第13.5話 皇太子の焦燥
聖レガリア王国、王城。
その一角にある皇太子執務室は、深夜になっても明かりが消えることはなかった。
かつてないほどの重苦しい空気が、部屋全体を支配している。高級な執務机の上には、文字通り山のような報告書が積み上げられている。魔法のランタンが放つ青白い光が、羊皮紙の山を不気味に照らし出していた。
その一つ一つが、この国の次期国王であるレオンハルト・ソル・レガリアの神経を削り取っていく。
「……くそっ、またか!」
レオンハルトは、読み終えた羊皮紙を床に叩きつけた。
インク壺が震え、羽ペンが転がる。机の端に置かれた高級ワインのグラスが、カタカタと音を立てる。
側近の文官が、怯えたように肩を震わせた。
「で、殿下……どうかお静まりを」
「静まっていられるか! なんだこれは、どいつもこいつも!」
レオンハルトは、乱れた金髪をかきむしる。血走った目で報告書の山を睨みつける。かつては完璧に整えられていた髪も、今や寝癖と脂でべったりとしている。三日は風呂に入っていない。それほどまでに、彼は追い詰められていた。
『商業ギルドより報告。王都の取引量が、この一週間で微減。森の方角へ向かう商隊の数が増加傾向』
『冒険者ギルドより報告。"魔獣の森最深部"に関する依頼・情報収集の問い合わせが急増。一部の冒険者が森方面への長期探索を申請』
『国境警備隊より報告。亜人たちの姿が、ここ数日で明らかに減少。森の奥地へ向かう痕跡を複数確認』
一つ一つは、些細な変化だ。
気のせいで済ませられる程度の、小さな兆候。
だが、レオンハルトの神経は、その「些細な変化」に過剰に反応していた。
そして、極めつけはこれだ。
『諜報部より緊急報告。魔獣の森最深部、"空白地帯"にて、大規模な建造物の存在を示唆する情報が複数寄せられる。未確認ながら、"新たな国"を名乗る勢力が存在する可能性あり。詳細は調査中』
「新たな国……だと?」
レオンハルトは、その荒唐無稽な報告を睨みつける。
まだ噂だ。
未確認情報だ。
諜報部も、確信を持てていない。
だが――
その「噂」が、妙に現実味を帯びて感じられる。
なぜなら、他の報告と符合するからだ。
商人が森へ向かい、冒険者が森を目指し、亜人が森へ消えていく。
まるで、何かが――
何か、巨大な力が、森の奥で人々を引き寄せているかのように。
(......あり得ない)
彼の脳裏に、かつて婚約者だった女の顔が浮かんだ。
セレスティア・ノヴァルーナ。
銀髪にアメジストの瞳を持つ、冷めた目の女。
一週間前、大聖堂で断罪し、追放した「偽聖女」。
鑑定結果はE級。何の役にも立たない、石ころのような女だったはずだ。
だが――
(......あの時、床を黄金に変えた)
レオンハルトの脳裏に、大聖堂での光景が蘇る。
彼女が指先で触れた大理石の床が、瞬く間に純金へと変わった。
眩い輝き。
完璧な錬成。
枢機卿は「異端の魔術」と叫んだ。
自分も「異端の力」と罵った。
そして――
鑑定の結果、E級。
(矛盾している)
床を黄金に変える力を持つ者が、E級のはずがない。
あれほどの錬成術を、E級の術師が使えるはずがない。
だが、鑑定石は嘘をつかない。
あれは、七神樹の加護を受けた聖なる鑑定石だ。
では、なぜ――
(......いや、違う)
レオンハルトの記憶が、封印していた過去を呼び起こす。
地味で、目立たない女だった。
パーティーでは、いつも一歩下がって、華やかな場を演出することはなかった。
義妹ミレイユのような眩い笑顔も、貴族たちを魅了する弁舌もなかった。
だが――
(あの女がいると、なぜか会議がスムーズに進んだ)
思い出す。
貴族たちとの折衝の場で、彼女が隣に座っていると、なぜか話がまとまった。
難航していた外交交渉も、彼女が同席した途端、相手が妥協してきた。
荒れていた予算会議も、彼女が一言二言口を挟んだだけで、不思議と収まった。
なぜだ?
