第14話 二人だけの視察
帝国建国から十日が過ぎた。
ノヴァ・エデン帝国は、驚くべき速度で成長を続けている。迫害を逃れて流入してきた亜人たちは、帝国への感謝の印として、それぞれが持ち寄った物資を提供してくれている。食料、布、工具、時には貴重な魔鉱石まで。街には笑顔と活気が溢れていた。
「陛下、現在の物資流入状況ですが」
先ほど、ルミナリスから報告を受けた。亜人たちが持ち込む物資は予想以上に多様で、当面の生活には困らない状況だという。
そして、もう一つ。
「エルフと思われる者が、数名紛れ込んでいるとのことです」
ルミナリスの報告は続いた。
「身分を隠しているようですが、害意は感じられません。むしろ、民たちの生活を手伝い、魔法の指導などもしているとか」
「問題はない」
アザゼルが冷静に分析した。
「害意がなく、協力的なら、そのままでいい。おそらく、様子を見に来たのだろう」
その言葉通り、帝国に集まる人々の表情は明るい。
「むしろ、彼らは『ここに居場所がある』という事実に、物資以上の価値を見出している」
だが、これはあくまで初期段階だ。
独自通貨の発行。
流通網の確立。
経済基盤の整備。
やるべきことは山積みだ。でも、一つずつ、確実に前進している。
女帝としての執務は、目の回るような忙しさだ。
だが、不思議と疲れはなかった。
充実感が、私の体を突き動かしている。
そんなある日の朝。
執務室で書類と格闘していた私に、アザゼルが声をかけた。
「相変わらず、羽ペンが似合うな」
「……え?」
顔を上げると、彼は僅かに口角を上げて、私を見ていた。
「錬成術で山を動かすより、そうやって書類を片付けている方が、お前らしい」
「からかっているんですか?」
羽ペンを置いて、少し頬を膨らませる。
女帝として威厳を保つべきなのに、彼の前ではどうしても素が出てしまう。
「いや」
彼は、珍しく少し迷うような表情を浮かべた。
「褒めている。……お前は、そういう細かい仕事も完璧にこなす」
「それは……」
褒められて、顔が熱くなる。
慌てて視線を逸らすと、彼が小さく笑った気配がした。
「セレスティア。少し、時間を空けられるか」
「……は、はい。急ぎの案件は片付きましたけど」
もう一度顔を上げると、彼はいつもの真面目な表情に戻っていた。
「帝国の領土外縁部……特に、北の山岳地帯の調査がまだ不十分だ。今後の防衛ラインを策定するためにも、現地を視察しておきたい」
「北、ですか」
私は、頭の中で地図を思い浮かべる。
ノヴァ・エデン帝国は、七神樹に囲まれた中央大陸の外側――七神樹の加護が届かない「空白地帯」に位置している。その北方には、険しい山脈が連なり、その先には――
「あの山脈を越えた先は、確か......」
「ドワーフェン山岳王国の領域だ」
アザゼルが頷いた。
「大地樹テラガイアの加護を受ける、鉱物と鍛冶の国。グランツやドゥリンの故郷でもある」
「では、将来的には、あの国との交易も......」
「ああ。だが、それ以前に」
彼の表情が、僅かに険しくなる。
「山岳地帯は魔獣の巣だ。防衛上の要所を把握しておかなければ、いずれ脅威になる」
「なるほど。ガルディウスか、ルミナリスを行かせますか?」
「いや」
アザゼルは、短く首を横に振った。
「俺とお前で行く」
「……二人で、ですか?」
「お前の『万象錬成術』による地形把握と、俺の『時空支配術』による移動。……それが、最も効率的だ」
彼の説明は、宰相として極めて論理的だった。
効率。最適解。
前世からの私の大好物だ。断る理由などない。
「分かりました。行きましょう」
私は立ち上がり、外套を羽織る。
その時、アザゼルが僅かに口角を上げ、何か言いたげに目を細めたことに、私は気づかなかった。
