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第15話 帝国への脅威

 

 星降りの湖でアザゼルに全てを告げてから、三日が過ぎていた。


 あの時、私は自分の想いを初めて言葉にした。彼は静かに頷き、「約束する。お前が望むなら――全て、話そう」と答えてくれた。それ以来、私たちの関係には名前がついていない。言葉では定義されていない、曖昧な何かになっている。


 それでも確かに、何かが変化した。


 彼の手が自然に私の手を探すようになり、視線がいつも私を追うようになり、声色が私にだけ柔らかくなる。それだけで、今の私は十分だと感じてしまう。


 建国から二週間あまりが経過した朝、私は執務室で書類に目を通していた。


 机の上に並ぶのは、亜人難民の受け入れリスト、食料の配給計画、住居の建設スケジュール。帝国はまだ小さく、全てが始まったばかりだ。それでも人口は千五百人を超え、獣人、エルフ、ドワーフといった迫害から逃れてきた亜人たちが、日々この地へと流れ込んでいる。


 エーテル鋼の工房もようやく稼働を始めた。規模はまだささやかだが、試作品の出来は上々だ。少しずつではあるものの、確実に前へ進んでいる――そう実感できる日々だった。


 その時、扉を叩く音が静かな室内に響く。


「どうぞ」


 入室してきたルミナリスは、いつも通りの冷静な表情を崩してはいない。だが、僅かな違いに気づく。彼女の瞳に、普段は見せない緊張の色が浮かんでいた。


「陛下、緊急の報告がございます」


 低く抑えられた声が、ただならぬ事態を告げている。


「聞かせてください」


「昨夜、森の外縁部に三名の侵入者を確認いたしました。諜報部が監視を続け、今朝方に拘束しております」


 私の手が、無意識のうちに羽ペンを置いていた。


「スパイ、ということでしょうか」


「はい」


 ルミナリスは書類を机に広げながら、淡々と続ける。


「所属は聖レガリア王国。おそらく偵察が目的かと思われます。『追放された偽聖女の生死確認』および『亜人が森の奥に集まっているという噂の真偽確認』が、任務の中心と推測されます」


 聖レガリア王国――かつて私を追放した国の名を聞いた瞬間、私は窓の外へと視線を向けた。


 美しく整備された街並みが広がっている。規模はまだ小さく、脆さも残る。それでも確実に育ちつつある、私たちの帝国の姿だ。


「尋問に立ち会いたいのですが」


 私の申し出に、ルミナリスは即座に頷く。


「既に準備を整えております」


 古代遺跡の地下深くには、ザラキエルが整備した牢獄がある。松明の灯りが石壁を不規則に照らし出す中、私とルミナリスは無言で通路を進んだ。少し離れた後方からは、アザゼルとガルディウスの足音が続いている。


 三つの独房が並び、それぞれに一人ずつが収容されていた。


「まず、最初の二名からご覧いただきます」


 ルミナリスが最初の独房の前で立ち止まる。格子の向こうには、筋肉質な男の姿があった。三十代ほどだろうか。顔には古い傷跡が刻まれ、身に着けているのは聖騎士団の装備だ。