あの女は、何もしていなかったはずだ。
ただ、そこにいただけ。
静かに微笑んで、頷いて、時折短い助言をしただけ。
それなのに――
彼女がいなくなってから、何もかもが噛み合わなくなった。
そして、あの黄金。
(......もしかして、あれは)
大聖堂の床を純金に変えた力。
あれが、本当の力だとしたら――
いや、違う。鑑定結果はE級だった。
E級のはずなのだ。
「あんな女に……あんな、地味な女に、国など創れるはずがない!」
レオンハルトは、拳を机に叩きつけた。
認めたくない。
あの何の取り柄もないと思っていた女が、実は有能だったなど。
自分が、その価値を見抜けなかったなど。
そして――
あの黄金が、本物の力だったなど。
(E級のはずだ。鑑定石が間違うはずがない)
自分に言い聞かせる。
だが、心の奥底で、小さな疑念が芽生え始めていた。
だが、報告書に記された情報は、彼の常識を嘲笑うかのように不気味だった。
『商業ギルド追加報告。森から戻った商人の証言。"従来の武器を遥かに上回る性能を持つ新素材の武器"が存在するとの噂あり。詳細不明。真偽確認中』
「……新素材の、武器?」
レオンハルトは、自分の腰に佩いた剣に視線を落とした。
王家の宝剣。
国一番の鍛冶師が打ち、枢機卿が付与魔法を施した至高の一振り。
もし――
もし、その「噂」が本当なら。
これを超える武器が、あの森で生み出されているというのなら。
(まさか、な)
レオンハルトは首を振る。
ありえない。
偽聖女ごときに、そんなことができるはずがない。
E級判定だったあの女に、武器を創造する力があるはずがない。
(......だが、黄金は創れた)
脳裏に、あの日の光景が蘇る。
大理石が、純金へと変わった瞬間。
(物質を変換する力。もし、あれが本物なら――)
いや、違う。
商人の聞き間違いだろう。
あるいは、詐欺師に騙されたのだ。
床を黄金に変えることと、武器を創ることは、まったく別だ。
そう、自分に言い聞かせる。
だが――
胸の奥に、冷たい予感が広がっていく。
もし、鑑定が間違っていたら。
もし、あの女が本当は――
いや、考えたくない。
認めたくない。
自分が、何か取り返しのつかない過ちを犯したという可能性など。
「……おい」
レオンハルトは、掠れた声で側近を呼んだ。
「は、はい」
「ミレイユは……聖女ミレイユは、どうしている?」
その問いに、側近は言い淀んだ。
「は、はい。ミレイユ様は、自室にて祈りを捧げておられますが……その、最近、お顔色が優れず……」
「……呼べ」
「は?」
「今すぐミレイユを呼べと言っているんだ!」
レオンハルトの怒声が、深夜の廊下に響き渡った。
側近が慌てて部屋を飛び出していく。足音が廊下を駆け抜け、やがて遠ざかっていく。
一人残された執務室で、レオンハルトは荒い息をついた。机に両手をついて、俯く。乱れた金髪が、顔を覆い隠す。
静寂。
報告書の山だけが、彼を見下ろしている。
そして――
数分後。
執務室の扉が開き、ミレイユが入ってきた。
「……お呼びですか、兄様」
兄様――
セレスティアとの婚約が破棄された今、本来なら義理の兄妹でもなくなったはずだ。だが、ミレイユは今も変わらず、そう呼び続けている。
習慣なのか。
あるいは、関係を維持したいという無意識の願望なのか。
その姿を見て、レオンハルトは息を呑んだ。
