返せ!」


「私の妻を返せ! お前の偽りの祝福のせいで、死んだんだ!」


 怒りの声が、四方から押し寄せてくる。罵声が、呪詛が、怨嗟が、ミレイユに向かって飛んでくる。


 ミレイユは、一歩後ずさった。足が、がくがくと折れそうになる。踵が、大理石の床に引っかかりそうになる。立っているのがやっとだった。


 そして――


 カツン、という乾いた音。


 足元に、小石が転がっていた。拳大の、灰色の石。


 誰かが投げた。


 後方の男が、自分の手を見ている。投げたのが自分だと、信じられないという顔で。


 でも、次の瞬間、周囲の民衆がそれを見た。


 一瞬、大聖堂全体が静まり返った。


 誰かが、息を呑む音がした。


「ああ、やってしまっていいのだ」と悟った群衆の空気が、波紋のように広がっていく。


 許された、と。


 無数の小石が、ミレイユに向かって飛んできた。


「偽物!」


「詐欺師!」


「出ていけ!」


「悪魔め!」


 罵声と共に、石が雨のように降り注いでくる。


 ミレイユは、とっさに両手で顔を覆った。石が、体に当たる。


 一つが肩の骨を直撃し、呼吸が一瞬止まった。


 さらに腕に、背中に。鈍い衝撃が、あちこちから襲ってくる。


 一つの石が、頬を掠めた。皮膚が裂ける感覚。温かいものが、頬を伝う。血だ。


 涙が、止まらなくなった。


 もう、堪えられない。聖女として、毅然としていなければならないのに。でも、無理だった。


 ミレイユは、泣きながら祭壇から逃げ出した。聖女の長い衣装の裾を踏みそうになりながら、よろめくように走る。大聖堂の裏口へと、必死に駆ける。民衆の怒号が、背中に突き刺さる。


 さらに石が飛んでくる。背中に、肩に。体が前に押し出される。


 枢機卿たちも、騎士たちも、誰一人として立ち上がらなかった。


 ただ、見ているだけ。


 裏口の扉が、見えた。分厚い木の扉。ミレイユは、その扉に体当たりするように飛びついた。取っ手を掴み、力任せに引く。


 扉が、開いた。


 外の光が、目に飛び込んでくる。


 ミレイユは、外に飛び出した。


 陽光が、眩しかった。目が、痛いほどに。でも、その光は――もう、自分のものではなかった。もう、自分を祝福してくれる光ではなかった。


 ただ、無慈悲に照らすだけの光。


 大聖堂の裏には、誰もいなかった。静かな中庭。いつもなら、ここで修道女たちが祈りを捧げている場所。でも、今は誰もいない。


 ミレイユは、その場に崩れ落ちた。膝を地面につき、両手で顔を覆う。


 泣いた。


 声を上げて、泣いた。


 誰も見ていない。誰も聞いていない。だから、遠慮なく泣いた。


 指にはめられた聖女の指輪が、やけに冷え切っている。


 なぜ。私こそが真の聖女なのに。


 セレスティア姉様の力を――いや、違う。これは最初から私のもの。姉様が奪おうとしているだけ。


 大聖堂から、まだ怒号が聞こえてくる。遠くから、波のように。誰も、追いかけてこなかった。誰も、慰めてくれなかった。


 全てが――姉様のせいだ。


 ――いや。


 涙の向こうで、一つの感情が芽生え始めていた。


 悔しさ。


 いや、憎しみ。


 セレスティア姉様への。


 姉様が、全部邪魔したのだ。私の聖女としての道を。私の光を。私の全てを。


 姉様さえ、大人しく消えてくれていたら。


 力を使わず、どこかで静かに暮らしてくれていたら。


 自分は、真の聖女でいられたのに。


 姉様の存在そのものが、私の力を奪っているのだ。


 両手が、地面を叩く。血が滲むほど、強く。爪が土に食い込み、皮膚が裂ける。


 見捨てたのは姉だけじゃない。――あの席の全員だ。


 祈りの言葉は、もう出ない。代わりに、誓いだけが胸に残った。


 だが、その絶叫は誰にも聞こえない。


 大聖堂の喧騒も、中庭の慟哭も、やがて石壁に遮られ、消えていく。


 その日の夕刻。


 噂は、王都中を駆け巡っていた。「聖女様が力を失った」「儀式が失敗した」「石を投げられて逃げた」――真実と誇張が入り混じった囁きが、貴族の館から市場の路地裏まで、あらゆる場所で語られていた。