「ブルーノと名乗っております。聖騎士団所属で、亜人討伐の実績が多数ある人物です」


 ルミナリスの説明を聞きながら、私はブルーノの目を見つめる。その瞳には、隠そうともしない明確な敵意が宿っていた。


「偽聖女め」


 吐き捨てるような声が、石造りの空間に鋭く響く。


「貴様など――」


「任務の目的を教えていただけますか」


 私は感情を抑えた平坦な声で問いかけた。


「答える義務などない!」


 ブルーノは唾を吐き捨てる。


「貴様のような異端者に、何を話すものか!」


 これ以上問い詰めても無駄だと判断し、私は次の独房へと移動した。


 二つ目の独房には、王国軍の装備を身に着けた若い男が座り込んでいる。二十代だろうか。青ざめた顔には、はっきりとした恐怖の色が浮かんでいた。


「カイルと申しております。王国軍所属で、ブルーノの部下にあたります」


 ルミナリスの説明を聞きながら、私はカイルを観察する。彼は震えながらも、必死に虚勢を張ろうとしているのが見て取れた。


「レオンハルト様が……レオンハルト様が、お前なんかを……」


 掠れた声が独房から漏れ出す。


「任務の内容を教えてください」


 私が重ねて尋ねると、カイルは突然、叫び声をあげた。


「こんな場所、すぐに滅びる! 亜人どもと組んだところで、聖レガリア王国には勝てない!」


 私は小さく息を吐き、三つ目の独房へと足を向ける。


 最後の独房に収容されているのは、細身で知的な雰囲気を纏った四十代ほどの男だった。魔導師のローブをまとい、他の二人とは明らかに異なる空気を持っている。


「ヴィクトールと名乗る宮廷魔導師です」


 ルミナリスの声に、僅かな警戒の色が混じった。


「レオンハルト殿下の側近の一人にあたります」


 ヴィクトールは無言のまま私を見つめていた。その目には敵意はない。冷静な観察者として、ただ静かに私を測っている視線だ。


「任務の内容を教えていただけますか」


 私の問いかけに、ヴィクトールは僅かに頷く。


「偵察です」


 隣の独房から、ブルーノの怒鳴り声が飛んだ。


「ヴィクトール! 何を言っている!」


 しかしヴィクトールは気にも留めない様子で、淡々と続ける。


「追放された元聖女――セレスティア・ノヴァルーナ様の生死確認。そして『亜人が森の奥に集まっている』という噂の真偽確認。それが我々に与えられた任務です」


 彼の声には、感情の起伏がほとんどない。


「隠しても無駄だと判断しました。あなたは既に全てを把握している。そう見えましたので」


 その言葉に、私は僅かに目を細めた。


「賢明な判断ですね」


「賢明というより――」


 ヴィクトールは小さく首を横に振る。


「現実を直視しているだけです」


 そう言いながら、彼は周囲を見回した。精緻な魔法陣が刻まれた石造りの牢獄、高度な結界術の痕跡。


「この施設を見るだけでも、相当な技術力が必要だと分かります」


 彼の声が低く沈む。


「地上の街並みも観察させていただきました。計画的に配置された建物、魔力供給のライン、上下水道の整備。これは単なる難民キャンプではない」


 ヴィクトールは、真っ直ぐに私を見た。


「あなたは、国を創っている」


 その一言に、ブルーノが再び怒鳴る。


「黙れ! 裏切り者め!」


「裏切り?」


 ヴィクトールは冷ややかに応じる。


「私はただ、目の前の事実を述べているだけです」


 彼は改めて私に向き直った。


「一つ、お聞きしてもよろしいですか」


「どうぞ」


「あなたは……本当に」


 ヴィクトールの声が、僅かに震えた。


「本物の聖女だったのですか」


 その問いに、私はかすかに笑みを浮かべる。


「聖女、ですか」


 私は首を横に振った。


「私はそんな呼び名に興味はありません」


「では――」


 ヴィクトールが息を呑む。


「では、あの時、教会は……本当に力を持つ者を追放したのですね」


 私は答えなかった。沈黙の方が、雄弁な返答になる時もある。


「……そうですか」


 ヴィクトールは深く息を吐いた。


「殿下は……取り返しのつかない過ちを犯されたのですね」


「黙れ!」


 ブルーノの怒声が響き渡る。


「偽聖女の戯言に惑わされるな!」


 ヴィクトールはブルーノの方へ視線を向けた。


「ブルーノ。目を開けて、現実を見なさい」


