第14.5話 魔王の独白
夜が、世界を覆っていた。
ノヴァ・エデン帝国の夜空は、余計な光がない分、星々がうるさいほどに輝いている。
俺は、中央宮殿の最上階にある自室のバルコニーに出て、手すりに肘をついていた。
夜風は冷たい。だが、体の芯に残る熱は、一向に冷める気配がなかった。
視線を落とせば、自分の掌がある。
月明かりに照らされた、武骨な手だ。
かつては数えきれないほどの命を奪い、血に染まった「処刑人の手」。
だが、今、この手に残っている感触は、血の鉄錆びた臭いではない。
絹のように滑らかな銀髪の感触と、指先が触れた頬の、驚くほど柔らかな温もりだ。
掌を握り、開く。
まだ、残っている。
彼女の髪を梳いた時の感触。頬に触れた瞬間の柔らかさ。
そして――あと数センチで唇に触れるところだった、あの距離感。
止めたのは、俺だ。
止めなければ、どうなっていたか。
理性が、ぎりぎりのところで制動をかけた。
だが、その理性も、もう長くは保たない。
『……私が欲しいのは、アザゼル。あなた自身です』
湖畔で彼女が放った言葉が、耳の奥で何度も反響している。
そのたびに、胸の奥底で、何かがどろりと溶けていくような感覚に襲われる。
『過去も、罪も、全部含めて。あなたという人間が、欲しい』
『だから――もう、独りで背負わないでください』
俺は、深く息を吐き出した。
参ったな、本当に。
魔王と呼ばれ、世界を恐怖させたこの俺が、たった一人の女に、ここまでペースを乱されるとは。
――五百年前の俺は、こんな感情を知らなかった。
あの頃。
俺の心は、枯れ果てていた。
圧倒的な力。富も、名声も、跪く臣下も。望めば全てが手に入った。
だが、どれ一つとして心を満たすことはなかった。
俺は「処刑人の魔王」と呼ばれていた。
反逆者を、見せしめのために公開処刑する役目。それが、俺の存在意義だった。
処刑台は、いつも冷たかった。
石の冷たさ。民衆の視線の冷たさ。そして、跪かされた反逆者の、諦めきった瞳の冷たさ。
俺が剣を振り下ろすたび、歓声が上がった。
恐怖と、安堵と、そして――娯楽としての熱狂。
それだけだった。
誰も、俺を見ていなかった。
処刑人という「役割」を見ていただけだ。
そして、ある夜。
信頼していた側近が、杯に毒を盛った。
その男は、最後まで笑っていた。
「申し訳ございません、魔王様」と謝罪しながら、目は笑っていた。
裏切りに遭い、毒杯を仰いだ時も、俺は怒りすら覚えなかった。
ただ、「ああ、これで終わるのか」という、安堵にも似た虚無感だけがあった。
死など、長い退屈の終わりに過ぎなかったのだ。
意識が途絶える瞬間――
誰も、俺を必要としていなかった。
恐れられ、利用され、最後には捨てられた。
それだけの人生だった。
――だが、死は終わりではなかった。
次に目を開けた時。
俺は、薄汚れた檻の中にいた。
転生。あるいは、呪いのような再来。
今度こそこの世界を更地にしてやろうかと考えていた。
退屈しのぎに、全てを破壊し尽くして終わろう、と。
だが。
その破壊衝動を止めたのは、一人の女の瞳だった。
森の中で、奴隷商人を襲撃した彼女――セレスティア。
彼女は、檻の中の俺を見て、悲鳴も上げず、侮蔑もせず、ただ真っ直ぐに見つめてきた。
そのアメジストの瞳には、俺と同じ「孤独」と、それをねじ伏せようとする「意志」が宿っていた。
泥にまみれた手を差し出し、彼女と契約を結んだあの夜。
何かが変わった。
最初は、ただの興味だった。
「偽聖女」として捨てられた女が、どこまで足掻けるのか。
だが、共に過ごす時間は、予想を遥かに超えて刺激的だった。
錬成術で世界を書き換えていく創造性。