 王城の謁見の間に、一人の伝令が駆け込んだのは、日が西に傾き始めた頃だった。


 息を切らせた伝令は、膝をついて報告する。


「陛下、大聖堂より急報にございます。聖女ミレイユ様が――民衆の前で、力を失われました」


 その言葉が、謁見の間に落ちた。


 重く。


 国王も、宰相も、軍務卿も、誰一人として声を発しなかった。ただ、沈黙だけが広がっていく。


 それは驚きではなく――予期していたことへの、確認だった。


 謁見の間では、もっと静かに、もっと深く、別の絶望が進行していた。


 蝋燭の炎が、天井近くの装飾を照らしている。金箔の剥がれた天使像、色褪せた紋章、かつては栄華を誇った証。今ではそれらさえ、疲弊の象徴に見える。光が揺れるたび、影が壁を這う。まるで国家の崩壊そのものが、視覚化されているかのように。


 玉座に座る国王アルトゥール・ソル・レガリアは、無言で報告書を見つめている。羊皮紙に書かれた、財務卿からの報告。その顔には、深い皺が刻まれていた。五十三歳の国王の顔は、この数週間でさらに老け込んだように見える。かつては黒々としていた髪も、今では半分以上が白くなっている。


 白髪混じりの髪の下で、こめかみが僅かに引きつっている。それは怒りか、それとも疲労か。おそらく、両方だろう。


 いや――違う。それは後悔だ。


 あの日、大聖堂で。娘を「偽聖女」として断罪することを、黙認した日。セレスティアが黄金を錬成した時、本当は分かっていたはずだ。あれが、どれほど恐るべき力なのか。


 でも、止めなかった。


 聖女教会の圧力に屈し、息子の判断を優先し、公爵令嬢である養女を見捨てた。


 その結果が、今だ。


 国王の指が、報告書の端を掴む。皺が寄り、羊皮紙が僅かに歪む。


 玉座の前には、重臣たちが跪いていた。宰相エドガルト・フォン・ヴァルトシュタイン。六十を過ぎた老練な政治家で、先代の王の時代から仕えている。財務卿マティアス・クラウゼ。四十代半ばの切れ者で、王国の財政を一手に管理している。軍務卿グレゴール・フォン・アイゼンハルト。五十代前半の歴戦の将軍。


 そして、少し離れた場所に、皇太子レオンハルト・ソル・レガリアが立っていた。二十一歳の若き皇太子は、父である国王と同じ金髪碧眼を持っているが、その表情は父とは対照的に峻厳で、硬く引き締まっている。