 その静かな声には、諦めに似た何かが滲んでいた。


 私が地下牢を後にしようと背を向けた時、ルミナリスが一歩進み出る。


「陛下、少しよろしいでしょうか」


 私は振り返った。


「何か?」


「尋問の際、ヴィクトールの所持品を調べました」


 ルミナリスは小さな包みを取り出す。


「その懐から、これが」


 包みを開くと、封蝋が施された一通の手紙が現れた。レガリア王家の紋章が、重々しく刻まれている。


「……手紙」


 紋章を見た瞬間、胸の奥に妙な感覚が広がった。


 レオンハルト。元婚約者。私を追放した男。


 そして――今もそこにいる、敵。


「おそらくレオンハルト殿下からの親書かと思われます」


 私は手紙を一瞥したが、手に取ることはしなかった。封蝋を見ただけで、中身はおおよそ想像がつく。


「これは?」


 私はヴィクトールに視線を向ける。


「殿下からの手紙です」


 ヴィクトールは静かに答えた。


「適切な機会に、あなたにお渡しする予定でした」


「適切な機会とは?」


 ヴィクトールは僅かに目を伏せる。


「もし、あなたがご無事であれば。もし、お話ができる状況であれば。そして――」


 彼は、まっすぐに私を見た。


「もし、殿下の言葉を聞いていただけるようであれば」


 その言葉に、私は小さく息を吐いた。


「ルミナリス」


「はい」


「その手紙は私室に持っていってください」


 ルミナリスが一瞬、驚いたように目を見開く。


「……今はお読みにならないのですか?」


「ええ」


 私は冷ややかに答えた。


「今は読む気になれません」


 ヴィクトールがじっと私を見つめている。その目には、何かを悟ったような色が浮かんでいた。


「……そうですか」


 彼は静かに呟く。


「やはり、殿下は――」


「ヴィクトール」


 私は彼の名を呼んだ。


「あなたなら、もう分かっているでしょう」


 ヴィクトールは視線を落とす。


「……はい」


 その声は、沈んでいた。


「殿下は、取り返しのつかない過ちを犯されたのですね」


 私は何も返さない。答えは既に出ている。


 地下牢を出ると、石造りの冷たい通路が続いていた。松明の灯りが壁を照らし出し、その炎が揺れるたび、影もまた揺れ動く。


 私はそこで足を止めた。


「陛下?」


 ルミナリスが心配そうに声をかけてくる。


「……少し、一人にしてください」


「かしこまりました」


 ルミナリスとガルディウスが先に行き、アザゼルだけが少し離れた場所に残る。彼は何も言わず、ただ静かに私の様子を伺っていた。


 私は壁に手をつく。冷たい石の感触が、いやでも現実を思い出させる。


(……私は、舞い上がっていた)


 ここ数週間の出来事が、頭の中で一気に駆け巡った。


 森に追放されて、アザゼルと出会って、仲間が増えて。ルミナリス、ソラリス、ザラキエル、ガルディウス、フィーア――みんなが私を信じてくれた。


 帝国を建てた。たった二週間で、千五百人以上の民が集まった。エーテル鋼の工房も稼働し始めている。全てが順調に見えた。


 そしてアザゼル。星降りの湖で、彼に想いを告げた。彼の手の温もり。優しい声。隣に立つ時の、あの安堵と幸福。


 全てが、上手く回っているように思えた。


 ――いいえ。上手くいきすぎていたのだ。


(……だから、忘れていた)


 敵は、まだそこにいる。


 聖レガリア王国。レオンハルト。ミレイユ。聖女教会。私を追放した者たち。


 彼らは私を「偽聖女」として断罪し、森へと捨てた。なのに今になって、私の所在を探っている。


 矛盾している。自分たちで追放しておきながら、生死を確認しようとしている。スパイを送り込み、手紙を持たせ、様子を窺っている。


 なぜか――本来なら、もう関係のないはずなのに。


 答えは簡単だ。彼らは不安なのだ。本当に「偽物」だったのか。本当に「無力」だったのか。もし違っていたら、どうなるのか。


 そして今、スパイが来た。


 レオンハルトの手紙まで。


(……追放しておいて、今更何を)


 拳が、わずかに震えていた。


(……前世の私なら)


 橘美咲。ブラック企業で過労死した、敏腕プロジェクトマネージャー。あの頃の私なら、こんな油断はしなかった。常にリスクを評価し、危機を予測し、先回りして手を打っていた。