まさか、この視察が、私の心を大きく揺さぶることになるとは、この時はまだ知る由もなかったのだ。
準備を整え、私たちは城の中庭へと向かった。
朝の光が、石畳を照らしている。
空気は冷たく、でも澄んでいる。
これから、二人きりで。
アザゼルと、二人きりで。
その事実が、妙に意識されて、心臓の鼓動が少しだけ早くなる。
「捕まっていろ」
城の中庭。
アザゼルが、自然な動作で手を差し出してきた。
「はい」
私がその手を取ると、視界が一瞬で歪んだ。
浮遊感と、全身が粒子に分解されるような奇妙な感覚。
彼の「時空転移」だ。
次の瞬間。
私たちは、まったく別の場所に立っていた。
「……っ」
冷たく澄んだ空気が、肺を満たす。
目を開けた私は、その光景に言葉を失った。
そこは、標高の高い山の中腹にある、巨大なカルデラ湖の畔だった。
だが、ただの湖ではない。
湖面が、鏡のように凪いでおり、昼間だというのに、空の青さと雲を完璧に反射している。さらに不思議なのは、湖底から淡い光が湧き上がっており、それが水面で弾けて、まるで星屑のようにキラキラと輝いていることだ。
「ここは……」
「『星降りの湖』と呼んでいる」
アザゼルが、静かに教えてくれた。
「この山脈の魔力が集まる特異点だ。湖底の魔鉱石が自然発光し、水面に星空を描く」
「......この山脈を越えた先が、ドワーフェン山岳王国」
私が呟くと、彼は頷いた。
「ああ。大地樹テラガイアの加護が、あの山々を通じてここまで届いている。だから、この湖には特別な魔力が宿る」
「神樹の加護......」
七神樹。
この世界の魔法とスキルの源泉。
私たちの帝国は、その加護が届かない「空白地帯」に建てられている。
それは、弱点でもあり――でも同時に、どの神樹にも縛られない自由でもある。
「綺麗……」
感嘆のため息が漏れる。
前世でも、今世でも、こんなに幻想的な景色は見たことがなかった。
「……防衛ラインの策定には、確かに重要な地点ですね。魔力の供給源としても有望ですし、水源としても……」
私は、努めて「女帝」としての視点で分析しようとした。
「それに、ドワーフェン山岳王国への交易路を考えるなら、この湖を中継地点にできます。グランツたちのような優秀な職人がいる国。将来的には、友好関係を築きたいですね」
北の山岳地帯は、魔獣の脅威がある。
でも、その先にある大地樹テラガイアの国は、鉱物と鍛冶の技術大国だ。
エーテル鋼の技術と、ドワーフの鍛冶技術が融合すれば――
だが、アザゼルは私の言葉を遮るように、湖のほとりの岩場に腰を下ろした。
「仕事の話は、後だ」
「え?」
「少し、休め。お前は最近、詰め込みすぎだ」
彼は、自分の隣――人が一人座れるスペースを、ポンと手で叩いた。
「座れ」
「……は、はい」
促されるまま、彼の隣に座る。
距離が、近い。
彼の肩と私の肩が、呼吸をするたびに触れ合う距離。
静寂。
聞こえるのは、風が木々を揺らす音と、湖面が微かに波打つ音だけ。
でも、ちっとも気まずくない。
むしろ、この静けさが心地よい。
不思議だった。
かつての私は、沈黙が怖かった。
レオンハルト殿下といる時は、常に何か話さなければ、楽しませなければと、必死に言葉を探していた。
それでも、彼の心はいつも別の場所にあって、私は空回りを続けていた。
でも、アザゼルとは違う。
言葉がなくても、繋がっている気がする。
隣にいる彼の体温が、冷たい風の中で、じんわりと私を温めてくれる。
「……お前に、見せたかった」
不意に、彼が口を開いた。
「え?」
アザゼルは、湖面を見つめたまま言った。
「この景色を。……お前が、喜ぶ顔が見たかったからだ」
その言葉に、胸の奥がぎゅっと掴まれたように痛んだ。
視察という名目。効率という理屈。
それは全部、建前だったの?