 国王が、ようやく口を開いた。


「これが、現状か」


 その声は、疲れ果てていた。まるで、長い戦いの後で力尽きた戦士のように。


 宰相エドガルトが、視線を床に落としたまま答える。彼の声も、いつもの落ち着いたものではなく、僅かにかすれていた。


「はい、陛下。聖女ミレイユ様の儀式は、完全に失敗いたしました」


「民衆の信頼は、地に落ちました。大聖堂では暴動寸前の騒ぎとなり、聖女様は石を投げられて逃走されたとのことです」


 国王の両手が、玉座の肘掛けを掴む。指先が白くなるほど、強く。関節が、木に食い込んでいく。


 誰も、口にしない。


 誰も、その名を出さない。


 でも、謁見の間にいる全員が、同じことを考えていた。


 財務卿マティアスが、かすれた声で続ける。彼の手には、何枚もの報告書が握られていた。それが、かすかに波打っている。


「そして――経済状況は、さらに悪化しております」


「具体的に述べよ」


 国王の声が、低く腹の底から出る。


 マティアスは、報告書に目を落とした。その目が、数字を追っていく。その目には、絶望が浮かんでいる。


「まず、優秀な職人たちが王都を離れております。ドワーフの鍛冶師グランツ一族をはじめ、腕の立つ者たちが次々と。理由は、『亜人差別政策に同調できない』と」


 マティアスは、言葉を選ぶように間を置いた。


「職人がいなければ、武器も防具も作れません」


「商人たちの状況は」


 国王が、問う。


 マティアスは、次の報告書をめくった。その手が、小刻みに揺れている。


「王都の大商人ギルドから、十三の商会が撤退いたしました。掲示板は空欄だらけです。王城前の露店には、官吏の紋章入りの家具が並んでおります」


 マティアスの声が、さらに沈む。


「先日、ある下級官吏の娘が、露店で父の椅子を見つけて泣き叫んだと――」


 国王の顔が、さらに険しくなる。


「税収は」


「先月比で、三割減です。徴税官の馬車が、半分の数になっております。このままでは、来月の官吏への俸給支払いが――」


「支払えぬと言うのか」


 国王の声が、鋭くなる。


「はい。さらに、エルフ王国との貿易協定が破棄されました」


「何だと」


 国王が、玉座から身を乗り出す。


「エルフ王国が、我が国との全ての貿易を停止すると通告してまいりました。理由は、『亜人差別政策に同調できない』とのことです」


「ふざけるな」


 国王が、拳で肘掛けを叩いた。鈍い音が、謁見の間に轟く。


 軍務卿グレゴールが、さらに報告を続ける。彼の声は、軍人らしく簡潔だが、その内容は深刻だ。


「魔獣討伐隊の被害も、増大しております。先週、北方森林地帯での討伐で、第三精鋭部隊が壊滅いたしました」


 その言葉に、レオンハルトの表情が、僅かに動いた。第三精鋭部隊。彼が個人的に訓練を施していた部隊だ。


「生存者は」


 国王が、問う。


「十五名中、三名のみです。オーガの群れに襲われ、防御の要を失った部隊は為す術もなく――」


 グレゴールの声が、悔しさに染まる。


「かつて第三精鋭部隊には、神盾術を持つ盾職がおりました。ガルディウス・フォン・シルトベルクと申す者です。しかし、『攻撃できない盾職は不要』として、隊長が追放しました」