 けれど今の私は――幸せに浮かれて、地に足がついていなかったのだ。


「……セレスティア」


 アザゼルが近づいてくる。


「大丈夫か」


「ええ」


 私は顔を上げた。


「大丈夫です。むしろ――」


 私はアザゼルを見据える。


「目が覚めました」


 アザゼルが、わずかに目を細めた。


「……そうか」


「私は舞い上がっていたんです」


 静かに、自分の過ちを言葉にする。


「全てが順調で、幸せで。だから、忘れていた」


 私は拳を強く握りしめた。


「敵は、まだそこにいる。彼らは私を追放した。それなのに今さら私を探している。スパイを送り、手紙を持たせ、様子を窺っている」


 声に、自然と熱がこもる。


「今回はスパイが三名。次は、もっと多くの者が来るでしょう」


 アザゼルが短く相槌を打つ。


「……ああ」


「だから」


 私は彼を真っすぐ見上げた。


「今のうちに、手を打ちます」


 アザゼルの口元に、小さな笑みが浮かぶ。


「お前らしくなってきたな」


「ええ」


 私は力強く頷く。


「冷静に、現実を見て、動きます」


 私はルミナリスとガルディウスの方へ向き直った。


「全幹部を会議室に集めてください。緊急の協議を行います」


 一時間後、会議室の円卓には全員が揃っていた。


 アザゼル、ガルディウス、フィーア、ルミナリス、ソラリス、ザラキエル。そして私。帝国を支える面々が、重い表情で席についている。


「皆さん、お集まりいただきありがとうございます」


 私は立ち上がり、円卓を見渡した。


「本日、聖レガリア王国のスパイ三名を捕獲しました。目的は偵察。私の生死確認と、この帝国の状況把握が任務だったようです」


 全員の表情が、緊張に染まる。


「そして、これを」


 私はルミナリスから受け取った手紙を机の中央に置いた。封蝋はまだ破られていない。


「レオンハルト殿下からの親書です」


 ソラリスが興味深そうに身を乗り出し、手紙を手に取って封蝋を確認する。


「わぁ……王家の紋章ですねー」


 軽い調子の声に、しかし微妙な陰が混じっていた。


「中身は?」


「まだ読んでいません」


 私は淡々と答える。


「ですが、想像はつきます」


「調査、でしょうね」


 ルミナリスが冷えた声音で言い捨てる。


「ああ」


 アザゼルも頷いた。


「明らかに様子見だ」


 ガルディウスが拳を握りしめた。


「陛下を追放しておきながら……今さらこんな真似を……!」


「落ち着いて、ガルディウス」


 フィーアが静かに宥める。


「でも、これは大きな問題ですね。スパイが来たということは」


「ええ」


 私は頷いた。


「もう隠し切れません。聖レガリア王国は、この帝国の存在に気づきました」


 ザラキエルが一歩、前へ出る。


「陛下、ご提案がございます」


 重々しい声が、会議室に響いた。


「スパイを始末してはいかがでしょうか。情報が漏れることを防げます」


 空気が一瞬で張りつめた。


「ザラキエル……」


 フィーアが不安げに彼を見上げる。


「三名だけです。誰にも知られず、消すことができます」


 私はまっすぐにザラキエルを見据えた。


「その提案は、却下します」


「陛下?」


「私は、不必要な殺生はしません」


 静かな声が、確かな意志を帯びて広がる。


「彼らはただ任務を遂行しようとしただけです。責められるべきは、命じた側であって、彼らそのものではない」


 ザラキエルは、深く一礼した。


「……失礼いたしました」


「ならば」


 アザゼルが、代わるように前へ出る。


「別の方法を提案する」


 彼の声が、全員の意識を引き寄せた。


「帝国を隠せ」


 短い一言に、皆が彼を見つめる。


「隠す……?」


 ソラリスが首をかしげる。


「ああ」


 アザゼルはゆっくり頷いた。


「今、この帝国の存在が公になれば、どうなる? 聖レガリア王国はすぐに圧力をかけてくるだろう。『偽聖女が国を創った』として異端認定し、聖女教会も動き出す」


 彼の声が、さらに低く落ちていく。


「そこへ加えて、周辺国も興味を持つ。エーテル鋼の噂は既に広まり始めている。技術を狙う者、盗み出そうとする者が現れる。そして――」


 アザゼルは私へ視線を向けた。


「亜人を受け入れている国として、人間至上主義の国々すべてを敵に回すことになる」


 会議室に、重苦しい沈黙が落ちる。


「今の帝国は、まだ小さい。まだ脆い。複数の国から同時に圧力を受ければ、持ちこたえられない」


 ガルディウスが立ち上がった。


「では、どうすればいい!」


「だから」


 アザゼルは冷静に言い切る。


「隠すんだ」


 彼は全員の顔を順に見回した。


「外から見えないように。存在そのものを秘匿する。そして、十分に強くなるまで力を蓄える」


 ルミナリスが静かに頷く。


「……理にかなった策です」


「でも」


 フィーアが、おずおずと口を開いた。