「なぜ……私に?」
声が、震える。
彼は、ゆっくりとこちらを向いた。
紅い瞳が、私を映す。
そこには、いつもの冷徹な光はなく、ただ深く、穏やかな色が揺れていた。
「お前が笑うと、俺も悪くない気分になる。……ただ、それだけだ」
彼は、ぶっきらぼうに言って、また湖の方を向いてしまった。
耳の先が、僅かに赤い。
ずるい。
そんな風に言われて、平気でいられるわけがない。
顔が熱くなるのを自覚する。
湖面から吹き上げる風が冷たくて、助かった。
そうでなければ、私の顔色がどれほど赤いか、彼に知られてしまうところだった。
深呼吸。
冷たい空気を吸い込んで、熱くなった頬を冷まそうとする。
でも、隣に座る彼の存在が、あまりにも大きくて。
意識すればするほど、心臓が騒がしくなる。
落ち着け、私。
女帝としての威厳は、どこへ行った。
そう自分に言い聞かせながら、私たちはしばらくの間、並んで湖を見ていた。
他愛のない話をした。
亜人たちの子供が可愛かったこと。
ガルディウスが昨日の訓練で張り切りすぎて筋肉痛になったこと。
ソラリスが新しいお菓子を発明して、厨房を爆発させかけたこと。
「……ふふっ」
「まったく、あいつらは」
二人で笑い合う。
こんなに穏やかな時間を過ごすのは、いつぶりだろう。
いや、生まれて初めてかもしれない。
そんな時、アザゼルが懐から布の包みを取り出した。
「......これは?」
「ソラリスが、持たせた」
彼は、少し困ったような顔で包みを開く。
中には、二人分の食事が入っていた。黒パンと白パン、薫製にした山鳥の肉、チーズ、それに色とりどりの野菜。果物も幾つか。そして、小さな革袋に入った水――いや、香りからして、ハーブを煮出した茶だ。
「視察に行くと言ったら、『お二人きりなら、これが必要です』と」
アザゼルが、僅かに眉を寄せる。
「あの狐娘、余計なことを」
「でも......ありがたいですね」
私は、思わず笑みを浮かべた。
そういえば、朝から何も食べていない。執務に追われて、朝食を抜いてしまったのだ。
「お腹、空いていませんか?」
「......まあ、食べておくか」
アザゼルが、布を広げて即席の食卓にする。その上に、ソラリスが用意した食事を並べていく。
黒パンを二つに割って、私に半分を差し出してくる。
「はい」
受け取って、一口かじる。
素朴な味わい。でも、噛めば噛むほど、穀物の甘みが広がる。
「......美味しい」
「ソラリスの料理の腕も、最近上がってきたな」
アザゼルも、黒パンを齧りながら言った。
「ティルラに教わっているらしい」
「ティルラ......さん?」
聞き慣れない名前に、私は首を傾げた。
「羊獣人の女性だ。流入してきた難民の一人」
アザゼルが、薫製の肉を切り分けながら説明する。
「元は聖レガリア王国の貴族の館で料理人をしていたらしいが、亜人というだけで追放された。ソラリスが厨房で暴れているのを見かねて、基礎から教え込んでいるとか」
「そうだったんですか」
私は、思わず笑みを浮かべた。
「ソラリス、素直に教わっているなんて意外ですね」
「ああ。ティルラは穏やかで、母親のような雰囲気がある。ソラリスも、あの女性には頭が上がらないようだ」
彼は、僅かに口角を上げる。
「『爆発させるたびに、優しく叱られる』と、ルミナリスが報告していた」
「爆発させる回数も減った」
「それは......成長、ですね」
また、二人で笑う。
薫製の肉を分け合い、チーズを小さく切って食べる。野菜は、どれも新鮮だ。きっと、亜人たちが持ち寄った食材なのだろう。
アザゼルが、革袋の口を開けて、私に差し出してきた。