「その結果――オーガの攻撃を、誰も防げませんでした」


「隊長のガレスト・ヴァイスハウプトは、片腕を失い、現在療養中です」


 その名前を聞いて、レオンハルトの顎が、僅かに動いた。歯を噛みしめている。ガレスト。かつて、盾職のガルディウスを「役立たず」として追放した隊長だ。


 国王は、大きく息を吐いた。その息には、疲労と絶望が混じっている。


「全ては――」


 国王が、絞り出すように口を開きかける。


 でも、その先の言葉は出てこない。


 言えば、認めることになる。


 自分の判断が、間違っていたと。


 誰も答えない。答えられない。答える必要もなかった。その無言こそが、最も雄弁な肯定だった。


 レオンハルトは、父の横顔を見ていた。国王の顔には、後悔が浮かんでいる。深い、消せない後悔。自分が下した決断が、間違っていた。それを、今になって理解している。


 でも――それを認めることは、できない。


 王として、自分の判断が間違っていたと認めることは、王権そのものの失墜を意味する。


 レオンハルトもまた、同じだった。


 自分が婚約を破棄したこと。


 あの女を「偽聖女」と断罪したこと。


 それが、間違いだった。


 胸の奥で、何かが軋む。認めたくない。認められない。認めてしまえば、次期国王としての資格を問われる。


 それに――


 あの女の顔が、脳裏に浮かぶ。大聖堂で、黄金を錬成した時の。冷静で、優雅で、恐ろしいほど美しかった表情。


 あれは、本物の力だった。


 自分が見抜けなかった。いや、見ようとしなかった。


 怖かったのだ。あの圧倒的な力が。自分を超える何かが。


 だから、排除した。


 その結果が、今だ。


 レオンハルトの拳が、無意識に握りしめられる。爪が掌に食い込む。


「陛下」


 宰相エドガルトが、慎重に言葉を選びながら進言した。


 六十年の政治経験が、彼に告げている。この国は、終わる。


 いや、もう終わっているのかもしれない。


 先代の王に仕えた頃から、この国の衰退を見てきた。だが、ここまで急激な崩壊は――


 エドガルトの脳裏に、あの日の光景が甦る。大聖堂で、床が黄金に変わった瞬間。あれを見た時、彼は理解した。セレスティアが、どれほどの力を持っているのかを。


 でも、止められなかった。


 聖女教会の圧力。貴族たちの思惑。そして、若き皇太子の傲慢。


 全てが、破滅へと向かっていた。


「今からでも、遅くはありません。セレスティア様に、使者を送りましょう。謝罪をし、関係修復を図るのです」


 その言葉に、自分でも力がないことを感じる。


 遅い。もう、遅いのだ。


「黙れ」


 国王の声が、低く、しかし鋭く突き刺さる。


「それだけは、できぬ」


「謝罪をすれば、王権の正統性が崩れる。貴族たちは、『無能な王』として私を見限るだろう」


 エドガルトが、言葉を飲み込む。


 国王は、玉座から立ち上がった。その動作は、重々しく、疲れ切っている。


「使者が無事に戻る保証もない。あの結界を越えられるかすら、分からぬ。教会も反対するだろう。枢機卿たちは、セレスティアを認めたくない」


 国王の声が、謁見の間に満ちる。


「我が国は、終わる」


 その言葉を口にした瞬間、何かが崩れた。


 王としての威厳。父としての誇り。全てが、音を立てて崩れ去っていく。


 誰も、反論しなかった。誰も口を開けない。


 息子が、前に出ようとしている気配を感じる。


 止めなければならない。でも、止められない。


 あの女――セレスティアを追放した時と、同じだ。


 また、自分は何もできないのか。


 レオンハルトは、奥歯を噛みしめた。顎の筋肉が、硬く張る。


 頭を下げれば、王権は失墜する。民衆は嘲笑い、貴族は反旗を翻す。国は、内側から崩れ去る。


 父の言葉も、父の恐れも、理解できる。


 でも――父は、何もしようとしない。


 ただ、絶望に身を任せている。


 それでいいのか。


 王になる者が、絶望に屈していいのか。


 それに。