民のために頭を下げ、泥臭い仕事を厭わない誠実さ。
そして、時折見せる、守りたくなるような脆さ。
いつしか、俺の目は、彼女のことしか追わなくなっていた。
彼女が笑うと、胸が熱くなる。
彼女が他の誰かに触れられると、不快感が込み上げる。
彼女が俺を頼り、名前を呼んでくれると――それだけで、世界を手に入れたような全能感に満たされる。
これを、恋と呼ぶのか。
五百年生きてきて、初めて知る感情だった。
なんと甘く、そしてなんと厄介な毒なのだろう。
過去を思い返しても、答えは出ない。
俺は視線を上げ、再び夜空を見上げた。
そして、バルコニーから身を乗り出し、彼女の私室がある方角を見やった。
カーテンの隙間から、わずかに灯りが漏れている。
まだ起きているのだろうか。
今日のことを思い出して、眠れずにいるのだろうか。
そう想像するだけで、愛おしさが込み上げる。
今すぐ「時空転移」を使ってあの部屋に忍び込み、その細い体を抱きしめてしまいたいという衝動が、理性を揺さぶる。
昼間、湖畔でキスを止めたのは、俺に残った僅かな理性の抵抗だった。
彼女は、夜明け前の空に似ている。
まだ闇に包まれているのに、確かに温度を持ち始めている。
触れれば、きっと温かい。
だが、同時に――彼女には、まだ隠していることがある。
時折見せる、この世界の常識とは異なる発想。
効率を追求する、独特の思考回路。
「プロジェクト」「コスト」「リソース」――聞き慣れない言葉。
まるで、別の世界を生きてきたかのような。
ま、それもいずれ話してくれるだろう。
彼女が望むなら、な。
「随分と熱心に、女帝陛下の部屋を眺めておられるようで」
ふいに、背後から声がした。
振り返ると、執事服姿のザラキエルが、バルコニーの入口に立っていた。
気配は感じていた。ただ、無視していただけだ。
「夜警か」
「ええ。ですが、どうやら城の外ではなく、城の中に不穏な気配を感じましたので」
食えない笑みを浮かべて、ザラキエルはバルコニーへと歩み寄ってきた。
手すりに寄りかかり、俺の隣に並ぶ。
「宰相殿。このまま『時空転移』で女帝陛下の寝室に忍び込む気ではないでしょうね」
「……考えてもいない」
「嘘がお上手だ」
ザラキエルは、愉快そうに肩を揺らした。
「その顔は、我慢の限界という表情ですよ」
「黙れ、老竜」
「これは手厳しい」
にやにやと笑う執事に、俺は舌打ちした。
この古竜、三千年以上生きているだけあって、人の心を読むのが上手すぎる。
「まあ、帰還された時のお二人の様子を拝見すれば、何があったかは察せられます」
ザラキエルは、夜空を見上げた。
「宰相殿。初めてお会いした時、あなたはまだ、どこか冷めた目をしておられた」
図星を突かれ、俺は黙った。
「生きる意味を探している、そんな目でした」
「ですが、今は違う」
ザラキエルは、穏やかに笑った。
「女帝陛下は、あなたにとって――」
そこで言葉を切り、老竜は夜空を見上げた。
続きは言わない。
言わせない気だ。
救い。
そう言いたかったのだろう。
セレスティアは、俺にとっての救いだ。
五百年の虚無を終わらせてくれた、唯一の焔だ。
「……老竜。お前は、俺の過去を知っているのか」
「断片的には」
ザラキエルは頷いた。
「『処刑人の魔王』。五百年前の話ですね」
「……よく知っているな」
「三千年も生きておりますから」
沈黙。
夜風が吹き抜ける。
「……俺には、血塗られた過去がある」
俺は、もう一度、自分の手を見つめた。
今度は、過去を振り返るためではない。
この手で、未来を掴めるのか――それを確かめるために。
「処刑人として、何人殺したか分からない」