「飲め」
「ありがとうございます」
受け取って、一口含む。
温かい。ほんのりと甘く、ハーブの香りが鼻を抜ける。
「......ソラリス、温存の魔法をかけたのでしょうか」
「ああ。『冷めないように』と言っていた」
彼は、僅かに口角を上げる。
「あいつなりに、気を遣ったのだろう」
私は、革袋をアザゼルに返す。
彼は、躊躇なく――私が口をつけた場所から、茶を飲んだ。
「......っ」
間接キス。
そのことに気づいて、顔が熱くなる。
でも、アザゼルは何も言わない。まるで、それが当然であるかのように。
「お前も、もっと食べろ」
彼が、白パンを割いて私に渡してくる。
「朝食を抜いただろう。執務室に、食事の痕跡がなかった」
「......気づいていたんですか」
「お前の体調管理も、俺の仕事だ」
真顔で言う彼。
その言葉が、妙に嬉しくて、胸が温かくなる。
「ありがとうございます」
「礼はいらない」
白パンに、チーズを挟んで食べる。ほんのりと塩味が効いていて、とても美味しい。
湖を眺めながら、二人で食事を続ける。
風が吹いて、湖面がキラキラと輝く。
こんな風に、誰かと一緒に食事をするのは――
それも、こんなに穏やかな気持ちで――
初めてだった。
前世では、いつも一人で、コンビニの弁当を急いで食べていた。
今世では、パーティーでの食事も、義務のような緊張を伴っていた。
でも、今は違う。
隣にいる彼の存在が、ただ心地よい。
「美味しいですね」
私が呟くと、アザゼルは頷いた。
「ああ」
そして、僅かに笑みを浮かべて、付け加えた。
「こうやって、お前と食事をするのも......悪くない」
その言葉に、胸がきゅっと締め付けられる。
彼も、同じことを感じているのだろうか。
この穏やかな時間を、大切だと思っているのだろうか。
果物を分け合い、最後に残った茶を飲み干す。
食事を終えて、布を畳むアザゼルの手つきが、何だか優しく見えた。
「ソラリスに、お礼を言わないとですね」
「ああ。あの狐娘は、時々余計なことをするが......」
彼は、小さく笑った。
「今回は、感謝しておく」
その時。
強めの風が吹き抜け、私の長い銀髪が舞い上がった。
髪が顔にかかり、視界を遮る。
「……っ」
払おうとして、手を上げた時だった。
それより早く、アザゼルの手が伸びてきた。
彼の大きく、骨ばった指が、私の髪を掬い取る。
そして、ゆっくりと耳にかけた。
指先が、頬を撫でる。
その感触に、時間が止まった気がした。
「……」
「……」
彼の指は、髪を整えた後も、私の頬から離れなかった。
冷たい風の中で、彼の指の熱だけが、強烈に意識に焼き付く。
アザゼルが、私の顔を覗き込む。
至近距離。
整いすぎた彼の顔が、すぐ目の前にある。
紅い瞳に吸い込まれそうで、身動きが取れない。
心臓が、早鐘を打つ。
鼓動の音が、彼に聞こえてしまうのではないかと不安になるほど、大きく、速く。
「……セレスティア」
彼が、私の名を呼んだ。
甘く、低い響き。
それだけで、腰の力が抜けそうになる。
「……髪が、邪魔だった」
彼はそう言ったけれど、指はまだ私の輪郭をなぞっている。
親指が、そっと下唇を掠めた。
「……っ!」
息が、止まる。
全身の血液が沸騰したかのように熱い。
拒絶なんて、微塵も思い浮かばない。
むしろ、もっと触れてほしいと願ってしまっている自分がいる。
アザゼルの瞳が、僅かに細められる。
視線が、私の唇に固定される。
彼は、ゆっくりと顔を近づけてきた。
抵抗できない。
いや、したくない。
私は、無意識に瞳を閉じていた。
唇に、彼の吐息がかかる。
あと数センチ。