 今、必要なのは謝罪ではない。理屈でもない。


 力だ。


 圧倒的な力で、あの女を屈服させる。そして、錬成術の秘密を奪い取る。黄金を生み出す力。物質を自在に変える力。全てを我が物とする。


 そうすれば――


 自分が、父を超えられる。


 自分が、真の王になれる。


 時間がない。冬が来る前に決着をつけなければ、国庫は枯渇し、民は飢える。


 そして――あの女は、日に日に強くなっている。国を創り、軍を整え、同盟を結んでいる。今叩かなければ、手遅れになる。


 犠牲は出る。兵士も死ぬだろう。民も苦しむだろう。


 でも――


 やるしかない。


 自分の判断が正しかったと、証明するために。


 レオンハルトは、一歩前に出た。


「父上」


 その声は、謁見の間全体に広がった。


 国王が、息子を見た。


「私に、お任せください」


 レオンハルトは、玉座の前に跪いた。片膝をつき、剣を捧げ持つ。騎士の誓いの姿勢。


「私が、ノヴァ・エデンを滅ぼします。セレスティアを捕らえ、錬成術の秘密を奪い取ります」


 その言葉に、謁見の間がざわめく。


 国王の目が、僅かに見開かれた。


「レオンハルト」


「軍を率いて、森に入ります」


 レオンハルトの声は、確信に満ちていた。揺らぎがない。


「五千の兵を与えてください。それだけあれば、十分です」


「森は、危険だ。魔獣の脅威は、我々の想像を超える。結界を破る自信は、あるのか」


「あります」


 レオンハルトは、顔を上げた。金色の瞳が、父を見据える。


「五千の兵のうち、千人は魔法使いです。彼らを総動員すれば、結界を破ることは可能です。結界とは、所詮は魔力の壁。集中砲火で破砕できます」


「それに――」


 レオンハルトの目が、暗い光を帯びる。


「あの女は、まだ若い。経験も浅い。実戦を知らない。五千の兵が目の前に迫れば、萎縮するでしょう」


「そして、我々が彼女を捕らえ、力を奪う」


 エドガルトが、口を開いた。


「殿下、それは危険すぎます。セレスティア様の力は、未知数です――」


「だからこそ、今なのです」


 レオンハルトが、遮った。


「あの女は、まだ力を使いこなしていない。国を創って、まだ数ヶ月。今なら、勝てます」


「冬が来る前に。あの女がさらに強くなる前に。今しかないのです」


 宰相は、黙り込んだ。反論できなかった。


 国王は、長い間黙っていた。


 謁見の間に、張り詰めた空気が流れる。


 やがて――


「許可する」


 国王の声が、静かに告げた。


「五千の兵を与える。ノヴァ・エデンを滅ぼし、セレスティアを捕らえよ。そして――錬成術の秘密を、我が国のものとせよ」


 レオンハルトは、深く頭を下げた。


「御意」


 彼は、立ち上がった。


 謁見の間を出ようとする。その背中に、国王の声がかかった。


「レオンハルト」


 振り返る。


 国王の顔には、複雑な表情があった。


「無事に、戻ってこい」


 その言葉に、レオンハルトは僅かに表情を緩めた。


「必ず」


 そして、彼は謁見の間を後にした。


 国王の決断が下った。五千の兵が動く。だが、王城を出たその決断は、別の場所で――もう一つの絶望を生んでいた。


 その夜、王城とは別の場所で、別の会議が開かれていた。聖女教会の枢機卿会議室。円形の部屋の中央に、大きな円卓が置かれている。黒檀で作られた、重厚な卓。その周りに、十二脚の椅子が並んでいる。それぞれの椅子には、聖樹の紋章が彫り込まれている。煌天樹、冥府樹、業火樹、蒼海樹、大地樹、嵐樹、虚空樹。七つの神樹と、そして五つの従属樹。


 無数の蝋燭が円卓の周囲に配置され、部屋全体を照らしている。だが、その光は温もりを与えない。むしろ、闇を濃くしているかのようだ。炎が揺れるたび、十二人の枢機卿の顔に影が走る。


 壁には、歴代の教皇の肖像画が並んでいる。厳格な顔、慈愛に満ちた顔、知性的な顔。様々な表情の教皇たちが、この部屋を見下ろしている。まるで、今日の会議を監視しているかのように。