「どうやって隠すのですか? この規模の街を隠すなんて……」


「できる」


 アザゼルはまっすぐに私を見た。


「セレスティアとザラキエル、そして俺の三人なら」


 私は、すぐに彼の意図を理解する。


「大規模結界、ですね」


「ああ」


 アザゼルが頷いた。


「お前の錬成術で結界の基盤を創る。ザラキエルの竜の力で結界を強化する。そして俺の時空術で、空間そのものを歪める」


 彼は円卓の上を指でなぞりながら、簡易な図を描き出した。


「外から見れば、そこにはただの森が広がっているだけ。だが内側からは外が見える。出入りは転移術によってのみ行う」


 ソラリスの目が輝いた。


「すごいですー! それなら誰にも見つからなくなりますー!」


 ガルディウスが、なおも不安げな表情のまま口を開く。


「それで、本当に隠し切れるのでしょうか」


「隠し切れる」


 アザゼルは断言した。


「俺の時空術は、空間そのものを操作する。存在を、世界の別の層に移すことだってできる。物理的にも魔法的にも、探知はほぼ不可能だ」


 私はアザゼルを見つめた。紅い瞳が真剣に輝き、その奥に、私と帝国を守ろうとする固い意志が宿っているのが分かる。


「……分かりました」


 私は全員を見回し、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「帝国を隠します」


 その一言に、全員が無言で頷く。


「ただし」


 私は続けた。


「もう一つ、決めなければならないことがあります」


 視線が一斉にこちらへ集まった。


「スパイたちの処遇です」


 再び、会議室に緊張が満ちる。


「殺さないとして」


 ルミナリスが、静かな声で問いかける。


「では、どうなさるおつもりですか」


「記憶を消去して解放、という選択肢もありますわ」


 フィーアがそっと提案する。


 しかし私は、首を横に振った。


「それは、できません」


 全員の表情に、驚きが走る。


「陛下?」


 ガルディウスが問いかける。


 私は一度、深く息を吸い込んだ。


「記憶消去は、不完全です」


 アザゼルが頷き、補足する。


「そうだ。俺の時空術でも、記憶を完全に消し去るのは難しい。深層記憶までは消せない」


「さらに」


 私は言葉を継いだ。


「聖レガリア王国には高度な魔法技術があります。記憶を復元する術が存在していても、おかしくはありません」


 ルミナリスが鋭く反応する。


「……確かに。宮廷魔導師の中には、精神魔法に長けた者がいると聞いております」


「もし」


 私の声が、自然と冷えを帯びた。


「もし万が一、記憶が復元されたら? 帝国の存在、場所、規模――全てが露呈します」


 ガルディウスが息を呑む。


「それは……」


「さらに、魔法的な追跡の可能性もある」


 アザゼルが重ねた。


「スパイに気づかれない追跡魔法を仕込む技術は既に存在している。解放すれば、そこから帝国の位置が特定される危険性が高い」


 ソラリスが、不安そうに声を上げる。


「じゃあ……どうするんですか?」


 私は、地下牢のある方角へ視線を向けた。


「拘束します。永久に」


 その言葉に、誰もすぐには声を出せなかった。


「ただし」


 私は静かに続ける。


「人道的な処遇を約束します。適切な食事、清潔な環境、必要な医療。それらは全て保証する」


 そして、はっきりと言い切った。


「いずれ帝国が十分に強大になり、彼らを解放しても問題がないと判断できる時が来るまで」


 フィーアが、胸に手を当てて小さく頷く。


「……それが、一番の折衷案ですね」


「陛下の判断を支持します」


 ガルディウスが真剣な顔で頭を下げた。


 ザラキエルも、椅子から立ち上がる。


「陛下のご意志であれば」


 力強い声が響いた。


「この身、全てを捧げましょう」


 ルミナリスとソラリスも、それぞれの仕方で賛意を示す。


「では」


 アザゼルが、改めて私に向き直った。


「まずは、スパイたちに告げよう」


「ええ」


 私は頷いた。


「一緒に」


 会議を終えた私たちは、再び地下牢へと向かう。


 三つの独房の前で、私は全員を立たせた。ブルーノとカイルは相変わらずあからさまな敵意を滲ませているが、ヴィクトールだけは静かな眼差しでこちらを見ていた。


「あなたたちの処遇について、決定しました」


 石造りの空間に、私の声が届く。


「な……」


 カイルが震える声を漏らした。


「殺すつもりはありません」


 私は、先に結論の一部を示す。


「ですが、解放もできません」


 ブルーノが、鉄格子を揺らさんばかりに怒鳴った。


「どういうことだ!」


「記憶消去は不完全です。復元される可能性がある」


 私は淡々と告げる。


「魔法的な追跡のリスクも無視できない。だから、この帝国を守るために、あなたたちを拘束します。期限を定めない形で」


 カイルの顔色が、一気に蒼白になった。