彼の名を、心の中で呼ぶ。
この人のためなら、私は――
だが。
ふっ、と。
気配が、止まった。
目を開けると、アザゼルは私の唇の直前で動きを止めていた。
苦しげな、それでいて愛おしそうな表情で、私を見つめている。
「……まだ、早い」
掠れた声で、彼が言った。
「え……?」
「お前が、本当に理解するには……まだ、早い」
彼は、名残惜しそうに私の頬から手を離し、身を引いた。
離れていく体温。
急に、寒さが戻ってきたような寂しさを感じる。
「何が、ですか……?」
私は、震える声で尋ねた。
「私の気持ちが、追いついていないと……そう思うのですか?」
「違う」
アザゼルは、立ち上がり、湖に背を向けた。
「俺の問題だ。……お前は、真っ直ぐすぎる。俺のような、血に塗れた過去を持つ男が、軽々しく触れていい光じゃない」
彼は、自嘲するように笑った。
その背中が、どこか孤独に見えた。
「俺は、お前を守る盾であり、お前の敵を殺す剣であればいい。……それ以上の幸福を望むのは、まだ」
「……馬鹿」
私の口から、そんな言葉がこぼれた。
「……?」
アザゼルが、驚いて振り返る。
私は立ち上がり、彼に歩み寄った。
そして、彼の服の裾を、ぎゅっと握りしめた。
「あなたは、私を過大評価しすぎです。……私は、光なんかじゃない。ただの、復讐心を持った、寂しがり屋の女です」
彼を見上げる。
視界が、少し滲んでいた。
「私の敵を殺す剣? そんなもの、必要ありません」
私は、彼の服の裾を握る手に、さらに力を込めた。
「あなたは、自分の過去を『血に塗れている』と言いました」
彼を見上げる。
紅い瞳が、驚いたように揺れている。
「でも、私には――その過去を、聞く資格すらないのですか?」
声が、震える。
「500年前、あなたが何をしたのか。どんな罪を背負っているのか。私は、何も知りません」
視界が、滲んでいく。
「でも、知りたい。あなたの全てを。光も、闇も。過去も、今も」
涙が、頬を伝う。
「それでも――それでも、あなたは私に何も語ってくれない」
彼の服を掴む手が、震えている。
「私は、そんなに信用できませんか? あなたの過去を受け止めるには、弱すぎますか?」
アザゼルが、息を呑む音が聞こえた。
「……セレスティア」
「私が欲しいのは」
そこまで言って、言葉が詰まる。
何と言えばいい?
パートナー? 宰相? それとも。
「……私が欲しいのは、アザゼル。あなた自身です」
言ってしまった。
心臓が、破裂しそうだ。
「過去も、罪も、全部含めて。あなたという人間が、欲しい」
顔を上げて、彼の目を真っ直ぐに見る。
「だから――もう、独りで背負わないでください」
アザゼルは、目を見開いて私を見ていた。
紅い瞳が、揺れている。
まるで、何か大切なものを差し出されて、受け取っていいのか迷っているような――
そして、彼は、ゆっくりと私の頭に手を置いた。
「……お前には、勝てないな」
その声は、掠れていた。
困ったような、でも嬉しさを隠しきれないような顔で、ため息をついた。
「俺の過去を......本当に、聞きたいのか」
「はい」
即答する。
「いつか、話してくれる日を待っています」
「......いつか、な」
彼は、私の頭に乗せた手で、乱暴に、でも優しく撫でた。
「約束する。お前が望むなら――全て、話そう」
「帰ろう。……みんなが待っている」
「……はい」
彼は、私の手を握った。
今度は、転移のためではない。
ただ、私と手を繋ぐためだ。
その手の温もりが、私の心に深く、深く沁み込んでいく。
そして――
視界が再び歪む。
時空転移の感覚。
でも、今度は怖くなかった。