 十二人の枢機卿が、円卓を囲んで座っていた。


 皆、豪華な法衣を纏っている。白、紫、金の刺繍が施された、聖職者の最高位を示す衣装。それぞれの胸には、聖樹の紋章が輝いている。


 でも、その顔は、皆一様に険しかった。


 議長席に座るカルディナス枢機卿が、重々しく口を開く。彼の声は、老齢を感じさせない力強さがあった。八十を超える老人とは思えないほど、しっかりとした声。


「諸君。事態は、極めて深刻だ。ミレイユが、聖女の力を失った。民衆は、我々を疑い始めている」


 隣に座る枢機卿、ルドヴィコが苦々しく言った。六十代半ばの、痩せた体躯の男。鋭い目つきが、常に何かを批判しているかのように見える。


「全ては、あのセレスティアという女のせいだ」


「いいや、セレスティアを認めなかったことは正しかった。あの女は、教会の権威に従わなかった」


 別の枢機卿、ベアトリスが反論する。五十代の、ふくよかな体型の女性。彼女は医療部門を統括する枢機卿の一人だった。


「だが、結果として我々は窮地に陥っている」


 ルドヴィコが、卓を叩いた。鈍い衝撃が走る。


「大聖堂での暴動を見ただろう。あれは、序章に過ぎない」


「分かっている」


 カルディナスが、手を上げて議論を制した。


「過去を論じても、意味はない。問題は、これからどうするかだ」


 ベアトリスが、慎重に口を開いた。


「ミレイユ様の力が失われた理由を、解明する必要があります」


「理由など、明白ではないか」


 ルドヴィコが、鋭く言った。


「あの力は、元々セレスティアのものだった」


 その言葉に、何人かの枢機卿が息を呑んだ。


 カルディナスは、長く息を吐いた。その息には、長年の疲労が滲んでいる。


「我々は、確かに過ちを犯したのかもしれぬ。あの女を、見誤ったのかもしれぬ」


 カルディナスの両手が、祈りを捧げるように組まれる。だが、その指は硬く、氷のように固まっている。


 枢機卿たちの間に、重苦しい空気が流れる。千年の歴史が、今、崩れようとしている。


 カルディナスは、顔を上げた。


「だが――今更それを認めることはできぬ。教会の権威が、完全に地に落ちる」


「では、どうするのです」


 ルドヴィコが、問う。


 彼は、しばらく黙っていた。


 そして――


「皇太子の軍が、ノヴァ・エデンを滅ぼすのを待つ」


 その言葉が、室内に凍りついた空気を生んだ。


 瞬間。


 円卓の端に座る若い枢機卿、イグナーツが立ち上がった。四十代前半の、まだ若々しい顔立ちの男。医療部門の補佐を務める、枢機卿の中では最年少の人物だ。


 彼の手はこわばり、椅子の肘掛けを強く握りしめていた。


「お待ちください。それは――それは、真の聖女を見殺しにするということではありませんか」


 カルディナスが、イグナーツを見た。その目は、氷のようだった。


「イグナーツ。お前は若い。だから、理想を語れる」


「理想ではありません。これは――神への冒涜です」


 イグナーツの両手が、卓の縁を掴む。指が白くなるほど、強く。


 ベアトリスが、冷ややかに言った。


「神罰など、既に下っているではないか。民衆の信仰は失われ、教会は崩壊寸前だ」


 カルディナスが、鋭く問う。


「我々が間違っていたと認めることになる。教会の権威は、完全に失墜する。それでも、救うべきだと言うのか」


 イグナーツは、言葉に詰まった。


 議論に勝てない。


 けれど。


「私には、分かりません」


 イグナーツは、力なく座り込んだ。


「ただ――恐ろしいのです。神を裏切ることが」


 誰も、答えなかった。


 カルディナスは、イグナーツから視線を外した。


 無意識に、指輪を外す。教皇から授かった聖印。


 その内側には、汗が滲んでいた。


「静観する、ということですか」


 ベアトリスが、確認する。


「そうだ」


 カルディナスは、断言した。


「我々は、何もしない。皇太子が、セレスティアを倒してくれる。そして、セレスティアが死ねば――全ての問題は、消える」


 その言葉に、枢機卿たちの表情が複雑に歪んだ。


 それは、真の聖女を見殺しにするということだ。


 神に選ばれた者を、殺すということだ。


 でも――


 教会を守るためには、それしかない。


「異論のある者は」


 カルディナスが、円卓を見回した。


 誰も、手を上げなかった。


 誰も、反対しなかった。


 ただ、言葉が失われているだけだった。


「では、決定とする」


 カルディナスは、立ち上がった。


「我々は、静観する。皇太子の戦いに、関与しない。そして――教会の存続を、祈る」


 その言葉の意味を、誰もが理解した。


 真の聖女を、見殺しにする。


 神に仕える者たちが、神に選ばれた者を殺す。


 これ以上の冒涜が、あるだろうか。


 カルディナスの手が、胸の聖印を握る。


 冷たい。


 神の温もりが、もう感じられない。


 その言葉が、会議室に染み渡った。


 枢機卿たちが、一人、また一人と立ち上がり、退室していく。


 最後に残ったカルディナスは、窓の外を見つめた。


 夜が、訪れようとしていた。


 暗い、暗い夜が。


 月も、星も見えない。


 まるで、神が天を閉ざしたかのように。


 カルディナスは、胸の前で十字を切った。


 その手が、震えている。


「神よ、我々を許したまえ」


 その祈りが、誰にも届かぬまま、闇の中に消えていった。


 神に選ばれた者を殺すために、神に仕える者たちが祈る。


 これ以上の冒涜が、あるだろうか。


 彼の目から、一筋の涙が流れた。


 八十年の生涯で、初めて流す涙だった。


 その絶望が天に届かぬまま、地上では別の祈りが捧げられていた。勝利への祈り。栄光への祈り。そして――生還への祈り。


 三日後の深夜。王城の兵舎に、松明の光が揺れていた。


 数百本の松明が、闇夜を照らしている。その光が、広場に整列した兵士たちを浮かび上がらせている。五千の兵士たちが、整然と並んでいた。鎧を身につけ、剣を腰に下げ、槍を手にした彼らの顔は、緊張に強ばっていた。


 鎧が擦れ合う音。武器がぶつかり合う音。馬のいななき。それらが混じり合って、戦場に向かう軍の音を作り出している。


 兵士たちの息が、白く見える。夜は、冷えていた。秋の終わりの、肌を刺すような冷気。でも、兵士たちは微動だにしない。訓練された兵士の、規律正しい姿勢。


 広場の中央には、高い演台が設けられていた。


 そこに、レオンハルトが立っている。


 馬上ではなく、演台の上。全ての兵士たちを見下ろせる位置。彼は金色の鎧を纏っていた。王家の紋章が胸に刻まれた、豪華な鎧。松明の光を反射して、まるで太陽のように輝いている。