かつて、太陽のように輝いていた彼女の金髪は、どこか艶を失っている。パサついて、生気がない。透き通るようだった肌は青白く、目の下には化粧で隠しきれない隈が浮いている。
そして何より――
彼女の周囲に漂っていたはずの「聖なる光」が、薄れている。
一週間前、大聖堂で彼女が放った眩い光。
あれほどの輝きは、今、どこにあるのか。
「……ミレイユ。その姿は、どうした」
「なんでもありませんわ」
ミレイユは、力なく微笑んだ。その笑顔すら、以前のような見る者を魅了する輝きがない。作り笑いだと、すぐに分かる。
「少し、祈りの儀式で魔力を使いすぎただけです。……兄様こそ、恐ろしいお顔をされていますわよ?」
「……これを見ろ」
レオンハルトは、"ノヴァ・エデン帝国"に関する報告書を彼女に突きつけた。
ミレイユは、それを手に取り、流し読みする。
その手が、僅かに震えていることに、レオンハルトは気づいた。
そして――鼻で笑った。
「あら。……あの偽聖女お姉様、まだ生きてらしたのですね」
だが、その笑い声は、どこか上ずっている。
「笑い事ではない! 国を創ったと書いてある! それに、この新素材……」
「虚勢ですわ」
ミレイユは、報告書を無造作に机に戻した。投げ捨てるような動作。
「E級判定だったあの偽物に、何ができますの? きっと、森の蛮族や亜人をたぶらかして、女王気取りをしているだけです。……惨めなものですわね」
「……本当に、そうか?」
レオンハルトは、義妹の瞳を覗き込んだ。
以前なら、彼女の言葉を無条件で信じていただろう。
聖女ミレイユの言葉は、絶対だった。
だが、今の彼女からは、かつて感じた「圧倒的な聖なる力」が、日に日に薄れているように感じる。
それに――
セレスティアがいなくなってから、ミレイユの様子がおかしい。
(そして、あの黄金)
大聖堂の床が、純金に変わった瞬間。
ミレイユは、あの時、驚愕の表情を浮かべていた。
まるで――
予想外のことが起きたかのように。
(もしかして、ミレイユは知っていたのか?)
セレスティアの本当の力を。
そして、それを隠していたのか?
「……ミレイユ。お前の"聖女の力"は、本物なのだな?」
その問いに、ミレイユの眉がぴくりと跳ねた。
「もちろんですわ! なんてことを仰るのですか、兄様!」
彼女は声を荒らげた。その剣幕に、余裕のなさが透けて見える。まるで、図星を突かれた者の反応。
「あの大聖堂で、私の光をご覧になったでしょう? あれこそが、神に選ばれた証! お姉様のような偽物とは違うのです!」
「……そ、そうだな。すまない」
レオンハルトは謝罪した。
だが、胸の奥に芽生えた疑念の種は、消えるどころか、根を張り始めていた。
(......なぜだ。セレスティアがいなくなってから、何もかもが上手くいかない)
思い返せば、おかしなことばかりだ。
王城の運営が滞り、教会との連携はギクシャクし、そして国境付近では不穏な動きが相次いでいる。
予算案の調整が難航し、外交文書への返答が遅れ、貴族たちからの陳情がまとまらない。
些細なことだ。
一つ一つは、取るに足らない小さなこと。
だが、その「些細なこと」が積み重なり、今、国家機能が軋み始めている。
彼女は、何もしていなかったように見えた。
だが、本当は――
見えないところで、何か重要な役割を果たしていたのではないか。
まるで、今まで精緻に組み上げられていた歯車から、要となる一本のネジが抜けたかのように。
(俺は……俺たちは、何か取り返しのつかない過ちを犯したのではないか?)