「そんな俺が――」
「では、逆にお聞きしましょう」
ザラキエルが、静かに口を開いた。
「もし、女帝陛下が同じことを言ったら、どうされますか?」
「……は?」
「彼女が、『私は復讐者だから、アザゼルの隣にいる資格はない』と言ったら」
その仮定に、俺は即座に答えた。
「そんなことは関係ない。彼女の過去がどうであろうと、俺は彼女を選ぶ」
「でしょうね」
ザラキエルは、満足そうに頷いた。
「それが、彼女の答えでもあるのですよ」
その言葉に、昼間の彼女の顔が蘇る。
震える声。
滲む視界。
それでも、真っ直ぐに俺を見つめる瞳。
「彼女は、あなたの全てを受け入れる覚悟を決めた」
ザラキエルは、俺の肩を叩いた。
「だから、もう迷わないことです」
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
そして、決意した。
そうだ。
彼女が望むなら――全てを話そう。
処刑人の魔王として犯した罪。
血塗られた過去。
その全てを。
彼女が受け止めてくれると、信じて。
「……ありがとう、ザラキエル」
「どういたしまして」
執事は、恭しく一礼した。
「では、私はこれで」
「ああ」
ザラキエルが立ち去ろうとした時、俺は思い出したように言った。
「そういえば、エルフが紛れ込んでいるそうだな」
「ええ。身分を隠しているようですが」
ザラキエルは、意味深に笑った。
「ですが、宰相殿。もし優れた男性が帝国に加わることになっても――」
「……何だと?」
「有能な人材ほど、女帝陛下の近くで働くことになりますからね」
「……」
図星だった。
俺は、ザラキエルを睨んだが、執事は涼しい顔で立ち去っていった。
足音が遠ざかり、静寂が戻る。
独りになったバルコニーで、俺は再び、セレスティアの部屋を見やった。
灯りは、まだ消えていない。
風が吹いて、夜が更けていく。
セレスティアへの想い。
それは、もう止められない。
同時に、どす黒い独占欲が、腹の底で鎌首をもたげているのも事実だった。
もし、他の男が彼女に近づこうものなら――俺は容赦なく排除するだろう。
彼女の隣は、俺の指定席だ。
そこだけは、誰にも譲らない。
レオンハルト。
彼女がかつて、想いを寄せていた男。
奴は、宝石を石ころと間違えて捨てた。
俺の大切な女の心を傷つけ、尊厳を踏みにじった。
その罪は、万死に値する。
だが、復讐は彼女の手で。
彼女が「女帝」として輝き、かつて自分を見下した者たちを見返す。
その最高のカタルシスを、俺が奪うわけにはいかない。
だから俺は、最高の「宰相」を演じる。
彼女の剣となり、盾となり、その覇道を支える礎となる。
そして、彼女が勝利の美酒に酔う時、その隣で杯を交わすのは――
絶対に俺でなければならない。
夜は、更に深まっていた。
冷えた夜風に当たりすぎた。そろそろ戻るか。
部屋に戻り、ベッドに横たわる。
目を閉じると、瞼の裏に、昼間の彼女の笑顔が浮かんだ。
風に靡く銀髪。
恥じらうように染まった頬。
そして、俺を真っ直ぐに見つめる、信頼に満ちた瞳。
言葉にしたい衝動が、喉まで込み上げてくる。
だが、まだ早い。
まだ、その資格を俺は得ていない。
彼女に全てを話し、それでも受け入れてもらえた時――
その時初めて、この想いを言葉にしよう。
心地よい微睡みが、意識を包み込み始めた。
明日も、彼女の周りは騒がしくなるだろう。
帝国に興味を持つ者たちが、次々と訪れてくる。
悪い虫がつかないよう、しっかりと見張っておかないとな。
そんなことを考えながら、俺は深い眠りへと落ちていった。
五百年の退屈を終わらせてくれた女のことを想いながら。