彼の手が、しっかりと私を繋ぎ止めてくれているから。
瞬きする間に、私たちは城の中庭に戻っていた。
夕暮れが近い。
朝に出発したはずなのに、もう一日が終わろうとしている。
いや、違う。
彼の時空術で、時間を圧縮していたのだ。
城の職員たちが、遠くから私たちを見ている。
さすがに、人前で手を繋いだままというわけにはいかない。
アザゼルが、そっと手を離した。
離れていく熱。
寂しい。
「今日は、疲れただろう。早めに休め」
彼は、いつもの無表情に戻って言った。
「はい。……ありがとうございました、今日は」
「礼を言われることじゃない。仕事だ」
そう言いながらも、彼の口角が僅かに上がっているのを、私は見逃さなかった。
城に戻り、自室に入った私は、そのままベッドに倒れ込んだ。
枕に顔を埋める。
「……あぁぁぁ……」
変な声が出た。
思い出すだけで、顔から火が出そうだ。
湖畔での会話。頬に触れた指の感触。
そして、あと少しで重なるところだった唇。
その先の言葉を、口にするのが怖かった。
でも、もう誤魔化せない。
かつて、レオンハルト殿下に抱いていた淡い憧れや、義務感とは違う。
もっと根本的で、激しく、そして温かい感情。
彼が笑えば嬉しい。
彼が傷つけば許せない。
彼に触れられると、どうしようもなく安心する。
認めてしまえば、それはあまりにもストンと胸に落ちた。
私は、アザゼル・クロノヴェインに恋をしている。
「……どうしよう」
天井を見上げる。
胸の高鳴りが収まらない。
これから、どんな顔をして彼に会えばいいのだろう。
でも、不思議と不安はなかった。
今日の彼の瞳。
私を見る、あの切実なほどの優しさ。
彼もまた、私を想ってくれていると、信じることができたから。
アザゼルの言葉を反芻する。
彼は、自分の過去を気にしているようだった。
500年前の「処刑人の魔王」。
彼がどんな罪を背負っているのか、私は詳しくは知らない。
でも、関係ない。
今の彼が、私にとっての全てだから。
そして――
私も、話そう。
窓の外、星空を見上げる。
彼が過去を語ってくれる時。
私も、私の過去を全て話そう。
橘美咲としての人生。
32年間、ずっと孤独だったこと。
誰にも必要とされず、ただ仕事だけが存在意義だったこと。
過労で倒れて、誰にも看取られずに死んだこと。
この世界に転生して、セレスティア・ノヴァルーナとして生きてきたこと。
それでも、やっぱり孤独だったこと。
偽聖女として蔑まれ、追放されたこと。
全部。
隠していた前世の記憶も、含めて。
もし、彼が自分の全てを私に見せてくれるのなら。
私も、私の全てを彼に見せたい。
対等な関係。
それは、互いの全てを知り、受け入れ合うこと。
彼の罪を受け止める覚悟があるなら。
私も、私の弱さや、孤独や、傷を見せる覚悟を持たなければ。
ベッドに座り直して、膝を抱える。
怖い。
前世のことを話すのは、怖い。
この世界の人間にとって、「転生者」という存在がどう映るのか。
異端として恐れられるかもしれない。
気味悪がられるかもしれない。
でも――
アザゼルなら、大丈夫だと思う。
彼なら、受け入れてくれると信じられる。
彼が500年前の魔王として生きてきたように。
私は32年間、別の世界で生きてきた。
二人とも、普通ではない過去を持っている。
だからこそ、分かり合えるのかもしれない。
私は、窓の外、アザゼルの部屋がある方角を見つめながら、静かに誓った。
これは、女帝としての誓いではない。
一人の女性としての、愛の誓いだった。
星降りの湖で見た輝きよりも、もっと眩しい何かが、私の中で確かに輝き始めていた。