その考えを打ち消すように、レオンハルトは首を振った。
認めるわけにはいかない。
自分が間違っていたなど。
「……ミレイユ、もう下がっていい。休め」
「はい、兄様。……あの偽聖女のことなど、放っておけばよろしいのです。すぐに野垂れ死にますわ」
ミレイユは、逃げるように部屋を出て行った。
その背中が、以前より小さく見えたのは、気のせいだろうか。
まるで、何かに怯えているかのような、縮こまった背中。
扉が閉まる音。
重厚な木の扉が、静かに、だが決定的に、二人を隔てる。
廊下を遠ざかっていく足音。早足だ。まるで、この部屋から、この兄から、一刻も早く逃げ出したいとでも言うように。
やがて、足音も消えた。
部屋に一人残されたレオンハルトは、深い溜息をついた。
窓の外を見る。
王都の灯りは、いつもと変わらず煌めいている。
だが、その足元が崩れ始めている恐怖に、気づいている者はまだ少ない。
いや――
気づいているのに、認めたくないだけなのかもしれない。
「……放っておくわけにはいかん」
レオンハルトは、側近を呼んだ。
「偵察隊を編成しろ。魔獣の森の奥地、その"噂の真相"を徹底的に調査するんだ」
「は、はい! 直ちに!」
「それと――」
レオンハルトは、苦々しい顔で、一枚の羊皮紙を引き寄せた。
プライドが、ズタズタに引き裂かれる音がした。
だが、背に腹は代えられない。
「あの"新素材の武器"とやらの真偽も、徹底的に調べろ。もし本当なら……」
言葉が、途切れる。
「もし本当なら、その武器の入手ルートを確保しろ。金は、いくらでも積む」
「で、殿下!? しかし、相手は追放された……」
「分かっている!!」
レオンハルトは怒鳴り、そして、今にも泣き出しそうな顔で机を睨んだ。
「分かっている……だが、もしあの噂が本当なら、我が国の武器が時代遅れになるわけにはいかないんだ。……まだ、噂に過ぎない。そう願いたい」
そう、自分に言い聞かせる。
セレスティアは、反抗的な女ではなかったはずだ。
言い返すこともせず、黙って自分の決定に従っていた。
こちらから歩み寄れば、きっと喜んで応じてくるはずだ。
そうであってくれなければ、困るのだ。
レオンハルトは、震える手で羽ペンを走らせた。
かつての婚約者への、あまりにも虫のいい、身勝手な親書。
『近況を伺いたい。お互いに、無用な誤解がないように』
一見、丁寧な文面。
だが、その裏には、明確な意図がある。
調査。
様子見。
そして、もし本当に何かを成し遂げているなら――
書き終えた手紙を見つめながら、彼は知る由もなかった。
その手紙が、数週間後、一片の返信もなく、ただ灰となって送り返されてくる運命にあることを。
返信がない、ということが、既に明確な「拒絶」だということを。
そして――
この手紙が、やがて彼にとって取り返しのつかない結果を招くことになるとは。
だが、今の彼には、まだ分からない。
自分がどれほどの過ちを犯したのか。
もう二度と、取り戻せないものがあるということを。
「……頼む、セレスティア」
無人の執務室で、皇太子の情けない呟きだけが、虚しく響いた。
「嘘であってくれ。……お前が、本物だったなんて」
窓の外、月明かりに照らされた王都が見える。
その足元で、今も――
大聖堂の床には、彼女が創り出した黄金が、眩く輝いているはずだ。
あの黄金は、もう消えることはない。
完璧な錬成。
永遠に残る、彼の過ちの証。
(E級のはずだった)
(偽聖女のはずだった)
(何の役にも立たない女のはずだった)
だが――
もし、全てが逆だったとしたら。
積み上げられた報告書の山が、まるで墓標のように、彼を見下ろしていた。
その一つ一つが、彼の犯した過ちを告発している。
だが、レオンハルト・ソル・レガリアは、まだ気づいていなかった。
自分が失ったものの、真の価値に。
そして、もう二度と取り戻せないということに。
大聖堂に残る黄金のように――
彼の過ちもまた、永遠に消えることはない。