 その隣には、ヴァルドリックが控えている。彼もまた、銀色の鎧を纏っていた。側近騎士としての、誇り高き姿。


 レオンハルトは、兵士たちを見渡した。


 五千の顔。若い者も、年老いた者も。貴族の出身者も、平民の出身者も。様々な背景を持つ兵士たちが、今日ここに集まっている。


 そして、彼らは皆――自分の命令に従う。


 レオンハルトの声が、静寂を破った。


「兵たちよ」


 その声は、広場全体に満ちる。訓練された、よく通る声。


「我が国は、今、危機に瀕している。王都を見ただろう。灯の消えた家々を。空になった店を。あれは、我々の誇りが奪われた証だ」


 レオンハルトの声が、高まる。


「だが、我々は屈しない。我々は、正義のために戦う。あの女に奪われたものを、取り返す! 錬成術を、我らのものに取り戻す! 神の名において、偽聖女を討つ」


 兵士たちの目が、レオンハルトを見つめている。その目には――不安があった。


 魔獣の森への遠征。


 それが、どれほど危険なことか、兵士たちは知っている。魔獣の脅威。森の迷宮のような地形。そして――


 ノヴァ・エデンという、未知の敵。


 でも、レオンハルトは続けた。


「ノヴァ・エデンを滅ぼし、セレスティアを捕らえよ。そして、奪われたものを取り戻せ。錬成術の秘密を、我が国のものとせよ」


 レオンハルトの拳が、空を突く。


「勝利の暁には、褒賞を与える。金貨を、爵位を、領地を。お前たちの功績は、永遠に語り継がれるだろう」


 兵士たちが、槍を掲げた。


 一斉に。五千の槍が、夜空に向かって突き上げられる。


 歓声が、上がる。


「殿下万歳!」


「聖レガリア万歳!」


 その声が、夜空に反響する。城壁に跳ね返り、何度も何度も繰り返される。


 レオンハルトは、満足そうに頷いた。


 これだ。


 これが、軍を率いるということだ。


 これが、王になるということだ。


 彼は、演台を降りた。


 待機していた軍馬に跨る。黒々とした毛並みを持つ、立派な馬。王族専用の、最高級の軍馬だ。


 ヴァルドリックも、馬に乗った。


 レオンハルトは、軍の先頭に立った。


 そして、剣を抜いた。


 月光を反射して、剣が煌めく。


「出陣する」


 その命令と共に、軍勢が動き出した。


 五千の兵士たちが、整然と行進を始める。足音が、大地を震わせる。規則正しい、訓練された兵士の足音。それが重なり合って、雷鳴のような音を作り出している。


 松明の光が、長い列を作る。まるで、巨大な炎の蛇が、大地を這っているかのように。


 王城の門が、開かれる。


 ずっしりとした音を立てて、巨大な門扉が動く。


 その先には、暗闇が広がっている。


 王都の街並みが、静かに眠っている。窓という窓に、灯りはない。民たちは、この軍の出陣を知らない。


 いや――知っているが、見て見ぬふりをしているのかもしれない。


 軍勢は、街を抜けていく。


 石畳の道を、馬蹄と軍靴が叩く音が伝わる。その音だけが、静寂を破っている。


 やがて、街の東門に到達する。


 そこでも、門が開かれる。


 そして――


 その先には、魔獣の森が広がっていた。


 月明かりに照らされた、暗い森。樹木が密生し、その奥は完全な闇になっている。魔獣の棲み処。人が踏み入るべきでない、禁断の領域。


 でも、レオンハルトは躊躇しなかった。


 夜風が頬を打つたびに、彼は笑いを堪えていた。


 もう恐怖も罪悪感も、とうに捨てた。


 あるのは勝利だけ。


 そして、その勝利が自分を"王"に変えるのだと信じていた。


 馬を進める。


 軍勢が、それに続く。


 五千の兵士たちが、森へと入っていく。


 松明の光が、森の中を照らす。でも、その光は森の闇には及ばない。闇が、あまりにも深い。


 王城の窓から、国王アルトゥールがその光景を見ていた。


 息子が、戦争を始めた。


 止められなかった。


 いや、止めようとしなかった。