「ふ、ふざけるな! 俺たちは聖レガリア王国の――」


「任務を遂行していただけです」


 私は冷ややかに言葉を挟む。


「それは理解しています。だからこそ、命は奪いません」


 私は三人を順に見回した。


「適切な食事、清潔な環境、必要な医療。その全てを保証します。ただし――」


 そこで一拍置き、はっきりと告げる。


「自由は、ありません」


 ヴィクトールが低い声で問いかけてきた。


「……いつまで、ですか」


「帝国が十分に強大になり、あなたたちを解放しても問題ないと判断できる時まで」


 ヴィクトールは、静かに息を吐いた。


「……そうですか」


 やがて、かすかに頷く。


「賢明な判断です」


「ヴィクトール?」


 ブルーノが信じられないものを見るような目で彼を叫ぶ。


「何を言っている! 抵抗しろ!」


 しかしヴィクトールは、首を横に振った。


「無駄だ、ブルーノ。彼女の判断は正しい」


 彼は私へと視線を戻す。


「一つだけ、お願いがあります」


「何でしょう」


「せめて――」


 ヴィクトールの声が、僅かに震えた。


「せめて、殿下に伝えてください。『私たちは任務に失敗した』と」


 私は、ほんの少しだけ眉をひそめる。


「それは、自然と伝わるでしょう」


「……?」


「こちらから手紙を送ります」


 私は冷ややかな声で言った。


「それで十分かと思います」


 ヴィクトールが、わずかに目を見開いた。次いで――かすかな笑みを浮かべる。


「……なるほど。それは、ずいぶんと明確な答えですね」


 彼はゆっくりと目を閉じ、深く息を吐いた。


「分かりました。私は、この判断を受け入れます」


「ヴィクトール! 貴様、降伏するのか!」


 ブルーノが激しく叫ぶ。


「降伏ではない」


 ヴィクトールは否定した。


「現実を受け入れているだけです」


 そして、静かな声音で言葉を紡ぐ。


「いずれ、必ず殿下が後悔する日が来るでしょう。あなたを追放したことを」


 その言葉にも、私は何も返さなかった。ただ踵を返し、地下牢を後にするだけだ。


 三日後、帝国の中央広場には全ての民が集まっていた。


 千五百人を超える亜人たち――獣人、エルフ、ドワーフ、竜人。さまざまな種族が、私を見上げている。私は高台に立ち、その隣にはアザゼルが控えていた。


「皆さん」


 私は声を張り、広場全体に響くように呼びかける。


「今日、重大な発表があります」


 ざわめきが次第に静まり、無数の視線が私一人に集まっていく。


「数日前、聖レガリア王国のスパイがこの帝国に侵入しました」


 広場に、動揺が走った。


「彼らの目的は偵察。この帝国の存在を確認することでした」


 民衆の表情が、不安の色に染まっていく。


「もし、このまま帝国の存在が公になれば」


 私は、一人ひとりの顔を確かめるように視線を巡らせた。


「複数の国から圧力を受けることになります。聖レガリア王国だけではありません。私たちが亜人を受け入れているという理由で、多くの国が敵に回る可能性があります」


 不安げなささやきが、あちこちから聞こえてきた。


「ですが」


 私は一度、はっきりと声を張る。


「私は皆さんを守ります」


 民衆が、息を飲むように静まり返る。


「そのために」


 私は隣に立つアザゼルへと視線を送った。


「この帝国を、隠します」


 広場がざわめきに包まれる。


「大規模な結界を構築します。外から見ると、そこにはただの森が広がっているようにしか見えません」


 私は、手を高台の外へと差し伸べた。


「しかし、内側ではこれまで通りの生活が続けられます」


 そして、はっきりと告げる。


「ただし。外部との接触は、極めて限定的になります。その覚悟だけは、持っていてください」


 民衆は互いに顔を見合わせ、戸惑いと不安とが入り混じった表情を浮かべた。


 そんな中、一人の獣人が前に出る。銀狼族の老人だ。


「女帝陛下」


 震えを含んだ声で、彼は言った。


「私たちは……」


 彼は周囲を見回し、そしてもう一度、私を見上げる。


「私たちは、陛下を信じます」


 その一言に、他の民衆も次々と頷き始めた。


「そうだ!」


「陛下なら大丈夫だ!」


「私たちを、守ってくださる!」


 いくつもの声が重なり、やがて大きなうねりとなって広場を満たしていく。胸の奥が熱くなるのを、私ははっきりと感じていた。


「ありがとう」


 私は、感情を押し殺さずに言葉を返す。


「皆さんを必ず守ります。これは、私の約束です」


 歓声が、広場にあふれた。


 高台の上で、私はアザゼルの方を向く。彼もまた私を見ていた。その瞳には、揺るぎない決意が宿っている。


「始めましょう」


 私は静かに告げた。


「ああ」


 アザゼルが、短く力強く頷く。


「これから、全てが変わる」


 私たちは、見えざる帝国を創るのだ。

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