 もう、何も言えなかった。王としての威厳も、父としての権威も、全て失った今、息子の決断を覆す力など残っていない。


 かつて、セレスティアを見捨てた時と同じだ。


 あの時も、こうだった。


 周囲の圧力に屈し、正しいと分かっていることを、見て見ぬふりをした。


 そして今、息子が同じ過ちを繰り返そうとしている。


 止めなければならない。


 でも、止められない。


 国王は、窓に手をつき、額を窓枠に押し当てた。ガラスの触感が、頬に伝わる。冷たい。あまりにも冷たい。


 自分の吐息が、ガラスを曇らせる。


 その向こうで、息子が率いる軍勢が、森へと消えていく。


 ただ、祈ることしかできない。


 息子が、無事に帰ってくることを。


 でも――


 その祈りは、もはや神には届かないような気がしていた。


 セレスティアを追放した時、神の怒りを買ったのかもしれない。


 いや、そうではない。


 神が怒っているのではなく――


 自分が、神に見放されたのだ。


 正しい道を選ばず、保身に走り、娘を見捨てた。


 その報いを、今、受けているのだ。


 窓の向こうで、松明の光が、次第に小さくなっていく。


 やがて、完全に見えなくなった。


 森が、軍勢を飲み込んだ。


 国王は、窓を閉めた。


 もう、見たくなかった。


 だが、目を閉じても見えてしまう。息子が率いる五千の兵士たち。松明の光が列をなし、やがて森の闇に吸い込まれていく。その光景が、瞼の裏に焼きついている。


 レオンハルトが森に踏み込んだ瞬間、風の音が消えた。


 代わりに響くのは――


 五千の足音。


 大地を踏みしめる、重い音。鎧が擦れ合う、金属の軋み。馬の荒い息遣い。剣の鞘が腰に当たる、鈍い音。


 それらが混ざり合い、不気味な響きとなって森に満ちていく。


 まるで森そのものが、息を潜めて軍勢を観察しているかのように。


 兵士たちは緊張し、誰も口を開かず、ただ黙々と歩いている。


 魔獣の森。人の領域ではない。


 だが――


 恐れることはない。


 そう、自分に言い聞かせる。


 五千の兵。これだけの力があれば、あの女一人など。


 でも、胸の奥で何かが囁く。


 本当に、そうだろうか。


 あの女が錬成した黄金の輝き。あの圧倒的な力。あの冷たい微笑。


 恐怖が、背筋を這い上がってくる。


 レオンハルトは、それを振り払うように頭を振った。


 弱気になるな。自分は、次期国王だ。


 ヴァルドリックが、傍らに馬を寄せてきた。


「殿下、この先の道は険しくなります」


「分かっている。地図通りに進めば、二日でノヴァ・エデンに到達する」


 軍勢は、さらに深く、森の奥へと進んでいく。


 その先に、ノヴァ・エデンがある。


 その先に、セレスティアがいる。


 レオンハルトの背後で、兵士たちの足音が続く。規則正しく、しかし僅かに乱れている。


 誰もが、緊張している。


 誰もが、恐れている。


 この森が。あの女が。待ち受ける戦いが。


 森の奥から、何かの気配が伝わってくる。


 圧倒的な、魔力の気配。結界の気配。


 ノヴァ・エデンを守る、見えない壁。


 レオンハルトは、それを感じ取った。


 強い。だが、五千の兵のうち千人の魔法使いの集中砲火で破れる。破れるはずだ。


 引くことはなかった。


 剣を握る手に、力を込める。


 汗が、掌に滲む。


 恐怖を、押し殺す。


「進め」


 その命令が、森の中に染み入る。


 五千の兵士たちの足音が、大地を震わせながら、森へと消えていった。


 追放した者への報復を求めて、五千が向かう。


 だが、レオンハルトの胸の奥では――


 別の声が囁いていた。


 本当に、勝てるのか。


 あの女に。


 その疑念を振り払うように、彼は剣を強く握りしめた。


 だが、彼らが本当に迎えるのは――報復ではなく、裁きだった。

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